当時の都から距離を置いた場所に位置する大山脈に囲まれた盆地に大きな村――街と言える程に大きな集落があった。春には桜が咲き乱れ、夏には蝉が鳴きまわり、秋には紅葉が視界を赤く染め上げ、冬には集落が雪で化粧をしていた。
四季に満ちたその集落は非の打ち所のない程情緒があり、風情があった。そんな環境に住人達も心底満足していた。
ただ、一点の不幸を除けば。
△
「お嬢っ!いい加減にして下さいっ!! 当主様から叱られるのは私なのですぞ!」
周りの景色と庭師によって作られた庭が美しく調和している中に喧しくドタドタと走り回る一人の男。
顎に白い髭を蓄え、同じく白い髪を後ろで小さく縛っている。その肌には小さな皺が幾つも浮かび上がり、男性がそれなりの年齢であることがわかる。その肌を包む衣装は萌葱色で浴衣のような衣装。この男の名を魂魄妖忌という。
代々西行寺家に奉公する言わばお付の様な役に務める魂魄の家の今代の当主である。
「嫌よっ! いつも同じ様なへんてこな文章ばかり読まされても楽しくないもの!」
彼の追いかけている少女は西行寺家の一人娘、西行寺幽々子である。その髪の毛と同じ色の着物の袖をまくりあげ妖忌に捕まるまいと足を動かしている。
屋敷ですれ違う人々は二人の鬼ごっこを微笑ましい顔で眺めている。きっと毎日毎日同じ様なことを繰り返しているのだろう。
「見てないで誰かお嬢を止めよっ!」
「私の邪魔する者はお父様にあることないこと吹き込んでやるわよっ!」
そんなことを言いながら走り回る二人を止める者はいない。何度繰り返そうと結末は何時も同じだからだ。先に走り疲れた妖忌が足を緩めた時に幽々子が撒いてしまう。そうしていつも同じ食料庫へと隠れるのだ。今回もまた幽々子は一人食料庫へ入っていった。
「はあはあ…お嬢?」
扉を開き真っ暗な中、歩みを進める妖忌。
「それ以上こっちに来ないで」
暗闇からお転婆娘の声が聞こえた。
「分かりました。ではお話しましょう」
静かに床に座る。これもいつもの事。大体幽々子の不満が爆発する度にこうやって彼女の愚痴を聞いてやるのだ。
「…飽きたわ。なんで街にでちゃいけないの? 私だって普通に暮らしたいわ」
「当主様が危険だと何度も説明したでしょう?」
「妖怪に襲われるかもってことでしょ? …私知ってるんだから。妖怪が街を襲うことなんて滅多にないんでしょ? ならいいじゃない」
「襲わなくとも潜んでるやもしれません。そやつらがお嬢が西行寺家の娘とわかり襲いかかるやもしれません」
「大丈夫よ。妖忌が付いてきてくれれば」
頬を膨らます幽々子。
「それでは私が叱られてしまいます」
「そんなの知らないっ!」
そっぽを向いてしまう幽々子を見ているとまだまだ幼さを感じる。
「分かりました。私から当主様にお願いしてみますから―――」
「それは前も聞いたし、その前もその前ずっと前にも聞いたわ」
「…」
「どうせお父様に頼んでなんかいないんでしょ。なんせ妖忌が叱られるものね」
「そんな下らない事で嘘なんかつきませぬ。しっかり毎回報告してます」
「ならなんで――」
「そういえば前に報告に行った時は諦めたご様子でしたなぁ。次こういう事があればそろそろ許してやっても良いかもとも仰ってたような」
「それを早く言いなさいっ!」
先程までいじけていたのは何処のどいつだったか。仏頂面を花の咲いたような笑顔に変えて妖忌腕を引く。
「ほら早く言いに行くのよっ! 今すぐっ!」
「今日の学を終えたなら言いに行きましょう」
「ああんもうっ! 面倒ねそんなの妖忌が代わりにやってよー」
不満を零しつつもスキップで部屋に戻っていく彼女はやはりまだまだ子供だった。
△
「ほらほら妖忌早く支度してちょうだいっ!」
屋敷の門でしきりに従者を呼ぶお嬢様。どうやら無事外出のお許しをもらえたらしい。
「お待たせしました。では行きましょう」
屋敷を出て初の街探索。通りに出ているあらゆるものが幽々子の興味の対象となる。あれはなにこれはなにと仕切りに妖忌を質問攻めにした。
日が一番高くなって徐々に傾き始めた位の時のこと。
「ねぇ妖忌。あれはなに?」
もはや何百回目かわからない質問にそろそろ妖忌もしんどくなってきた頃合。
「あ、ああ…あれは甘味処ですな。少し寄りましょうか」
「甘味!? ぜひ行きましょうっ!」
好物は屋敷で出される甘いお菓子。そんな幽々子が甘味と聞けば飛びつくことは当然だろう。
「や~ん、美味しいわぁ~」
口に団子をたっぷりと含んだ幽々子がにこやかに笑う。
「お嬢、はしたないですぞ」
「いいの。次はいつ来れる分からないないんだから自由にするわ」
「…そうですな」
今日くらい好きにさせてやろうと思う妖忌であった。
△
すっかり日は落ちて夜が降りてきた。
「さて、そろそろ帰りましょうか」
「……そうね」
流石に疲れたのかそれとも帰りたくないのか、幽々子の声は暗い。
「また来ましょう」
「っ!うん。約束よ」
妖忌が言うと少し顔を明るくした幽々子だった。
帰り道を二人手を繋いでてくてく歩いている幽々子がふと声を上げる。
「ねえ、妖忌。これはなに?」
まだ何か気になるものがあるのかと幽々子の指さす物をさがす妖忌だったが、何も見当たらない。幽々子の指は虚空を指している。
「どれでしょう?」
「これよこの蝶々みたいな光ってるの」
妖忌には見えなかった。だが、幽々子が言うには彼女の周りをニ、三の光る蝶々が飛んでいるらしい。
「あら何処かへ行っちゃったわ」
訳も分からぬ内に何処かへ飛び去って行ったらしい。一日中歩き回って疲れているのだと思い込んだ妖忌は帰る足を早めた。
△
ある日のこと。また幽々子には光る蝶々が見えた。それはゆっくりと幽々子の父親の元まで飛んでいくとその肩にとまった。
幻想的にも感じられるその蝶々に見惚れていると突然に、父親が倒れた。声をかけても返事をしない父親に驚いて人を呼ぶ幽々子。
その間もずっと蝶々は肩にとまったままだった。
結局、幽々子の父が目を覚ますことはなく、そのまま息を引き取った。医者に聞けども死因はわからなかった。
「妖忌……私、またあの蝶が見えたの」
目を赤く腫らした幽々子が妖忌を呼び出して切り出した。
「あの蝶々がねっお父様の、お父様の肩にとまってね…。そしたらお父様が倒れてね…」
幽々子自身もわからないのだろう。蝶々がとまっただけで人が死ぬなんてありえない。幽々子以外に見える者がいないことからただの蝶々じゃないことなどわかる。だが、それにしても脈絡がない。
そもそも見ることすらかなわない妖忌は幽々子の言葉を黙って聞くことしか出来なかった。
△
西行寺家当主の訃報はすぐに街の住人たちにも伝わった。連日街の長や代表が西行寺家を訪れ、まだ幼い幽々子の代わりに妖忌がそれに対応した。いつも人が来れば大事な話をするからお嬢は近づかないでくれと言って幽々子を遠ざけ、人達が帰っていくと妖忌は泣きそうな顔で幽々子の前に姿を表した。
幽々子にはそれが耐えられなかった。妖忌を虐めて困らせているのだと、お父様がいなくなってショックを受けているのは妖忌も同じだというのに心労をかけているのだと、そう幽々子は思った。
故に近づくなと言われた一室での話を襖越しに盗み聞きしてしまった。
「だからっ! それじゃあ西行妖の封印はどうするんだ。もうあと五年だぞっ!」
「しかし…」
荒らげる声は妖忌のものではない。
「あんただってもうわかってる筈だ。幽々子様をーーー」
「だ、駄目だっ! お嬢はまだ幼い」
「じゃあどうするって言うんだ。西行寺家に残されたのは彼女だけじゃないか」
「…」
「それじゃあ話が進まないんだ。きちっと幽々子様にお伝えしなくちゃならない。どうか街のために死んでくれとな」
(…っ!)
今死ねと言われたのか。見ず知らずの人間に死ねと。耳にした内容のショックさに負けて幽々子はその場から音を立てて走り去ってしまう。
「ん? おいっ誰だっ!」
襖を開けた音が響いたが幽々子は振り向かない一心不乱に腕を振り、足を動かし走るだけだった。
△
妖忌が食料庫の扉を開けると中で膝をたたんで座る小さな影。
「お嬢…」
何時ものように中に入ろうとした妖忌を幽々子が止めた。
「来ないで! お願いだからそれ以上こっちに来ないでっ!
妖忌もあの人たちも結託して私を殺そうとしてるんでしょっ! 全部全部聞いたんだから」
涙ながらに妖忌を睨む幽々子。それを見る妖忌も今にも泣き出してしまいそうな顔だ。
「…違います。お嬢を殺そうだなんてーー」
「五月蝿いっ! 出てってよ……出てって!!」
頭をガリガリと掻き毟りながら叫んだ幽々子を前にして妖忌は食料庫の扉を閉め蹲る。
「すみません…すみません」
妖忌が涙と共に落とした言葉は幽々子の元に届いたのだろうか。
△
篭もり始めて早三日。未だ幽々子は出てこない。だが、扉越しに初めて幽々子から妖忌に対して話しかけた。
「ねぇ、妖忌。理由を話してくれない?」
三日経って彼女も考える時間があったのだ。彼女の声は不気味な程静かだった。
「何も知らないのはもう嫌よ。私が聴いて、私が考える」
「…分かりました」
そこから妖忌が語るのはこの街一点の不幸。西行寺家の抱える業。
西行寺の屋敷。その広大な庭に大きな桜の木が生えている。その桜は毎年春になれども花をつけることは無かった。だから幽々子はそれが死んでいるのだと思っていた。
だが、それは生きていた。
その桜の木は生命を喰らい、花をつける。春が近づけば周囲のものだけでなく超広範囲の生命を片っ端から食い散らかした。この妖怪桜の名を西行妖。
この事態を見かね、立ち上がったのが初代西行寺家当主と初代魂魄家当主。生半可な術式や封印では効果の見られない西行妖に対して二人はある協定を結ぶ。
それが西行寺家の当主の肉体を依代にしてなされる強力な封印。そして、その贄としての役目までそれを守るのが魂魄。それは長く語り継がれ、今に至る。封印の周期は五年後だが、肝心の当主が時を待たずして死んでしまった。
そして上げられたのが西行寺幽々子による封印だった。
「…」
「私は反対です。子供にそんな責を負わせるなど…」
「私やるわ」
締め切った扉がゆっくりと開いていく。
妖忌が三日ぶりに見た幽々子は少しやつれているが確かに笑っていた。
「な、何を…」
「私以外やりたい人なんていないでしょ。それが西行寺家の務めなら私がやる。
それにーーー、あんなに素晴らしい街の人達を殺すなんて私には出来ない。それが西行寺家当主の務めならば私はそうあるべきよ」
「そんな……」
それがお嬢の本音なのですか?そんな言葉は妖忌の口の中で消えていった。
「なんて顔してるのよもう」
顔に刻まれた皺をより深くした妖忌を見て幽々子はまた笑った。本当に泣きたいの彼女である筈なのに。
「これから五年間宜しくね」
△
「おいっ! 妖怪め! お嬢から離れろっ!」
「いやん助けて幽々子~。妖怪刀ジジイが私を斬ろうとしてくるわ~」
「あら、妖忌だめよ。紫はお友達なんだから」
「ぐぐぐ…」
どこから来たのやらいつの間にか西行寺の屋敷には八雲紫という妖怪が居座るようになっていた。
「大体何時もいつもお前は何処から入ってくるんだ」
「決まった位置から入ることなんてないわ。好きな時に好きな場所にお邪魔させてもらってますわ」
おホホとわざとらしく笑う紫を見て溜息の絶えない妖忌だった。
ある日の晩。何時ものように西行寺亭へとやってきた紫を残して一足先に寝床についてしまった幽々子。
「ねぇ、妖忌さん?」
「なんだ、お嬢も寝てしまったんだから帰ればいいだろう」
お前と話すことは無いと態度で示す。
「そんなつれないこと言わないで? それに大事な話があるのよ」
いつになく真剣な声音の紫に妖忌も向き直る。
「幽々子のことで――」
「お前には関係ない」
まるで聞きたくないことを耳元で囁かれた様に妖忌は首を振りながらその場で立ち上がる。
「逃げちゃだめ。魂魄のあなただけは逃げちゃだめなの。私の話を聞いて」
「…」
「簡潔に言うわ。西行妖の封印を私に任せて頂戴」
その時紫には分からなかったが、妖忌は酷く失望したらしい。紫が、スキマとか言うよくわからないものを使う紫が、わざわざ幽々子について話すと言ったのだ。どうにか幽々子が死ななくても良いような案を出してくれるのではないかと心の隅で期待したのだ。
だが、告げられたのは期待したものとはかけ離れていた。
「なぜ見ず知らずの妖怪なんぞに.…」
「私がやれば一時的ではない封印にできる筈。いいえ、やってみせる」
伊達や酔狂で言っていないことはその表情からわかる。彼女が幽々子を蔑ろにする気がないことも知っていた。
「何故お前がそこまでこれに関わるのだ。所詮お前は妖怪だろう。ここに住まう人間達にどんな未来が待っていようと関係ないだろ」
「私は人間が好きなの。妖怪が嫌いってことじゃないわ。どっちも好き。
でもあの桜は嫌いよ。私の愛する者を脅かす存在を放っておく程私は我慢強くないの」
「…」
ではあの桜自体をどうにか出来ないのかとは聞けなかった。斬れぬものなどあってはならない身で妖怪に助けを請うことなどできなかった。それに八雲紫との付き合いも短いわけではない。幽々子のことを真剣に考えているということも妖忌にはわかっていた。その上で紫の提案なのだ。幽々子の死は避けられぬのだろう。
「素晴らしいわね。ぜひそうしましょう」
いつの間にか襖が開き、入口に幽々子が立っている。
「私で全て終わりに出来るんでしょう?」
「え、ええ…。きっと」
狼狽える紫から彼女の登場が予想外だったことがわかる。
「私も知らない人間にされるくらいなら紫にしてもらいたいわ」
「お嬢…」
何?と聞き返す幽々子に妖忌は何も言えない。何より生命を擲つのは彼女なのだ。選ぶ権利は彼女にある。妖忌が口を挟み込む隙間などありはしない。
「…いえ」
「そ。なら紫一緒に寝ましょ?」
「え? あ、うん」
二人の足音が離れていくのを耳に聞きながら拳を握りしめる妖忌だった。
△
幽々子が自身を贄にすることを決意してから四年以上が経った。西行寺亭には人がほぼいなくなっていた。幽々子が全員を辞めさせたのだ。その理由は光る蝶々。あれがいつ現れるかわからない以上普通の人間を傍に置くわけにはいかない。そう思っての判断だった。今屋敷にいるのは妖忌、紫、幽々子のみとなっている。
「随分妖忌のお料理の腕もあがったわね」
「あれから毎日作ってきましたので」
「そうよね…四年、五年近くなると嫌でも上がるわよね。今までありがとうね」
まるでこれからはいらないと言っているかのような言い方。妖忌がこれを正すことは無い。正しくその言い方で正しいからだ。明日幽々子はその身体を以て西行妖を封印する。最後の朝餉だ。
「今日は何をしようかしらね。いざ最期となると何をしたらいいかさっぱりわからないわ」
「…街へ行きましょう」
光る蝶々を恐れ街へ行くこともままならなかった幽々子だった。
「何言ってるのよ。行けないわ危ないもの」
「今日くらいっ、今日くらい許されるでしょう?」
「……」
やはり幽々子にも願望はあったのだろう。五年前一度行ったっきりだった街に。幽々子の興味を引くもので溢れかえっている街に。
「例の蝶々とやらがとまったら駄目なんでしょ? なら私に言ってくれたら止まられそうになる人をスキマ送りにするから大丈夫よ。行ってらっしゃい」
もう一押し踏ん張りが付かなかった幽々子の背を紫が押した。
「…うん。うん。行く、行きましょうっ!」
「では支度を」
「ええっ! 直ぐにしてくるから待っていて!」
ドタドタと走っていく幽々子。
「八雲紫」
「なあに?」
「…ありがとう」
「あら、貴方にお礼を言われる筋合いはないわ」
「意味はわからなくてもいい。受け取っておいてくれ」
きっと妖忌一人ならばあの日、幽々子と交わした約束を守れなかっただろう。それは妖忌の自己満足でしかないだろう。きっと幽々子も忘れているだろう約束。
また街へ来ようというちっぽけな約束。
△
「ねぇ、妖忌。前行った甘味処に行きたいわ」
街を見て回るだけで何故こうも時間が経つのだろう。それはきっと幽々子の興味がつきないからだ。この五年間で身も心も成長した彼女もここに来れば時を遡る。
「うん。やっぱり美味しいわ…凄く」
あの日と同じく時間は夕暮れ。掻き込む団子に噎せる幽々子。
「―――満足したわ。帰りましょうか」
それは幽々子の意思なのだろうか。そんなわけがない。彼女にとって帰る、一日が終わることはそのまま命の終わりである。帰りたいはずがないだろう。だが、それを表に出さない彼女はもはや幼さを消した西行寺家現当主であった。
△
明日が終わりだと言うのに、屋敷に帰ってからのお嬢の様子はいつもと変わらない。何時ものように夕餉を済ませ、何時ものように私や八雲紫と話をしてそのまま寝床についた。気を抜けば明日も何時もと変わらないかのような錯覚を覚えるほどだ。
自室で私は横になっていた。明日の準備をするからと八雲紫は何処かへと消えていったのを見届けてから自室に戻ったはいいがとても寝付けない。何を考えたらいいのかもわからない。ぐちゃぐちゃとした頭を整理する事も出来ぬまま夜は更けていく。
それは日付が変わった頃のこと。
部屋の襖越しにお嬢がやってきた。
「ねぇ、妖忌。起きてる?」
「ええ。眠れるわけがありません」
私は身を起こしてすーっと襖を横に引いて入ってくるお嬢を迎える。
「緊張しちゃってね…目が冴えるのよ」
当然だ。誰であっても死ぬのは怖い。
まして父上様の死を間近で見たお嬢なら尚更。
「…」
「あのね。その、妖忌に頼みたい事があるの」
「何でしょうか?」
お嬢の肩が小さく震える。強がって作るお嬢の笑顔はぎこちない。
「あ、あのね…。も、もしも明日私がね。怖気づいてっ、に、逃げようとしたらっ、ちゃんと……っちゃんと私を殺して欲しいの」
自分が死ぬのが怖くなったら殺してくれと身近な人物に頼むのにはどれだけの勇気がいるのだろう。未来の自分を貫く刃の手入れなど誰がしたがるものか。
それはお嬢にとっても私にとっても余りに残酷な話だった。ただただ唖然とするしかない私を覗きみることなくお嬢は続ける。
「わ、笑っちゃうかもしれないけど…わ、私ねっ今凄く怖いの。もう堪らないわ。今だって怖くて怖くて震えが止まらないの…」
誰が笑えるものか。自身の終わりを目前にして恐ろしくない者などいない。むしろお嬢が今日ここまで普段通りを振舞っていてた事が不思議なくらいなのだ。
「今でさえこんなのだからねっ…明日なんてもっと酷くなると思う。だ、だから妖忌が最後まで私を見ていて欲しいの…」
私には答えることが出来なかった。ただその小さな肩を優しく抱いてやる事しか出来なかった。
成長しただと? 馬鹿をいえ。彼女の心は五年前に止まったままだ。進めるはずがない。
斬れぬものなどない? 阿呆を抜かすな。
この小さな少女を縛る死の鎖すらも斬れぬではないか。
あの忌々しい桜を斬ることも出来ぬではないか。
彼女の体を斬ることなんて…。
自らの瑣細さ、お嬢を苦しめる運命を呪う以外に私が出来ることなど何も無かった。
△
結局二人は抱き合ったまま朝日を迎えた。
「もう、朝ね。妖忌」
「えぇもう朝ですね」
「…支度してくるわね」
その声は街に出る支度をするかのように日常過ぎた。
西行妖の前に一人の少女。手には抜き身の脇差を携えている。一つ間を置いて控えているのは妖忌と紫。じっと少女の背中を見ている。
「じゃ、じゃあ後のこと。宜しくね紫」
「…ええ」
二人の少女の声は互いに震えている。
「今まで、ありがとうね妖忌。一杯…一杯迷惑かけたわ。妖忌には、悪いけど…私が勉強を抜け出して…妖忌が追いかけてくれて、そんなふうに騒いでた時楽しかったわ…」
過去を惜しむ様に妖怪桜を見上げる彼女は何処までも美しい。今にも散ってしまいそうな花のような儚さを孕んでいる。
「…わ、私もっ! 私も楽しゅうございましたっ!! お嬢には手を焼かされましたがっそれを迷惑だと思った事など一度もありませぬっ! 礼を言うなら私の方です…」
「うんっ…う"んっ! ありがとうっ。本当にっ!」
一頻り泣いた彼女はグシグシと涙を拭う。
「じゃ、じゃあそろそろ逝くわね…」
△
手に持つ脇差の刃先を細い喉へあてがう。肌を撫でた刃に血が一条走り、それは地面へと落ちた。それが私の目に入ると刃が酷く恐ろしく見えた。これが私の肌を、肉を切り裂くのだ。震えだした手が止まらない。
もう思い残すことは無いと必死に心に伝えども震えを止めるには至らなかった。
あぁ駄目だ。このままでは死ねなくなってしまう。今ひと思いに腕を引かなければ死から逃げ出してしまう。唇を血が出るほど噛み締めて腕に力を入れる。力は入っている筈なのに腕は動いてくれない。
やめて。
言うことを聞いて。
いくら願えど腕は動かない。
その様子を見たのか紫が声をかけてくる。
「幽々子?」
やめて。
そんな声を聞かさないで。
私に未練を思い起こさせないで。
「大丈夫?」
カランカランと刃が地に落ちた。もはや私にそれを拾う力はなかった。
△
「…ゃ……」
刃を落とした幽々子がぼそりと呟く。
「……いやよ…嫌ああああああっ!! こんな所で死にたくないっっ! まだまだやりたいことだってたくさんあるっ!! 美味しい物だって沢山食べたいっ! 甘味処の売り子さんだってやりたいっ!! 私もみんなと一緒に長生きしたいっ!!!
そ、そうだわっ! 妖忌ならこの桜だって斬れるでしょ!? 斬れぬ物などないって言ってたじゃない!! 紫なら何とか出来るでしょ!? スキマって何でも出来るものでしょ!? 誰でも良いから私を助けてよっ!!!」
それは五年間表に出してこなかった彼女の本当の姿。
泣きながら妖忌の着物の裾を握りしめ、紫のスカートを引っ張っているこの少女こそ西行寺幽々子であった。
「ねえっ! 二人ともなんでなにも言ってくれないのよっ!! あ、あぁ分かったわ本当はいろいろ出来るけどっ私を驚かそうしてるのねっ!! も、もう十分驚いたからっもうっもう無理だからっ!!」
「だから…私を助けてよ…」
△
「だから…私を助けてよ…」
それはその言葉だけは今のお嬢の願いではなかった。八雲紫に言ったのではない。私に言ったのだ。確かに昨日の夜の彼女が私に願ったのだ。昨夜刃を研いだ刃を今こそ振るえと仰ったのだ。早く殺してくれと私に救いを求めたのだ。
私は魂魄妖忌。
今の彼女の願いを聞くことは出来ない。それは昨夜の彼女を否定することになる。恐怖に震える中に散らばる勇気をかき集めて、私に殺してくれと頼んだ昨日の夜。その姿を今一瞬垣間見てしまった。
私は魂魄。
西行寺幽々子ーーーお嬢が望むのならば全てを切り伏せなければならない。
それがたとえお嬢本人だとしても。
そこに私の意思などいらない。お嬢の望むがままにーーー斬らねばならないのだ。
「お嬢っ!」
「あっ…」
私はお嬢を抱きしめた。逝く時に寂しくない様に。私の手の中にある握り慣れた柄の先がお嬢の体へ刺さっているというだけで何時もと違う感触に寒気を憶える。
私の肩に乗るお嬢の頭。口から流れる血液が私を濡らしていく。ゴポゴポと血を吐き出すお嬢。私は耳元で確かに彼女の言葉を聞いた。
「ありがとう」
△
あれからもう何度目の春だろう。今年も西行妖は咲くことなくひっそりと立っている。その桜の前で地面を濡らしながら頭を下げるのは魂魄妖忌。彼は毎年桜の季節になるとこうして今は亡き西行寺幽々子、西行寺家最後の当主を思い、嘆き、謝る。
その年も全く同じだった。
だが、同じ様に繰り返される中に一つのイレギュラー。
彼の姿を見て不思議そうに声を上げる者がいたのだ。
「あなたは誰?」
頭を上げた彼の目の先にいたのは桜色の髪をした元気な亡霊だった。
〇
「これが西行寺幽々子という亡霊よ。つまり西行妖復活と共に彼女の肉体も封印から蘇り、恐らく亡霊の彼女は消えてしまう。この世ではないけれど二つ全く同じ物はこの世に存在しないわ。それが魂であれ亡霊という思念体であれね」
紫さんの話した幽々子さんの過去は残酷な話であった。私の境遇なんてまだまだ幸せなものだと思える程に。
「…」
「…」
咲夜さんも私も何も言えない。
「あぁ、幽々子の記憶はなくなってたわ。だからこんな異変を起こすわけだしね。――それで? 私が説明できるのはこれくらいよ。まだ質問はあるかしら?」
「い、いえ」
聞いてはいけないような内容を聞いてしまったようないたたまれない空気である。
「そう。じゃあ…」
紫さんが何か言おうとした所に大気を震わす程の地響きと轟音。横に並ぶ桜の木々の花弁が次々落ちてある一点向けて飛んでいく。
花弁の集まる西行妖は私には考えられない程の妖力に包まれていた。