すっかり暖かくなり、すぐ最近まで猛威を奮っていた寒気が跡をくらました幻想郷。それと同時にその封をしていた氷が融け、漸く霧の湖面にも動きが見られるようになった。
キャッキャッと嬉しそうに水面を蹴る妖精。
湖岸で波紋を作りながら舌をつける動物。
ゆらゆらと揺らぐ水面にソワソワ顔を映しているのは畔である。水を飲む猪の隣に正座して何かを待っているようだ。
喉を潤した猪が満足して足を遠ざけていく中、畔は待つ。只管待つ。そして遂にその時は来た。
日の光を浴びてキラキラと輝く湖に暗い影が浮かび上がる。それは人の上半身を持ち、魚の尾ひれを持ったシルエット。優雅にヒレを動かしゆっくり円を書くようにして湖面に顔を出す。
「姫ちゃんお久ーーっ!!」
「へ? わぁっ!?」
わかさぎ姫の顔が見えた瞬間、畳んでいた足をバネのようにして跳ね飛んだ畔がわかさぎ姫を襲う。折角浮き上がったシルエットの正体はまたもや沈んでいき、人のシルエットを追加した。
〇
「あんた馬鹿じゃないの!?」
「えへへ〜ごめんね」
謝る気があるのだろうかこの河童。口元も言葉も緩めたままの畔は水を滴らせながら湖に足を入れながら湖岸に座る。
凄まじい勢いでわかさぎ姫に突進した畔は自分が泳げないことをすっかり頭から弾き出していたらしい。わかさぎ姫に抱きついた形のままゴボゴボと空気を吐き出し一人もがき苦しむ。勝手に水に飛び込み勝手に沈んで、魚に水揚げされる間抜けな河童だった。
「いきなり何するのよ。びっくりするでしょ。っていうか畔が溺れてるし」
「いや〜えへへ〜」
何だこいつ。溺れた酸欠で言語中枢がいかれてしまったのか。
わかさぎ姫がそう思ってしまうのも無理はないだろう。何を聞いてもにへらと砕けた笑顔を貼り付けて「いや〜えへへ」を繰り返す畔。
畔の肌につく水滴が畔の体温を奪い始めたあたりになって漸く会話できる様になってきた。
「さっむ…」
「馬鹿でしょ。完全に自業自得ね」
腕で自分を抱く畔を見て思わず溜息の漏れるわかさぎ姫。
「なーんてねっ。私に掛かればこれくらい訳ないんだけどねっ!」
能力のことを言っているんだろう。非の打ち所がないが故に張り倒したくなる程の威力を誇る程のドヤ顔を晒している。
「はいはい。それで何でそんなに御機嫌なの?」
そんな畔の顔を完全に無視して話を進める。
「いやぁ、だって久しぶりに会うし…テンション上がっちゃうよねっ!!」
元気にサムズアップ。
「いつもより少し長引いたくらいじゃない。何もそんなハイテンションになる程のことでもないでしょう?」
冷たく聞こえるわかさぎ姫の言葉だったが、少し赤らめた顔を背けながら言っているところを見れば満更でもないのだろう。
「またまたぁ。姫ちゃんだって寂しかったんでしょ?凍った湖の底に話し相手なんていないもんね」
なんとしてもわかさぎ姫も畔に早く会いたかったという事にしたいのだろう。喧しい表情でしつこく詰め寄る畔に折れるお姫様。
「……た、退屈ではあったわね」
「ーーーっ! 姫ちゃんがデレたーっ!」
我が意を得たりとその顔をより一層やかましくして騒ぐ畔。その声があんまり五月蝿いものだから近くを飛んでいた妖精が怯えて逃げていってしまう。
デレるなんて言葉が幻想郷で使われていることに驚きを隠せないがそれはまた別の話。
「べっ別にデレてなんかないわっ! 普通よっ普通!」
頬を染めて否定しても逆効果だろう。狂った様に「デレたーっ!」と叫び散らす友人を尾ひれで力一杯ひっぱたいた。
「いった〜。何もそんなに怒らなくても」
「畔があんまりしつこいからっ!」
「まぁ、そうだけど――」
言葉半ばにして先を止め、じっとわかさぎ姫を見つめる畔。
「な、何よ?」
答える代わりに身を乗り出して近付く畔と、それに合わせて身を引くわかさぎ姫。
「姫ちゃん…髪、伸びた?」
〇
「姫ちゃん…髪、伸びた?」
この子は何を言ってるんだろうか。湖の凍っている間に髪を切ることはできないのだから、伸びてて当然だろう。というか今までもそうだった。
「そりゃ髪なんだから、切らなきゃ伸びるもんでしょ」
まぁでも確かに例年よりも長く切れなかったから、その分長くなっているかもしれない。
「なんか雰囲気変わるね。似合ってるよ!」
別に整えているわけでもなく無秩序に伸びた髪を褒められてもあまり嬉しいものでもない。
「すぐに切るわよ? いい加減頭も重いし」
右手で頭を掻いてみればもっさりした感触が手を引っ張る。
「えー。切っちゃうの? 可愛いのに長髪姫」
「もはや別人じゃない。姫しかあってないし」
「ん? あれっそういえばさ、姫ちゃんて自分で髪切ってるの?」
他に何があるというのか。霧の湖まで出張して髪を切ってくれる人も妖怪もいないだろう。
「そりゃ、他の妖怪には頼めないしね。いつも適当に切ってるわ」
私の言葉を聞いてポンっと手を打つ畔。
嫌な予感しかしない。
〇
「はいっそれでは今から姫ちゃんの髪を切っていきたいと思いまーすっ!」
畔がするのに釣られて拍手するのは今泉影狼、赤蛮奇の二人。草の根妖怪たちの密かな集まりである。
「これほんとにやるの?」
不安気に聞くのはわかさぎ姫。
「本気と書いてマジだよ姫ちゃん。可愛くしてあげるからねっ!」
ただ短く切りそろえるだけでいいのにという言葉は聞き入れられない。
どうして畔以外に二人も呼んだのかとわかさぎ姫が尋ねたところ、やっぱり皆の意見を聞いて作り上げた方がいいものになるだろうからと返した畔。美術品でも作るつもりなのだろうか。
「それじゃあ今からどんなのがいいか相談するから姫ちゃんはどっか行っててね」
みんなの意見という割には本人の意見は聞かないらしい。
こうなった畔は止められないといった諦め顔のわかさぎ姫はチャポンと音をたてて沈んでいった。上がってこない方がいいような気がしないでもない。
わかさぎ姫が消えて霧の湖、湖岸に残る三人の妖怪。
「さてっそれじゃ蛮奇ちゃん頭出して」
「言われたから持ってきたけど、何に使うの?」
無い首を傾げる赤髪のデュラハン。
ここに呼ばれた時に畔から換えの(?)頭を持参するように言われていた。
「え? 何にってもちろん姫ちゃんのカットの予行演習用に」
「!?」
むんずと頭を掴む畔。
宙に浮く六つの頭と体に乗る頭のすべての顔色が驚愕に染まる。替えの頭とは言うが、赤蛮奇にとってそれらは全て本物でありどれもがオリジナルである。
「一応道具類は咲夜さんに借りてきたから有るんだよね。どうする? 影狼ちゃん」
「いつも毛は梳いてるからね。ブラッシングなら任せなさいっ!」
自信あり気に胸を叩くのはいいがあくまでカットであってブラッシングが目的ではない。
「ね、ねぇっ! ほんとに私の頭でするの?」
「うん。そうだよ?」
今更何を聞くのだろうという顔の畔。
その顔を見た赤蛮奇は防衛本能が心に警鐘を鳴らすのと共に瞬時に思考を巡らす。
(暇だったし、わかさぎ姫で存分に遊べるっぽいから付いてきたのにこれじゃあ私に被害が…。わかさぎ姫の練習台で遊ばれるのは御免だわ…。ーーいや、誰の練習でも嫌だけども)
そんな赤蛮奇がとった行動は―――
「あっあー! そ、そういえば私これから用事有るんだったー。すぐに行かなきゃ駄目だから先に帰るねっ! ごめん。またなんか埋め合わせするから!」
逃走。
いっそ清々しい程に棒読みのセリフを残し、体を翻して全力疾走で霧の湖から離れていく。回収し忘れた畔の手元にある頭も直ぐにぶるぶると震えて畔の手を振りほどき体を追いかけていった。
「蛮奇ちゃんどうしたんだろうね? 様子おかしかったけど」
「さあ? お腹でも痛くなったんじゃない?」
自分達が原因であると気付いてない二人。
「んーじゃあどうする? 練習台がいなくなっちゃったからぶっつけ本番になっちゃうね」
間違っちゃいないが言うに事欠いて練習台。そりゃ逃げたくもなる。
「適当に切ってからブラッシングしたらいいんじゃない?」
もうこの狼女はブラッシングを言いたいだけだろう。
「…ん〜それもそっか。取り敢えずやってみないことにはわかんないよね」
一体この妖怪たちはブラッシングをなんだと思っているのか。いくら切り間違えたとしてもブラッシングすれば全て元通りとでも思っているのか。言っちゃ悪いがそれなら理髪師に免許はいらない。
「じゃあ呼ぶね」
ここで一つ気になる事はないだろうか。
わかさぎ姫の呼び出し方である。
湖底に居を構えるわかさぎ姫。そんな彼女に対して湖岸から呼びかけてもなかなか届かないだろう。ではどう彼女を呼ぶのか。
その方法は至って簡単。チャイムのような物を設けているだけだ。チャイムと違う点は押すのではなく引くというところ。予め決められた石を引くとわかさぎ姫宅の石が引かれ壁にぶつかり、わかさぎ姫に来訪を知らせるのだ。
と、言うわけで石を引く畔。暫く経てども水面に浮かび上がる影はない。
「あれー? おかしいなぁ」
「どうしたの?」
「いやね、いつもは一回か二回鳴らせば直ぐに出てきてくれるんだけど…」
出てきたくない気持ちもわかる。慣れた自分で整えた方が間違いなく上手く切れることだろう。出ていかなければ助かるのなら出てこない筈だが畔はそんなに甘くない。
再度、石を引っ張る畔。
ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン……
楽しくなってきた畔がしつこく音をたてる。すると漸く人魚が湖面に顔を覗かせた。
「わかった。わかったからそれやめて」
ついに諦めたわかさぎ姫。
「さぁ、髪切ろっか!」
「はいはい…あれ?蛮奇は?」
潜る前にいた友人の姿が一つと言っていいかわからないが一つ減っている。
「なんか用事思い出したって言ってどっか行っちゃった」
「ふーん…。それでどんな風に切ってくれるの?」
「それは秘密。切り終わった後に鏡で確認してね」
ねーっ。と影狼と二人笑う畔を見て不安の拭えないわかさぎ姫だった。
〇
(よしっ…どこから切ってこうかな?)
岸に座るわかさぎ姫の後ろに立つ畔。櫛と鋏を両手に構え色々な角度から頭を見つめる。因みに影狼は少し離れてお気に入りの動物様ブラシを構えている。
「ちょっと、凄い不安なんだけど…」
「大丈夫大丈夫。多分」
「ちょっと!」
ギャーギャー騒ぐわかさぎ姫を放置して第一刀。シャキんと音を立てて閉じた鋏と落ちる髪。
「お、お〜なんか楽しい」
他人の髪の毛を切るという普通ならなかなかない行為は畔を興奮させるには充分だったらしい。
〇
「よーしこんなもんでいいかな?」
汗を拭きながら一歩引く畔。
「ん?」
「えっ…なに?怖いから変な声出さないでよ」
「いや、ちょっと違和感が…。影狼ちゃん、ちょっとこっち来て」
ただ眺めているのに飽きたのかいつの間にか自分の髪の毛を弄り始めていた影狼を畔が呼ぶ。
「どしたの?」
「いや、なんか違和感が…」
「んー? っあ!あれじゃない? 左右でほんの少し長さが違うとか。ほらこことかをーー」
ぱっと畔から奪い取った鋏でざっくりと頭の左側に切り込む影狼。
「ん? なんか違うなーじゃあこっちも切っちゃおう」
畔が止める間もなく右側も同じように切る。
「ちょっと! 影狼ちゃんそんな雑に切っちゃまずいよ!」
「え? えっなにしてるの!?」
下手に首を動かせないわかさぎ姫がそのままの体勢で叫び、傍らに立つ畔が急いで止める。
「そんな焦らなくても大丈夫だよ多分。ほら後で――」
「ブラッシングじゃどうにもならないこともあるよ!?」
「えっ…。」
何故この狼女はこの世の終わりみたいな顔をしているのだろうか。畔は至極まっとうな事しか言ってないはずなのだが。
次第に俯き汗をかき始める影狼。
「じゃ、じゃあ、これどうするの!?」
鋏を地面に落として、わかさぎ姫を指さす影狼。
「どうするって影狼ちゃんがやったんでしょ!?」
「ねえっちょっと! どうなってるのよ!」
さっきまで穏やかだった空間はもはやその平穏をかなぐり捨てた。
それと同時に影狼もすべての責任をかなぐり捨てた。
「あ、あわわわわ。あっ。そ、そうだわ! 私これから用事があったんだったわ! じゃ、じゃあねーっ!」
何処かで聞いたセリフをやはりどこかの誰かと同じように棒読みで残し、全速力で逃げ去っていく狼。人間の子供程のスピードでしか走れない畔が追いつけるわけもない。
「……」
「ほ、畔?」
残された二人の妖怪。人魚が不安げな声をあげる。
それに応える事なく畔は影狼の落とした鋏を拾い上げ一度濯ぎ、また髪を切っていく。
わかさぎ姫は畔の作業の途中、彼女の出す謎の圧力に声を掛けることが出来なかった。
〇
「…姫ちゃん。終わったよ」
「あ、ありがとうね。凄く頭が軽くなったわ」
「……」
まあそうだろう。畔が普段の長さほどまで切りそろえた所に入れた影狼の無慈悲な刃。余りに豪快にいったため誤魔化すことが出来ず、全ての毛をそれに合わせた。
つまり、今わかさぎ姫の髪はベリーショートに片足突っ込んでるくらいの長さだ。軽くないわけがない。
「…御免ね。影狼ちゃんもちゃんとケジメをつけさせるから…」
「だ、大丈夫よ。ほらっ! たまにはこれくらい短いのもーー」
わかさぎ姫とて、その場で会話を聞いていたのだ。おまけに今の頭の軽さ、地面に落ちる毛量を鑑みれば大体自分の髪がどうなっているかわかる。
その上で何故かわかさぎ姫がフォローに回っているのは畔の出す威圧感からだろうか。
わかさぎ姫の言葉を最後まで聞き届ける事なく、出会った時の様子から一変した畔は「じゃあね」と一言残し去っていった。
〇
深夜、場所は迷いの竹林。
「蛮奇ちゃんちゃんと捕まえててね。私じゃ抑えられないから」
コクリと頷く浮いた頭。
それに反応してイヤイヤと首を振る狼女。
「ん"ー! ん"ーっ!」
彼女の口には縄が咬ませてあり満足に声を出せなくされている。
「駄目だよ影狼ちゃん。自分のした事には責任を取らないと……」
畔の手の中で銀色に鈍く光る鋏。それをゆっくり影狼のよく手入れの行き届いた長い髪に差し込んでいった。
(関わらなくて良かったー)
赤蛮奇は悲鳴を上げる狼を冷めた目で見つつ、一人心の中で呟いた。