霧の湖を離れ、いつも履いている長靴をペタペタ鳴らしながら向かう先は妖怪の山に住む超妖怪弾頭河城にとりの住処だ。
人間であれば妖怪の山に入ることは出来ない。かつて妖怪の山は鬼が統治していた。しかし、人間に愛想を尽かした鬼達が地下へ移動してしまうと、山は天狗が管理するようになった。そんな天狗の中にいる優秀なテレグノシスが哨戒任務についている限り、一切感知されずに山に立ち入る事は不可能である。仮に他の天狗が哨戒任務についていたとしても容易に入れるものではない。本来天狗とは排他的な種族なのだ。仮に入ることができたとしても、大抵の人間は妖怪の餌となることだろう。
畔とて人間と大差ないと言えばないが、哨戒天狗や他の妖怪達と知らぬ仲ではない。誰に絡まれる事もなく河童の集落に到着した。
畔が毎日来る事もないが何ヵ月も空けることもない集落。そんな集落の隅ににとりの家はある。仕組みもわからない、押すとベルがなるボタンを押してにとりが出てくるのを待つ。
「ったくも~今いい所だったのにー……ハイハイどちらさんってあら、畔じゃん。どしたの?」
中からぶつくさ言いながら、水色のツインテールを揺らし出てきた彼女こそ畔の恩人河童の河城にとりである。
「久しぶり、にとりちゃん。もしかして今忙しかった?」
「んにゃ、忙しくはないよ。いいところだっただけー」
にやりと意地悪げに笑うにとり。
「ごめんね。出直した方がいい?」
「何言ってんのさ。畔ならいつ来ても歓迎するよ。ささっ上がった上がった!」
先程まで浮かべていた笑みを消したにとりは畔の背中をつかんで背を押す。畔は畔で背中を押されるがままに居間まであがり、腰を下ろそうとした。しかし―――
「ねぇにとりちゃん。いきなり来た私も悪いと思うよ?思うけどさ…もうちょっと片付けようよ」
「あ、あはは…さ、最近は作業場に篭もりっきりだったからこればっかりは仕方ないなーこれは、うん」
最近だけの話ではない所が問題なのである。二人の会話からわかると思うが、畔の質素な部屋と違いにとりの家は凄まじい量の物で溢れかえっている。そのどれもがカラクリなのかガラクタなのか畔にはよく分からないものばかりだ。無造作に転がって置かれているそれらを無理矢理押し退けて、自らと畔の座るスペースを確保するにとり。
「ハイッ!どうぞ。お茶でも――と思ったけど、見つかんないだろうなぁ。畔は喉乾いてたりする?」
「ううん。大丈夫」
「そ。じゃあいいや。――それで?今日はどうしたの?」
「ええっとね、実は話せば長くなるんだけど」
「ってわけでさ、今家がなくて寝る場所がないからにとりちゃんに倉庫を貸してもらおうかな〜って」
「は~なる程ね。何というか畔って運ないんだね~。まあ、なんか困ったことがあれば頼ってくれていいからね。出来る範囲で手助けするよ。――ええとそれで、倉庫だっけ?別に私は構わないけどちょっとホコリっぽいかもよ?」
二つ返事で倉庫を貸すにとりは懐が大きいのか、はたまた管理が適当なだけなのか。
「大丈夫大丈夫」
「そ。布団あったかな~。多分倉庫にあると思う…多分。倉庫にあるのは適当にどかしてくれていいからね。えっとそれでもう寝る?」
倉庫が布団を持っているかどうかにとりにも自信がなかったのだろう。多分という言葉をかき消す様に話を紡いでいく。
「うん、そうしようかなって。今日は疲れちゃったからさ。ごめんね宿替わりにしちゃって」
「そんなこと気にしなくていいよ」
「でも…」
「私がいいって言ってるんだからいいんだよ。って言っても畔だと聞かないよね〜。わかってるわかってる。だからさ、こうしよう。色々今回のことが落ち着いたら私に一杯付き合ってよ。それでチャラ。どう?」
有無を言わさぬと言った風に一息でにとりは言い切った。やっぱり懐が広いのかもしれない。
「…うん。分かった。ありがとう、にとりちゃん」
「ハイハイ。じゃーねお休み。また明日」
「お休み。また明日ね」
挨拶を終えた畔はにとりの家を出て、少しだけ離れた倉庫へ行った。倉庫を上がるとそこは居間よりも酷い惨状だった。とてもではないが布団を探し出して、それで寝ようとは思えないレベルだった。居間にあったのと似たようななんだかよく分からない物達を左右に寄せて、横になる河童。背中にあたる冷たい床が一日動きっぱなしで熱の上がった畔の体を冷やしていく。
まだ何も解決していないし、不安なことも沢山あるがわかさぎ姫は皆で考えようと言ってくれたし、にとりは何かあれば助けてやると言ってくれた。頼もしい友人達にそんなふうに言われてしまえばなんとかなりそうな気がしてくる。いや、きっとなんとかなるのだろう。そう思いながら畔は瞼をゆっくり降ろしていった。
〇
気が付くと畔は暗い空間にいた。自分が立っているのか横になっているのか、はたまた浮いているのかどうかもわからない。平衡感覚の失われた暗い空間。まるで自分が水中深くにまで沈み込んでしまったかの様にも感じる。畔がただ呆然と立ち尽くしていると、遥か彼方より畔を呼ぶ女性の声が聞こえてきた。
その声に釣られるように、畔は何も無い空間をひたすらに進んでいく。
どれくらい歩いたのだろうか。時間的感覚すらないこの空間ではどれ程の時間歩き続けていたのかの当たりすらつけられない。だが、そろそろ声の主が見えてもいいんじゃないだろうかと薄ら思い始めた時。
畔の視線の先に女性が1人立っていた。その女性を表現するのならば[白]。腰まで伸びた艶のある髪も、着ている美しい着物も、頭から生える二本の角も全てが白い。ただ、一点。彼女の目だけは、黒く青い色をしていた。暗い空間中、女性は微笑を浮かべ嫋やかに佇んでいる。その美しさに思わず見惚れてしい立ち尽くす畔。暫く女性を見つめているとその違和感に気づく。
確かに畔を呼ぶ声は目の前の女性から聞こえてくる。だのに女性の口は微笑を浮かべるばかりで一向に動いていない。
それに気づいた瞬間、女性の存在が酷く無機質なものに思われ、まるで精巧に作られた人形のようだとも思えた。畔は目の前の女性が何者なのか確かめようと女性に近付き、その女性の肌に触れた瞬間、方向感覚のないこの空間で畔はたしかに上へ、上へ引っ張りあげられていった。
〇
夜中畔が眠りにつき四時間程たった夜二時ごろ、その時までスヤスヤと穏やかな寝息をたてていた畔が突然ゆったりと身を起こす。そして、ガサガサと合羽のポケットを探し、件の青い石を取出す。ただその石、以前までと違う点はその石が淡く発光し、それが光膜を作り畔を包み込んでいる。
何時もの畔であればパニックになるような異様な状態であるが、この時の畔は冷静だった。何時ものように健康的な青色ではなく、湖の底の様な仄暗い青色をした目で辺りを見回した後、徐に立ち上がり何かに導かれるようにしてにとりの倉庫を後にする。
靴も履かずに裸足で出歩く。そんな姿を友人が見れば声を掛けるはずだが、畔に目を向ける者はいない。
勿論、その時哨戒天狗も見回りをしていた筈なのだが、終ぞ呼び止められる事も無いまま山を降りてしまう。そんな畔が向かった先は例の赤い館。妖怪がその活動を活発にする丑三つ時、結局畔は一切誰にも感知されずに赤い館の前までたどり着いた。
赤い館の門前には昼間の女性はおらず、代わりにメイド服を着用し各々武器を持った妖精が五匹ほど並んで周りを警戒している。畔はそれを全く無視し門を開ける。そして、誰に悟られる事もなく赤い館の内部へと歩を進めていく。
内装も外面と変わらず赤い、ひたすらに赤い。畔はそれに面食らった様子もなく中を歩いていく。一度も来たはずのない館であるが畔の歩に迷いは見られなかった。
夜だというのに明るい館、畔は門前でも見たメイド服を着た妖精たちや人間の女性とすれ違う。だがその悉くを無視。女性や妖精たちもまた部外者である筈の彼女を一切止めることはなかった。
足を止めることのないまま、畔はやけに広い空間に出る。凄まじい量の本が置かれているところを見るにどうやら図書館の様な施設なのだろう。 その施設のおよそ中央に大きめの机があり、その机には薄紫色のネグリジェの様な服を着た少女がなにやら熱心に本を読んでいる。その前を何も言わぬまま通り過ぎ、少女もまた何も言わない。畔が前を通ったことに気付いた様子もなかった。
そして畔は結局、妖怪の山のにとりの倉庫から館内部まで、誰かに止められることを一度もなくして施設の隣にある地下へと続く階段を下りていく。
ひとしきり階段を下りた先には一つの扉。非常に頑丈そうな、高さ5m程の大きい扉である。木っ端妖精たちでは扉を開けることなど到底できないだろう。おまけになにやら緑色の魔法陣のような物が幾つも浮かび上がりその不気味さをより引き立てている。
畔はまるで自宅の扉を開けるように、極々自然にその扉を開け中へ入っていく。
中もやはり夜だというのに明かりの灯る通路が伸びている。僅かに歪曲したその通路、5m程先までしか見通すことは出来ない。その通路を進み自分の入ってきた扉が見えることのなくなって暫く。通路の真ん中に畔の服や集めてきた石等が散らばっている。その中に白く発光する龍石の姿を見た畔は真っ直ぐその元まで行き、跪いた。
そして虚ろな瞳のまま光る龍石に触れた瞬間、畔の握りしめた青い石と白く光る龍石のどちらもがその光をを失い元の色へと戻っていく。それと同時に畔を包み込んでいた光膜も霧散し、畔の瞳も湖底のように暗い色から何時もの透き通るような青色へと戻り、生気を取り戻していった。
〇
目が覚めたら自分の知らない場所にいた。確かに私はにとりちゃんの倉庫で眠っていた筈だ。私は何時から夢遊病患者になっていたのだろうか。何やら通路の様な場所にたっており先はどうやら行き止まりだが、側面や正面の壁に扉が幾つか見られる。通路は僅かに蛇行しているせいで振り返ってみても通路壁しか見れない。
そんな場所に私は何故か裸足で、何故かわかさぎ姫に見せた青色の石を握りしめ、もう片方の手で龍石を撫でた状態で通路に膝をついている。
「ちょ、ちょっと整理しよう」
余りに突拍子のない状態、理解するためにも情報を落ち着いて整理していく。
今日は色々あり過ぎたからすぐ寝た。寝るまでの記憶もはっきりしている。何か夢を見ていたような気もするが今では遥か彼方思い出すことは無い。そして、今。私は石を持ちながら龍石を撫でている。
「いやわかんないよ…」
突っ込まずにはいられない畔だった。状況を整理したところでその結果があまりにも突飛で参考にならない。
「ん?」
さらっと今迄流していたが、自分は今龍石を撫でている。
「あれ?」
どう見ても畔の龍石である。
「でもこれって、私の家にあったやつだから今は...あの館の中にーーっっ!」
瞬間、畔は自分の今いる場所を悟る。何故どうして自分がこんな所にいるのかはわからないが、昼間女性に睨まれた時よりも遥かに危険なことをしていることだけはわかる。
「ハァッ…ハァッ…ハァッ…どどどど、どうしよう!」
自然と呼吸が荒くなり、声が大きくなる。自らの声で我に返った畔は凄まじい勢いで口を手で塞ぐ。
(と、とりあえず何処か隠れられる場所とか…。)
キョロキョロと忙しくあたりを見回す。前は突き当りで扉が一つ。その側面の壁にも幾つか扉が見える。後ろは先の見えない通路。恐る恐る通路をゆっくりと進んでみると一つの扉。どちらへ行けば外に出られるか、何処へ向かえば隠れられるかなど分からなかったが、取り敢えず扉が1つの方へ向かおうとした時だ。
「だぁれ?」
鈴の鳴るような声が背後から聞こえてきた。
底冷えする様な面持ちの畔が肩を震わせ首をぎこちなく動かしながら振り返ると、ちょうど正面突き当たりの扉が少しだけ開き、隙間からこちらをじっと見つめるルビーの様な赤い目がこちらをみつめていた。