ああ…落ちる。
気持ちの悪い泥の中へ。
触れる肌を舐める生暖かい空気の層を貫いて、手を伸ばせど掴むことのない無形の闇。
私は何処へ向かうのか。私とは何か。
もはや形骸化した私の器に注がれた、私の知らぬ液体。ドロドロと渦巻くそれを止める術を私は持たない。掬う術すら私は持たない。渦のなされるがままに、カタカタと揺れ動く私の小さな小さな器。
ただ、その器を離れた所から一人、見ることしか出来ない。
渦巻く液体から伸びる真っ白な手。有り得ないほどに伸びたそれは器の前に立つ私の顎を持ち上げ、魅了する。もはや私は動くことすら許されない。
虚ろな私を操るのは誰?
○
「はいおしまい。満足した?」
手打。霊夢の冷めた拍子の音が地に伏す魔理沙の頬を優しくなぞる。
「……」
仏頂面を隠そうともしない魔理沙。まだまだ寝起きみたいなもんだから本気じゃなかったと心の中で言い訳をする。相手への負け惜しみではない。自分への慰めだ。
「じゃあ私達行くから。おやすみ」
普段の賑やかな魔理沙が無反応という事が既に反応である。優しく手を振る霊夢にバツが悪そうに小さく「ああ」と呟いて終わり。
三人の人妖が暗闇の中に身を隠した後、後に残る魔理沙とアリス。
「綺麗にやられたわね」
「うるさいな。今日は調子が出なかっただけだ」
確かに今までの霊夢と魔理沙の勝敗数を数えていけば、今回の負けだけを見て彼女達二人に大きな差があるとは言えないだろう。だがしかし、今回の弾幕ごっこは圧倒的だった。魔理沙とて今まで自分と戦ってきた霊夢が本気だとは思っていない。そんな事は魔理沙が一番よく知っている。この異変を借りて霊夢と本気で戦ってみようかと軽い思いで粉をかけた魔理沙。自分に対して弾を撃たれて初めてわかった。
強過ぎる。
こちらから狙う攻撃は微塵も当たる気がしないというのに霊夢からの攻撃は正確無比にこちらを仕留める。
魔理沙とて勝てると思って絡んだのではない。だから負けたことが不満ということではなく、その不条理とも言える程の霊夢の――親友の知らない一面を漸く、垣間見たという事が不満であり、喜びなのだ。
「さてと、それじゃ帰りましょうか」
「ああ」
二人は道を引き返す。
彼女達の異変はここまで。後は霊夢達の物語。
と言って締め括る事は簡単だが、彼女達の永夜はまだ終わらない。
ふと立ち止まり、先の見えない霧の中を鋭く貫くアリスの瞳。
「どうした?」
「…出てきなさい」
明らかに魔理沙に言われているのではない言葉。耳をすませばペタペタと歩く足音が近づいて来ているのが分かる。静かに人形達を身に寄せるアリス。魔理沙は一体全体、何事か分からずアリスの後ろに佇むばかりである。
「別段、隠れていたわけじゃあないんじゃが」
霧から出てきたのは異質な人影。その身は黒色の大きな外套で覆われていて見た目を覗くことは出来ない。ただ見て取れるのは裸足であるという事と身長は然程大きくないという所だろうか。
「霧の中から出てきたくせによく言うわ。何か用?」
「いやぁ…さっきまで楽しそうに遊んどったじゃろ?私も遊びたいなと思うての」
「生憎と遊びは終わり。良い子は寝る時間よ。あなたも怪我しない内に帰りなさい」
「そんな冷たいこと言わんでくれ。まだまだお主ら二人共元気そうじゃないか。良い子でも偶には夜更かしくらいするじゃろ」
ピリピリとした空気が外套の先を揺らす。
「何だ何だ? お前弾幕ごっこがしたいのか? ならアリスやってやれよ」
武装した人形達の後ろから首だけを覗かせる魔理沙。
「魔理沙は黙ってて。こいつはそういうんじゃない」
「やー、魔理沙は優しいのお。突き合うてくれるか」
両の手のひらを体の前で握り合い、喜びを顕にする人影。そして直ぐにその手をダランと下に落とす。
「でものお、今私がしたいのは弾幕ごっこじゃあないんじゃよ」
「?」
落とされた手についた指がボキボキと鳴らされ、それを見たアリスは静かに人形達の構える武器を人影に向ける。
「私がしたいのはお人形遊びじゃ」
ゾワリ。
背中をざらついた舌で舐められた様な不快感が魔理沙とアリスを襲う。
魔理沙はそれを知っていた。過去にも一度それを経験していた。フランの放った妖気混じりの殺気。ただ、今のこれがフランの時と違うのは純度百パーセントの殺気であるということ。
常人なら意識を保つことすら難しいであろうそれを前に二人はたじろぐ。
「魔理沙、逃げて」
「は、はあ? 何言ってんだよ」
「私が何とかするからさっさと逃げなさい」
「私だって戦えるぜ」
見せつける様に八卦炉を構える魔理沙。
「人間風情が調子に乗らないで。もっとはっきり言いましょうか、邪魔なのよ」
そんな魔理沙を見てもアリスの態度は変わらない。
魔理沙がこれまでパチュリーや妖夢と一応戦えていた。その果に勝ったというのは一重に弾幕ごっこというルールの上での決闘だからである。魔理沙の言う通り、魔法の森に住まう妖怪程度なら撃退できるというのは本当なのだろう。だがしかし、パチュリーにしても妖夢にしても、あれが本気であったなら人間である魔理沙など一瞬で殺されてしまうだろう。それ程までに一部を除いた一般的な人間とその他、人外達には大きな差がある。
今宵、人影の放つ殺気は伊達や酔狂の類ではない。魔法使いであるアリスが冷や汗をかいた。普段から、「後がなくなるから」と本気で戦うことのないアリスが本気を出そうと身構える程に人影は危険を感じさせた。生粋の魔法使いたるアリスがそう感じる相手を前に、人間が立ち向かうなど問題外だ。
自分の人間としての脆さを重々把握している魔理沙。己が足を引くのがベストだとは分かっているがアリス一人を置いて逃げるという事に一抹の憤りを覚えているらしい。
「お前一人なんて――」
「魔法使い舐めんじゃないわよ。この程度の奴、どうとでもなるわ」
そう言うとアリスは人形の一体を動かし、魔理沙へとその刃を向け、ブンブンと振り回して魔理沙を追い払う。
「わ、わかったわかった。アリスも早くこいよ?」
「はいはい、じゃあね」
人影から目を放つことなく、指先の魔力糸を揺らし手を振るアリス。箒に跨って飛んでいく魔理沙の傍らには一体の人形が寄り添ったままであった。
魔理沙がその身を霧の中に投げて暫く。
「手持ちの人形を減らして良かったのか?」
この場に浮かぶアリスの人形は8つ。
「言ったでしょうが。魔法使いを舐めないで。あんたなんてこの程度で充分なのよ」
「ほーか、ほーか。それじゃあ行くぞ?」
じゃりと左足を引いて上半身を落として身構える人影。
「かかってきなさい。魔法使いの力を嫌という程、見せてあげるわ」
アリスがそう言うのと、人影がアリス目掛けて飛んだのはほぼ同時の事であった。
○
広すぎる。
亭に入っての最初の感想である。
外目にはそこまで大きく感じられなかったその中は明らかにおかしかった。閉め切られた襖の立ち並ぶ通路は高さは20間、幅は30間はあろうかという程の大きさである。奥行に至っては遠過ぎて先が見えない。視界を遮る竹と霧がないせいか先程の竹林よりも広く感じる。恐らく紅魔館のように空間拡張を行っているのだろう。
道中、妖怪兎や使い魔たちの苛烈な弾幕に手を焼きながらも漸く見えてきた亡霊達の後ろ姿。どうやらこの二人も足止めを食らっているらしい。目の前には先程よりも大きめな人型兎。
「やっと追い付いた」
「後は宜しく」
ゆっくりと肩を並べた私達。直ぐに亡霊は動き出しさっきの様に突っ切ろうとする。また私たちを踏み台にして、先へ行くつもりだ。
「あっ! 待ちなさい!」
私が止めようと声を出した瞬間、兎も動き出した。
『幻波「
円状に広がる幾つもの弾丸。避けること自体は容易い筈のそれを私たちは上手く体を滑り込ますことは出来ない。というのも、突然ノイズがかかった様に視界が悪くなったのだ。一つの弾丸がブレて見えるせいで弾の把握が出来やしない。
目をゴシゴシと擦るとノイズは消え失せ代わりに弾丸が二倍になっているではないか。
「うおぉ!?」
目の前に広がる赤い海。咄嗟に身を後退させて躱すしかなかった。
「厄介な…」
亡霊達も意表を突かれたのか身を下げている。
弾幕は止み、私たちはの目の前には腕を組み、赤く光る目をこちらへ向ける兎だけ。
「地上の穢き妖怪共がっ!! 私たちの邪魔をするな!」
偉く御立腹の様子だが腹を立てているのはこちらも同じだ。
「黙れ。私の邪魔をするな」
チリチリと肌を痛める緊張感が辺りに漂う中、隣から呑気な声が響いてくる。
「レミリアさん? 協力して皆であれをどうにかしましょう?」
「ふんっ! お前達が私達を踏み台にして先へ先へ行こうとすることは知っている。私達は勝手にやらせてもらう」
「あらそう。残念だわ」
手を組もうという案を切り捨てたというのに、口では残念とは言うものの、大して残念に思っていない様子の亡霊。初めて会った時からそうだが、こいつはふわふわと掴み所がなくて好かない。
「私はここから退く気はない。何度だって邪魔してやる!」
そう言うと兎は何かを口に含んで飲み込んだ。
「何を飲んだ?」
「答える義理もないな妖怪」
「まぁお前が何を飲もうがどうでもいい。私の道に立ちはだかったことを後悔させてやる」
飛び立つ私に再びノイズが走った。
○
服用したのはお師匠に渡された失敗を無かったことにする薬。私の役目は姫様を守る結界が完成するまでの間、時間を稼ぐこと。出来るのなら日の出まで耐え凌ぐ。私の目をフルに使って邪魔をする。
今こいつらを通してしまっては、師匠の言う密室が破られる可能性が出てくる。そうなると私達には逃げ場がない。何としてもここで食い止めるしかない。
幸いにも私の目はしっかりと効いている様だ。四人もやってきたのは想定外だったが、コンビネーションのコの字もないこいつらならなんとかなりそうだ。もう一度同じスペルで止めてやる。
『幻波「
「またそれか! 芸がないな兎!」
蝙蝠が声高に煽ってくるが知ったことか。邪魔できるのならなんでもいい。
「二度も同じ手は食わんよ」
『紅符「不夜城レッド」』
下から湧き上がってくる真っ赤な霧。その勢いは凄まじく、私の弾丸を上塗りしていく。そのまま霧は私の周りを囲い込み動きを制限する。
「この程度――」
『人符「現世斬」』
「あっ…」
視界の悪い霧の中から現れた一条の閃光。避けるには余りにも速すぎる速度を持った斬撃は真っ直ぐ私を切り刻んだ。
○
「よくやったわ妖夢」
「はいっありがとうございます!」
刀を鞘に戻す素直な従者。妖夢の放ったボムは正確に優曇華を捉えていた。少し薄くなった霧と立ち上る煙で見えないが、相当な深手を負っていることだろう。
「また私を使ったな」
邪魔者を葬ったというのに吸血鬼は不満げな表情だ。
「勝手にやった結果だもの。何か?」
「……」
「何も無いなら私達は行くわね」
そのまま奥へと消えていく幽々子と妖夢。
「お嬢様」
「わかってる。私達も行くぞ」
釈然としない面持ちのまま、先に行った二人を追おうと足を踏み出すレミリア。そのレミリアの背後から頬を掠めて弾丸が奥へと消えていった。ツーっと頬に一本の傷が走り、血がたれる。
「待ちなさいっ! あんな物当たっちゃいないわよ!」
深手どころか傷一つ付いていない兎がレミリアに向けて銃口を向けていた。
「あいつらは逃がしたが、お前達は通さな――」
ドドドド。
セリフ途中の兎の上から降り注ぐ御札やらレーザーやら。ぎゃんと声を上げて兎の姿が見えなくなり、レミリアが頭上を見上げると空を飛ぶ霊夢が見えた。彼女達はレミリア達を一瞥もせずに奥へと消えていく。
「……」
「な、何なのよっもう! 今度こそあんた達は通さないわ!」
やはり無傷の兎。今度は滞りなく言い切ったのだがレミリアの反応はない。
「…」
「お嬢様?」
「咲夜」
急に黙りこくったお嬢様を不審に思い、メイドが顔を覗き込むと底冷えする冷たさを持った声が返ってくる。
「異変解決は霊夢と亡霊どもにまかせる」
レミリアはキレていた。
唯でさえ、フランに害を及ぼして不快だった所に幽々子達に二度も足止めとして利用されたのだ。おまけに霊夢より先にと思っていた唯一のモチベーションすらたった今、失われた。
「では私達は?」
「咲夜は見ているだけでいい。目の前のあいつで憂さ晴らしだ」
溜まりに溜まったフラストレーションの捌け口に選ばれたのはやはり優曇華である。
頬に伝う血を舌で舐め取り、優曇華を睨む。レミリアは右手にその体に不釣り合いな程大きな槍を生み出して、優曇華の出す弾幕の海に身を沈みこませていった。
一間は1.8m程です。30間は54m弱になります