ドロドログチャグチャと掻き混ぜられた肥溜めの中でもがく。蕩けきったチーズの如き生暖かい油状液体が私の動いた後をなぞり、渦巻いて、絶えず模様を変えていく。
ここでは呼吸することすらままならない。
苦し紛れに上下に裂いた唇の隙間から次から次へと私の中へと滑り込んでくる黒色。口腔内を蹂躙したソレは
タール状の纒わり付くソレは私の中を犯し、侵食し、嬲っていった。
何時しかソレは身体に溜まって、溜まって、溜まって、溜まりきったら黒を入れるだけの容器となった私の体を底へ、其処へ沈めていく。
辺りは暗闇だと言うのに何故か其処に底がある事が私には分かった。ゴッと鈍い音を立てて其処に頭から堕ちる私。最早、身体は黒一色。辺りに完全同化した私の暗闇色の腕は僅かに震えるばかりで言う事を聞こうともしない。此の儘、私は消えてしまうのだろうか。
開かれている筈の瞼の裏には何も写らない。眼孔にピッタリ詰められた役立たずのビー玉二つも何時しか黒に成り代わる。
"私は私"という単純な思考にすらポツリと墨が垂らされるようだ。
……そもそも私とは何なのか。
自己を自己たらしめるその証明の仕方は?
鏡の中からこちらへ手を振り、笑顔を貼り付けたそれが「私」である事が何故わかる?
それは
鏡の中の生き物が私が見ている他人の姿と違うから「私」なのだ。
そんなネガティブとも言える否定的肯定を経る事で私は「私」に成り上がる。
だと言うのに此処では私しかいない。
一人きり。いや、私が存在するかどうかすらわからない。
何時か読んだ外来本に今と似たような状態の記事が記されていた。
外の世界では過去にこんな刑罰があったそうな。
罪人を完全密室の黒い箱に閉じ込めるのだ。その箱の中には外から一切の音や振動が伝わらない。その箱の中で罪人を拘束するものは何も無い代わりに視界すら暗闇一色で文字通り何も無い状態にされる。
てっきり餓死させる事が目的なのかと思えば罪人は餓死するより前に気が触れて死んでしまうらしい。
この世で最も重いストレスは死を前にした時ではなく、身に降りかかる全てのストレスを取り去った、ある種異常状態に晒された時に訪れるのだとか。
自己を見失う環境に放り出された理性のなんと脆弱な物か。
ほら、私も狂ってきた。
怖い。色に沈んでいく私がちっぽけで恐ろしい。
黒く見えているソレは本当に黒なのか、はたまた白なのか。
いや、今それは重要ではない。私を塗り潰していくという唯一点は何も変わりはしない。
ただ私が消えていく事に、信じられない程の卑小さと恐怖が脳みそを捏ねくり回す。
身体を底に縛り付ける体内の汚泥を吐き出すべく、人間にも劣る腹筋に力を込めて精一杯声を絞り出そうとする。
するとどうだ。声こそ上がらないものの、私の胃袋から込み上がって、逆流するソレはゴボリゴボリと汚らしい音を立てながら口から逃げ出していく。外へ出ていくソレは全て繋がっている様に私の体の端に残る色すら引き連れて、お邪魔しましたと言わんばかりに退いていく。
びちゃびちゃと底に落ちたソレは直ぐに消えていく。いつの間にか辺りは黒でも白でもなく、何時か見た憶えのある部屋となっていた。
〇
「畔ちゃんっ!」
「畔さんっ!」
妙に切迫した様子の二人の声に覚醒する。
「フランちゃんに…咲夜さん?」
薄く開いた瞼の隙間から覗くのは二人の焦った様な顔。
「どうしたんですか?」
ゆっくりと上半身を持ち上げて、外をチラ見せして尋ねてみる。未だ私の部屋の窓に太陽光は見られない。つまりまだまだ深夜という事だ。深夜に叩き起こされるとは何か緊急事態なのだろうかと頭を振る。
「ど、どうしたって…」
何故だか言い淀むフランちゃん。
「畔さんが突然に大声を上げたので見に来たんです」
そんなフランちゃんの隣から咲夜さんが教えてくれた。
「大声……?」
はて、二人が慌てる程の大声など上げたろうか。そんな寝相は悪くないと思っていたのだけれど。
「ええ、かなり大きな声で叫んでましたね」
まさかそこまでだと思わなかった。
思わず右手で頭を支える。
「っ」
手先に触れたのは凄まじい量の汗。今まで気付かなかったが身体中汗まみれだ。布団に染み込んで独特の不快感を出している。
「お風呂を沸かしておいたのでどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
助かった。やはりこういう時に時を止められるのは便利だななんて思いながらベッドから降りて、替えの服を持ち部屋を出ようとした時に服の裾を後ろから引かれた。
「フランちゃん?」
振り返ると不安をそのまま顔に見せているフランちゃん。私の気が狂ったとでも思ったのだろうか。
「大丈夫…うん、大丈夫。多分嫌な夢を見てただけだから心配しないで?」
ゆっくり語りかけるとフランちゃんはコクリと頷いて手を戻した。
〇
「ねえ、咲夜」
畔が出ていって扉が閉まり、重みのない足音が遠のいて行くとフランは口を開いた。
「はい。なんでしょう」
「さっきの畔ちゃんおかしくなかった?」
「? …ええ、まあ」
おかしかったはおかしかったが態々確認するような事だろうか。普通ならば畔が言っていた様に怖い夢の一つでも見たのだろうで終わるところである。事実、咲夜は畔が目を覚まし、まともに会話できるところを見て安心していた様子である。
「そういうんじゃなくて」
「?」
「だから、その、夢とかいう話じゃなくて...」
フランは気付いていた。大声を上げている畔の口端が僅かに歪み、釣り上がっていたことに。だが、それも一瞬。ほんの一瞬だった。見逃してしまいそうなその一瞬の中にフランは確かな異物感を覚えたのだ。
「何だか別人みたいだったの」
勿論、これはフランの主観であり、咲夜からすれば別人みたいだと言われた所でピンと来るものがある筈もない。故にフランの言葉を曲解してしまうのも致し方ない事なのである。
「まぁ確かに畔さんは普段あんな大声も上げませんね。今まで見たことの無い友人の一面に驚いてしまうのは仕方ないことですよ」
「そうじゃないのっ。畔ちゃん笑ってた……一瞬だけ笑ってたの」
「笑う、ですか。畔さんは結構笑うと思いますが」
「何時もの笑顔じゃなくて、なんて言うか歪んだ感じの…」
「感じ」では伝わる物も伝わらない。不運な事にフランの胸に詰まった蟠りを言い表す力がフランには無かった。
「大声を上げていたわけですから口元も歪みますよ」
「~~~っそうじゃなくて――」
「考えすぎですよ。畔さんも元気そうだったからいいじゃないですか」
咲夜は既に事を終えた体であり、フランが何を言おうがそこに何かを見出し、深く考えようとは思っていないらしい。
「…そうね」
「そうですよ」
フランはメイドに頼ることを諦め、他を当たることにした。
〇
「え? ほ、畔さんが笑顔? そ、それは良かったですね」
寝起きの門番も役に立たず。
「畔が大声上げてて、一瞬笑ってる様に見えた? へ、へー」
動かない大図書館は本当に動かなかったし
「畔が別人に見えたですって!? きっとそれは成り代わりよ! ここに侵入して何か企んでる輩よ、間違いないっ!」
間違いないわけない。能無しめ。
「ああっもう! どいつもこいつもっ!」
地下の自室の壁を叩く。咄嗟に加減はしてみた物の残念ながら壁には大きく罅が入ってしまった。
いや、仕方ないじゃない。誰も彼も私の言いたい事を分かってくれないんだから。別段、皆畔ちゃんが嫌いな訳じゃないとは思うが、もうちょっと気にかけてくれてもいいじゃない。
イジイジとベッドの上に三角座りしてどうした物かと考える。如何せん私のコミュニティは紅魔館に限られ――
「あっ」
――ない。畔ちゃんを私よりも長く知っていて、彼女の脆さを十二分に理解していて、頼りになる妖怪がいたではないか。
「行かなきゃ」
風見幽香。幽香さんならば理解してくれるかも知れない。
〇
「……」
相変わらずの真夜中の訪問を花妖怪は嫌な顔一つせずに向かい入れた。
実はフランがここまで来るのに姉に門番を連れていくと嘘をついたり、門番には姉には話を通してあるとだまくらかしたりと言った経緯があるがそれは今置いておく。
そして、家に上げられたフランが勢いよく畔について語ったその様は張り詰めた物を吐き出す様であった。
「別人ね」
暫く黙りこくった花妖怪は確認する様に頷く。
その様子にフランは思わず安堵のため息を漏らす。明らかに今までの頼りにならない家族と違う反応に安心したのだ。
「……」
何か難しい顔で紅茶を呷る花妖怪。対面に座るフランは焦らされている様な感覚でソワソワと少し落ち着きがない。
「どうすればいいんでしょう?」
「まだなんとも言えないわね」
「そう…ですか」
何とも言えないってのは何も出来ないってのと然程、差がない。まぁ、フランの感じた事だけで何か色々と対策やら何やらを講じろというのが無理な話である。
「でも良くないものを拾ってるかもしれない」
「良くないもの?」
「それが何なのかはそれこそ何とも言えないけれど、犬が道端に落ちた石を食べてしまうように畔も何かを内に潜めている可能性があるわ」
「石…」
「あくまでも可能性だけどね。私から畔に探りを入れておくわ。貴女は畔の普段を出来るだけ具に見ておきなさい」
「はい」
畔の異常がフランの感じた一瞬の異物感だけであるのでこれ以上はどうしようもない。覚妖怪でもいれば話はまた違ってくるのだろうが。
「全くあの子は……」
夜明けを迎えぬ内に紅魔館へと戻っていったフランを見送った花妖怪。
家へ戻りチラと見て気付いた。彼女の使っていたティーカップに薄く罅が入っていることに。
狙った様なタイミングに幽香は不快そうに顔をしかめ、それを払拭する様にティーカップを叩き潰した。
〇
ああ…しまったしまった。
後ちょっとでタッチだと言うのに相変わらず私は詰めが甘い。
だが力のない今でこれなら充分合格点。
暫くナリを潜めていればそれで終わりが来る。
何、ここまで来れば今更多少待つ期間が伸びた所で変わらない。
何事も順調そのもの。
いずれ来る未来を想えば、今から笑いが止まらない。ゾクゾクと震える身体は気を抜けば直ぐに達してしまいそうになる。思わず漏れる笑いの中に混じる色を帯びた声を聞くとお前は盛った猿かと自分を問い詰めたくなる。
猿でも狗でも構いはしない。
待つのは得意なのだ。今はただ河童様と共に暢気に日々暮らせばいい。楽しくおかしく、それだけでいい。
何時か逃げ回る子を鬼が捕まえてくれよう。
ああ…。
「楽しみじゃ…」