幻想郷。
現世で忘れ去られた物や、行く宛のない人々がたどり着く最後の楽園。
と、同時にいわゆる『東方』シリーズにおける舞台・世界に位置付けられたもの。
様々な罪袋《ファン》が魅了されてやまない理想郷である。
(ん……)
ぼうっとした頭のまま目蓋を開くと見慣れない天井が見えた。古い木造。吊るされた蛍光灯の傘。明かりは消されているが部屋はそこまで暗くない。
淀んだ意識が徐々にはっきりしていくにつれて、不安になってきた。
(ここはどこだ?)
首を動かして部屋を見渡す。広さ六畳ほどの和室には調度品の類いは一切無い。ただ真ん中に敷かれた布団と、その上で寝ている自分がいるだけだ。障子の向こうを明るく照らしてい赤みがかった光が、夕方に近いことを示していた。
ふと枕元に自分の財布が置かれてあるのを見つけた。手に取り中身を確認する。間違いなく自分の財布だ。お金も特に減っていないように思える。
寝かせるときにポケットの中の物を取り出したのだろうか。だがその他の荷物はどこにも見当たらない。着ているものはYシャツとズボンのままなので脱がされたりはしていないようだ。ジャケットが見当たらないが、それはまた後で探すとしよう。
とりあえずは拘束などされていないことに安堵する。変な犯罪に巻き込まれたくはない。
だが、まったく知らない場所で寝かされているというのは妙な気分だ。落ち着かないし、何より気味が悪い。病院ではなく民家というのが更にそれを助長させている。
そういえば昨日は何をしていたんだっけ。
昨夜の記憶を辿ろうとしたとき、障子が開いた。
「――――」
俺は思わず息を呑んだ。
現れたのは女性だった。赤と青が左右に分かれた奇抜な服装。キカイダーをも思わせるそれは町なかで着ればたちまち奇異な視線にさらされるだろう。だがその女性が纏うそれは少しも違和感なく、自然な装いだった。ようするにとても似合っていたのだ。
おさげにした長い白髪は光を反射し白金のようにキラキラと輝いている。目鼻立ちの整った顔は怜悧さと穏やかさを兼ね備えていた。小さな唇が動く。
「気が付かれましたか?」
気遣うような微笑みを向けられて、我に返る。見惚れていた自分に気が付いて頬が熱くなった。
女性が後ろを振り返る。
「水を持ってきてちょうだい」
はい、と応える声とともに誰かが縁側を歩いていく。障子に黒い影が見えた。見間違いだろうか、シルエットが普通の人に見えなったのだが。
それよりも俺は部屋に入ってきた女性から目が離せなかった。綺麗な女性、というのもそうだが何よりも――。
(えーりんのコスプレしてるーーーーーッ!!!)
どういうことだ。えーりんの格好をした美人が俺を介抱してくれたのか? いや、コスプレを見ず知らずの男に見せる意味はどこにもないはずだ。ならいったいこれは何だ。
混乱する俺を他所に、えーりんさん(仮)は部屋に入ってきて蛍光灯の明かりを点けると俺の枕元に腰を降ろした。その傍らに持ってきた桐箱を置くと、中から聴診器を取り出してきた。
「起きられますか?」
「あ、はい……」
小声で返事をして体を起こす。
「ちょっと失礼しますね」
そう言うとえーりんさんは俺のYシャツをまくり上げた。
「!?」
「そのまま持っていてください」
言われるがままに従う。えーりんさんは俺の胸に聴診器を這わせながら、
「ゆっくり息を吸って、止めて……ゆっくり吐いてください」
心臓の鼓動がヤバイ。この音が聞かれているのかと思うと余計に緊張してくる。
検診はすぐに終わった。聴診器をしまいながらえーりんさんが言った。
「異常はありませんね。頭部を打った形跡もないし、大丈夫でしょう」
「あ、あの……」
「はい、なんですか?」
「俺って何でここにいるんですか? 何か事故でも遭ってたんでしょうか? というかここは何処ですか?」
心配になって聞いてみたのだが、えーりんさんは困ったように首を傾げた。
「私には何とも……。ただ、竹林で倒れていたあなたを運んできてくれた人がいまして。大きな外傷は無かったのですが、意識がありませんでしたし、至る所に細かい傷があったものですから、こちらで診させてもらったんです」
そう言われて腕を見ると、確かに小さな引っ掻き傷のようなものがいくつもある。血も出ていないし痛みもない。触ってみると何か塗ってあるようだった。
「ご心配なさらず。ここは診療所ですから。寝ている間にお薬を塗っておきましたので明日には治ると思いますよ」
「あ、それはどうも……」
気恥ずかしいやら申し訳ないやらで俯いてしまう。相手もそれを察したのか何も言ってこなかった。
気まずい沈黙が流れ始めたとき、縁側から足音が聞こえてきた。先程言伝をされた人が帰ってきたのだろう。障子を軽くノックしてから「失礼します」と部屋に入ってきた。
「――――」
正直に言えば予感のようなものはあった。だがそれを目の当たりにすれば嫌でも絶句してしまう。
長い耳。頭頂部付近から二本伸びたそれは明らかに人間のものではない。いわゆるウサミミというやつだ。カチューシャの類いはここからでは見えないが、どうやって留めているのだろうか。ゆるやかな薄紫のロングヘアに収まった小さな顔には、大きな赤い眼が爛々と輝いている。
彼女は俺を一瞥してからえーりんさんの側に歩み寄り湯飲みの乗ったお盆を畳の上に置いた。
「う、うどん、げ……?」
たまらずに俺は呟いた。さすがに二度目ともなれば動揺を抑えることはできない。
もしかするとそれに反応して東方の話題が出てくれるかもしれないと期待したのだが、俺に向けられたのは怪訝そうな二人の視線だけだった。
「えっと、何か……」
狼狽えながらも尋ねてみると、うどんげさんが口を開いた。
「いえ、お師匠様以外の人からそう呼ばれることは滅多にないもので、驚いただけです」
「え……?」
またしても予想と違う答え。
どうするべきか何と言うべきかをぐるぐると頭のなかで考えた結果、至ってシンプルな解決法を思いついた。
「あ、あの……すみませんが、お二人のお名前を教えてもらえないでしょうか……?」
二人は訝しむ様子を見せながら、ごくごく真面目に返答した。
「八意永琳と申します」
「鈴仙・優曇華院・イナバですが」
あぁ、そうか。
俺は布団に倒れ込み、悟った。
――これは夢だ。