翌日、俺は昼前に竹林に赴いた。
少し早く着いたが、妹紅はすでに俺を待っていて、そのまま例の廃墟へと案内してくれた。
竹林の中は相変わらず薄暗く、至る所に立ち込める霧のせいで視界も悪い。先導してくれる妹紅を見失わないように後に続いていく。思えば、永遠亭から里に行くときもこうやって妹紅に案内してもらったものだ。つい数日前のことなのに随分と懐かしく感じる。あのときはまだ幻想郷に半信半疑だった。だがここが幻想郷であると確信した今では、ただ不気味だっただけのこの竹林も違って見える。笹の擦れる音や、ぬかるんだ地面の感触、遠くで動く生き物気配までも感慨深いものがある。迷いの竹林に何度も立ち入る人間なんてほとんどいないだろう。その希有な体験をしている俺は間違いなく幸運だ。
「あの、妹紅さんってどうやってこの竹林の中を把握してるんですか?」
前を行く妹紅に聞いてみた。妹紅は首だけを動かして俺をちらと振り返る。
「んー、どうやってって言われてもな。なんせ長い間ここで暮らしてたからな。自然と見分けが付くようになったんだよ」
「見分け?」
「竹の見分け。同じように見えても完全に同じ竹なんて一本もないんだ。太さや枝葉の伸び方、反り具合、節の膨らみ。ほんの僅かな違いだが、場所によって育ち方も変わってくるもんだ」
言われて周囲の竹に目をやる。長さや太さの違いは分かるが、だからといってこの竹林で全ての竹の特徴を覚えきるのは不可能だ。
「そもそも、成長速度が早い竹の見た目を覚えたって意味がない気がしますけど」
「多少伸びたってなんとなく分かるんだよ。子供だってそうだろ? 大人になっても子供のときの名残は意外と残ってるもんさ。それに気付けるか気付けないかはそいつ次第」
妹紅の言い分はわかるが、俺には到底辿りつけない境地だ。長年の土地勘に加え、彼女の才覚の賜物だろう。細かい所にも気が付くタイプなのかもしれない。
それにしても、妹紅と竹林は良く似合うと思う。イラストや漫画で目にする機会が多いせいかもしれないが、実際に竹林を進む彼女を見ると本当にそう感じる。
因縁の相手に関わる植物が似合うというのも、皮肉な話ではあるが。
「あそこだ」
二十分くらい歩いただろうか。妹紅が前方を指さした。竹に囲まれた薄暗がりのなかに、一軒のボロい小屋が建っている。
近くまで行くと、それが本当に廃墟だということが分かった。土壁は崩れかけて所々穴が空いており、窓は全て割れ、ドアも外れたままどこかへいってしまっている。木枠の腐食具合からもかなりの年数が経っていることが分かる。さすがに年代まで特定はできないが。
そのとき、小屋の下に竹が下敷きになっているのに気が付いた。
「この家、最近幻想郷に入ってきたようだ。まだ竹も新しいし」
妹紅がしゃがんで確認する。俺の推測が正しければこの小屋は俺と一緒に幻想郷《ここ》に来たはずだ。
確証を得るために俺は建物の中へと侵入する。
暗くてほとんど何も見えない。後から入って来た妹紅の明かりに照らされて、その内部が明らかになる。
一見して、ここは住居ではなく物置として利用されていたことが分かった。かろうじて立っている木製の棚、ぺしゃんこに潰れた机の上に錆びた農具がいくつか置かれている。電灯の類いはなく、天井にはぽっかりと大きな穴が空いていた。
原因は間違いなく目の前に転がっているこいつのせいだろう。
ガレキやゴミが散乱する真ん中に、一台の原付が横たわっていた。黒い車体のホンダ・スーパーDio。ナンバーは『さ983』。中古で1万という安さに惹かれて就職する際に買ったものだ。
だが懐かしさに浸るよりも、その無残な姿に目がいってしまう。ミラーは両方とも折れ、ライトはカバー部分が砕け散り、車体には大きな傷がいくつも刻まれている。愛用していた原付がスクラップ同然に転がっている様を目の当たりにするのは、哀しいような寂しいようなやるせない感情が湧き起こってくる。誰の所為でもなく、自分の所為だというのが尚更複雑な心境を生む。
原付に近づき車体を起こす。スタンドは無事だったようで、難無く立たせることができた。キーは刺さっていなかった。どこかに飛んでいってしまったのだろうが、探す気にはなれなかった。そもそも散乱した無数のガレキのなかからカギを見つけ出すのは困難だ。原付が必要な状況でもなければ探す意味はない。
そのとき、タイヤの近くに携帯が落ちているのに気が付いた。保護カバーごと真ん中でぽっきりと折れてしまっている。去年買い替えた俺のiフォンだ。幻想郷で携帯を使う機会はないだろうが、壊れるのはさすがに勿体ない。生きていればカメラとしても使えたのだが。とりあえず残骸をポケットに入れておく。
さらに付近を見回したとき、黒いビジネス鞄を見つけた。中身を確認すると、見覚えのある書類やら筆記用具などが入っていた。
「どうやらそこら辺のもあんたのものみたいだな。しっかし――」
そう言って妹紅が天井を見上げる。
「上から落ちてきたみたいだけど、何かあったのか?」
同じく天井の穴を見上げ、言葉を選びながら答える。
「えぇと、そうですね。ちょっと道から落ちてしまいまして……。多分ですけど、この小屋に落ちた瞬間、小屋ごと幻想入りしたんじゃないかと。我ながらすごいタイミングで落ちたもんですね、はは」
「そりゃ運が良かったな。お陰で大きな怪我もせずに助かったんだから」
「ほんと、そうですよね」
運が良い、という言葉が気になった。果たして本当に運が良かったと言えるのか。幻想郷に来れたことが最上級の幸運だとしても。
ふいに妹紅が冷めた表情で俺を見つめているのに気付いた。
「な、なにか」
「おまえさ」
吐き捨てるように妹紅が告げる。
「嘘だってバレる嘘はそうそう言うもんじゃないよ。時と場合によっちゃ無用な軋轢を生みかねない。嘘をつくんなら、完全に貫き通す本気の嘘か、バレても構わない瑣末な嘘にするべきだ。そう思わないか?」
思わないか、と聞かれても俺には答えることはできない。今までその場を取り繕う嘘ばかりついてきた。それが普通だったし、それしか必要としていなかったから。
沈黙をどう捉えたのか。妹紅は興味を失ったように背を向け、小屋を出て行こうとする。
その背を引き留めるように、俺の口が勝手に動いた。
「死のうと、思ったんです」
声が震える。視線は床と焦点が合わずぼやけている。
ゆっくりと妹紅が振り返った。表情には戸惑いも驚きもなく、むしろ知っていたのではないかと思うくらい落ち着いていた。
「会社でもうまくいかないし、遠回しに辞めろと圧力は掛けられるし……疲れたんです。煩わしい業務や人間関係が。だったらいっそ死んでしまえばって――」
その日、会社で些細なミスをした。書類上のほんの小さな記入ミス。だが上司がそれを見つけ、晒し者にするかのように俺を叱り付けた。やれ出来損ないだの小学校からやり直せだの、あまり覚えていないが酷い悪口雑言《あっこうぞうごん》だったと思う。
なじられ、笑われ、消沈しきった俺は、会社からの帰りに気分を紛らわす為に気まぐれで山道に入った。視界も悪く道も曲がりくねっているなかを進むうち、いつしかスピードはメーターを振り切っていた。
頂上付近になり、ふと木々の透き間から街の夜景が目に飛び込んできた。遠くまで広がる光の粒。星空を凝縮したかのような眩い輝きがそこにあった。人の営みの象徴たる電気の結晶は、見る位置を変えるだけでこれほど美しくなるものなのか。そういえば宇宙から見る地球で一番目立つ明かりはイカ漁船の明かりだと何かで読んだことがあるな。
などと一瞬脳裏をよぎったせいか、我に帰ったときには崖が目の前まで来ていた。
メーターを振り切っていたとはいえ排気量50ccの原付だ。車体を倒すなり自分が飛び降りるなりすれば助かっただろう。だけど俺はそうしなかった。
このまま飛んでしまえば、楽になれるのだろうか。
はるか遠くの煌めく町並みを望みながら、ブレーキすらかけずに俺は暗い森のなかへと落ちていった。
…………。
話し終えて途端に恥ずかしさと情けなさが込み上がってきた。自殺しました、なんて聞かされる方の身になってみろ。反応に困るし、聞いてて楽しいわけがない。
死にたい、とかネットに書き込んでいるやつがたまにいるが、そいつらはただ構って欲しいだけだ。愚痴をこぼすのは慰めて欲しいから。弱みを見せるのは自分の価値を再確認したいから。
俺はそういう人間を嫌っていた。そんな薄弱な行動をするのは恥ずかしいことだ、と。
だが妹紅に話してしまった。慧音のときもそうだったが、俺は彼女たちに何を求めているのか。慰めて欲しいのか、認めて欲しいのか。
妹紅の相貌に変化はなかった。ただぼそりと。
「自殺、ねぇ。なんとも贅沢な悩みだな」
同情も憐憫も侮蔑も嫌悪もなく、ただ抱いた感想を漏らしたという風だ。
「……妹紅さんの身体からすれば贅沢な悩みかもしれませんけど、俺には大事な問題なんです」
妹紅が少し目を開いた。
「あぁそうか。私のことも知ってるんだったな」
気まずく感じながらも、微かに頷く。
藤原妹紅。かぐや姫においてかぐやに求婚した五人の貴族のなかの一人、倉持皇子――藤原不比等の娘。
父を否定したかぐやを恨み、かぐやが地上に残した薬を強奪し、紆余曲折あった後にそれを飲む。その薬こそ不老不死の源である蓬莱の薬だった。
以来、不老不死となった妹紅は人目を避けるように転々と移り住み、やがてここ幻想郷で因縁の相手、輝夜と出会うことになる……。
「俺だって妹紅さんみたいに不老不死だったら、いちいち悩んだりしませんよ」
「なら、あんたも不老不死になるか?」
「え?」
妹紅を見返すが、冗談を言っている顔ではない。
「永遠亭の医者に頼めば、もしかしたら作ってくれるかもしれないぞ。実験体《モルモット》にされるかもしれないが、まぁ結果が同じなら問題ないだろ」
不老不死になれる……。突然の誘いに俺は戸惑いを隠せなかった。当たり前だ。人が望むものといったら、金、名誉、永遠の若さ、と相場が決まっている。
「ただし、覚悟はしておけよ」
俺の心中を見透かしたように妹紅がニヤリと笑った。
「死にたくなるくらい、つらいぞ」
その言葉は脅しではなく、実感のこもった重い響きを帯びていた。
死ねない体、というものがどういう影響を及ぼすか、俺には分からない。空想で知ることはあってもそれはただの幻でしかない。実際に体験することが、それを知る一番の方法だ。
「……妹紅さんも、死にたくなったことがあるんですか?」
「当たり前だ」
あっさりと妹紅は肯定した。
「それどころか自殺したこともある」
まさか。あの妹紅が自殺なんて信じられない。妹紅が俺の顔を見て笑った。
「なんだ、そんなに意外か? 安心しな。昔の話だ。多少はこの体を憎く思ったこともあるが、今は概ね受け入れてるよ。それに、幸運にも私には不満や怒りをぶつける相手がいたからな。永遠の仇敵が」
敵と言いながらも妹紅の表情は嬉しそうだった。彼女にとって周りの人というのはいつか必ずいなくなる存在だった。ずっと孤独を感じていた彼女は、永遠に殴り合える相手が必要だったのかもしれない。本人は否定しそうだが。
「で、どうする? 永遠亭に行くか?」
少しだけ迷ったが、俺は首を横に振った。
「やめときます。俺には荷が重そうだし……」
「ならもう一度自殺してみるっていうのはどうだ? 決心がつかないんだったら私が手伝ってやるぞ」
「そ、それだけは勘弁してください! せっかく幻想郷に来れたのに、自殺なんて絶対しませんよ!」
「ってことは、元の世界に戻ったら、また死にたくなるわけだ」
「それは……」
多分そうなる、と思う。今更戻りたいとも思ってないが、戻ったところで待っているのは窮屈で抑圧される日々だけ。ならばいっそ――。
「そういうのは危ういと思うぞ。環境に依存して自分を決めるよりも、自分を基準にして環境を作るべきだ。長く生きてきて私が学んだことだけどね」
妹紅の言葉は正論に聞こえる。だけどそれが実行出来るのは強い人だけだ。俺には一生出来ない。
「俺、幻想郷に居ていいんですかね……?」
思わず口から零れた言葉は、ここに来てからずっと悩んでいたことだった。
俺みたいな人間が果たして幻想郷の住人となっていいのだろうか。不適格、とまでは言わないが、住むに相応しい人間ではないのではと思う。
この世界にすら俺を拒絶されたら、それこそ本当にどこにも行くところがなくなってしまう。襲いかかる不安をどうにかしたくて、妹紅にすがるように問いかけた。
俺の希望をしかし、妹紅は鼻息ひとつで吹き飛ばした。
「そんなもん知るか。自分で考えろ」
それ以上聞いてくるなという態度で、妹紅が小屋を出ていく。
明かりがなくなり再び薄暗くなった小屋にぽつんと取り残され、暗澹とした息を吐いた。妹紅の言う通りだ。この問題を誰かに聞くのは間違っている。それはただの甘えだ。
俺は幻想郷で暮らす為にあの世界を飛び出したんだ、くらいの啖呵を切れるならもっと楽だったのに。
自分の性格が本当に嫌になってくる。
俺の存在を誰かに認めて欲しい。俺の力を必要として欲しい。
なんともみじめで甘ったれなガキの戯言。
鞄と原付は置いていこう。今は持っていく気になれない。傷だらけの原付の座席を撫でてから、俺は妹紅の後を追って歩きだした。