幻想郷に住む、というのはどういうことか。
一番の問題は衣食住だが、それは案外どうとでもなることが分かった。
人の暮らすコミュニティである以上、根本的なシステムは変わらない。すなわち――働いて、お金(物資)を稼いで、生活する。そのサイクルさえ確保出来れば、住み続けることは難しくない。
現に今は慧音が用意してくれた長屋の一室で、寝食は出来るようになっている。衣服や備品も一通り慧音が揃えてくれた。財布のお金は減ってきているので、働き口さえ見つけられれば今後も同程度の生活は可能だ。
肉体労働でもどこかの店の手伝いでも、なんでもいい。仕事を選ばなければすぐに見つかるだろう。特に若い男の労働力は貴重なはずだ。あとは俺がそれを受け入れられるかどうか。
竹林から戻り、長屋の畳の上で横になったままずっと考えていた。
俺は幻想郷に居てもいいのだろうか、と。
でもこの聞き方は駄目だ。これでは俺は一生答えを出せない。
俺は幻想郷に居たいのか。
これなら簡単に答えが出る。そう気付いてから、俺は悩むのを止めた。
外の世界で懊悩の日々は嫌というほど経験したのだ。幻想郷に来てまでそんな重荷を背負うことはない。幻想郷に来れたと知ったとき、俺は何をしたいと思ったのか。
そうだ、色んな人に会いたい。
だったらうじうじ悩む暇は無い。行動しなければ。
外はすっかり夜になっていたが、構うものか。財布だけを持ち、長屋を飛び出した。
とはいうもののあてがあるわけでもなく。あまり遠くに出歩くのもどうかと思ったので、里をぐるりと巡ることにした。
夜がそこまで更けていないせいか、民家の明かりはどこもまだついていた。お陰で街灯の少ない道も苦もなく歩くことができた。
昼間とはまったく違う里の風景。大通りには人の往来はほとんどなく、しんと静まり返った空気が辺りを包んでいる。幻想郷の里の人達は夜にあまり外を出歩かない。居酒屋には人の出入りもままあるが、それもその周辺だけ。俺みたいにぷらぷら出歩く人間は皆無のようだ。
妖怪と人間。共存の道が拓けてきても、両者の確執はまだ残っているのかもしれない。ふとそんなことを思った。
俺みたいのは妖怪に対してあまり悪いイメージはないのだけど。むしろ会いたいとすら思っている。昨今の小中学生もそうだろう。
こういうものは実際に命を脅かされてみなければ分からないものだ。ましてや部外者がどうのと言うことでもない。たかだか資料集で知った程度の知識で俺が語るのもおかしな話だが。
いつの間にか里の外れの方にまで来てしまった。ここから先に進んでいくと魔法の森に行けるはずだ。だが夜に見る森は不気味に口を開けた怪物のようで、中に入る気にはなれない。どうせ行くなら昼間に行こう。迷ったら間違いなく帰れない。
勢い込んで飛び出したはいいものの、夜の里に出てくる妖怪なんて小傘くらいしかいない気がする。会えるのならまた会って驚かされたかったが、彼女のゲタの音は聞こえてこない。
諦めて来た道を戻ろうとしたとき、一台の屋台が目に止まった。掛けられた暖簾には『八目鰻』と書かれている。
一瞬息を呑んだ後、ゆっくりと屋台に向かって歩き出した。
一歩一歩近づく度に胸の鼓動が高鳴っていく。
客はひとり。屋台の明かりに照らされた背中は小さく、女の子のように見える。
「す、すみません。やってますか?」
恐る恐る暖簾を上げて顔を入れると。
「はい、いらっしゃいませー」
笑顔で出迎えてくれた女店主に、目が釘付けになる。
幼い顔立ちに異形の翼を持つ少女。尖った耳には羽が生えており、明らかに彼女が人間でないことを伺わせる。小豆色のショートヘアーの上に朱色の手ぬぐいを巻いているのは料理をする為だろう。同じように、茶色のジャンパースカートの上に白いエプロンを着けている。襟元に見えるリボンの飾りが明かりの下で赤く輝いていた。
夜雀の妖怪、ミスティア・ローレライ。
俺の奇異の視線を受けてか、ミスティアが困ったように顔を曇らせた。コウモリと鳥を足して二で割ったような翼が、ゆらゆらと揺れている。
「ちょっとあなた、ミスティになんか文句でもあるの?」
横から怒った声が飛んできた。これまた幼い少女の声だ。なんとなく予感はしていた。声の方、つまり先に座っていたお客の方に顔を向ける。
見た目はミスティアと同じかそれ以下の年齢の女の子だ。ウエーブのかかった青緑の髪は肩口あたりで揃えられていて、その側頭部からは斑点模様の大きな垂れ耳が飛び出していた。どことなくダックスフントを想起させる。もふもふとしていて触ってみたくなる耳シリーズのひとつだろう。小豆色の長袖ワンピースは丈が少し短く、下には白いスカートを履いているが座った状態で膝小僧が顔を出してしまっている。ワンピースのデザインが独特で、襟と服の中央部だけピンク色になっており、襟元とスカート部分には花の形をした緑色のボタンがついている。
山彦の妖怪、幽谷響子。
本来は人懐っこいであろう優しい顔立ちは、今は険しく眉間に皺を寄せて、怒気をはらんだ表情で俺を睨んでいる。
咄嗟のことでうまく言葉が出ない。俺は決して君達を傷つけるつもりはないしむしろ会えて嬉しいんだと心の底から叫びたかったが、俺の口は意味もなくぱくぱくと開け閉めされるだけだった。
困惑の目線と非難の目線を受け、俺は喉の奥から言葉を捻り出す。
「ち、鳥獣伎楽の、お二人ですよね?」
響子とミスティアの目が見事に真ん丸になった。
…………。
「なんだ、最初からそう言ってくれればいいのに~」
上機嫌になった響子がおちょこを口に運びながら言った。
俺がつい最近幻想郷に来た経緯を話して、ようやく誤解が解けた。変に話がこじれずに良かった。
「そういえば寺に来た霊夢たちのなかに一人人間がいるなーと思ったけど、あなただったなんてねー」
えぇまぁ、と相槌を打ちながら、出されたお茶をすする。胸の辺りに温かさが広がっていくのを感じて、やっと一息つけた。
「それで、何になさいますか?」
ミスティアが尋ねてきた。
「えーと……」
壁のところに貼ってあったお品書きを見る。八目鰻の蒲焼き、天麩羅、炙り、煮付け……見事なまでに八目鰻一色だ。あとはお酒の名前と思しきものがいくつか書かれている。やはりここは。
「八目鰻の蒲焼きをひとつ」
「かしこまりました」
ミスティアが料理に取り掛かる。桶から八目鰻を取り出すと、まな板の上に乗せて慣れた手つきで捌いていく。と、ミスティアと目が合った。クスリと笑う。
「そんなに珍しいですか?」
「え、あぁ、はい。八目鰻ってあんまり知らないし、こうやって料理するところも見たことがないので」
「外の世界にはこういう店はないんですか?」
「屋台で焼くのは多分ほとんどないんじゃないですかね。鰻っていうと町中にひっそりと店を構えて、頑固なおやっさんが黙々と焼いてるようなイメージです」
「ミスティは頑固でもおやっさんでもないよ!」
響子の言葉に思わず笑ってしまった。ミスティアも同じように笑っている。その反応が気に食わなかったのか響子が頬を膨らませた。
「まぁその、ちゃんとした鰻を店で食べたりしたことがないので、すごく新鮮というか……」
みすちーの料理姿を間近で見られて興奮しているというのが本音だが、そこは黙っておく。
ミスティアがはにかんだように微笑んだ。
「うちもそんなたいしたものじゃないですよ」
「ミスティの作る料理はどれもおいしい! 私が保証する! たまに八目鰻じゃないの使ってるけど」
「響子」
失言を怒られて響子が慌てて口をつむぐ。
「あー、俺は別にどんな鰻でも構わないので」
ミスティアが「すみません」と申し訳なさそうに頭を下げた。
料理が再開される。開いた八目鰻の身に串を通し、タレの入った壷にくぐらせてから炭火の上に移す。ジュウ、という音と共に煙が立ちのぼり、食欲をそそられる匂いが広がってくる。ぐるる、と小さくお腹が鳴った。胃袋が晩飯を早く食わせろと要求しているようだ。
ミスティアが右手に持ったうちわでパタパタと扇ぎながら、左手で串を引っ繰り返す。それを何度も繰り返す表情は真剣そのもので、そこには料理に対するひたむきな熱意が込められていた。焼き加減をみていたミスティアの目の色が変わる。炭の上から素早く鰻を降ろすと、お皿に乗せて串を抜き取り、最後に刷毛でさっとタレを一塗りした。
「お待たせしましたー」
ことん、とそのお皿が目の前に置かれた。まるまる一匹の鰻が皿を埋め尽くすように横たわっている。見事な焼き色のついた身は見るからにふわふわで、最後に塗ったタレがつやつやと光沢を放っている。身の表面からじわじわと脂があふれ皿へと流れていく様を見るだけで唾がどんどん溜まってくる。ほかほかと上がる湯気と香りに、もう我慢出来なかった。
勢いよく手を合わせる。
「いただきます」
お箸を入れるとほどよい固さの身がほぐれ千切れた。一口大に切り分けてから口へと運ぶ。
ぱくりと口に含むと、まず鼻孔いっぱいに香ばしさが広がった。そこからひと噛みふた噛みとしていく度に、タレの甘さや鰻の肉汁が口中を満たしていく。小骨も気にならず、いいアクセントとして歯ざわりを楽しませてくれている。
――うまい。
「あ、あの、ご飯とかってありますか?」
「えぇ、ありますよ。どのくらいにします?」
「お、大盛りで」
茶碗山盛りになった白飯が運ばれてくる。やはりこれがないと始まらない。ふた切れ目をご飯の上に乗せて、身でご飯を包むように取り、そのまま口の中へと持って行く。
鰻だけでは味が尖り過ぎていた部分が、白飯によって緩和され、更にご飯の甘さも加わり絶妙なハーモニーを生み出している。
あぁ、日本人に生まれて良かった……。
「いい食べっぷりだねー」
響子がほえーと俺の顔を見て感心している。それにミスティアが頷いた。
「ほんと。こういう方を見ると、作ってよかったぁってなるのよねぇ」
恥ずかしい。あとは黙々とひたすら鰻とご飯をかきこんだ。ご飯のおかわりを二杯した後、綺麗に完食してから手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
その言葉を待っていたのか、響子が楽しそうに俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「いやー、おにいさんいいねー。この店ってあんまり人間来ないからさ、あなたみたいな人がいてくれると嬉しいよー」
「そ、そうなんですか? こんなに美味しいのに」
「そうなのそうなの、こんなに美味しいのに来てくれないのよー。皆ミスティを見ると他所にいっちゃってさ」
料理の仕込みをしていたミスティアの方を伺うと、少し寂しげに微笑んだ。
「妖怪だけじゃなくて色んな人に食べて欲しくてこうやって来てるんですけど、なかなか難しいものです。でも――」
ミスティアが顔を上げた。そこには悲壮感はなく、強い意志を秘めた瞳がまっすぐ前を見つめていた。
「少しずつ食べに来てくれるお客さんが増えてきているんですよ。ずっと続けていれば、いつかきっと、皆が私の料理を美味しいって言ってくれるはずです」
厳しい今を乗り越えれば必ずや望む未来にたどり着ける、とミスティアは確信しているようだ。すごい、と思う。誰もが暗い今日を嘆き、歩みを止める状況でも、ただ輝ける明日を見つめて先に進む事ができる。俺にはとても真似できない。落ちぶれたままの人間は一生落ちぶれたままだ。だから、俺はここにいる。
響子がおちょこを高く掲げた。
「ゆくゆくは! 私とミスティでこの幻想郷を制圧するのだ!」
「制圧って、どうやって?」
「料理と――音楽《ロック》!」
おちょこをピックに見立ててギターの弦を弾く仕草をする。
「美味しい料理を食べれば笑顔になるし、いい歌を聞けば感動で涙が流れる。そこには人も妖怪もない。幻想郷が全部私達の色で染まるの! 最高だと思わない?」
ニッと犬歯を出して響子が笑う。
この二人は似ている。顔形ではなく考え方そのものが。自分の進む道が拓けていると信じて疑っていない。いや、自分たちで切り拓いていくのだと言わんばかりだ。
歌に関していえば、確か評判はあまりよくなかったはずだ。騒音、とまで揶揄したのは誰だったか。しかしそれでも、二人は夢を諦めたりしていない。それだけ意志が強いのだ。
「そうですね」
俺は頷いた。応援しよう、この二人を。他の誰が非難しても、俺だけはずっとファンで居続けよう。そう思った。
「あ、あのー」
ついでにお願いをしてみる。
「歌って今聞かせてもらえたりしないですかね……?」
二人が困った顔になるのを見て慌てて手を振る。
「あ、いえ、無理だったらいいんです」
「いやー、歌ってあげたいのはやまやまなんだけど」
「里で歌うと苦情が出てしまうので……」
ギターとかもないしね、と響子が付け加える。
「そ、そうですよね、すみません」
頭を下げながら詫びる。無理なお願いはするものじゃない。
「わかった。じゃあこうしよう」
響子が人差し指を伸ばした。
「次のライブが決まったら、またここに来るよ。そのときに改めて招待してあげる」
「一番いい席を用意しますよ」
二人の申し出が胸に沁みる。
「……ありがとうございます」
「いいんですよ。私達が好きでやってるんですから」
「言ったからにはちゃんと聞きにきてよー」
「ぜ、絶対に行きますよ! 病気だろうが怪我だろうが、這ってでも行きますから!」
「いや這ってまではこなくていいよ。汚れるし」
真顔で響子に返された。
…………。
一拍おいた後、誰とはなしに吹き出して、気付けば三人とも笑っていた。
ミスティアや響子とこうやって笑いながらご飯を食べられるなんて。この巡り合わせを神様に感謝したい。……神様って誰になるのだろう。神奈子、諏訪子、早苗も現人神だし、秋姉妹だって一応神様だ。まぁ、誰でもいいや。八百万いるんだから誰かしらに感謝しよう。
響子が他愛もないことを話し始め、ミスティアが合いの手を入れ、たまに俺に話題を振って、まごついたところを響子が突っ込む。和気藹々とした楽しい時間だった。
屋台の棚に置かれた時計を見ると、いつの間にか深夜0時近くなってしまっていた。三時間くらい居座っただろうか。俺はミスティアに声をかけた。
「あの、そろそろ……」
「お帰りですか?」
「えー、もう帰るのー?」
響子がぶーぶーと不満の声をあげる。お言葉に甘えて残りたい気持ちをぐっと堪え、すみません、と頭を下げた。明日から幻想郷を巡るのならあまり夜更かしもしていられないし、このままここに居続けるのは店の迷惑になる気がした。結局お客は俺以降誰も来なかったが、先客が賑やかにしていては入りづらいこともあるだろう。
勘定を払うとき、響子の前を指さす。
「響子さんの分も一緒にお願いします」
「「え?」」
二人の声がハモる。何か言われる前に言葉を続ける。
「その、演奏代の先払いというか、俺からの応援したい気持ちをと言いますか……」
響子が呆然としながらミスティアを見る。
「ミスティ……こんな人もいるんだね」
「うん、また頑張ろう」
ミスティアが目元を拭う。そこまで感謝されると逆に申し訳ないのだけど。
恥ずかしいようなこそばゆいような気持ちを誤魔化す為に違う話を切り出す。
「えーと、そういえばお金ってこれで大丈夫なんでしょうか?」
財布から千円札を取り出した。ミスティアに渡すと、じーっとお札を眺めてから。
「はい、大丈夫ですよ」
俺の方にお札を戻した。それを受け取って、なんとはなしに千円札を透かして見る。
「前から思ってたんですけど、お金って外の世界と一緒なんですね。お陰で助かりましたけど」
「そうなんですか? 一応この本に載ってあるものなら何でも大丈夫ですよ」
ミスティアが下から一冊の小さな本を取り出した。表紙は無地で、外見からは何の本か分からない。ミスティアが適当なページを開いてみせた。
「賢者様から頂いた本なんですが、この中に色んなお金が載ってあるんです。定期的に賢者様の使いの方が来て、お金を全部一纏めにして里で使ってるものと交換してくれるんです。使ってるお金は見せてもらったものとだいたい同じものだと思います」
本を見せてもらうと、日本の旧札や旧硬貨だけでなく、海外のものまで幅広くお金の写真が載せられていた。寛永通宝まであるということはかなり広い時代に渡っているようだ。
なるほど、と納得した。確かに、古今東西各地から幻想郷に人が流れてくる可能性がある以上貨幣を統一することは当然のことかもしれない。いつも寝ている姿を思い浮かべがちだが、紫も案外苦労してるんだな、とぼんやり思った。
支払いを済ませて、ミスティアの屋台を後にする。響子が手を大きく振って、俺が通り曲がるまでずっと見送ってくれたのが嬉しかった。
幻想郷に来て本当に良かったと実感する。ここの人達はいい人ばかりで、摩耗しきった心が癒されていくようだ。嫌なことを忘れて、純粋に毎日を楽しむことが出来る。
さて、明日はどこに行こうか。
誰と会えるかが楽しみでしょうがない。
弾む足取りに任せて、家に向かって夜道を進んでいった。