幻を想う   作:亮馬

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行楽日和

 翌日、思いのほか疲れが溜まっていたのか、目が覚めたのはお昼前だった。

 起きなければという義務感ともっと寝ていたいという欲望がせめぎあい、結果再び布団を被り直すことにした。

 もうちょっとだけ寝ていよう。ここには会社もなにもないのだから。誰も俺を咎めることはない。

 深い海に沈んでいくように、ゆっくりと意識が解け始めたとき。

 こんこん、と控えめな音が聞こえた。

 ノック? いや、聞き間違いだろう。おおかた隣かどこかの音だ。俺の家に訪問してくるような知り合いはいない。

 こんこん。今度はより強い音となって耳に届いてくる。続いて「霊夢ですけど、いらっしゃいませんか?」と少女の声がした。

「――――」

 覚醒は一瞬だった。寝坊して時計を見たときに勝る機敏な動作で、布団から跳び起き戸口に向かって返事をする。

「は、はい、います! すぐに開けますから!」

 戸口に行きかけて自分の服装が目に入った。シャツと下着だけのだらしない格好。こんなので霊夢の前に出られるわけがない。急いでYシャツとズボンを着て、手櫛で髪を軽く整えてから改めて戸口に向かった。

 扉を開けると、そこには霊夢と魔理沙が立っていた。

「おはようございます」

「おっすー」

 それぞれの挨拶にぎこちなく挨拶を返す。いきなりどうしたというのか。二人が何の用で来たのかまったく検討がつかない。魔理沙がひょこっと扉のなかに顔を入れた。

「この部屋何もないなー。ていうか今まで寝てたのか?」

「あ、その、まぁ……」

「ダメだぜー。寝てばっかだと体がすぐになまるからな」

 返す言葉もない。恥ずかしくなって視線を落とす。

「お休みのところを急に来た私達が悪いのよ。すみません、突然お邪魔して」

 霊夢の言葉にバッと顔を上げた。

「ぜ、全然お邪魔なんかじゃないですから。俺が寝てたのが悪いんです」

「そうだそうだー。私達は遊びの誘いに来たんだから、寝てる方が悪い」

「魔理沙!」

 霊夢が魔理沙に注意するが、魔理沙は余所を向いて知らん顔をしている。

 そんなことよりも今の言葉。

「遊びの誘い?」

 霊夢が手を合わせて微笑んだ。

「はい、せっかくだからどこかに出掛けませんか? っていうお誘いに来たんですが」

 どこかに出掛け……お誘い……。頭の中を霊夢の言葉が駆け巡る。ちょっと待て。これはなんだ。夢か? ドッキリか? 霊夢と魔理沙が一緒に俺を遊びに誘いに来た? そんなことが起こり得るのか? 現に起こってるじゃないか。

 目まぐるしく思考を走らせた結果、最後に現れたのは『感謝』の二文字だった。神様、ありがとう。生きてて良かった。

「なんだ飲み物も置いてないのかー?」

 いつの間にか家の中に勝手に入った魔理沙が色んなところを漁りながら言った。

「ちょっと魔理沙! いい加減にしなさいよあんた!」

 霊夢が中に向かって声を張り上げたあと、軽く上目使いで再び俺を見上げた。

「それで、どうですか? 何か用事があるんだったら構わないんですけど」

「よ、用事なんて全然ないです。ぜ、是非一緒に行かせていただきます!」

 うおぉぉぉぉ! と心で雄叫びをあげる。こんな素晴らしいイベントが俺に舞い込んでくるなんて。頬がニヤけて止まらない。駄目だ。自制しろ。気持ち悪いおっさんだと思われたらどうする。

「じゃ、じゃあすぐに用意してきますね。まぁ、持っていくものとかないんですぐに出れますけど」

 家の中に戻ろうとした俺を「あ」と霊夢が引き留めた。

 霊夢が微かに笑って俺の胸元を指さす。

「ボタン、掛け違えてますよ」

 

「どこか行きたい所あります?」

 里の通りを歩きながら霊夢が聞いてきた。

「え、俺が決めるんですか?」

「幻想郷に来てから色々と見回りたいみたいな話を聞いたので、だったら一緒に行って案内しようかな、と思ってたんですが」

 聖母がここにいた。霊夢の気遣いに感涙が零れてしまいそうだ。

「じゃあ……」

 お言葉に甘えて行きたい場所を考えることにした。

 パッと思い浮かぶのが、紅魔館、白玉楼、地霊殿、あとは香霖堂辺りか。三途の川や地獄はさすがに行きづらい。

 危険度や距離を考えるとやはり香霖堂だろう。それに、近いうちに行きたいと思っていたところだ。

「香霖堂とかどうでしょうか」

 俺が言うと、魔理沙が眉をひそめた。

「香霖堂? あんなとこに何しに行くんだよ」

「ちょっとその用事が……。それと時間があったらアリスさんの家にも……外から見るだけでも構わないので」

「まぁアリスの家は別にいいけど……」

 どうも魔理沙の歯切れが悪い。霊夢に視線で尋ねてみると、大きく肩を竦めてみせた。

「昨日喧嘩したらしくて」

「喧嘩じゃない! あいつが実家に顔出せ顔出せってうるさいんだよ!」

「それは幸ちゃんのお父さんの件もあるからでしょ? 変な意地張らずに行けばいいじゃない」

「それとこれとは話が別だ! だいたい元々は香霖の提案で――」

「はいはい、とにかく森に行きましょ」

 あしらうように手をぷらぷらと振ってから、不満顔の魔理沙を残して先に進む。

 その後ろ姿を憎々しげに睨んでいた魔理沙だったが、やがて渋々といった表情でついてきた。

 途中、軽い昼食におにぎりなどを買いつつ、里を出て森へと向かう。といっても里と森は目と鼻の先にあるのでさしたる苦労もなく到着したのだが。

 迷いの竹林は霧掛かっているせいで多少幻想的な雰囲気はあったが、魔法の森はまさしく不気味としか言いようがない。

 鬱蒼と茂った木々の葉に日光は遮られ、森の奥には闇が広がっているように見える。立ち並ぶ木もどことなく形状が歪で、時折何かの金切り声まで聞こえてくる。

 二人は何とも思わないのか、自然な足取りで森に入っていった。年下の女の子が先に進んでいるというのに、大人の男が立ち止まるわけにもいくまい。

 決意と共に森に足を踏み入れた途端、肌にまとわりつくほどの湿気が襲ってきた。日が当たらない分、少し肌寒い。地面には苔やキノコが多く生えていた。

「あんまりこの道から外れないようにな。ここいらのキノコにゃ胞子を吸うだけで有害なモノもあるから」

 きょろきょろとしていた俺に、魔理沙が注意する。俺は頷いた。

「あ、はい。分かってます。確か幻覚作用のあるキノコのせいで、ここが魔法の森って言われるようになったんですよね。そのキノコが魔力を高めるのにいいってことでこの森に住む魔法使いも多いとか」

「は~、よく知ってるな。私より詳しいんじゃないか?」

「それはさすがに……」

 資料やwiki見て得た知識と実際に住んでいる人のものを比べるのは失礼だろう。

「でも魔理沙さんとかはそのキノコは平気なんですか? いつもキノコ採集してるって話でしたけど」

「平気、ってわけじゃないな。さすがに幻覚キノコの胞子をまとも吸ったら私だって危ないよ。一応生えてる場所のチェックはしてるし、その胞子を吸ったとしてもすぐ分かるから、たとえ風で流れてきても大事にはならない」

「俺も吸ったら分かりますかね?」

「いやー、それはどうだろうな。私だって何回も死にそうな目に合ってようやく分かるようになったし、難しいんじゃないか」

 要するに命が惜しかったら魔法の森を一人でうろうろしない方がいいということだ。魔法の森で人間の変死体発見なんてのは嫌すぎる。

「霊夢さんはどうですか? 胞子を吸っただけで分かったりします?」

「私? そこのキノコ博士じゃあるまいし、私には無理ですよ」

「その割にはすごく平気そうに歩いてますけど」

「あぁ、結界で胞子を通さないようにしてるので。今も私達ごと囲ってますよ」

 思わず感嘆の息が漏れる。さすがは結界の巫女。防護マスクなど必要ない。

 俺は頭を軽く下げた。

「すみません、知らないうちに気を遣ってもらって……」

「別にいいんですよ、このくらい。大したことじゃありませんから」

 笑顔で答える霊夢の横で、魔理沙が前方を示した。

「そろそろ見えてきたぜ」

 向こうの方に建物が見える。あの部分だけ明るいのは木を開いているからだろうか。

「結構近いんですね」

「まぁあんまり奥に構えても不便なだけだしな。あの辺はあんまり危ない植物もないし、丁度よかったんじゃないか」

 魔理沙の言葉に、なるほどと頷く。でも実際の所、人間の利用客はどのくらいいるのだろうか。なんとなく妖怪相手の商売というイメージがあるが、魔理沙の実家に商品を卸したりするのかもしれない。

 そうこうしているうちに、香霖堂に到着した。

 店の周りは辺一帯の木を切り開いていて、周囲が太陽に明るく照らされている。じめじめとした空気もどこかにいってしまったようだ。

 店先には置物やら家具やら用途不明のものやらが乱雑に置かれていて、一見しただけでは何のお店か分からない。入り口の上の看板に『香霖堂』と大書していなければ店であることすら判別できなかったかもしれない。

 建物自体は古い木造のようで、所々屋根や壁の形が不自然なのは増改築をしたせいだろうか。

 全体的にどこか田舎のリサイクルショップっぽいな、というのが正直な感想だった。

「中に入りましょうか」

 霊夢が言うと、魔理沙は置いてあったボロボロの椅子に腰を降ろした。

「二人でどーぞ。私はここで待ってるよ」

 どうあっても魔理沙は霖之助と会いたくないらしい。霊夢と顔を見合わせて苦笑する。

 霊夢が店のドアを開けて中へ入っていく。チリンチリンと鈴の音が聞こえた。俺もその後に続く。

 店の中も雑然としていた。

 所狭しと立ち並ぶ棚には売り物と思しき商品が隙間なく並べられており、床の空いている所にも大きな箱に無造作に物が積み上げられている。食器や小物、時計、実験器具のようなもの、中には何かの儀式に使いそうな怪しい人形まで、様々な物が並んである。どれもかなり古い時代のもののようで、アンティークショップにでも売ればかなりの値がつきそうだ。

 棚の間をぬって店の奥に進むと、カウンターが見えた。だがそこに店主の姿はない。

「霖之助さーん、いますかー?」

 霊夢が奥に呼びかける。やや間をおいて、店の奥から一人の男性が出てきた。

「はいはい、何の用かな」

 薄い銀白色の髪は短くこざっぱりとしている。一本だけくせっ毛が撥ねているのが面白い。首には黒いチョーカーをつけている。服は和服寄りだがどこかの民族衣装を思わせる青と黒のツートンカラーで、腰帯の所に茶色い皮鞄をさげている。眼鏡を掛けているせいか、風貌や佇まいはこれまでに会った誰よりも怜悧でクールな印象だ。

 森近霖之助。香霖堂の店主である人妖。

 黒いアンダーリムの眼鏡の奥にある金色の瞳が俺を捉えた。

「ん? この方は?」

 慌てて俺が自己紹介をすると、霖之助は興味深そうに俺の全身を眺めた。

「君が例の誘拐事件を解決した青年か。なるほど、確かにどこか不思議な雰囲気があるな」

「いえそんな……」

 否定しながら、まさか俺の噂が幻想郷中に広まってるんじゃないだろうな、と内心嫌な汗が流れる。悪目立ちするのは御免だ。

 さすがに霖之助の態度は大人そのもので、それ以上深くは言及してこなかった。

「それで、本日はどういったご用件かな?」

 霖之助に問われ、霊夢が視線をこちらに向ける。

 俺が香霖堂に行きたいと言ったのは何も観光の為だけではない。勿論それもあるが、もうひとつ重要な事がある。俺は兼ねてより考えていた事を霖之助に打ち明けた。

「あの、俺をここで雇っていただけませんか?」

 霊夢の目が丸くなった。霖之助は特に動じた様子もなく、眼鏡のブリッジを指で押し上げる。

「どういった理由で僕の店を?」

 なんだか就職の面接のようで緊張がこみあがってくる。言葉に気をつけながら答えた。

「げ、幻想郷で暮らしていく為に仕事を探しているんです。ここは外の世界の物を取り扱っているし、私でも手伝えることが多いと思うんですが」

 加えて、ある動画でグルメ漫画の主人公が香霖堂で働くといったシーンを見たことがあった。霖之助ならば幻想入りした人間に対しても偏見なく接してくれそうだ。

 ふむ、と霖之助が息を吐いた。駄目か……?

「そうだな。君に働く気があるのなら、僕は別に構わないよ」

 意外にもあっさりとOKが出た。俺は深くお辞儀をした。

「あ、ありがとうございます!」

 霊夢が驚いた表情で霖之助に言う。

「り、霖之助さん、いいんですか?」

「あぁ。一応手伝ってくれている子はいるんだけど、彼女は外に出てることが多いからね。一人くらい店の中で商品を管理してくれる人がいればいいなと思っていたんだよ。ただ――」

 霖之助が俺を見て苦笑する。

「申し訳ないけどあまり給料は期待しないでくれ。ご覧の通りの繁盛具合なもので、あまり多くはあげることが出来ないと思う」

「大丈夫です! よろしくお願いします!」

 再びお辞儀をすると、霖之助が「こちらこそ」と返してくれた。

 何はともあれこれで働き口は見つかった。香霖堂なら色んな妖怪も来るだろうし、まさに一石二鳥。

「じゃあさっそくだけど倉庫にある物を紙にまとめたいから――」

 霖之助の言葉を霊夢が遮った。

「そ、その前に! この後私達アリスの家に行かなきゃいけないのよ。ね?」

 聞かれて曖昧に頷く。

「ま、まぁ行けるのなら行きたいって言いましたけど、でも別に無理して今日行かなくても……」

「もう行くってアリスに言ってあるから今日これから今すぐ行きましょう! ほらほら! アリスのとこに行ってから戻ってくればいいのよ!」

 戸惑う俺の背中を霊夢が強引に押しやって戸口に向かわせる。霖之助もどういう状況か呑み込めず困惑の色を見せている。ただ、背中に当てられた小さな手の感触は忘れないでおこうと思った。

 入り口のドアを開けて俺を外に出すと、霊夢が魔理沙に呼びかけた。

「魔理沙、先にアリスのとこに行ってて。私は霖之助さんと道具の打ち合わせしてから向かうから」

 それだけ言うと再び香霖堂の中へ戻ってしまった。

 訳が分からないまま取り残された俺と魔理沙は、無言で顔を見合わせた。

 

「ちなみにさ、アリスのことはどんな感じで知ってんだ?」

 木々の間の獣道を抜けながら、唐突に魔理沙が聞いてきた。

「どんなって言われても……人形遣いですよね」

「そうなんだけど、そういうのじゃなくて、どういうイメージがあるのかってこと」

「イメージ?」

「あぁ。わざわざアリスの家に行きたいって言うからには、それなりに有名なんだろ? どういった具合に有名になってるのか気になったんだ」

 うーん、と俺は唸った。有名なのは当然だが、何に起因して有名なのかと聞かれれば返答に窮してしまう。東方だから、と言ってしまえば身も蓋もない。そもそも東方キャラは総じて有名なのだから。

「んじゃお前の知ってるアリス像ってのを教えてくれよ」

 考え込んだ俺に魔理沙が言った。

「そうですね……。知的でいつも冷静沈着。だけど冷たいってわけじゃなくて、ちゃんと熱い部分もあるというか……根はいい人なんだけど、それを表すのが得意じゃないというか……」

 二次創作によってはツッコミ担当だったりかなりの変態だったりと脚色は加えられているが、基本の性格はおおむねそんな感じではないだろうか。マリアリとかの話はさすがにしない方がいいな。

 魔理沙がニヤニヤと笑っている。どうしたのだろう。俺はまた何かおかしなことを言ってしまったのかと考えていると前方に向かって呼びかけた。

「だってさ、根はいい人のアリスさん」

 声に応えるように樹の陰から一人の少女が歩み出てきた。

 それはまさしく、西洋人形のような少女だった。

 肩口で揃えられた金髪は暗い森にあっても輝きを失わず、繊細な金糸のように揺れている。頭頂部にはヘアバンドのような赤いリボン。顔は小さく、綺麗に整った目鼻立ちと、陶磁器のような白い肌が尚更人形を思わせる。

 青いロングのワンピースに白いケープを羽織り、首元と腰にはフリルのついた赤いリボンを巻いている。足元の編み上げブーツが服装の可愛さとアンバランスなように見えるが、少女にはこれ以上ないくらいに似合っていた。どういう服の組み合わせであれ彼女には似合うだろうし、着こなしそうな気はする。

 森に住む七色の人形遣い、アリス・マーガトロイドは静かに息を吐いた。

「あまりジロジロと観察されるのは好ましくないのだけど」

 言われて慌てて目を逸らす。魔理沙がからかうように笑った。

「いいじゃないか。人気がある証拠だよ、人の良いアリスさん」

「さっきからうるさいわね。八つ裂きにするわよ」

 アリスの背後から一体の人形が飛び出してきた。

 姿はアリスによく似ているが、髪は長く、スカートの上にエプロンをつけている。手には小さな剣を持っており、威嚇するように魔理沙に突き付けている。

 上海人形の動くところまで見られるとは……。と人形を眺めていると、アリスにまた睨まれた。視線を地面に落とす。

「わざわざ出迎えとはありがたいね。ちょうどお前の家に行こうと思ってたんだ」

 剣を突き付けられても動じた様子もなく、笑顔で魔理沙が言う。

「結界に知らない反応があったから見に来ただけで、出迎えに来たつもりはないのだけど」

 はぁ、とこれ見よがしに溜息をついて、アリスが背中を向けて歩きだした。ついてこい、ということらしい。魔理沙がニヤニヤと「さすがいい人」と呟いた。

 先を進むアリスに続き森を進んでいくと、不意にアリスが聞いてきた。

「ところで、魔理沙の評判は外ではどうなのかしら?」

 俺に訊ねているようだ。その言葉に魔理沙が反応した。

「私なんかただの普通の魔法使いだぜ? アリスみたいに特徴的じゃないし、評判も何もないだろ」

 アリスが真偽を問うように俺に視線を寄越した。どう言うべきか悩んだが、隠していても仕方ないので正直に話すことにした。

「魔理沙さんもかなり有名ですし、アリスさんと同じくらい人気もありますよ」

「マジか!? 人気も!?」

 魔理沙が驚いたように声をあげる。

「えぇまぁ、かなりの」

 肯定すると魔理沙がガッツポーズで「よっしゃー!」と喜んだ。アリスがそれに冷ややかな眼差しを送る。

「たかだかそんな外の評価で喜ぶなんて」

「なんだよ、アリスは嬉しくないのか?」

「全然。所詮私のことを何も知らずに噂や評判で判断されているだけでしょう? 評価が良かろうが悪かろうが気にならないわ」

「そうか? 何も知らない人達が自分のことを評価してくれるってのは嬉しいことだと思うけどなぁ」

 俺はどちらかというとアリス寄りの考えだが、魔理沙の言い分も分からなくはない。若干おおらか過ぎる気もするが。

「でさ、私のことはどういう感じで知られてんだ? 優しいとか可愛いとか魔法がすごいとか」

「そうですね……」

 視線を上にあげてパッと思い浮かんだことを連ねる。

「いつも明るくて元気があって、チームのムードメーカーで……」

 魔理沙がうんうんと頷く。

「キノコ採集が趣味で、弾幕はパワーと豪語してマスパをぶっ放したり、よくパチュリーの図書館で本を借りるという名の強奪行為を行って――」

 言って、ハッと魔理沙の顔に気付く。引きつった笑みで口端をひくひくさせながら俺をものすごく睨んでいる。

 アリスが自分の口に手を当てた。

「あら、意外と外の風聞も馬鹿に出来ないわね」

「うるせーーー!」

 魔理沙が腕をぶんぶんと回し俺に迫ってくる。

「だいたいなんだ! さっきのアリスのときとえらい違いじゃないか! もっとこう、あるだろ!? 言葉に言い表せないような私の魅力が!」

「いいんじゃない? それを踏まえた上で人気があるのなら」

「だぁー! 外の噂なんて当てになるもんか! ノーカンだノーカン!」

 さっきとまるで反対のことを言い放ち、ひとりで先を進んでいく。その背中をアリスが面白そうに見送った。

「さ、盗っ人に家を荒らされる前に私達も行きましょう」

 そう言って微笑を浮かべるアリスは、最初に会ったときの刺々しさが和らいだように感じた。

 仲良くなれることは単純に嬉しい。いつか普通に友達として接することが出来ればそれ以上の幸せはない。俺みたいな人間が幻想郷の住人たちと会話していること自体が奇跡に近いのだから。

 胸の内側に広がる歓喜の情を噛み締めながら、はい、と頷いた。

 

 アリスの家はシックな一階建ての家だった。妹紅や幽香の家に比べると大きいのは、人形作りの為だろうか。家の前には手入れの行き届いた花壇があり、色とりどりの花が咲いていた。森を開いた空間も綺麗に整備されているようで、奥の方には畑らしきものも見えた。

 アリスと魔理沙に続いて家の中にあがらせてもらうと、その光景に思わず息を呑んだ。

 工房、と言えばいいのか。中央には大きな作業台、窓際には足踏み式のミシンが置かれており、それらの上には作りかけの人形や工具などが散らばっている。壁際には本棚や収納棚が立ち並ぶ。棚にずらりと収められた上海人形の姿に圧倒された。

 物は多いが、乱雑に置かれているわけではなくどれもきちんと整理されている。しかもこれだけ広い工房なのに、床にはゴミひとつ落ちていない。ミシンや棚の上に置かれている小さな観葉植物を見ても、家主の性格が現れていると思う。

 ふと、甘い匂いがした。

 魔理沙も気付いたのか嬉しそうに言う。

「お? お菓子作ってんのか。さすがアリス、気が利くなー」

 アリスは何か言い返そうとしたが、諦めて息を吐いた。ここで何を言っても無駄だと分かっているようだ。こういうやりとりからも二人の付き合いの長さが伺える。魔理沙が亭主役として創作されるわけだ。

「はいはい、多分そろそろ焼き上がると思うから」

 アリスと魔理沙が工房を抜けて進んでいく。置いて行かれそうになって慌てて後を追った。

 居間はリビングダイニングのような造りで、キッチンと居間の部分がカウンターで区切られていた。居間に置かれた棚には小物やぬいぐるみが飾られていてなんとも可愛らしい。大きなガラス戸の向こうはベランダになっていて、小さなテーブルと椅子が置いてある。あの場所で本を読むアリスを想像したら似合い過ぎてやばい。

 俺と魔理沙はダイニングテーブルに着いて、カウンター越しに動き回るアリスと上海を眺めていた。森では一体だけだった上海も五体に増え、それぞれが食器を用意したり紅茶を淹れる準備をしたりと違うことをしている。一体ずつ命令を出しているはずだが、器用というかなんというか。一体くらい貰えたりしないだろうか。

「はい、お待たせ」

 上海が焼きたてのクッキーが載ったお皿を運んでくる。白と黒の二色のクッキー。漂う甘い香りがたまらない。洋風のお菓子は幻想郷に来て初めてだ。団子もいいがやはり洋菓子の濃厚な甘さは時折無性に食べたくなる。続いて陶磁器のティーポットが運ばれる。俺と魔理沙の前に置かれたカップに順番に紅茶が注がれた。トポトポという小気味よい音と共にリンゴの香りが居間に広がる。アップルティーだろうか。砂糖の小瓶も一緒に置かれると魔理沙が小匙で何杯もカップに入れていた。俺は入れずに飲むことにした。

 魔理沙がクッキーに手を伸ばした後、それに倣ってクッキーを一枚手に取って口へと運ぶ。

 噛んだ瞬間、バターの風味と甘さが口の中を満たした。ほのかに香るバニラがまた美味しい。あっと言う間に一枚を食べ終わり、二枚目へと手を伸ばす。この黒い生地はチョコ味だ。少しビターな味だがこれまたすぐに口の中から消えてしまった。

 美味しい。爽やかな酸味のアップルティーが口をリフレッシュさせてくれて、このまま何枚でも食べられそうだ。魔理沙もハイペースでひょいひょいとクッキーをつまんでいる。

 アリスが俺と魔理沙を見て微笑む。

「美味しそうに食べてくれるのは嬉しいのだけど、全部食べないでね。もう一人来るんだから」

 上海が新しいカップをテーブルの上に持ってきた。そのすぐ後に、コンコン、とおそらく玄関のノッカーが叩かれる音がした。アリスが指を動かすと、上海が一体居間を飛び出していった。

「そういやそうだったな。すっかり忘れてたぜ」

 悪びれもせずにぺろりと魔理沙が自分の指をなめる。まぁこれだけ美味しいクッキーを前にしたら忘れるのも無理はない。俺も少し忘れてた。

「遅くなってごめん――って、あー! ちょっと先に食べないでよ! 私の分は!?」

 居間に入ってくるなり霊夢が叫んだ。上海に霊夢の分の紅茶を注がせながらアリスが言う。

「みっともなく騒がないで。まだそこにあるでしょう。次のも焼いているから安心しなさい」

 それを聞いて霊夢が胸を撫で下ろす。席に着くとさっそくクッキーに手を伸ばした。そのとき霊夢と不意に目が合った。それも一瞬で、霊夢はどこか気まずそうに目を逸らして、むさぼるようにクッキーを食べ始めた。

 キッチンに戻っていくアリスの背中を目で追う。人形を操りながらもアリス自身色々と作業をしているようだ。考えてみれば味や焼き加減を見たりするのは人形には出来ないのではないか。最終的な仕上げはやはりアリス自らが行わなければならないのだろう。

 にしても、家主にだけ働かせて自分達はぱくぱくとおやつを食べているというのは落ち着かない。何か手伝った方がいいのではないか。

「いいんだよ、アリスにさせといて」

 俺の考えを読んだのか、魔理沙がクッキーを口に放り込みながら言った。

「でも、せっかくアリスさんが作ったのに俺達だけ食べるのは……」

「ああ見えて、自分の料理を誰かに振る舞うのが好きなんだよ。さっきも言ってただろ? 美味しそうに食べてくれるのは嬉しいって」

「そうかもしれませんけど、ならせめてアリスさんの分も残しておかないと」

「あら、随分と気遣いの出来る方なのね」

 アリスが手を拭きながらキッチンから出てきた。上海に椅子を引かせて、自分の席に座る。

「心配しなくても、一段落したら食べるつもりだったから」

 上海がアリスのカップに紅茶を注ぐ。砂糖は入れずにそのまま口をつけて、興味深そうな笑みで俺に視線を向けた。

「外ではそういった謙虚さが好まれるのかしら。ここでは珍しいから新鮮ね」

「えっと、その、まぁ……」

 アリスのような綺麗な女の子にまじまじと正面から見つめられると緊張して言葉がうまく出てこない。アリスに限った話ではないが。

「話には聞いていたけど、何というか変わってるわね。変に落ち着いているというか」

「お、落ち着いてますか?」

 他の人にも言われたが、そんな風に見えるのだろうか。落ち着いているのではなく、喜びを噛みしめているだけであって、内心は十分ドキドキしているんだが。

 クスリとアリスが笑う。

「確かに部屋や上海達を珍しそうに眺めてはいたけど、それはこの状況を受け入れている証拠。普通の人間は魔女の家にあがったらもう少し警戒するものよ。出された料理に手をつけるときにも」

 そんなこと言われるまで気にもしなかった。俺の知っているアリスが無意味に人間を傷つけたりするはずがないし、もし毒が入っていたとしても毒ごと美味しくいただく自信がある。

 首を傾げる俺を見てアリスが息を吐く。

「駄目ね、調子が狂うわ。私のことだけ一方的に知られてるのってやっぱり不公平よ。聞きたいのだけど、私達のことはどの程度知っているの?」

「どの程度、というのは?」

「名前や容姿、性格が把握されているのは分かったわ。ならプライベートなことは? 例えば、その人物の恥ずかしい姿や行動、あるいはトラウマや忘れていた記憶。そういった、人に知られたくない事柄をどのくらい知っているのかって話」

 まっさきに思い浮かんだのが薄い本でアヘ顔になった彼女達の絵だが、あれはあくまで二次創作の中の話だ。実際の彼女達に関して言えば、裸すら見たことない。そもそも原作の東方はそういうジャンルじゃないし。

 魔理沙と霊夢からも注視されるなか、俺は極めて平静を努めて答えた。

「さすがにそういったことまでは知りません。あくまで俺が知ってるのは断片的な人物像と、いくつかの事件に関してだけですから」

「事件って?」

「紅い霧とか、明けない夜のこととか、守矢神社や命蓮寺とのいざこざとか……」

 原作以外にも小鈴や華仙などスピンオフで色々あるが、どこまで話していいものか判断がつかないので適当なところで止めておく。

「はー、ホントに幻想郷のこと知ってんだな」

「まさか紅い霧のことから知られてるなんてね。逆にどうやって外に知れたのか気になるわ」

 魔理沙と霊夢が感想を漏らす。

 アリスは俺を品定めするように眺めてからぼそりと言った。

「何となく隠し事があるような気はするけど、まぁいいわ。嘘は吐いていなさそうだし」

 はは、と愛想笑いで誤魔化す。絶対に誤魔化せていないが。

 クッキーを一枚取り、一口かじってからアリスが仕切り直すように言い放った。

「それで、外からやって来た訪問者さんは、何をしに私の家に来たのかしら?」

 え……?

 ぽかんとする俺に何度目かの注目が集まる。だがそうやって見られても、目的なんてあるわけがない。香霖堂とは違って、ただ見たいが為に来たのだから。しいて言えば観光だろうか。

「まさか、何もないの?」

 アリスが怪訝な表情で尋ねてくる。躊躇いがちに頷いて返した。

「その、外からでも家を見られたらなぁ、と……」

 信じられないと言いたげにアリスがおでこに手を当てる。

「なにそれ? てっきり何かあるものだと身構えてたのに。私の家は観光名所でもなんでもないのだけど」

「す、すみません……。まさか上がらせてくれるとは思ってなくて」

 魔理沙がからからと笑う。

「人形もたくさんあるし、いい観光スポットだと思うぜ。なんなら人形劇でも見せてやればいいじゃないか。よく里でやってるだろ?」

「あれは仕事で依頼されてやってるのよ。ボランティアじゃないの」

 淡々と告げるアリスに、おずおずと聞いてみる。

「……ちなみに、おいくらくらいなんでしょう?」

「え?」

 まったく予想していなかったのか、アリスが素の表情で見返してきた。

「その、いくらで人形劇を見せてもらえるのかと思いまして……」

 なおもぽかんとするアリスに魔理沙が耳打ちした。

「こいつ、結構お金持ってるっぽいから、好きな金額言っちゃえよ」

 魔理沙さんばっちり聞こえてます。まぁ、言うほど現金は手元にあまりないのだが、それでもアリスの人形劇を観られるのなら惜しくはない。

「そんなどこかの巫女みたいな浅ましい真似出来るわけないでしょ」

 アリスが魔理沙を一喝する。横で静かに顔を伏せる博霊の巫女さん。

「ともかく」

 少し気まずそうな表情でアリスが頬にかかる髪をかきあげた。

「別にお金はいらないわよ。ただ、今はちょっと見せられないの。今度里で演るときにでも一緒に観てちょうだい」

「なんだよ、勿体振らずに今みせろよー」

「だから駄目だって言ってるでしょ」

「なんで駄目なんだよ。ちょこちょこっと人形を操るだけじゃないか。それとも何か見せられない理由でもあるのか?」

 魔理沙がつっかかるとアリスは俺を横目で見やってから立ち上がった。

「魔理沙、ちょっとこっち来なさい」

 そのまま二人は居間を出ていってしまった。何がなにやら分からず霊夢を見るが、目線が合った途端逸らされた。無言でクッキーを食べ始めた姿からは会話を拒絶する意思がくみ取れた。どうもアリスの家に来てから霊夢の様子がおかしい。事情を聞きたいのもやまやまだが、自分からずけずけと話を切り出していけるほどのメンタルは持ち合わせていない。

 気まずい空気のなか、ぼんやりと部屋を眺めること数分。何事もなかったかのようにアリスと魔理沙が戻ってきた。特に何か言うわけでもなく、再びそれぞれの席に戻った。アリスが優雅な動作でカップを口へと運ぶ。

 魔理沙が唐突に言った。

「こいつ、恥ずかしいからここで見せたくないんだってさ」

 ぶほ、とアリスが紅茶を吹き出した。残念ながらカップの中に吹き出した為、飛沫が飛んでくることはなかったが。

 ハンカチで顔を拭いながらアリスが机を叩いた。

「魔理沙! 言わないって約束したでしょ!」

 顔全体を真っ赤に紅潮させ肩を怒らせる姿は、先程までのクールな女性然とした態度とは打って変わって、見た目の年齢相応の少女のものだった。怒った顔もかわいい。

「約束はしてないぜ? ただ頷いただけだ」

「この――!」

 上海たちが一斉に剣やら槍やらを構えた。魔理沙は手を頭の後ろで組んで泰然と椅子にもたれ掛かり、更に言葉を続ける。

「子供用の人形劇を大人の男性に見せて楽しんでもらえるか分からない。わざわざ家まで来てくれたのにがっかりさせたらどうしよう。外の世界の人形劇の方がいいって言われたくない」

 若干声を高くしているのはアリスのモノマネのつもりなのだろうか。

 当のアリスは耳まで真っ赤にして、口をぱくぱくとさせながらぷるぷる震えている。やばい、本当にかわいい。

 アリスの目がキッと俺に向けられる。こんなに怖くない睨みも珍しい。

「ほ、本当にそういうんじゃないから! いい!? 分かった!?」

 うわぁツンデレっぽい。こんなアリスを見られただけでここに来た甲斐があったというもの。思わず綻んだ口元を手で隠す。

「笑わない! 返事は!?」

「は、はい!」

 怒られた。背筋を伸ばして居住まいを正す。

「魔理沙も!」

「へーい」

 そう言いながらも魔理沙はにやにやと面白そうに俺達を眺めるのを止めようとはしない。

 と、一体の上海が魔理沙の背後に忍び寄り、木槌を振り下ろした。

 鈍い音と共に椅子ごと魔理沙が倒れこむ。自業自得とはいえ可哀想だ。アリスがそれみたことかと鼻息をついた。

 アリスの視線が不意に霊夢に向けられる。それまでの怒りの表情から一変、眉を曇らせた。

「霊夢? 大丈夫なの? さっきからぼーっとしているけど」

「え? あ、あぁ大丈夫よ。へーきへーき」

 愛想笑いを浮かべる霊夢にアリスは首を傾げたが、それ以上は何も聞かなかった。

 その後は時折魔理沙がちょっかいを出しつつも、穏やかな談笑の時間が流れた。アリスが外の世界の人形について尋ねてきたので、リカちゃん人形やプラモ、フィギュアやオーダーメイド式のドールについて、知りうる限りの事を話した。高いもので数十万以上する、と話したときの霊夢の目の輝きは忘れない。アリスがすぐに「そんな値段で売らないわよ」と否定していたが。

 気付けばもう夕方になろうとしていた。暗くなる前にそろそろ出た方がいいだろう。香霖堂にも行かないといけないし。

 この場はお開きにして、霊夢と魔理沙と一緒にアリスの家を出る。

 だが、ここを去る前にどうしても言いたいことがあった。きちんと伝えておかなければならないことが。俺は、見送りにきてくれたアリスに振り返った。

「あ、あの、俺が観たいのは普段アリスさんが子供たちに見せている人形劇であって、別に大人向けのがいいとかそういうのじゃないんです。だからその、変に気を遣っていただかなくて……」

 最初は驚いていたアリスの顔が徐々に柔らかい微笑に変わっていく。

「分かったわ。いつも通りのものを見せてあげるから、安心して」

 ありがとうございます、と深く頭を下げて、アリス邸を後にした。

 

「あの、これからちょっと用事が出来てしまったので、行かせてもらいますね」

 香霖堂に到着してから突然霊夢がそう言った。

 急な話だとは思ったが、霊夢の用事の邪魔をするつもりはない。俺は頷いて応えた。

「あ、はい、ここからなら俺一人でも里に帰れると思うので大丈夫です」

「すみません。もし何かあったら霖之助さんを頼ってください。……魔理沙、一緒に来てくれない?」

「ん? あぁ、別に構わないぜ」

 ぽつんと一人取り残されると、妙な寂しさに襲われた。だがこれから仕事をしなければいけないのだ。幻想郷の一員として、甘えたことばかりぬかすわけにはいかない。一度深呼吸をしてから襟元を正し、俺は香霖堂の扉を叩いた。返事は聞こえなかったが、構わず中に入っていく。

 霖之助はカウンターの中で本を読んでいた。視線を本から離し、俺の方へと向ける。

「アリスの所には行ってきたのかい?」

「はい。もう大丈夫です」

「そうか。なら、こっちに来てくれ」

 霖之助が腰を上げて、店の奥に進んでいく。カウンターの横を通り、俺もその後を追った。

 狭い廊下を抜けると裏の勝手口についた。そこから外に出ると、すぐ目の前に大きな土蔵が建っていた。

 霖之助がカギを取り出し、扉に付けられた錠前を解錠する。木製の観音扉が軋みながら開いていく。ほこりや古い木の匂いが交じった空気が外に流れてきた。

 霖之助が土蔵の入り口のスイッチを操作し、明りを点けてくれた。

 まさしく倉庫という呼び方が相応しい場所だった。大きな木箱や家具、壷や絵画などなど、店内以上に所狭しと様々な物が乱雑に押し込まれている。二階もあるようだが、おそらくそちらも同じような状況だろう。

「お願いしたいのはこの蔵の整理なんだけど――」

 霖之助が言うには近々新しい蔵を建てるつもりなのだが、その際にこっちの蔵の物もある程度移すので今のうちに把握しておきたいとのことらしい。

「わかりました」

 どういう仕事が待っているのかと構えていたのだが、要するに倉庫整理の仕事だ。だったら問題ない。幸か不幸かそういう業務には慣れている。

「そんなに急いではないから、やれるところから徐々に手をつけてくれて構わないよ。脚立はそこの壁にかかってるものを好きに使って。他にも何か必要なものがあったら言ってくれ。僕は工房の方で作業してるから」

「あ、ここにある物を動かすのに注意することとかありますか? 正直魔法とかの類いはまったく分からないので……」

「それは大丈夫。人が触って危険な道具は工房に保管してあるよ。ここにあるのは骨董品や置物の類いばかりだから心配はない」

「はい、わかりました。あ、あと出来れば紙と書く物と細い紐みたいなのが欲しいんですけど」

「店の方にあるから今持ってくるよ」

 霖之助が蔵を出て行く。

 俺は背丈以上に積み上げられた物を見上げた。蔵もそこそこ広いので、全体ではかなりの量になっているだろう。一日では終わらないかもしれない。俺は拳を握り、よし、と気合を入れた。

 香霖堂での初仕事だ。なんとしてでも役に立ってみせなければ。一人前の幻想郷の住人になる為に。

 

 ふぅ、と息をついて額の汗を軍手で拭った。

 閉め切って作業をしていたせいか、蔵の中に熱気がこもって暑い。ジャケットはすでに脱ぎ、Yシャツはボタンを二つ外して腕まくりをしてある。さすがに一回換気をした方がいいか。

 入り口の扉を片側だけ開ける。入り込んできた風が汗ばんだ肌を涼しく撫でていく。外はすっかり夜になっていた。時計がないから分からないが、かなり遅い時間になっているはずだ。

 そろそろ帰った方がいいだろうか、と思ったが、片付けというのは一気にやった方がすっきりするものだ。今日は一階部分が終わるまで作業を続けよう。残っているのはあと四分の一程だし、それほど時間はかからないだろう。

 扉を閉めようとしたとき、外から声が聞こえた。

「まだここにいたのか」

 霖之助が驚いた表情で顔を覗かせた。

「はい、きりのいいとこまでは、と思って」

「あぁそうか、すまない。僕も作業に集中し過ぎていて気付かなかった。てっきり夜になったから帰っているとばかり……。ちょっと待っててくれ」

 そう言うと霖之助が顔を引っ込めた。足音が駆けていく。しばらく言われた通り待っていると、再び霖之助が戻ってきた。手にはお盆とヤカンを持っている。

「お腹すいてるだろう? こんなものしかなかったが、良かったら食べてくれ」

 お盆の上には饅頭が三個と湯飲みが乗っていた。

「え、あ、いいんですか?」

「もちろんだ。むしろこんな御粗末なもので申し訳ない」

「い、いえそんな! ありがとうございます」

 お盆を受け取ると、霖之助が湯飲みにお茶を注いでくれた。腰を降ろしてさっそくいただくことにする。作業をしていたときはお腹の減りも気にならなかったが、こうして食べ物を前にすると途端に腹の虫が鳴り始めた。

 軍手を外し、饅頭を一口齧る。あんこの甘さがじわりと口の中に広がっていく。疲れたときの甘い物は格別だ。一口一口噛み締めながら、次々に饅頭を口に運んでいく。全部食べ終えたあと、麦茶を一気に喉に流し込んだ。

 綺麗になくなった皿を前に、ふぅ、と息をつく。

「ごちそうさまでした。……あ、俺だけ食べて良かったんですか? 霖之助さんの分は……」

「気にしなくていいよ。貰い物だし、また買ってくればいいだけの話だ。それに僕は半妖だからね。あまり食べなくても大丈夫なのさ」

 霖之助が軽く笑う。恐縮しながら同じように笑いを返した。

「それにしても――」

 霖之助が蔵の中を見回す。

「かなり綺麗になったねぇ」

 言われて視線を周囲に巡らせた。

 乱雑に積まれていただけの物は、今は用途や種類ごとに区別して、箱にまとめられるものは出来るだけまとめて重ねている。人ひとり通れるスペースを作ったので奥へも行きやすい。

「ん? これはなんだい? 『あ-4』?」

 霖之助が近くの箱に付けられていた紙片を手に取った。

「あぁ、それはタグ――どこに何があるのか分かりやすくするための札です。入り口から時計回りでブロックを区切ってありまして、『あ』から『そ』まで文字を割り振ってあるんです。数字は地面に近く、左側のものから順に振ってます。一応これが見取り図と各ブロックに何を置いてあるのかの説明です。まだ決めてないところもありますけど」

 俺は紙を二枚霖之助に渡した。それらを受け取って、霖之助が眼鏡を押し上げる。

「なるほど……。それぞれの文字に応じて雑貨や食器類など割り振ってあるのか。こっちの紙のは番号ごとに詳細を書いているんだね」

「はい。もし間違って区分してたらすみません……」

「構わないよ。こうやって分かりやすく整理してもらっただけで十分だ。ありがとう。僕は集めるのは好きなんだが、片付けるのはどうも苦手でね。魔理沙からもよく指摘されるんだよ」

 霖之助が控えめに笑い、蔵内を見渡した。

「それにしても、手際がいいね。正直ここまで出来ているとは思わなかった」

「その、会社では資料整理ばっかりやらされてたんで、こういうのには慣れてるんです。というか、こんなことしか出来ないんですけど……」

 訥々と言うと、霖之助はじっと俺の顔を見つめてきた。

「な、何か?」

「君はどうも自分を卑下しすぎる傾向があるね」

「え?」

「もしくは相手の顔色を伺っているのか、だけど。そんなに自分に自信がないかい?」

 自信なんてあるわけがない。そんなものがあったらそもそも幻想郷に来ていない。答えられないまま自然と霖之助から視線が逸れていく。だがそれを霖之助の言葉が止めた。

「そうやって目の前の僕からも逃げるのかい? ここには僕ら二人だけしかいないんだ。その僕から君が逃げてしまったらそれはもう、一人でいることと変わらないよ」

 霖之助の声は、怒っているわけでも呆れているわけでもない。冷静に、諭すように俺に話す。

「君がこれまでどんな生活を送ってきたのか僕は知らない。どれだけ他人に疎まれてきたのか、無下に扱われてきたのか、分からない。だけどね、そんなものどうだっていいんだよ。僕は君に『ありがとう』と言った。それはお世辞じゃなく、本当に助かったから言ったんだ。誰かの役に立つって、素晴らしいことだよ。君はお礼の言葉を受け取った君自身をも否定するのかい?」

 言葉が深く胸に突き刺さる。

 俺がここに来て『役に立ちたい』とずっと思っていたのは、まさしくそれが理由だったのだ。

 勿論、好きなキャラが困っているのなら身を投げ出してでも助けにいくのがファンとして当然の姿勢ではあると思う。でもそれ以上に、『認められたい』という思いが何よりも強い。

 認められる、ということは幻想郷に居てもいい、ということ。どちらが上でも下でもなく、同じ地面に立つ人として、対等に付き合える関係。それこそが俺が最も欲しいものだったのだ。

「……いえ」

 かすれた声で、呟くように返事をすると、霖之助は微笑んで頷いた。

「よし、じゃあ片付けの続きをしよう。僕も手伝うよ。こう見えても割と力は強いんだよ?」

 おどけた様子で力こぶを作る仕草をする霖之助。俺の気を紛らわす為なのは明らかだ。その気遣いが有り難いと同時に、申し訳ない気持ちになる。

 霖之助に応えるように俺は笑った。うまく笑えたかどうかは分からないが、たとえ笑えてなくても霖之助は何も言わないだろう。きっと俺の気持ちは伝わっている。

 

 残りはあっと言う間に片付いた。

 というのも霖之助がいるだけで効率が段違いに上がったからだ。

 力があるから重たい物でもすんなり運べるし、空を飛べるから高い所にも手が届く。おまけに俺には用途が不明な物でも霖之助なら簡単に判別できる。

 何よりも一人で黙々と作業を進めるより、話し合いながら二人で協力する方がずっと楽しい。

「お疲れ様」

 霖之助がぽん、と俺の肩を叩いた。それに会釈を返す。

「はい、お疲れ様です。ありがとうございました」

「こちらこそありがとう。これでだいぶすっきりしたよ。魔理沙に文句も言われなくなる」

 霖之助が隅に置いていたお盆を拾い上げる。

「もう遅いし、今日はうちに泊まっていくといい」

「え、いや大丈夫ですよ。里まですぐですし、なんだったら一人でも帰れますから」

「いくら近いって言っても夜に森を歩くのはおすすめしないな。土地勘があるならまだしも、君はまだここに来たばかりだろう?」

 確かにその通りだ。しかもここはそんじょそこらの森じゃなくて魔法の森なのだ。何か超常的な現象が起きて迷わないとも限らない。

「分かりました。なら、お言葉に甘えさせてもらいます」

「うん、そうしてくれ。……というか、本音を言えば一杯付き合って欲しいと思ってね」

 霖之助がおちょこを傾ける仕草をする。

「外の世界のことも色々と聞いてみたいし、ほら、僕の周りって女の子ばかりだろ? 同性と飲む機会ってあまりないからさ、これも僕を助けると思って付き合って欲しいんだけど」

 まさか霖之助から飲みの誘いがあるなんて思ってもみなかった。他人の家どころか自分の家でも酒を飲むことはなかったが、この誘いを断るほど馬鹿ではない。霖之助と一緒に飲めるのなら喜んで付き合おう。

「も、勿論大丈夫です! 何杯でもお付き合いします!」

「それは重畳。とっておきのお酒を出してくるよ」

 

 霖之助の書斎。デスクを挟んで、持ってきてくれた酒瓶を空ける。ラベルも何も貼ってないが、年代物であろうことは見てとれた。

 お互い酒を注ぎあって、静かにグラスをぶつけた。口をつけると、驚くほどすっと酒が喉に吸い込まれていった。

「いい酒だろう? 地霊殿の鬼からもらったものでね。かなりの名酒らしいんだ」

 地霊殿の鬼、というと勇儀あたりだろうか。酒好きの鬼が勧めてくるお酒なら、さぞかしいいものに違いない。

「それで、君のいた所の話なんだが――」

 霖之助が聞いてきたのは、主に文明・文化についてだった。幻想郷とどれほど違う生活を営んでいるのか。どれだけ人の道具が発達しているのか。

 その辺りはさすが香霖堂の店主と言うべきか。興味のある部分が分かりやすい。

「機械化はかなり進んでいますね。畑を耕したり、稲を刈り取ったりするのも機械ですし、遠くに移動するのも地上を猛スピードで進む箱状の機械や、空を飛ぶ機械に乗ったりします」

「空を飛ぶことも出来るのか。なるほど、だから君自身には飛ぶ能力がないのかな。もしかしたら進化していく過程で能力を失っていったという可能性もあるな……」

 大昔の祖先が飛べたという話は聞いたことはないが、話の腰を折るのもあれなので黙っておく。

「町並みなんかもだいぶ違いますね。道はほとんど舗装されていますし、何百メートルにもなる大きな建物が並んでいたり、民家なんかもぎっちりと詰まって建てられてますね。そもそも人口が全然違いますし」

「そんなにたくさんいるのかい?」

「えぇ、多分見たら引くぐらい驚くと思いますよ。俺だっていまだに慣れませんし」

 朝のホームはどこのお祭り会場かと言いたくなる。お祭り会場はその数十倍なのだが。

「そういえば」

 俺は部屋の天井の電球に目をやりながら尋ねた。

「これまで気にしてなかったんですけど、幻想郷にも電気ってあるんですね。電柱とか見当たらないのにどうやって通してるんですか?」

 幻想郷の文明は明治時代あたりのものに、妖怪達独自のものが加わり発達したらしいが、実際に電気が通っているかどうかは個々人の解釈次第だった。だが里の発展具合を見ても、それほど近代化は進んでいないように見受けられる。水道があり、トイレも水洗だったことから上下水道も完備されているはずだ。さすがにガスまでは無かったが、その辺りのインフラがどうなっているか、というのは個人的に気になるところだ。

「電気は地下から通してるんだよ」

「地下?」

「地面のなかに電線を埋めていてね。それを森や人里まで延ばして、各家庭に供給してるんだ」

 地下に電線、というのは聞いたことがあるが、日本では手間やコストが掛かるイメージしかない。それをここで行っているというのは驚きだ。

「それって結構大変じゃないですか? 水道とかだってあるのに」

「そうでもないよ」

 霖之助は事もなげに言った。

「実際に敷設したのは八雲の人達だけどね。彼女達にとってはそれほど難しいことでもないだろう」

「八雲って、八雲紫のことですか?」

「あぁ。知っているなら話は早い。彼女になら簡単に電線を延ばすことが出来ると思わないか?」

 俺は躊躇いがちに頷いた。八雲紫の能力がチートじみているのはよく見知っている。なんでもあり、とまでは言わないが、かなり万能に近いだろう。彼女が幻想郷のインフラに関わっているのなら、これだけ充実しているのも納得だ。

 更に疑問をぶつける。

「発電設備とかってどこにあるんですか?」

「山で河童たちが色々とやってるみたいだね。風を使ったり水を使ったり、仕組みまでは僕には分からないけど。あぁ、あと地霊殿でも何かしてるってのは聞いたことがある」

 地霊殿だと地熱辺りだろうか。お空が発電してたらそれはそれでおもしろいが。

「外の世界でも電気は使われているんだね」

「はい、というか電気が無かったら文明がほぼ終わってしまうくらいで……」

「へぇ、そんなにかい。便利ではあると思うが、僕らからすれば必ずしも必要ではないんだけどね。代わりのものは他にもあるし」

 テレビもパソコンもネットもない。そんなものに頼らずとも幻想郷の人達は十分豊かな生活を送っている。羨ましいと同時に、せめてネットくらいはあればなぁ、と思ってしまうのはネット中毒者の証だろうか。

「あ、そうだ、この機械が今一番外の世界で普及してるものなんですけど」

 ジャケットのポケットから半分に折れたスマホを取り出し、霖之助に渡した。霖之助は眼鏡を押し上げながらじっくりと観察を始める。

「これは……携帯電話? スマートフォン? 遠距離間の通話というのは分かるが、用途が多すぎて僕には分からないことが多すぎる。これはいったいなんだい?」

 いかに道具の名称と用途が分かる霖之助といえど、携帯の機能を完全に把握することは難しいようだ。もしくは専門的な用語までは分からないのか。

「まぁその、本来の用途は通信なんですけど、かなり色んなことが出来る便利ツールと言いますか。正直俺も全部の機能を使い切れてないんですけど」

 スマホカバーを外して中身を見ながら、霖之助がそういえば、と切り出した。

「同じ名称の道具を昔見たことがあったな。それはこんなに小さくなかったが」

「ホントですか? 携帯の出初めのころはかなり大きくて持ち運びも不便だったって聞いたことがあるので、それのことかも……。まだどこかにあったりしますか?」

「いや、河童にあげたな。僕が持っていても直せるわけじゃないしね」

 俺は前のめりになりながら霖之助に聞いた。

「河童になら直せたんですか?」

「さぁ? 渡したのがどうなったのかは知らないな。バラして部品だけ使ったのかもしれないし」

「そう、ですか……」

 はぁ、と息を吐く。霖之助が聞いてきた。

「どうかしたのかい?」

「あ、いや、もし直せるのなら俺のもお願いしたいなぁ、と思って」

「直せたとしてもこれ一つだけでは意味がないように思うんだけど」

「その、電話とかはどうでもいいんですけど、せめてカメラだけでも使えるようになれば、と。色々と撮りたい風景が多いので」

「なるほど、このレンズがカメラなのか。確かに多機能だ」

 霖之助がスマホのレンズを覗く。

「でもカメラが欲しいなら射命丸に頼めばいいんじゃないか? 予備のカメラくらい持っているだろうから」

「まぁそうなんですけど……やっぱり自分ので撮っておきたいな、と」

 携帯の待ち受けが幻想郷の景色、なんて最高ではないか。たとえ電話として使えなくても、それだけで心が満たされる。

 霖之助がグラスに口をつける。ぼそりと囁くように言った。

「元の世界に戻る前の想い出、ということか」

 数秒。霖之助が何を言ったのか理解するのに時間がかかった。頭の中で言葉を整理しながら、聞き返す。

「今、元の世界に戻る、って言いませんでした?」

「あぁ言ったよ。違ったのかい?」

 さも当然のように返されて更に戸惑う。

「な、なんでそうなるんですか? 俺は戻るつもりは全くないですよ」

「ん? だが数日中には送還されるんだろう?」

「送還? どうやって?」

「方法は分からないけど、八雲紫がするはずだとか」

 体の力が抜ける。大きな嘆息が漏れた。恐れていたことだ。

「それって、誰が言ってたんですか……?」

 弱々しくなった声で霖之助に尋ねる。

「霊夢だよ。君が出て行ったあと『彼はあと二・三日で帰されるから、雇ったりしないでくれ』って。勝手な話だろう? 帰るんだったらそれこそ好きなことをさせればいい、と答えたんだ。そうしたら『深く関わりすぎると離れづらくなる』と。でもそれは違うと思わないかい? やりたいことを出来なかったときの方が後悔は強くなる。だから霊夢の要求は撥ね除けて君を雇ったんだ」

「…………」

 アリスの家で霊夢の様子が変だったのはそういうことだったのか。もしかすると、今日誘ったのもそれが理由だったのかもしれない。

 俺は何も言わずに、ぼんやりと床をみつめていた。霖之助の神妙な声が聞こえる。

「帰されることは初耳だったのか。言わない方が良かったかな」

「…………いえ」

 目線は下に落としたまま、ぼそりと答えた。

 重い沈黙が書斎を埋め尽くす。霖之助が小さく息を吐いた。

「すまない。僕が誘ったばかりに気分を悪くさせてしまったようだ。もう遅いし、休むとしよう。部屋まで案内するよ。もしお風呂を使うなら用意するから言ってくれ」

 霖之助が立ち上がる。だが俺は動けない。動きたくない。困ったように霖之助が立ち尽くす。少しして再び腰を降ろした。

 言葉を掛けかねているのだろう。グラスを手にゆっくりとお酒を飲みだした。

 いつまでも黙ったままでは何も解決しない。どうすればいいのか分からないし、どうするべきかも思いつかないが、一つだけ確かなことがある。

「…………あの」

「なんだい?」

「どうすれば八雲紫に会えますか?」

 霖之助がグラスを置いた。顔を上げると、霖之助は真剣な表情で眼鏡に手を当てた。

「申し訳ないけど分からない。冬だったら毎月燃料を買うときに藍に会うのだが、それも今はないし。僕だけじゃなくて誰も八雲紫の所在なんて掴めないだろう。住み処がどこなのかも知らないし、彼女がどこで何をしてるのかさえ見当もつかない。しいて言えば博霊神社にはよく顔を出しているみたいだけど、それだって毎日というわけじゃない」

「そう、ですか」

 落胆の息と共に呟く。

「力になれなくてすまない。だけど幻想郷は端から端まで彼女の庭も同然だ。だから会おうと思えば何処でだって会えるはずだよ。向こうにその気があれば、だけど」

 

 布団に横になってもまったく眠気はなかった。

 天井の明かりを見つめたまま、時間だけがゆっくりと進んでいく。このままずっと夜が続けばいいのに。そうすれば日付は変わらずに、俺も帰されなくてすむ。

 あぁ、夜のままだと異変になるな。また永遠亭が元凶扱いされてしまう。

 すでに溜息さえ出てこない。

 予期していた事態ではあった。もしかしたら元の世界に戻されてしまうのではないかという予感。だが同時に、このまま幻想郷の住人として受け入れてくれるのでは、という期待もあった。

 何故駄目なのか。ここは最後の楽園なのだろう。死に損なった俺が居てはいけない理由があるのか。

 嫌だ。嫌だ嫌だ。

 せっかく来れたのに、出て行きたくない。ずっとここに居たい。もうあんな汚くて醜い世界に戻りたくない。もし今戻ったら、今度こそ生きることに絶望してしまう。そうなったら……。

 会わないと。八雲紫と。

 俺はのそりと体を起こし、部屋を出た。廊下が軋まないように気をつけながら勝手口から外に出る。

 暗い森は不気味だった。傾きかけた月の明かりだけを頼りに、蔵の横を通り香霖堂のおもてに進む。

 ここでいいだろう。俺は夜空を見上げた。

「八雲紫。聞こえているなら出てきて欲しい。話をしたい」

 声は闇の中に消えていく。梢が風にゆれてさわさわと音を立てている。周囲に何の変化もない。

「八雲紫。返事をしてくれ。八雲紫」

 再度呼びかけてみるが、反応はない。よくよく考えるまでもなく、こんな深夜に起きているわけがない。それに、もし聞こえていたとしても彼女が応える理由はない。

 こんなことで八雲紫と会おうなんて考えが甘かったのかもしれない。所詮自分は特別な人間なんかではなく、平均以下の駄目人間なのだ。幻想郷に来て少しちやほやされたからといってそれが変わるわけではない。

 部屋に戻ろう。霊夢だったら会う方法を知ってるかもしれないし、朝になったら博霊神社に行ってみようか。

 そう決めて踵を返そうとしたとき――。

「こんな夜更けにレディを呼ぶなんて非常識ではないかしら」

 耳元で囁き声がした。

「――――」

 声にならない悲鳴を上げ、地面に倒れるようにして体を振り向かせた。

 そこにはひとりの少女が白い月明かりの下に立っていた。

 年齢は十代後半と言われれば信じるだろうし、二十代と言われても納得するだろう。外見の幼さに比べて佇まいや雰囲気が落ち着き過ぎている。

 少女は胡乱な表情で俺を見下ろしていた。長く揺らめくブロンドの髪が腰に巻き付き、まるで金細工の装飾のように見える。頭にはふんわりとしたリボン付の帽子。中華風のロングドレスは袖と丈が長く、手足はほとんど露出していない。唯一覗いた顔と首が青白く照らされている。

 空気が変わった気がした。周囲の森は森閑と静まり返り、葉擦れの音すら聞こえなくなった。

 身動きが取れない。口を開くのにも彼女の許可をとらなければいけないような強迫観念に襲われる。

 八雲紫。幻想郷創設に関わったとされる大妖怪。妖怪の賢者。

 地べたに尻をつけたまま、紫を見上げる。呼び出したのは間違いだったか。俺みたいな小物、一瞬で粉微塵にされてしまうだろう。

 紫が口元に手をあててクスクスと笑い出した。

「御免なさい。まさかそんなに驚くとは思わなくて」

 その言葉がきっかけとなり体が動くようになった。立ち上がり、ズボンについた土を払う。

 正面に立ってみると、幾分か威圧感が減った気がする。紫の背がそこまで高くないからだろうか。だからといって油断など出来るわけがないが。

 紫は笑っている。まるで俺の心境を見透かし愉しんでいるように。

「初めまして、迷子さん。私は八雲紫。名乗らなくてもとっくに御存知かしらね」

 迷子、という言葉が引っ掛かる。俺はここにいるべきではないと言われているようで。

 俺の不満が伝わったのか、紫が小首を傾げる。

「あら、お気に召さなかった? あなたにピッタリの名前だと思ったのだけど」

「……別に俺は迷子じゃない」

「そう? 自ら探し求めて辿り着いたのではなく、死に損なった結果たまたま流れ着いてしまったあなたは、庭に迷い込んできた野良猫と変わらないわよ」

 違うと反論したかったが、言ったところで紫は聞き入れてくれないだろう。俺が押し黙るのを見て、興味なさげに息を吐く。

「まぁ何でもいいわ。どうせ居なくなるのだし」

「…………」

 紫の中ではもうそれは決定事項なのか。俺は拳をぎゅっと握りしめ、紫に問いかけた。

「なんで、俺はここにいちゃいけないんですか」

「気になるの?」

「当たり前じゃないですか! やっと、やっと幻想郷に来られたのに、なんで出ていかなきゃいけないんですか! 幻想郷は全て受け入れてくれるんでしょう? だったら俺が居たっていいじゃないですか!」

「えぇそうね。ここは居場所を無くした者が行き着く最後の楽園。来る者を拒まず、何者であろうと受け入れるわ」

「だったら俺だって――」

「でもあなたは駄目」

「なっ……」

 紫の一方的な断定に耳を疑う。俺の何が悪いというのだ。何故俺だけが許されない。東方が好きなだけのただのオタクには、ようやく叶った夢を享受する価値すらないのか。

 紫が目を細めて俺を見据える。

「あなたが悪いということではないの。あえて言うのなら、幻想郷に来た時期が悪かったわね」

「?」

 俺がここに来た時期がどう悪いのだろう。紫が俺の疑問に答える。

「簡単に言うとね、あなたは、これから幻想郷で起こるであろう異変をすでに知っているの」

「…………」

 これから起こる異変? 俺が知っていて、まだ起こっていない異変があるのか?

「まさか」

「えぇ。あなたが外の世界で見聞きした異変で、まだ幻想郷で起こっていないものがある。あなた風に分かりやすく言うなら、幻想入りをしていないキャラクターがいるのよ。霊夢たちがまだ知らない人物をあなただけが知っている」

「も、もしそうだとしても、それがどう関係するんですか。知ってても俺は悪用なんかしない」

「あなたがそう思っていても、悪用しようとする連中はいるかもしれないわよ。口を割らせなくとも記憶を覗く手段なんていくらでもあるんだから」

「……さとり、ですか?」

「そんなところ。地霊殿の主はそんなことしないでしょうけどね。あくまで例えばの話よ。なんだったら脳を取り出して情報だけを抜き取ることも出来るのだし。誰だってやろうと思えば出来ることなの」

 情報と聞いてまっさきに思い浮かんだのが、これまでに読んだ薄い本の記憶だった。この記憶を見られたら死ぬ。色んな意味で。

「あ、悪用なんてされますかね? 幻想郷にそんな悪い人なんているはずがないし、俺の持ってる情報だって大したものじゃないし……」

「イレギュラーは想定出来ないからイレギュラーなのよ。あなたの考えなんて関係ない。それとも、頭だけの存在になってもそんなことを言うのかしら?」

「…………」

「まぁあなたの考える通り、こんなことほとんど起こるわけがないレアケース。わざわざ私達に喧嘩を売るような痴れ者なんて今の幻想郷にはいないでしょうね。だけど、こういうのはどう?」

 紫がゆっくりと近づいてくる。草を踏み締める柔らかい音が小さく響く。

「新しい異変が起こりました。里の人々や霊夢たちが困っています。そこであなたに尋ねるの。『どうすればいい?』って。あなたは異変の主の思考も能力も把握している。どういう結末で異変が収まるのかを知っている。霊夢たちの懇願に、果たして無言で首を振ることは出来るかしら? 助言のひとつすらしないと言い切れるかしら?」

 ……言い切れ、ない。霊夢や他の誰かが俺に助けを求めてきたら、迷わず手を差し伸べる。きっと俺はそうするだろうから。

「はっきりと言っておくわ。里で起きた小さな事件くらいなら別に構わないのだけど、この世界の根幹に関わってくるような大きなものにまであなたに首を突っ込んでもらいたくないの。それは幻想郷の正史ではない。そうでしょう? あなたが知っている幻想郷に、一度でもあなた自身が登場したかしら? いい加減自分の身の程を弁えなさいな」

 冷酷に、突き放すように、紫が言い放つ。口答えなどするな。黙って言う通りにしろ。彼女の意思がまっすぐ俺にぶつかってくる。

 俺はここに居てはいけないのか。俺がいることで幻想郷に悪影響を与えてしまうのか。

 もしそうなのだとしても、俺は幻想郷に居たい。居たい。居たい!

「……何も話さない。何も関わらない。異変が起きようが協力もしない。霊夢に聞かれても何も答えない。なるべく静かに暮らすから。だから――」

 縋るように紫を見つめる。その視線を振り払うように紫は首を振った。

「残念だけど……」

 明確な拒絶。絶望の二文字が両肩に重くのしかかり、立っていることすら苦痛に思えてくる。

 どうあっても紫は俺を元の世界に戻すだろう。会社でのつらい日々を思い出すだけで、胃のあたりがぎゅっと握られているかのように痛くなる。嫌だ。あんな所に戻るなんて絶対に嫌だ。今度こそ、今度こそ本当に俺は。

「……戻ったら、俺死にますよ。多分。いや絶対。それでも俺に戻れって言うんですか? 死ねって言うんですか?」

 震える声で俺は囁いた。同情をひこうとかそういう考えではなく、ただ『だからやめてくれ』と訴えたかった。少しでも紫に俺の気持ちが届いたなら、情状酌量の余地があるのでは、と思ってほしかった。

 俯いた俺の頭に小さな手が乗せられる。

 そのまま髪の毛を掴まれて、ぐいっと顔を上げさせられた。

 紫の表情は底冷えするような怒気に満ちていた。侮蔑と憤りの交ざった険のある顔を、俺に近づける。

「そんなに人生を悲観するのなら、戻ってなんて言わずに今ここで死になさい。自分で出来ないのなら私が手伝ってあげるわ。ほら――」

 恐ろしい、と感じたのは幻想郷に来て初めてだった。後ずさろうにも髪を強く掴まれているせいで動けない。紫は冷酷で残忍な妖怪の相貌を覗かせながら語る。

「幻想郷は居場所を無くした者たちの集う最後の楽園。ある者は迫害を受け、ある者は自らの存在を守る為に、ある者は全てをやり直す為に、安息の地を求めここに辿り着く。あなたはどうなの? 自分で戦おうともせず、安易な逃避に走り現実から遠ざかる。あなたがここに来たのはたまたま偶然運が良かっただけ。ねぇ、あなたは本当に居場所を追われたの? 安心して暮らせる場所は無かったの? 命を脅かされ続けてきたの? 教えてちょうだい?」

 鼻と鼻が触れ合いそうなくらいの近さで紫が俺を問い詰める。いつもなら大喜びする状況だが、今の俺にそんな余裕はない。ただただ恐縮し、縮こまることしか出来ない。

 居場所なんてどうとでもなる。実家に戻ればとりあえず住む所は確保出来るし、会社だって本当につらいなら辞めてしまえばいい。アルバイトでも手伝いでも、業種を選ばなければいくらでも働く場所はある。だがそれをしなかったのは結局、俺が安易な方に逃げていただけだったのだ。一度退職してしまえば、コネも能力もない俺には一般企業に再就職することは難しい。世間体もある。親族から白い目で見られるのは嫌だ。だから、我慢することを選んだ。

 返答する気力すらない俺を見て、紫が手を放した。髪の毛がくしゃくしゃになっているが、直そうとも思わない。

 紫が背を向けた。これ以上話すことはないと背中が語っている。

「決めたわ。明後日、太陽が一番高く昇ったときに、あなたを元の世界に送り返す。その後自殺するなりなんなり好きになさい」

 紫の眼前に穴が空いた。暗くてあまりよく見えないが、あれが隙間なのだろう。

 振り返ることも、別れの言葉もなく、紫が隙間の中へと消えていく。隙間が閉じると、周囲の張り詰めた空気が和らいだように感じた。ゆるやかな風が木々の葉にさざ波を立てる。

 俺はいつの間にか額ににじんでいた汗を腕で拭った。

 話し合うどころか、俺が意見を差し挟む余地すらなかった。今後俺が何をどう論じようが、聞き入れてはくれないだろう。

 どうすればいい。

 紫の言い分はもっともだった。俺が幻想郷に入り込んだウイルスなのだとすれば、排除しようと動くのは至極当然のこと。それは理解できる。でも俺の感情がそれに納得できない。

 幻想郷を思えば潔く帰るのが本筋だ。迷惑を掛けることはしたくない。東方のいちファンとして、それだけは誓って言える。

 せめて。せめて違う方法はないのか。俺が幻想郷に住めて尚かつ、誰も何も被害が出ない方法は。

 俺がどこかに幽閉されて何とかなるなら、喜んで幽閉でも入獄でもされるのに。いや、きっとそういう問題ではないのだろう。ここに存在すること自体がすでに危険なのだ。

 東方好きだからこそ幻想郷に居たいのに、東方好きだからこそ居てはいけない。やるせないジレンマが胸を締め付ける。

 明後日の昼。それまでに解決策は思いつくだろうか。時間がない。でもどうにかしなければ。

 天上で輝く丸い月を見上げた。満月は過ぎたが、一日くらいだったらまだ十分丸い満月に見える。

 まだ幻想郷を探索しつくしていない。会ってないキャラだってたくさんいる。たった数日で元の世界に帰るなんて絶対に嫌だ。かといって全部見て回ったとしても帰りたくないが。

 深く、重い息を吐いて、俺は自室に戻る為に歩きだした。

 

 

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