幻を想う   作:亮馬

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決意と決断

 結局目が冴えてしまって、ほとんど眠ることは出来なかった。

 霖之助が用意してくれた朝食を居間で食べながらも、頭のなかは紫に言われたことで一杯だった。

 なかなか進まない箸を置いて、霖之助に問いかける。

「……八雲紫と交渉するには、どうしたらいいと思いますか?」

「交渉?」

 霖之助が箸を止める。

「突然どうしたんだい? それは元の世界に戻されることと関係が?」

「えぇ、まぁ」

 霖之助には昨夜のことは話していない。なんと言えばいいか分からなかったし、変に心配をかけたくなかった。

「話し合いで有利に進められそうなこととか、もしくは八雲紫が欲しい物とか苦手なものとか――」

「悪いことは言わない。止めておいた方がいい」

 真剣な表情で霖之助がさえぎった。

「『八雲紫には逆らうな』。これが幻想郷の不文律だよ。並の妖怪、人間は彼女の機嫌ひとつでで存在を消されかねない。勿論実際にそうなったのは見たことはないが、そうされてもおかしくはないってこと。考えてもみなよ。彼女と交渉するということは、彼女の要求以上のものをこちらが用意しなければいけない。物なんかでは彼女は釣られないし、言葉だけで簡単に折れてくれるはずがない。となると、一番有効なのは彼女の大切な物を人質にとることだ。大切な物――彼女の式二人と、幻想郷。そのどちらも交渉材料とするのは難しいし、仮に出来たとして、君は生き延びる自信があるかい? 僕には無いね」

 まったく同意見だ。紫を怒らせるようなやり方は得策ではない。もっと穏便に、それでいて根本的な解決をしなければ紫は聞き入れてくれないだろう。

「じゃあ、紫と対等に話せる人とかいませんか? もしくは同じくらいの力がある人でも……」

「彼女と対等に話が出来るのは、白玉楼と地霊殿の主、それに閻魔様、あとは霊夢くらいじゃないか? 地霊殿の主以外はそれぞれかなり強いとは思うけど、八雲紫自体がすでに次元が違うからね、何とも言えないよ」

 紫に意見出来てかつ、俺の味方になってくれそうな人がいないかと思ったが……。霊夢とは会いづらいし、さとりには心を読まれたくないし、映季様に会ったら説教されそうだし、幽々子は紫側につくだろう。

 せめて匿ってくれる人がいれば、結論を先送りに出来るのだが。

「あぁそういえば、もう一人幻想郷で最強の部類に入ると言われてる人がいたな」

 霖之助が名前を口にする。その名前を聞いて、決めた。今何をするべきか。

 朝食を食べ終わり、お皿を片付けている最中に、俺は霖之助におずおずと切り出した。

「あの、昨日の今日で言いづらいんですが、俺、その……」

「構わないよ」

 分かっていると言わんばかりに霖之助は微笑んだ。

「やることがあるんだろう? 行ってくれて構わないよ。昨日だけで蔵もだいぶ整理されたしね。あれなら後は僕ひとりでも何とかなる。だから君は君のやるべきことをやればいい」

 目頭がじんわりと熱くなる。雇って欲しいと言っておきながら一日で辞める俺に、こんなにも優しい言葉をかけてくれるなんて。

「……ありがとうございます」

 深く頭を下げた。きっとまた香霖堂に戻ってくる、と固く心に誓った。

 

 

 時刻はそろそろ昼になるくらいだろうか。高く昇った太陽が、幻想郷の風景を明るく照らしている。

 そよ風に乗って微かに花の匂いが運ばれてくる。香水のような甘い芳香。どこかで嗅いだことがあるような気はしたが、何の花なのかまでは分からない。目の前の彼女に聞けばすぐに教えてくれるのだろうが、今聞けるわけもない。

 俺は両手両膝を地面につけ、額を地表の草に当たるくらいに下げた。

 頭上で困ったような息が聞こえる。

「そういうことをされても困るんだけど。そもそも私にどうして欲しいの?」

「八雲紫から匿ってもらえないかと」

「また大それたお願いね。私みたいなはぐれ妖怪に頼らなくても、霊夢あたりに頼めばいいじゃない」

「霊夢は、多分ダメだと思います。他の人も。こんなことをお願いできるのは、八雲紫に匹敵する力を持って、しかも中立の立場で判断してくれる第三者――風見幽香さんくらいしかいないんです」

 俺が顔を上げると、玄関のドアの前に立った幽香がふぅん、と俺を見下ろした。

「随分な買いかぶりね。あなたの居た所では私はそう見られているのかしら」

「まぁ、その……」

 実は作中では明確に幽香が紫に匹敵するほど強いとは描かれていない。かなり力のある妖怪だとは言われているが、その実、自らの力を誇示することはほとんどない。

 妖怪を苛めるのが趣味だとか、血をみるのを何よりも好むだとか言われたりもするが、俺は幽香の性質は逆だと思う。

 彼女のイラストを思い浮かべたとき、出てくるのはほとんど向日葵畑にひとり佇む姿だ。リグルやチルノとの絡みも良く見られるが、基本的にひとりでいる姿がしっくりくる。

 これだけの綺麗な花畑を所有していて、人が集まってこないわけがないのに。

 ドSのSは、さみしがり屋で親切で世話焼きのSだ。

「仮に私に力があるとして、何故あなたを助けるような真似をしなきゃいけないの? 理由は?」

「…………」

 ほぼ初対面の人間、それも外から来たばかりの部外者でしかない俺を、幽香が助ける道理は確かにない。だが。

「この前、俺を助けてくれたじゃないですか?」

「なんのことかしら」

「花……月下美人の花です。あれを俺にくれましたよね」

「えぇ。それがどうかした?」

「あれって、慧音さんが犯人だってことを俺に知らせようとしてくれたんじゃないんですか?」

 幽香が失笑する。

「どうしてそうなるの? ただ花を渡しただけなのに」

「月下美人の花があったから、俺は満月が翌日だということを知ることができました。それが無かったら慧音さんの思惑に気付けなかったかもしれない」

「満月と慧音を結び付けられるのは、慧音のことを知っている人しか無理よ。あのときのあなたが私達に詳しいなんて思いもよらなかったし、そもそも初対面のあなたにそれを託すかしら? だったら霊夢にでも渡した方が感づくでしょうね」

「いや、あれは俺に対してのメッセージじゃなかった」

 一瞬だけ幽香の表情が固くなったような気がした。本当にわずかだったので、見間違いかもしれないが。

 続けて問いただす。

「あの花は俺じゃなくて、慧音さんに向けたものだったんじゃないんですか?」

「言っている意味がよく分からないんだけど」

「あなたは慧音さんが子供たちを匿っていることを知っていた。そして次に何をやろうとしていたのかも。……本当は止めたかったんですよね? だからあの月下美人を俺に渡して、慧音の目に触れさせようとした。夜だけ咲いて萎んでしまう月下美人に思いを託して」

「随分と想像力が豊かね。そんな婉曲で回りくどい方法を私が選ぶかしら」

「季節外れの花に慧音さんは必ず興味を示す。それが幽香さんからの貰い物だと分かったらその意図にだって気付くはずです」

「馬鹿馬鹿しい。仮にそうだとしても慧音が簡単に意志を変えると思う? 現に実行しようとしたらしいじゃない」

「慧音さんを説得するのは不可能だと思ったからこその、あの花だったんじゃないんですか? 満月の夜に咲いた月下美人の匂いが慧音に届けば、もしかしたらそれで実行を延期するかもしれない……そのくらいの気持ちで俺に渡したんです。どのみち止めることは無理なんですから」

 結局あの花は俺が持ち帰ったせいで、慧音は咲いているところすら見ていないのだが。

 幽香が大仰に肩をすくめた。

「なに? あなた探偵でもやってたの? あんまり妄想を人に押し付けたりしない方がいいわよ」

 確かにこれはただの俺の想像であってこじつけに過ぎないかもしれない。だが、俺の知っている風見幽香は、徒に人を傷つけるようなことはしないし、情に薄い人柄なんかでは断じてない。……ものによっては残虐超人なときもあった気はするが。

「前に里の子供をここで匿ったことがあるって聞きました。幽香さんは困っている人を見捨てておけない優しい人です。厚かましいお願いだと承知の上で――すみませんが俺をここに置いてもらえないでしょうか」

 再び下げた頭の上から、刃物のように鋭く冷たい言葉が降ってきた。

「……人間風情が、あまり調子に乗らない方がいいわよ」

 ちらりと見上げると、幽香が腕を組み俺を見下ろしていた。その表情は怒りに満ちていて、正直いつ吹っ飛ばされてもおかしくないと思った。

「私達のことをどれだけ知ってるのか知らないけど、不愉快。好き勝手に決めつけて、あなたは優しいから自分を匿ってくれ? 甘えるのもいい加減にしなさい。私は人間の味方でも妖怪の味方でもないの。ましてや誰かに泣きつくしかできない弱い人間なんかに手を貸す筋合いなんかあるわけないでしょう。痛い目をみたくないならとっとと去りなさい」

 幽香の赤い瞳がギラリと俺を見据える。脅しか本気かは分からないが、これ以上ここにいてもどうしようもない。

 俺はのそのそと起き上がり、手のひらと膝についた土を払った。まともに幽香の顔が見られない。

 背を向けて歩きだそうとして、足を止める。そうだ。せめてこれだけは聞かないと。

「あの……」

「なに?」

「最後にここの花畑を見学させてもらってもいいですか?」

「え?」

 そんなことを言われると予想していなかったのか、幽香が驚いた声をあげる。

「太陽の畑のなかを歩くの、夢だったんです……。あ、その、ダメだったらいいんですけど」

 返事を待つこと数秒。これはダメだろうな、と思ったとき。

「いいわよ」

「……いいんですか?」

「花を見るのに何故許可がいるの? 見たいのなら好きなだけ見ていきなさい。その方が花たちも喜ぶわ」

 さっきまでの剣呑とした雰囲気はなくなり、幽香はかすかに微笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます」

 深く頭を下げて、すぐに駆け出す。幽香の気が変わらないうちに畑を見て回ろう。幽香に頼れなくなった時点で、何処に行ってももう無駄だ。せめて目の前に広がるこの景色を存分に楽しまなくては勿体ない。

 俺は小丘を一直線に駆け降りた。

 

 遠目で見る太陽の畑も壮観だったが、間近で見るとまた違った美しさがあった。

 自分よりも背が高い向日葵が隙間なく立ち並ぶ光景は迫力があり、空に向かって雄々しく咲き誇る様はまさしく太陽の花に相応しい。

 畑のなかの遊歩道を進みながら、俺は360度首を動かしてただただ感嘆の息を漏らしていた。

 すごい、としか感想の言いようがない。

 黄色と緑に彩られた向日葵の道はどこか幻想的で、ここが現実じゃないかのような錯覚すら覚える。幻想郷という名前なのだから当たり前か。

 ここにきて、携帯が壊れていることが心底悔やまれる。

 もし使えたなら、容量が一杯になるまで写真を撮りまくったのに。そのデータを持ち帰れたならせめてもの救いになる。そういえば文が写真をくれるとかいう話はどうなったのだろう。まさか忘れられてるんじゃないだろうか。

 森林浴ならぬ花畑浴とでも言うべきか。これだけの花に囲まれたなかを歩いているだけで、気分が晴れ渡ってくるようだ。思えば花の名所になんて行ったことすらなかった。せいぜい会社で行った花見くらいで、それもたいして面白いものでもなかった。もっと花や景色を見に色々な所に行った方がよかったかもしれないな、なんて柄にもないことを思ったり。

 どのくらい歩いただろうか。少しだけ日が傾いているような気はするが時間までは分からない。

 少し喉が乾いてきた。昼食も食べずに来たせいでお腹も空いている。どうしようか。いったん里に戻って何か買ってくるか? いや、時間が勿体ない。今はこの花畑を一秒でも長く楽しむことの方が大事だ。

 よし、と再び歩き始めたとき、背後から声を掛けられた。

「どう? ここは気に入った?」

 びくっとして振り返ると、幽香が立っていた。チェックの日傘をさし、手には大きなバスケットを持っている。まったく気配がしなかったのだがいつの間にそこにいたのだろう。

「あ、は、はい」

 おどおどしながら返事をする。まさか俺を始末しにきたとかではないか。

「そんなに恐がらなくてもいいじゃない。まぁ仕方ないとは思うけど」

 呆れたように笑って幽香がバスケットを胸の位置まで持ち上げる。

「おやつでも一緒に食べない?」

 …………。

 幽香に案内されるままに向日葵畑を進んでいくと、景色が一変した。

 そこはまさしく、花の広場とでも呼ぶべき場所だった。

 畑を円形に開いた空間に様々な花が咲き乱れていた。赤、白、黄、青、紫、ピンク……見たことのある花も、そうでない花も、色とりどりの花たちが地面を埋め尽くしている。蝶や蜂が花から花へと楽しそうに舞っていた。こんな光景、絵本のなかでしか見たことがない。まるでこの空間そのものがひとつの花束のように色鮮やかで、俺はしばらく口を開けたまま見入ってしまっていた。

「私のお気に入りの場所なの」

 どこか誇らしげに幽香が笑った。

「あそこに行きましょう」

 幽香が広場の中央に建っている東屋を示した。敷かれた飛び石の上を歩き、東屋に向かっていく。俺も石から落ちないように慎重についていった。

「別に花を踏んだって怒らないわよ」

 幽香が肩越しにそう言ったあと付け加える。

「悪意があるなら別だけど」

「な、ないです、ないです!」

「わかってるわ」

 ふっと笑って歩いて行く幽香の後ろ姿を、信じられない心境で見つめる。いったいどうしたというのか。さっきより好感度が上がっている気がするのだが気のせいか。

 東屋には西洋風の丸いテーブルがひとつと、椅子が二脚置いてあった。日傘を畳み柱に立てかけて、幽香がテーブルの上にバスケットを置いて中身を取り出した。

 陶器の水筒と、布の被せられた小さな籠。幽香が布を取ると、籠のなかにはラスクのようなものが並んでいた。

「ラスク、ですか?」

「あら、知ってるのね。美味しいし日持ちもするし、私好きなのよね。さ、どうぞ」

 促されるまま腰を降ろす。落ち着かない気分で準備がされていくのを見守る。幽香はバスケットからティーカップとソーサーを二組取り出して、水筒のなかのものを注ぎ始めた。バラのような香りがふわりと広がった。

「ローズヒップとハーブをブレンドしたお茶よ。砂糖は?」

「あ、いえ俺は……」

 手を振ると、幽香は砂糖の入った小瓶の蓋を開けて、小さなスプーンで自分の分にだけ砂糖を入れた。カチャカチャと掻き混ぜた後、スプーンをハンカチで包み、バスケットのなかに戻す。

 用意は終わったようだ。幽香が俺の向かい側に座り、穏やかに微笑んで言った。

「いただきましょうか」

 幽香がゆったりとくつろいだ動作でカップに口をつける。正直喉も乾いているのですぐにでも飲みたかったが、幽香の真意が分からないのでは漫然と受け入れるわけにはいかない。

 俺は幽香に聞いた。

「……どういうつもりなんですか?」

「ん?」

「こうやってお茶を持ってきて、どんな意味があるんです」

「案外警戒心が強いのね。私がおやつをふるまうのがそんなに変なことかしら」

「変、というわけじゃないですけど……その、さっき俺のせいで不快にさせたし……」

「そんなの別にどうでもいいわよ」

 幽香が柔和に笑いかける。

「あなたはここの花たちを見たいと言った。この花畑を見にやってきたお客をもてなすのが主人である私の役目よ。まぁ最初はここに残る為についた嘘かとも思ったんだけど、あんなに嬉しそうに見て回るんだもの。あぁ、本当に楽しんでるんだなって」

「…………」

 視線をテーブルに落とす。まさか俺が向日葵を眺めている姿を見られていたなんて。変な顔してなかっただろうか? 独り言とか口走ってなかっただろうか?

 俺が悶々と思考を巡らせていると、幽香がぷっと吹き出した。

「面白いわねあなた。それとも、外の世界ではあなたのような人間ばかりなのかしら」

 あまり笑われるのは好きではないが、さっきまでの険悪なムードを考えると、幽香が笑ってくれるのは有り難かった。

「私は妖怪の味方も人間の味方もしない。私が味方するのはこの子たちだけ」

 そう言って幽香が広場の花々に目を向ける。フラワーマスターと呼ばれる彼女らしい考えだと思った。

「だから花を愛でてくれる人は、人間であれ妖怪であれ、私がもてなすに値する人物なの。分かってもらえたかしら?」

 俺が頷いたのを見て、幽香がまた微笑んだ。

「さ、遠慮なくどうぞ。あなたが食べてくれないと片付けられないわ」

 そこまで言われては食べないわけにもいかない。いや、本当はすぐにでも食べたかった。お腹が空いているとかそういうのじゃなくて、単純に幽香が作ってくれたものを食べたくないわけがない。

 カップの取っ手を掴み、口元へと運ぶ。一口すすると、口中にバラの香りと爽やかな酸味が広がった。ザラメをまぶしたラスクの甘さと合わせると丁度よい塩梅だ。ぱくぱくと食べ進めていると、幽香がほとんどラスクに手をつけていないことに気が付いた。

 目の前の幽香に視線を向ける。幽香は花の広場をいとおしそうに眺めていた。

 どくん、と大きく心臓が脈打った。

 優しい色を帯びた切れ長の目も、すらりと通った鼻筋も、微笑んだ唇も、頬で揺れる髪をくすぐったそうにかきあげる仕草も、彼女を形成するその全てが美しく魅力的で、俺はラスクを食べる手を止めたまま幽香に見惚れていた。今俺の視界には広場の花も向日葵も映っていない。風見幽香という一輪の花さえあれば、他は何もいらない。

 まるでこの世界に二人だけしかいないような錯覚を覚える。ここは花と風と空と彼女だけの世界。天国なんてものが存在するのなら、間違いなくここがそれに一番近いと思う。

 会話を交わすこともなく、ゆっくりとただ時間だけが流れていく。

 ずっと。ずっとこの時間が続けばいいのに。

 だけどその願いは許されない。蝶たちがずっとひとつの花に留まり続けないように、人も時間も移り変わっていくものだ。

「……ねぇ」

 幽香がぼそりと呟いた。

「なんで帰りたくないの?」

 誰が何処に、とは聞き返さなかった。俺は適切な答えを探して口にした。

「ここよりも生き辛いから、ですか」

 幽香はまだ広場を眺めていた。俺は言葉を続ける。

「別に命を脅かされたりしたわけではないですし、迫害を受けたというわけでもありません。甘い考えなのは十分解ってます。でも、嫌なんです。もうこれ以上あの世界で生きていくのは」

「……」

 幽香が視線だけ俺の方に向けた。

「帰りを待っている人はいないの?」

「それは……」

 思い浮かんだのは電話すらしなくなった両親と兄弟、祖母、あとは一年に一回会うか会わないかの地元の友人の顔だった。

「いない、とは言いませんけど、俺がいなくなったからってどうなるわけでもないし」

 俺は、俺以外の全てを置き去りにしてでも幻想郷に居たい。たとえ家族や友人が悲しもうとも、俺は俺のために生きる。俺の人生は俺のものだ。つらく苦しい道を望んで選ぶ理由なんてどこにもない。

 幽香は「そう」と短く言って、また花を眺め出した。

 気分を損ねてしまったのだろうか。幽香からすれば俺は甘ったれの弱虫野郎に見えるだろう。軽蔑されても仕方ないと思う。

 会話が途切れた。カップとソーサーが擦れる固い音と、そよ風が流れる音だけがこの場に微かに響いている。

 しばらくして、幽香が再び口を開いた。

「ここに咲いてる花、どう思う?」

「えっと、その、手入れもすごくされてますし、綺麗だと思います」

「ありがとう。でもね、同じように育てたからって、みんながみんな同じように綺麗に咲いてくれるとは限らないのよ」

 それは母親が子供に優しく言い聞かせるような、慈愛に満ちた音色だった。

「咲きたくない子、咲くことができない子。理由は病気だったり環境が悪かったり色々あるわ。でも、そんな子たちも今はこの場所で綺麗に咲いているの。何故だと思う?」

「……幽香さんの能力があるから、じゃないんですか」

「そうね。でも私はあの子たちが望まないことはしないわ。大きくなりたいと願うなら大きくするし、枯れたいと願うのなら枯らしてあげる。つまりね、あの子たちはみんな心の底では、“綺麗な花をつけたい”って願っているのよ。それがうまく出来ないから悩んでいただけで」

 幽香と視線が合う。綺麗な赤い瞳に自分が映っている。

「花も人も同じじゃないかしら。本当は誰もが綺麗な花を咲かせたいと思っていても、うまくその花を咲かせることが出来なくて悩み苦しんでいる。咲かせる方法さえ分かってしまえば、あとはここの子たちと同じように、咲き誇ることが出来るはずなのに」

 俺にだって花を咲かせることが出来るから、だから頑張って生きろ、とでも言いたいのだろうか。

「……そんなのは、すでに咲いている人だから言えるんです。俺には一生出来ない」

 幽香の目が悲しそうに俺を見つめる。

 その眼差しに心がちくりと痛んだが、口から出た言葉は元に戻らない。

 強者には弱者の気持ちを本当に理解することなど出来やしないのだ。でなければ、いじめで自殺する子供が毎年出てくるわけがない。

 何度目かの沈黙。気まずい空気がこの東屋を包んでいる。こういうときにどうすればいいのだろう。違う話を振ればいいのか、席を立つべきなのか。判然としないまま目の前のカップの中をぼんやりと見つめる。

「帰りたくないのなら、いい方法があるわ」

「え?」

 まさかという疑惑と、もしかしてという期待で、幽香を見返す。幽香は淡々と告げた。

「八雲紫を、殺せばいい」

「な――」

 何を、幽香は。

「八雲紫さえいなくなれば、あなたを連れ戻そうとする人はいなくなる。そうなればあなたは自由にここに住めるのよ。もしかすると式が敵討ちにくるかもしれないから、その対処もしないといけないけど」

 それが当たり前だとでも言いたげに、変わらない口調で幽香は語る。

「さすがの八雲紫もいきなり人間に牙を剥かれると思ってないでしょうから、油断したところを切りかかれば致命傷を与えることも可能のはず。狙うなら首と心臓がいいわね。ちょっとでも気取られたらやり返されるから躊躇わずに一瞬でやりなさい。なんだったら私が手伝ってあげるわ」

 途中からまともに幽香を見れなかった。あの風見幽香が誰かを殺す算段を口にするのなんて聞きたくなかった。

 八雲紫を俺が殺す? 殺せる殺せないじゃなくて、そんな発想が出てくること自体許せない。東方の誰かが傷つくのも、傷つけられるのも見たくない。そういうのは二次元だけで十分だ。それすらもあまり見たくはないが。

「残りたいんでしょう? だったら最善を尽くしなさい。八雲紫を殺すの」

 もう我慢の限界だった。強く握った拳をテーブルの上に置き、幽香を睨みつける。

「いい加減に――」

 いい加減にしてくれ、と。そんなふざけたことは聞きたくない、と。文句を言うつもりだったのだが、幽香の顔を見て言葉が詰まった。

 そこには残忍で冷酷な妖怪の姿はなく、ただ寂しそうに微笑むひとりの女性が座っていた。

 一目見て、幽香の言動が本心ではないことに気付いた。けっして本気で言っていたのではなく、俺を試したであろうことが見てとれた。

 幽香がテーブルのふちに指を這わせる。

「そう。そんなことあなたがするはずがない。この問題は、最初から答えが分かっているんでしょう? あなたはそれを自分で認めたくないだけ」

 答え? 答えなんて決まっている。俺は帰りたくない。ずっとここで暮らしていたい。

「私の想像に過ぎないのだけど、紫があなたを戻そうとするのは、それが幻想郷にとって最良の選択だからじゃないの? 彼女が自分で動くのは、いつだって幻想郷の為だもの」

 俺は無言で肯定する。

 そうだ。紫はいじわるや気まぐれで俺を元の世界に戻そうとしているのではなく、幻想郷を守る為に戻そうとしているのだ。

 わかってる。俺がどうするべきか。どうすることが一番正しいのか。

 幻想郷に住むことは夢だった。霊夢や魔理沙や他の皆と笑って過ごせる日常は、二度と手にすることの出来ないかけがえのない幸福だ。

 では自分の幸せの為に、何かを犠牲にしてもいいのか。その何かが、自分が最も大切にしているものだとすれば尚のこと……。

「おせっかいが過ぎたわね。わざわざ私が口を出すことじゃなかったわ」

 幽香が立ち上がる。

「あなたの好きにしなさい。ここに居たいと言うのなら私は止めないし、泊まる場所くらいは都合してあげる」

 突き放すのでも手を伸ばすわけでもなく、そっと支えてくれるような言葉。へたに慰められるよりもずっと胸に響いてくる。

 ふと幽香が空を見上げた。と言っても屋根があるので空が見えるわけではない。幽香がそのまま広場へと出て行く。何かがあるのだろうか、と思ったとき。

「おーい! ゆうかーー!」

 甲高い元気な女の子の声が聞こえてきた。

 その後、広場に降りてきたのはいつもの四人――チルノ、大ちゃん、リグル、ルーミアだった。

 幽香が彼女たちを出迎える。

「いらっしゃい。どうしたの?」

「遊びにきた!」

「あらそう。ちょうど良かったわ。あなたたちもおやつ食べる?」

「食べる!」

 チルノが両目を輝かせて跳びはねた。他の皆もそれぞれ頷いて答える。

 幽香が四人を東屋の下へ連れてくると、先客である俺を見つけて驚いたのか一瞬キョトンと動きを止めた。

「えっと、こんにちは」

 なんとなく挨拶をする。チルノが俺を指さし叫んだ。

「あー! あのときの人間!」

 氷の羽を広げ、今にもつかみ掛からん勢いで手のひらを俺に向ける。

「ここで会ったが何年目! 約束してた勝負の続きを今――」

「ここであばれちゃダメよ」

 幽香ががしっとチルノの襟首を掴みあげる。

「おしおきされたい?」

「されたくないです、サー!」

 宙ぶらりにされたままチルノが背筋を伸ばし敬礼をする。サーは男性に使う敬称のはずだが、まぁいいか。

 大ちゃんとリグルが青ざめた様子でおどおどとしているなか、ルーミアだけがよく分からない表情で俺を見ていた。相変わらず謎だ。

 無事(?)チルノと和解してから、幽香が新しいカップにお茶を注いでおやつを振る舞う。予備のカップが人数分あったということは、チルノたちがいつ来てもいいように用意してあったのかもしれない。さすがはゆうかりん。

 リグルが持ってきてくれた蜂蜜(この花畑で採れたものらしい)をお茶に溶かしたりラスクにかけたりして舌鼓を打ちつつ、賑やかなおやつタイムはあっという間に終わってしまった。

 その後もままごととヒーローショーを足して2で割ったような遊びに付き合わされたり、勢い余ったチルノが向日葵畑に突っ込んで何本か折ってしまい幽香に笑顔でおしおきされたり、リグルがたくさんの蝶を使って空に絵を描いたり、大ちゃんが花冠の作り方を教えてくれたり、とまるで童心に返ったかのように楽しい時間を過ごした。

 楽しければ楽しいほど、みんなで笑えば笑うほど、時間が過ぎていくことが勿体なくて、哀しくて。胸に空いた穴がだんだんと広がっていくような、寂寞とした感傷が体のなかに降り積もっていく。

 夕日が花畑の向こう側に消える頃、チルノたちは帰っていった。

 またなー、と手を振るチルノに同じように手を振り返しながら、湧き上がる寂しさをひしひしと感じていた。また遊べる日なんてくるのだろうか。

 幽香が家に泊まるかと尋ねてくれたが、俺は首を横に振った。厚意は嬉しいし、幽香の家に泊まれるのなら泊まりたかったが、これ以上迷惑を掛けたくなかった。ひとりになりたかったのもある。

 夜空に星の光が灯り始めるのを、俺は広場に横たわったままぼんやりと眺めていた。

 背広が汚れるとか虫がいるだとか、そんなものはどうでも良かった。汚れるからどうした。そんなもの洗えばいいだけだ。虫がいるからどうした。そんなもの手で払えばいいだけだ。

 全身でこの景色を感じたかった。だから横になった。それだけの話だ。下敷きにする花にはあらかじめ謝ったので大丈夫のはず。

 花の布団は思ったよりも優しく俺の体を包んでくれて、地面の冷たさもほとんど気にならない。下手な煎餅布団で寝るよりもよっぽど気持ちがいい。

 穏やかな涼風を感じながら、月が雲から出て来たり隠れたりするのをぼうっと見つめる。

 月に叢雲花に風、だったか。良いことは長く続かないという言葉だ。まさしくその通りなんだなと身をもって実感している。

 俺が幻想郷に来て、まるで夢のような数日をここで過ごした。夢をいつまでも見続けるわけにはいかない。いつかは覚めなければならないときがやってくる。

 元々俺がここに来れたのは手違いのような偶然だった。それが本来のあるべき状態に戻るというだけで。

 受け入れている自分がいるのは確かだけど、簡単には納得出来ない自分もいる。

 幽香の言う通り、子供がだだをこねているだけなんだろう。成人して何年にもなるというのに、中身はガキのまんまだ。

 自嘲じみた乾いた笑いが、風に乗って霧散していく。

 俺は考えることを止めた。今更打開策が思いつくわけでもないし、俺が考えつくようなことを紫が思案していないわけがない。

 せめて、夜空を見上げている間だけは、煩わしいことは忘れて幻想郷の息吹をただただ感じていたい。

 草花の上に投げ出した手足が、徐々に沈んでいくような感覚。このままずっと沈んでいけば、体ごと幻想郷と一体になれそうだ。

 それならそれでかまわない。俺が永遠にここにいられるのなら。

 全身で幻想郷を感じながら、心地いい眠気に誘われるまま、俺はゆっくりと目を閉じた。

 

「今晩は。今宵も月が綺麗ね。虧月《きげつ》だというのにまるで満月のように明るく美しい。あなたもそう思うでしょう?」

 声は上の方から聞こえてきた。聞いたことのない女の子の声。その声からは威風堂々とした上品さを感じる。

 目を開けて半覚醒の状態で上空を伺う。

 ――白い月を背にして、ひとりの少女が浮かんでいた。

 そのシルエットは人間のものではなかった。小さな体躯の左右から飛び出た異形の翼。蝙蝠というよりは伝奇で見るような悪魔の翼に近い。

 ゆっくりと少女が空から降りてくる。徐々にシルエットが月明かりのもと、露になってきた。

 ウェーブのかかったセミロングの髪は、月光で青白く輝いている。頭に被ったナイトキャップには大きな赤いリボン。西洋風のドレスは現代で言えばロリータファッションのようなものだろうか。胸元で結ばれたスカーフと腰の後ろからはみだしている大きなリボンが可愛らしい。

 背はかなり小さい。チルノくらいだろうか。だが外見の幼さなど関係ない。少女の纏う空気は異様だった。

 夜の主役は月であり、月に照らされる花々だ。しかし彼女が現れた瞬間、舞台の主役が誰なのかを思い知らされる。

 存在感。圧倒的なまでの威圧と尊厳をもって、少女はそこに立っていた。

「月の下で眠るなんて、人間にしては風流ね」

 永遠に紅い幼い月――レミリア・スカーレットは真紅の瞳を輝かせながら愉快そうに言った。

 …………。

 レ、レミリア!?

 実物はちっさくて可愛いとか、カリスマがやばいとか、うー☆って言わないかなとか、地面にびたーんって顔をぶつけないのかなとか、様々な感想が脳内を去来する。

 危険度極高、人間友好度極低の吸血鬼がなんで幽香の花園にいるのか。まさか俺に会いにきた? そんな馬鹿な。

 上半身を起こして身構えたが、レミリアの悠然とした所作に警戒を解いた。

 相手は特に俺に危害を加えるつもりはなさそうだ。そもそも殺す気なら気付く前に一瞬で殺しているはず。第一殺されるような理由は思いつかない。つまり、危険ではない。

「あ、えーと……こんばんは。その、レミリア、さん、ですよね?」

 俺は友好的な笑みを心掛けて声を掛けた。

 それを見てレミリアがますます愉快そうに口端を吊り上げる。

「なるほど興味深い。私のことを知っていて逃げるどころか挨拶を返してくれるなんて、噂は本当だったのかしら」

 俺の噂はどうなってるんだ……。まさか紅魔館の主直々に俺に会いにくるなんて、絶対ろくな噂の広がり方をしていない。

 だがどうせ明日にはいなくなる身だ。会えないと諦めていた人物とこうして話ができるのは普通に嬉しい。

「あの、どういったご用件なんでしょうか?」

「用件というほどのものではないけど、あなたの運命を視にきてあげたのよ」

「運命?」

「そう。あなたがこれからどういう未来に進んでいくのか。耐え難い不幸に身を落とすのか、それとも幸福を手にし安寧を得るのか」

 運命を操る程度の能力をもつレミリアは、相手の未来を予知することが出来るらしい。本物なのかどうかは分からないが、視てもらえるのならお願いしたい。どうせ俺の運命なんてつまらなくてどうでもいい暗いものだろうけど。

「――と思ったけれど、止めておくわ」

「え?」

 レミリアがくるりと背を向けて月を見上げた。背中から生えた羽が優雅に波打っている。

「ねぇ、運命って何だと思う?」

「何って言われても……定められた未来、とかそういうのじゃないんですか?」

「じゃあ私が視た運命は、必ずその通りになるのかしら」

「それはその、レミリア、さんが変えたりしない限りは」

 レミリアが屈んで何かを拾い上げたかと思うと、それを空に向かって放り投げた。そして肩越しに振り返る。

「三秒後、あなたの頭の所に石が落ちてくるわ」

「――――」

 すぐさま横に転がり場所を移動する。三秒かどうかはわからないが、避けたあとに俺のいた場所にぼとり、と石らしき物が落ちてきた。大きさ的に当たっても怪我をするほどのものではなさそうだ。

「どう? 運命を変えた気分は」

 レミリアがニヤと笑った。

「お、俺は何もしてないじゃないですか。レミリアさんが注意したから避けただけで」

「あら、私は落ちてくる、と言っただけで怪我をするとも何も言ってないわ。危険と判断して避けたのはあなたでしょう? 私が呼びかけたとき、確かにあなたが石に当たる運命もあった。把握が遅れたり逃げ損なったり、理由は色々ね。でも結果は、当たらなかった。運命なんてそんなものよ。靴を履く足の順番や、呼吸するタイミング――ちょっとしたきっかけ、意志や感情で簡単に変わってくる」

 いわゆるパラレルワールドというやつだろうか。だが道がいくら分かれていようとも。結局行き着く先はひとつしかない。であるなら、たらればなんて意味のないことだ。

 加えるなら、そのパラレルを任意で決められるのがレミリアなのではなかったか。もし俺にそんなことが出来るのなら、幻想郷に残れる運命を選ぶのに。

 ――ハッとなった。そうだ、それだ。レミリアに変えてもらえばいいんだ。

「レ、レミリアさん! お願いがあるんですけど」

 正座をして居住まいを正す。

「なに?」

「俺、明日外の世界に帰されるんですけど、どうにかして残れるようにしてもらえませんか! お礼は何でもします! 雑用でも給仕でも、なんだったら血を飲んでもらっても構いません! 俺B型だし、健康診断でも問題なかったですから!」

「それは無理な相談ね」

「な、なんで?」

「運命を変えるのにはそれ相応の対価が必要なの。何でも好き勝手自分の思いどおりに変えられるなんて虫が良すぎるでしょう? あなたの運命《それ》を変えるには、些か以上に骨が折れるわ。そうまでして私があなたに尽くす理由がない」

 昼間の幽香の言葉が頭をよぎる。結局俺が残る為には何かしら犠牲を出さなければいけないらしい。

 息を吐いて肩を落とす俺に、レミリアが歩み寄る。

「それはそれとして、最後の提案は魅力的ね。良かったら少し味見させてくれない?」

「え? あ、どうぞ」

「そう、やっぱり――え!? いいの?」

 驚くレミリアに頷いて答える。

「別に構いませんよ。あ、もしかして血を吸われたら吸血鬼になったりします?」

「それは大丈夫だけれど……あなた本当に変わってるわね」

 はは、と愛想笑いを返す。

 子供の頃はB型っていうだけで偏見を受けたりして、正直自分の血液型が嫌いだった。だがレミリアがB型の血が好きだという記述を見て、俺は心底B型に生まれて良かったと思った。いつか俺の血を飲んでもらえる日がくればと夢想していたが、こんな形で叶うことになるとは。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 レミリアの小さな舌がぺろりと唇を濡らす。見かけの幼さから考えられない妖艶な笑みを浮かべ、正座したままの俺の目の前にしゃがむと、トンと俺の胸元を押した。

 バランスを失って後ろに倒れ込む。その俺の上に、レミリアがのしかかってきた。思った以上に軽く、小さい。月を背に笑うレミリアの口元で、八重歯が鈍く輝いた。レミリアが俺の胸元を撫でる。やばい。この状況エロイ。心臓がばくばく言いすぎて、レミリアにまで振動が伝わってしまいそうだ。

「大丈夫。痛くしないから」

 甘美な囁き。まるでファーストキスを待つ乙女のように(実際まだなのだが)身を固くして、レミリアが俺の首元めがけて開いた口を近づけるのを待ち焦がれる。顎を下げると邪魔になりそうだったので上げて吸いやすくしたまま、吸うところを見ようと視線だけ下に向ける。

 本当に痛くないのだろうか、こそばゆいのだろうか、どこかの漫画みたいに力が抜けたり漏らしたりしないだろうか、いやもしかしたら気持ちいいのかもしれない。

 期待と不安が入り交じるなか、レミリアの唇が俺の首筋に――。

「ちょっと待ちなさーーーい!!!」

「そこ! 何をやってる!!」

 声が二方向から聞こえてきた。うち一つがものすごい早さで近づいてきて、今まさに牙を突き立てようとしてレミリアを掴み上げた。

 心地いい重さと体温が、俺の元から離れていく。首筋に手を当ててみるが、傷どころか唇が触れた痕跡すらない……。

 レミリアの首根っこを掴んだのは霊夢だった。剣幕を強めてレミリアを詰問する。

「あんた今何やろうとしてたの!?」

「何って血をいただこうとしてただけよ」

「はぁ!? いただこうとしてたって、相手は普通の一般人よ! 襲っていいわけないでしょ!」

「別に襲ってないわ。許可を取った上でやろうとしたんだから、合意の行為よ」

「許可ぁ? どうせ無理やり頷かせたんでしょ?」

「嘘だと思うのならそいつに聞いてみればいいじゃない。私を引き離されてショックな顔してるわよ」

 霊夢が疑わしい眼差しを俺に向ける。と同時に、俺の両肩を後ろから誰かに支えられた。

 見ると、慧音が心配そうな表情で俺の首あたりを見回していた。

「大丈夫ですか? 怪我などはありませんか?」

 突然現れた二人に驚きながらも、とりあえずレミリアにかけられた嫌疑を晴らさなければ、と霊夢を見返した。

「れ、レミリアさんの言ってることは本当です。俺が吸っていいって言ったんです」

「――――」

 霊夢が信じられないと目を丸くする。後ろで慧音が息を呑む気配がした。よほど信じられないことだったようだ。

 数拍おいて、霊夢がぼそりと聞いてきた。

「な、なんでそんなことを……?」

「えっと……」

 なんて答えるべきか悩んだ。あんまり変なことを言って引かれるのも嫌だし。

「記念、みたいな……」

「…………はい?」

 うわぁ。あからさまに霊夢さんがどん引きの表情をしていらっしゃいます。心なしか肩に置かれた慧音の手にも力が込められたように感じる。

「記念なんかでこんなのに血を吸わせちゃダメでしょう! 変な病気でも移されたらどうするの!」

 こんなの呼ばわりされたレミリアがバッと翼を広げ、霊夢の手から抜け出した。そのまま空に飛び上がり、憤慨した様子で俺達を見下ろす。

「失礼ね! この人間が病気もちならともかく、私が変なものをもってるわけないでしょ。そもそもこいつが先に吸って欲しいって言い出したんだから」

 霊夢がじろりと俺を見た。思わず視線を外すが、そこに慧音が顔を覗かせる。

「本当なんですか」

 観念して頷いた。

「……はい」

 周囲の空気が二・三度低くなったのではと思うくらいに場が冷えきった。静まり返った状況で、まったく頓着しない飄々とした声が聞こえた。

「自分で自分の血を吸ってくれって頼んだのか? おまえ変態だったんだなー」

 霊夢の向こうから現れた魔理沙が面白そうにニヤニヤと笑っている。変態、という部分の声を脳内フォルダにしっかり記憶しておく。ありがとうございます。

 続いて俺の眼前に、ぬっとルーミアの顔が降りてきた。逆さになった状態で不自然に空中に浮いている。

「なぁ、血を吸っていいなら、一口私に食べさせてくれないか?」

「え、あ、いや……」

 血ならば多少失なってもまた作られるからいいが、肉や骨はそうそう新しくできるものではない。というかなんでルーミアまでここに? 四人一緒に来たのか?

 ルーミアの頭が鷲掴みにされて、視界からフェードアウトしていく。掴んだのは勿論慧音だ。

「ダメに決まってるだろう」

「えー」

「もう食人衝動はないはずだが」

「んー……ないけど、おいしそう」

「ダメだ」

 ルーミアがつまらなさそうに口を尖らせる。正直ちょっとくらいなら食べさせてあげてもいいかな、と思ったが、そんなことを言うと今度こそ完全に軽蔑されてしまいそうだ。

「と、いうわけで――」

 レミリアが一度だけ大きく翼を羽ばたかせ、俺の前に降りてくる。

「改めて、いただきます」

 そのまま先程と同じく俺の首めがけて口を近づけて。

「待ちなさい」

 霊夢がそれを再び捕まえる。

「誰が吸っていいって言ったの」

「本人がいいって言ってるんだから構わないでしょ」

「私は許可してないわ」

「は? 霊夢は関係ないでしょ? 部外者は黙ってて」

「この人はうちの参拝客よ。みすみす毒牙にかかるのを見過ごせないわ」

「こいつが吸って欲しいっていうのを叶えてあげてるだけなのに、毒だとか病気だとか心外なのだけど」

「あんたは咲夜のだけで十分でしょ」

「だからよ! 咲夜以外のを吸える機会なんて滅多にないんだからこんなときくらい吸わせなさいよ!」

「本性を表したわね、吸血鬼! 自らの浅ましい欲望を満たす為にか弱い人間を犠牲にするなんてさすが齢五百を越えるレミリア様ね!」

「貧困に喘ぐ巫女様は発言も貧困ね。霊夢の方こそどうせお金目当じゃないの? そういう噂もちゃんと耳に入ってるんだからね!」

「そ、そんなわけないでしょ! 純粋な親切心からよ! ていうかあんた、咲夜にチクるわよ!」

「ちょっと、チクったりしてみなさい! ただじゃおかないから……!」

 怒涛の言い争いをぽかんと眺めていると。

「痛――」

 首に鋭い痛みが走った。見ると、慧音の手から脱出したルーミアが俺の首に噛み付いていた。

 引き離さなければ、という思考より、あぁこれがルーミアの唇の感触なのか、という感動が真っ先に起こるあたり俺も大概酷いな、と思った。

「ルーミア!!」

 慧音が血相を変えてルーミアを引き離しにかかる。そのとき慧音の頭の部分を黒いもやのようなものが覆い隠した。おそらくルーミアの能力だろう。

 必死にもやを取ろうとするが、手でいくら振り払おうとしても実体がないのではそれも出来ない。そうこうしている間にどんどんルーミアの噛む力が強くなってきた。さすがに痛いし、首の部分を噛み千切られると命の危険があるので止めた方がいいのだろうか……。

「る、ルーミア。そろそろ痛いから止めて欲しいんだけど……」

 ぷは、とルーミアが口を離した。

「んー、嫌なのか?」

「さ、さすがに肉を食いちぎられるのはちょっと……」

「なんでだ? どうせすぐ死ぬのなら私に食べさせてくれてもいいのに」

「え?」

 聞き返したが、ルーミアが何か反応する前に横から伸びてきた両手がその顔を挟み上げた。

 慧音がまとわりついた闇を取り除くことを諦めて、直接ルーミアを攻撃することにしたようだ。万力のようにぎりぎりとルーミアの頭を締め付けると、さすがのルーミアも苦悶の声をあげた。

 徐々に薄くなってきた闇の透き間から「ふふふふふふ」と笑い声が漏れてくる。

「悪い子はおしおきだなぁ……ふふふ……」

 慧音さんがご乱心です。めっちゃ恐い。

 戦慄する俺を余所に、慧音が大きく上半身をのけ反らせた。そのまま反動を生かしてルーミアの頭に自分の頭を叩きつける。

 ゴキン、と耳にするだけで痛そうな音がした。ルーミアが力無く手足をだらりと垂らしている。一発KOだ。

「ルーミアァ? ねんねするのはまだ早いぞぉ。人様に迷惑をかけるなとあれほど言っただろう? ほら、起きなさい」

 ぺちぺちと慧音がルーミアの頬を叩く。これ以上はやめさせたかったが恐怖で声が出ない。

 ふと自分の首に指を当てる。少しねばついたものが指先についた。その指をまじまじと見つめる。……こ、これがル、ルーミアの……。

「なぁなぁ」

 そのとき後ろから声を掛けられた。

 自分の部屋でHなサイトを見ていて親に入ってこられたときのような素早さで指を下ろし首を回して後ろを見やると、魔理沙がニヤニヤ笑いながら俺を見下ろしていた。

「今噛まれたのも変態的にはどうなんだ? やっぱり嬉しいのか? もしかして痛いのが好きとかいう変態のアレか? なぁどうなんだ?」

 まるで俺の反応を楽しむかのように変態変態と連呼する。完全に面白がっている。

 俺は指を魔理沙の視線から隠しながら「いやそれは……」と言葉を濁すことしか出来ない。

「なんなら私が噛んでやろうか?」

「……え?」

 突然真顔で言った魔理沙を見返す。目と目が合ったまま二秒ほど経って、魔理沙が吹き出した。

「んなわけないだろー! なに本気にしてるんだよ。しかもちょっと嬉しそうだったし」

 お腹を抱えて魔理沙が笑いだす。くそう……人の心を弄びやがって。でもやっぱり何も言い返せないので視線を地面に落とすことしか出来ない。

 霊夢とレミリアが言い争い、慧音がルーミアに折檻をして、魔理沙がげらげらと笑う。

 なんだこのカオスな空間。というかこの人達は何をしに来たんだ。

 魔理沙が怪しそうな薬を飲め飲めと迫ってくるのを拒否しながら漠然と考えたとき。

 ゴォォォォォォォ、と雷鳴にも似た轟音が周囲に響いた。花園が明るく照らされる。本当に雷でも落ちたのだろうかと空を見回すと、光の柱のようなものが夜空を貫いていた。

 幻想郷の雷は形状が違うのか? いやそうじゃない。こんな晴れた日に雷が落ちるわけがない。あれは空から降ってきているのではなく、空に向かって放たれたものだ。

 視線が自然と柱の根元を追う。

 ――広場の入り口、そこに彼女が居た。見覚えのある赤いチェックのベスト。右手を天に掲げ、風見幽香が確かにそこに立っていた。

 やがて光が消えると、辺りは静寂に包まれた。幽香が少しずつ近づいてくる。誰も何も喋らないどころか身じろぎひとつしない。

 幽香の右手がまだ光っているように見えると思ったら、ランタンを持っているようだ。反対の手にはバスケットを持ち、小脇にブランケットのようなものを挟んでいる。

 幽香が俺達の前で止まった。ランタンの明かりが幽香の顔を下から照らす。笑っていた。

「あなたたち――」

 死刑宣告を下すときの声というのは、おそらくこれ以上ないほど優しい声色なのだろう。まさしく今その気持ちを味わっているのだから。

「ここが何処で、いったい何時なのかを分かったうえで、騒いでいるのよね?」

 ニッコリと首を傾げる幽香に、誰も返事をできなかった。

 

 東屋の下で横一列に立たされた俺達を眺めながら、幽香は呆れた様子で溜息を吐いた。というか何故俺も立たされているのだろう。

「で、あなたたち何しに来たの?」

 一番端の霊夢から順に答えていく。

「私はその、様子を見に……」

「その付き添いだぜ」と魔理沙。

「私も様子を見にきただけだ。話したいこともあったからな」

 慧音が言った後にルーミアが「付き添いー」と手を上げる。

 最後になったレミリアに皆の視線が集まる。やはりレミリアがひとりでわざわざ出てきたことは相当珍しいことだとみえる。

 腕を組み、傲岸で尊大な姿勢は崩さず(それでもきちんと立っているのは真面目なのか殊勝なのか)、レミリアが言った。

「ただの散歩の延長よ」

「……本当に?」

 幽香が疑わしげな目を向ける。

「ええ。噂は耳に届いていたしね」

 涼しそうな表情で答えているが、さっきは誰かに頼まれたとか言っていたような。てっきり霊夢だと思ったが反応を見るに違うみたいだ。

「とにかく」

 幽香が目を閉じて眉間に人差し指を当てた。

「様子を見にくるのは構わないけれど、それで当人そっちのけで喧嘩を始めたり、本来ならば窘めるべき立場の人が一緒になって騒ぐというのはどうかと思うのだけど」

 霊夢と慧音が「うっ」と呻く。

「ちなみにさ、幽香はなんで来たんだ?」

 魔理沙がテーブルに置かれたバスケットを見ながら聞いた。霊夢と慧音以外は反省している様子はない。

「ああこれ? 彼に夜食と、あと毛布を持ってきたのよ」

「夜食! 食べていいか!?」

「彼にって言ってるでしょ」

 魔理沙が俺の方を向いた。

「なぁなぁ、私も食べていいだろ?」

「え、あ、まぁ、俺は構わないです、けど」

 幽香の顔を伺うと諦めたように息を吐いていた。

「あなた、人が良いというか、本当に変わってるわね」

「そりゃ変態だからなー」

 上機嫌になった魔理沙がバスケットの蓋を開け始める。いつの間にかルーミアもその隣で待ち構えている。そんなにお腹が空いていたのか。それより幽香が俺のために夜食を作ってくれて、しかも毛布まで持ってきてくれるなんて……。感涙に咽び泣いてしまいそうだ。

 慧音がすっと俺の側までやってきた。気まずそうに目を伏せながら口を開く。

「その、さっきはすみませんでした……」

「あぁいや、こちらこそなんかすみません……」

「あなたが謝ることではありませんよ。それよりも、私がここに来たのはあなたにきちんと謝罪したくて来たんです」

「え?」

「先日の一件、あなたには多大なご迷惑をお掛けしました。一時の激情に任せ、暴言を浴びせさえしました。それでもあなたが私を止めてくれたからこそ、今私はこうやって変わらず暮らすことが出来ているんです。だから、正式な謝罪と改めての感謝をお伝えしたく、ここに参った次第です」

 申し訳ありませんでした、そして本当にありがとうございました。慧音が深々と頭を下げる。

 俺は慌てて姿勢を低くして両手を振る。

「い、いや別に俺は気にしてませんし、大丈夫ですから!」

 一向に顔を上げる気配のない慧音にどうしていいか分からず困ってしまう。と、続いて霊夢が近づいてきた。

「あの、私も謝らなきゃって思ってて……」

「……え?」

 躊躇いがちにぽつりぽつりと霊夢が話す。

「あなたが外に戻る為に、私の一方的な考えを押し付けようとしてた。勝手に思い出作りをしようとしたり、霖之助さんに雇うのを止めるようお願いしたり……。結果、余計にあなたを苦しめることになった」

 慧音が頭を上げて霊夢を見る。今度は霊夢が深く頭を下げた。

「ごめんなさい。私、あなたの気持ちを全然解ってなかった」

 慧音に続き霊夢にまで頭を下げられて、逆に俺の方が申し訳ない気持ちで一杯だ。

 俺は精一杯の勇気を振り絞って霊夢の肩に手を置いた。素肌の部分ではなく、襟元の布で覆われている部分に触るのはチキンではなく紳士だからだ。

「顔を上げてください」

 霊夢がゆっくりと顔を上げる。悲しそうな表情だ。こんな顔は見たくない。

「昨日のことは全然気にしてない――というかむしろ嬉しかったし、楽しかったです」

「そんな……」

「嘘じゃないです。だって霊夢さんが来てくれなかったら香霖堂にもアリスさんの家にも行けなかったんですよ。連れていってもらって感謝してるくらいです」

「…………」

 俺は慧音にも目を向ける。

「俺、幻想郷に来れて嬉しいって言いましたよね。本当に嬉しいんです。ここで自分が体験する全てのことが、ドキドキすることばっかりで、こんなに楽しいって思えたのは生まれて初めてなんです。それがたとえどんな出来事でも」

 それは嘘でも世辞でもなく、紛れも無い本心だった。

 幻想郷で見たもの、触れたもの、感じたもの、その全てが新鮮な感動を伴い、俺に充実感を与えてくれた。俺の人生だって捨てたものじゃないと、改めて教えてくれた。

 ましてや彼女たちがやったことは私利私欲の為ではなく、他者を思いやってのことだ。その行為をどうすれば咎めることが出来るだろうか。

「……本当、ですか?」

 尋ねる霊夢に、笑顔を作って頷き返す。

「もちろんです」

 ほっと安堵の表情になったのも束の間、なにやら逡巡する素振りを見せたあとに霊夢がおずおずと聞いてきた。

「じゃあ、あの、その……早まったことは、しませんか……?」

「? 早まったこと?」

「……自殺、とか」

「じ――え?」

 なんで急にそんなことを……。それよりも、なんで霊夢が知ってる? 紫が話したのか?

「………………」

 全員の視線を感じる。さっきまでサンドイッチを食べるのに夢中になっていた二人でさえ、俺の方に注目している。

 まさかと思うが、全員それを知っていたのか。俺がここに来た理由も、戻ったあとに自殺するかもしれないってことも。……だから、今夜俺の所に来てくれた?

 霊夢と慧音が心配そうに俺を見つめている。レミリアも魔理沙もルーミアも幽香も、誰もこの場を茶化すことなく真剣に成り行きを見守っている。

 俺はなんと答えればいい? 否定すべきか、肯定するべきか。彼女たちに泣きつけばいいのか、強がってみせればいいのか。俺は……。

「いきなり何言ってるんですかー」

 笑い飛ばした。

「自殺? そんなのするわけないじゃないですか。せっかく憧れの幻想郷に来れたのに、死ぬなんて馬鹿馬鹿しい」

「でも、戻ったら死ぬかもしれないって……」

「あぁ、それ嘘です。そう言っておけばここに残してくれるんじゃないかなーって思いまして」

「本当に?」

「当たり前じゃないですか」

 口角をあげて出来るだけ自然な笑顔を心掛ける。頼む。気付かないでくれ。

 しばし霊夢と見つめ合う。これ以上はわざとらしくなるので喋りたくない。笑顔を保つのもそろそろ限界だ。

「ほらー、だから言っただろー」

 場の空気を打ち破ってくれたのは魔理沙だった。

「こんなヘタレそうな変態が、自殺なんて出来るわけないんだって」

 散々な言われようだがとりあえず笑っておく。

 霊夢が落ち込んだ様子で答える。

「だって、妹紅と話してるとこ見たし、ルーミアだって……」

 ルーミアがどうかしたのか。俺がルーミアの方を見ると一瞬目が合ったが、すぐにサンドイッチを食べる作業に戻っていった。

「まぁまぁ」

 慧音が俺と霊夢の間に入る。

「本人がこうやって言ってるんだ。私達がどうこう言う筋合いはないさ。それに、これだけの人数の前で言い切ったからには、そうそうヘタなことはしないよ。ですよね?」

「え、あ、まぁ……」

「はい、この話はおしまい」

 ぱんぱん、と慧音が手を叩く。

 霊夢はまだ納得いってないようだったが、それでも少し表情を緩ませたところを見ると、なんとか誤魔化せたのかなと思う。

 魔理沙がニッと笑う。

「さて、無事一件落着ってことでさ、せっかくだから飲もうぜー」

「飲むってあんた、私達酒なんて持ってきてないけど」

「そこはほら、ここの家主さんがさ」

 魔理沙に視線を向けられて幽香があからさまに嫌そうな顔をした。

「だったら魔理沙が家から持ってくればいいでしょ」

「一番近いの幽香だろ~。私は準備しとくからさ」

 そう言って帽子を脱ぎ、中からゴザを取り出した。そんなものまで入れていたのか。

 幽香は一度だけ息を吐いてから立ち上がった。

「日本酒だけでいいの?」

「酒ならなんでもいいぜ!」

「ワインを所望するわ」

 レミリアが横から口を出す。彼女も参加するつもりらしい。幽香はもう何も言わなかった。

 東屋を出て行く幽香の後を慧音が追いかける。

「私も手伝おう」

 二人の背中に魔理沙が思い出したかのように声を投げた。

「あ、おつまみもよろしく~」

 幽香の溜息がここまで聞こえた気がした。それでもちゃんと用意してくれるのが幽香の優しいところだろう。現に俺の為に夜食や毛布まで持ってきてくれているのだから。

 魔理沙と霊夢が花畑の上にゴザを敷き始める。更には座布団やおちょこなども取り出してきて、あっと言う間に簡易な宴会場が出来上がった。

「その箱もこっちに持ってきてくれー。先に食べてようぜ」

「あ、はい」

 俺がサンドイッチの入った箱を取ろうとしたとき、椅子に腰掛けていたルーミアと目が合った。

 無表情な彼女の瞳はどこか冷たく、俺を軽蔑しているようにも見える。

「……嘘つきだな」

 ルーミアはぼそりと呟くと、椅子から飛び降りて霊夢たちの方へ歩いていった。

「…………」

 嘘でも何でも、あれ以上霊夢を悲しませない為にはそうするしかなかった。だけど、こうやってそのことを指摘されるのはつらいものがある。

「言ったでしょう」

 気付くと隣にレミリアが立っていた。

「運命なんて簡単に変えることが出来る。自分の言葉を真実とするか嘘とするか、決めるのはいつだって自分よ。そのことを努々《ゆめゆめ》忘れないことね」

 それだけ言うと、レミリアも霊夢の方へ向かっていった。

 ひとり東屋の下に取り残され、レミリアの言葉を胸中で反芻する。

「運命を……変える……」

 俺みたいな人間でも、そんな大それたことが出来るのだろうか。

 いや、やらなきゃいけないんだ。自分の口から出た言葉にくらい責任を負うべきだ。

 何よりも、霊夢に『嘘つき』なんて言われたくない。

 生きる動機なんてそんなもので十分なのではないだろうか。

 

 幽香と慧音が酒と食べ物を持って戻ってきてから宴は開始された。宴会、というよりは落ち着いた飲み会のような雰囲気で、騒々しいのに慣れていない俺としては博霊神社のときよりも過ごしやすかった。

 世間話や愚痴、どうでもいい笑い話を交えながらお猪口を傾ける。月に照らされた花々がゆったりと花弁を揺らしている。花見酒、月見酒の何がいいのかと思っていたが、なるほど、確かに風情があっていいものだ。ここが幻想郷だからというのもあるが。

 俺は時間を忘れて彼女たちの雑談に聞き入っていた。拗ねた声、笑い声、呆れた声、優しい声、涼しい声……その全てを自分のなかに刻み込むように。

 今、幸せですか? と聞かれたら、強く頷いて『はい』と答えるだろう。

 明日がどうとか関係ない。今この瞬間、間違いなく俺は幸せだ。憧れの土地で憧れの少女たちと一緒にゆっくりと酒を飲む。これを幸せと言わずに何と言う。

 一杯、また一杯と飲むにつれ、頭がぼんやりとしてきた。

 周りを見ると、酔いも回って眠いのかうつらうつらとしている者もいる。ルーミアは毛布に包まって慧音の膝で寝息を立てていた。

 俺の口から自然と言葉があふれでた。

「今日は、本当にありがとうございました」

 皆が静かに俺に視線を向ける。それぞれの顔を見るのはなんだか照れ臭くて、ゴザの真ん中当たりに目をやりながらゆっくりと言葉を紡ぐ。

「最後の夜がこんなに楽しいものになるなんて思ってもみませんでした。俺みたいなのには勿体ないというか申し訳ないというか……皆さんには感謝してもしきれないくらいで……」

 誰かが小さく首を横に振っているのが目の端に映った。曖昧に笑って返す。

「知ってますか? 俺の世界では半年に一回大きな祭りがあって、その祭りで幻想郷のことを取り扱うんですけど、そこに全国から20万人近い人達がやってくるんですよ? 早朝から何時間も並んで、トイレも我慢して……暑くても寒くても、雨が降っても風が強くても、皆あなたたちに会う為に集まってくるんです。別にそこまで無理しなくてもいいんですけど……でも毎回つらいと思っても、半年経ったらまた行かなきゃってなるんですよね。馬鹿だなぁって自分でも分かってるんですが」

 20万人、と聞いて驚いたような息が聞こえた。里だって百人規模だろうし、その多さを想像すら出来ないのだろう。まぁ実際は東方目当てだけで20万人ってわけでもないが、そんなことはどうでもいい。俺が彼女たちに伝えたいのはもっと違うことだ。

「そんなに多くの人が、この幻想郷に憧れ、ここに住むあなたたちに好意を持ってるんです。それってすごいことだと思いませんか? 年齢も性別も国境すらも越えて、人を惹き付ける魅力があるんです、ここには。思うんですけど、地球上の全ての人が東方の二次創作を見て感動できるなら、きっと争いなんて起きないんじゃないかなぁって」

 幼稚じみた戯れ言が口をつくのは酔っているせいだろう。こんな妄想シラフで言えるわけがない。

「俺、ここに来たこと一生忘れません。帰ったら覚えている限り文字に起こして、知り合いに自慢してやるんです。『幻想郷に行ってきたぞ!』って。たぶんおかしな人扱いされますけど」

 控えめな笑い声が耳に届く。話を笑ってもらえるのは嬉しい。相手も楽しんでいる証拠だから。

 俺は姿勢を正座に直し、両手を拳にしてゴザにつけた。

「なんで、ちゃんと元の世界に帰ります。危ないこともしません。だから安心して見送ってください。これまで本当に、お世話になりました――」

 ごつん、とおでこをゴザに叩きつける。酔いのせいか痛くはない。しばらくそのままでいると、幽香の声が聞こえた。

「あなた、頭を下げてばっかりね。そこの巫女や魔法使いみたいにもう少し横柄に生きてもバチは当たらないわよ」

 その言葉にピクリと霊夢が反応する。魔理沙はすでに寝ているようで座ったまま頭を垂らしている。

「……それって誰のことかしら?」

「あら、まだ起きてたのね。ごめんなさい、つい本当のことを」

「いや、あんたには言われたくないんだけど」

 毒づき合う二人を見て思わず笑ってしまった。

 やっぱり東方はおもしろい。きっと、ずっと、それは変わらない。

「あぁそうだ」

 俺はゴザの上を這って霊夢の所に行く。ポケットから財布を取り出し、残っていたお札を全部霊夢に手渡した。

「え、え!?」

 霊夢が驚いたように札と俺とを見比べている。

「少ないですけど、お賽銭です。どうぞ」

「い、いや、少ないって、こ、こんなに――」

 ぱくぱくと口を開けたり閉じたりする霊夢が可愛くてニヤニヤしてしまう。

「霊夢だけなんて贔屓じゃないかしら」

 幽香が「ねぇ」と周囲に投げかける。

「生憎とお金には困ってないわ」

「私も、特に不足していないな」

 レミリアと慧音が答えるのを聞いて、やれやれと幽香が首を振った。

「皆ノリが悪いわねぇ」

「えっと、すみません……」

 俺が代表して謝ると、幽香がきょとんとした後に笑った。

「あなたまでノリが悪いの? 別に怒ってるわけでも不満があるわけでもないわよ。どうせ霊夢が貧乏だから施してあげてるだけでしょ」

「施すって……いやまぁ、霊夢さんが貧窮するのをを見過ごせないっていうか……」

 そのとき、「うーん」と唸り声をあげて霊夢が倒れた。

「れ、霊夢さん?」

 霊夢は気を失っているのか仰向けになったままピクリともしない。

 大丈夫なのだろうかと様子を伺う俺に幽香が言う。

「酔いが回ったのと大金をもらったせいで頭がパンクしたんでしょ」

「はぁ」

 それはそれで悪いことをしてしまった。こっそり賽銭箱にでも入れておく方が良かったか。

 ただ、霊夢の顔を嬉しそうだった。あと、お札は離さないようにしっかりと握り締めていた。

 その後も幽香や慧音と何か話した気がするが、気が付いたときには俺の意識も深い闇の中へ沈んでしまっていた。

 目を覚ましたときには、すでに日が高く昇っていた。

 

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