目蓋の裏から明るさを感じ、静かに目を開く。眩しい。昨夜の酒が残っているのか頭のなかがぼんやりとしている。頭痛がしないだけまだマシか。
皆はどうしたのだろう、と首を動かそうとして、ふいに俺の顔に影がかかった。
「おはよう。と、言ってもそろそろお昼だからこんにちはの方がいいかしら」
日傘を差して俺を見下ろしているのは、八雲紫だった。
眠気が一気に吹っ飛んだ。すぐさま体を起こし、身体のだるさに辟易しつつ紫を見上げた。
「あらあら、随分嫌われちゃったわね」
目を細めて紫が笑う。別に嫌いというわけではない。ただ現状会いたくないというだけだ。
「何しに来たんですか……?」
「タイムリミットを知らせに来たのよ。さ、お家に帰りましょう?」
「え、もう!?」
寝起きでいきなり言われても心の準備が出来ていない。帰る決意は固めたが、こんな慌ただしく帰らされるとは思っていなかった。
「せ、せめてもう少し待ってくれませんか? 帰るのはちゃんと帰りますから、最後に挨拶回りだけでも――」
「ダーメ」
紫が手袋をはめた白い指をチッチと振る。
「十分楽しんだでしょう? 本来なら迷い込んだ時点で送還されていてもおかしくなかったのよ。夢が覚めるのは早い方がいいわ。視れば視るほど帰りたくなくなってしまう」
その口調は柔らかいものの、決して譲らない意思の強さを感じる。俺が何を言おうが無駄なのだと。
「あれ、そういえば他の人達は……?」
気付いたら周りに誰もいない。宴会の片付けはされているようで、この花畑にはゴザと俺と、俺に掛けられていたらしい毛布だけだ。
「とっくに起きて何処かに行ったわ。ここにはあなただけよ」
見送って欲しいというわけではないが、誰もいないとなると寂しいものがある。
「さて、そろそろいいかしら?」
紫が俺を見やる。一刻も早く俺を帰したいらしい。どうせ嫌だと言っても聞き入れてくれないのだから、いっそさっさとやってくれればいいのに。
不承不承頷こうとして、ふと気になることが出てきた。
「あの……」
「何?」
「元の世界に戻っても、俺の記憶とかってなくなったりしませんよね?」
想像するだけでも恐ろしい。幻想郷に来た記憶も思い出も何もかもを忘れて外に戻るなんて、それは何という地獄だろう。
記憶がなくなってしまうのなら、それこそ今ここで死んでしまった方が救われる。
「…………」
紫は黙ったまま俺を見つめた。嫌な間だ。胃がきりきりと締め付けられる。
「大丈夫よ。ちゃんと覚えているわ」
にこりと笑う紫に、ほっと安堵の息を漏らす。よかった……。最低限のところは守られた。
俺はゆっくりと腰を上げた。靴下のままの自分の足に気付いて、靴を履きに行く。
「あ……。俺の乗ってた原付と、あと鞄があるんですけど」
「その辺も心配しなくていいわ。あの廃墟ごと一緒に送ってあげるから」
さすがは大妖怪。事もなげに言ってくれる。
だがまぁ、これでとりあえずは準備が整った。あとは紫が俺を送るだけだ。
靴を履き終えて、紫を見る。紫が無言で頷いた。いよいよか。
寂寞とした虚無感を味わいながら、覚悟を決めて拳をぎゅっと握る。さぁ来い。どうせだったら隙間の中をじっくり観察してやる。
そのとき、一陣の風が吹いた。俺の髪がばさばさと波打つ。舞い上がる砂ぼこりに思わず目をつぶった。
「―――まぁまぁ、そんなに急がなくてもいいじゃないですか。もうちょっとだけ待ってくださいよ」
声は俺のすぐ前から聞こえてきた。
弱まる風のなかうっすらと目を開けると、そこには黒い翼を広げて俺を庇うように射命丸文が立っていた。
紫はさして驚いた様子もなく文を見返している。
「あら、存外早かったわね。あんまり遅いものだから来ないかと思ったわ」
「多分そんなことになってるだろうって霊夢さんが言ったから、私が先に見に来たんですよ」
「ひどいわぁ、私ってそんなに信用されてないのかしら」
わざとらしく科《しな》を作る紫をじと目で見ながら文が呟いた。
「そういうこと言うからじゃないですかね」
文がくるりと俺の方を向いた。
「お久しぶりです。今霊夢さんたちもここに向かってますから」
「え? あの、いったいどういう……」
いまいち状況が理解出来ずに文に聞こうとしたが、「あ、そうそう!」と文は自分の鞄を漁りだした。
そして写真を数枚取り出すと、俺に差し出してきた。
「すみません、お渡しするのが遅くなって。良さそうなのを見繕ってきたので、どうぞお受け取りください」
写真には、向日葵畑が写っていた。夕日をバックに花畑を一望したものや、花の近くから青空を仰ぎ撮影されたもの、月明かりに照らされてひっそりと佇んだものなど、場所も時間も様々だったが、そのどれもが綺麗で魅力的な構図だった。
「あ、ありがとうございます……!」
そういえば文に太陽の畑の写真が欲しいってお願いしていたんだった。忘れずにこうやって持って来てくれるなんて、感謝してもしきれない。これで思い出の品が出来た。
「いえいえ」と文が笑顔で言ったあと、急にキョロキョロと空を見回したあとササっと俺の真横までやってきた。
胸ポケットから一枚の写真を裏向きに見せつつ、俺にぼそりと言う。
「ちなみになんですが、これ霊夢さんの着替え写真なんですよねぇ……」
「!?」
「……いくら出します?」
その表情はさっきまでの爽やかで優しい文のものではなく、邪悪で金に汚いマスゴミそのものだった。
「だだだ、ダメですよ、そ、そんなの」
「綺麗事はナシにしましょうやぁ。ほらほら、自分に正直になってくださいよ」
写真を表に返し、顔の部分だけを俺に見せる。そんなの欲しいに決まってるだろ! だが、だがしかし――。
俺の良心と悪心が殴り合いを始める。素直になれよ。霊夢が嫌がることをするのか。バレたらどうする。どうせもう帰るんだしいいだろ。
「あ」
「ん? 買う決心つきました?」
「……もうお金ないんでした……」
昨夜の飲みで霊夢にお札を全部渡したから、あとは小銭が少ししか残っていない。
途端に文が俺から離れた。チッ、と舌打ちのような音まで聞こえる。なんというかあんまりだ。
文がその写真をしまう前に、紫がひょいと取り上げた。
「な――」
「じゃあ私が買い取ってあげるわ」
写真をなめるように見たあと、自分の胸元に差し入れた。
「お代は、あとで藍に菓子折りでも持っていかせるとするわ」
「そ、そんな……」
「何か文句でもあるの?」
「い、いえ、ないです……」
消沈しきった文を見て、やっぱり悪事はするものじゃないな、と思った。
紫が俺の手元の写真も見ていた気がしたが、気のせいか。別にこの写真はやましいものじゃないし、咎められる覚えなどない。俺は写真をジャケットの胸ポケットにしまいこんだ。
「――――紫ーっ!」
そのとき、遠くから声が聞こえてきた。
振り返ると向こうの空から霊夢らしき人影が飛んできていた。何人かがそのあとに続いている。服装や髪から早苗たちだということが推測された。
「お、魔理沙さんたちも来たみたいですね」
文の言葉に視線を移すと確かに魔理沙や慧音と思しき人達の姿を確認できた。こちらも何人か連れてきている。
…………。
ん? そもそも何故あんなに大勢の人と一緒に俺の方に向かってきているのだろう。
「あの、射命丸さん……皆どうしてこっちに来てるんですか?」
「え? あなたの見送りじゃないんですか? って霊夢さんが言ってましたけど。来れなかった人もいるようですが」
「み……え? え?」
わざわざ俺なんかを見送る為に他の人を呼んできてくれるなんて、感謝するよりも先に謝りたくなる。でも、すごく嬉しい。
「紫! あんた何しようとしてたの! まさか先に送ろうとしてたんじゃ――」
到着した霊夢が剣幕を強めて紫に詰め寄る。
「別に何も? ただ世間話をしていただけよ。ねぇ?」
のらりくらりと受け流しながら俺に同意を求める紫に、俺は曖昧に頷いて返した。
霊夢は釈然としない様子だったが、これ以上追求しても無駄だと悟ったのか紫から離れていった。
「こんにちは! 先日ぶりですね」
挨拶をしてきたのは早苗だった。後ろには諏訪子と神奈子もいる。
「あ、あぁ、どうも……」
ぺこりと会釈をする俺の手を早苗がぎゅっと握った。
「!?」
突然の行為に体が硬直する。と、早苗は握った手に何かを持たせた。
「これ、うちの御守りです。向こうに戻ってもお体に気をつけてください」
御守りには『安全祈願 守矢神社』と刺繍がされてあった。俺がお礼を口にする前に、横から声が飛んでくる。
「ちょっと早苗、待った待った! 私も渡すんだから!」
ばたばたと霊夢が俺の方へ駆けてきて、一枚の紙を手渡してきた。
長方形の白い紙。外側は包みになっているようで、中を開けてみると御札が数枚入っていた。
「これを家の玄関に貼っておくと、変なのが寄ってこなくなりますから。あとは丑寅の方向に貼ると運気が上昇して――」
「……あ、ありがとう、ございます……」
俺は御守りと御札を見つめながら、小さく言葉を返した。
嬉しかった。俺のことを気に掛けてくれただけではなく、こんな贈り物までしてくれる二人の優しさが温かかった。
「おーーーい!」
上空から大きな声と共に魔理沙が降りてきた。一緒にいるのはアリスと霖之助と……。
「ミスティアさんに、響子さん?」
「いえーい、元気してるー?」
Vサインをしながら響子がニカっと笑う。ミスティアも微笑んで会釈をしてくれた。
二人の服装は先日の夜に会ったときとは全く違っていた。ミスティアはゴシックなドレスに厚底の靴。響子は黒い浴衣のような服で、袖をベルトで縛っている。裾が短くて一瞬ドキっとしたが、下に短パンを履いているようだ。二人とも首にチョーカーを巻き、襟の所にサングラスを引っ掻けている。
そして一番目を引いたのが、二人の持っている物だ。ミスティアはエレキギター、響子がマイクを携えていた。
「私達の歌を届けに来ました」
「今日は思いっきり出しても叱られないからね!」
それを聞いた何人かは苦笑いを浮かべていたが、本人たちはそんなこともお構いなしにチューニングを始めた。アンプなどは見当たらないが大丈夫なのだろうか。
「や」
霖之助がこっちに近づいてきた。
「短い間だったけど助かったよ。あ、そうそう、少ないんだけど君の働いた分のお金を渡そうと思って」
ごそごそと鞄を漁る霖之助を制止した。
「だ、大丈夫です! 大したことはやってないですし、もらう訳には……」
「しかし……」
顎に手をあて考えた後、霖之助が言った。
「わかった。じゃあ君が次に来るときまでこのお金はとっておくことにするよ」
「え?」
「次来たときも、僕のお店を手伝ってくれるんだろう?」
優しく微笑む霖之助を、俺は見返すことが出来なかった。
霖之助だってそれが気休めでしかないことは分かっているはずだ。それでも俺を少しでも慰める為に言葉を掛けてくれている。
その気遣いが、今はちょっと痛い。
「そう、ですね……出来るのなら……」
ぼそりと呟いたとき、甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。
「ちょ、ちょっと! 魔理沙押さないでよ!」
顔を上げると魔理沙がアリスの背中を押しながら俺の方にやってきた。
「お前がさっさと行かないからだろ。ほら、ちゃんとしろ」
突き出される形でアリスがわたわたと俺の前に進み出た。手には大きなトランクを押している。どことなく動きがおかしいのは気のせいだろうか。
…………。
気まずく向かい合ったまま二秒程、アリスが髪をかき上げてつんと言った。
「まさかこんなに早くお別れになるなんてね」
「そ、そうですね」
「…………」
また沈黙。どうも変だ。
「ほらほら~、時間ないんだからさ~」
と、魔理沙がアリスの背後から何かを引っ張り出してきた。
二体の上海人形だ。ただいつもと服装が違う。一体は優美な薄桃色のドレス、もう一体はタキシードを着ていた。タキシードの方は髪を後ろでひとつにまとめている。二体はさながらパーティでダンスを踊るペアのようだ。
「魔理沙!」
「最後に人形劇を見せたいって言ったのはアリスだろー。何を照れてんだか」
「だ、だって、あの子たちが歌うなら私の人形なんか無くたって……」
はぁー、と魔理沙が大きく溜息をついた。そして俺の方を見て、顎をしゃくる。
「おい変態」
「は、はい」
「アリスに一言」
「え?」
「一言」
魔理沙に凄まれて気圧される。一言って言われても何を言えばいいのか。でも、本当にアリスが俺の為に人形を持ってきてくれているのなら、素直に嬉しい。どうせなら最後に見たいというのが本音だ。
俺はアリスの方を見た。
「あの、アリスさん」
「な、なに?」
「鳥獣伎楽の二人の歌と一緒にアリスさんの人形劇も観れるなんて、俺にとって最高に豪華なことなんです。やりづらかったりするかもしれませんが、是非観させてもらえないですか?」
「…………」
アリスがくるりと背を向けた。
「あの子たちと打ち合わせしてくる」
微かに頬を紅潮させて呟いた。その後ろ姿が可愛くて嬉しくて、思わずニヤニヤしてしまう。いかん、こんなことだから変態呼ばわりされるんだ。
「どーーーーんっ!!」
「――――」
突然後頭部と肩甲骨辺りに衝撃が加えられる。バランスを崩してこけそうになるのを堪え、首を動かすと見覚えのある水色の服が見えた。
チルノは俺の頭の上から逆さまに顔を出してきた。思った以上に軽い。飛んでいるからだろうか。おまけに触れている部分がひんやりとして気持ちがいい。
「聞いたぞー。もう帰っちゃうのかー」
「え、あ、うん」
「まだ決着がついてないのに」
「ご、ごめん」
どう考えても200%俺の負けでしたけど。残念そうなチルノだったが、すぐに明るく笑った。
「まぁいいや。あたいってば物分かりがいいからね。仕方ないことでくよくよ悩んでも仕方ないってけーねも言ってたし。はい、これあげる!」
チルノが手を差し出してきた。俺は右手をお椀の形にしてそれを受け止める。石だった。川べりでよく見かけそうな普通の丸い石。それがじゃらじゃらと俺の手の中で小さな山を築いた。
「あたいが集めた宝物なの! 綺麗なの見つけるの大変なんだよ!」
そう言われてみればどの石も表面がすべすべしていて模様もバリエーションに富んでいる。俺も小学校の頃は帰り道でこういう石を拾ったりしていたものだ。
「ありがとう。大切にするよ」
どんな小さな石ころだって、チルノから貰った物だったら俺にとっても宝物だ。道端に宝石とチルノの石ころなら、チルノの石を選ぶ。
「あの……私達からも」
後ろから遠慮がちな声が聞こえた。振り向くと大ちゃんとリグルが色鮮やかな花の冠を持って並んでいた。彼女達の後ろには慧音とルーミア、幽香も居た。
「さっき作ったんですけど……」
不安そうな表情の大ちゃんに俺は笑いかける。
「ありがとう。すごく嬉しい」
途端にホッと安堵したように大ちゃんが笑みを浮かべた。俺はしゃがんで花冠を受け取る。左手には御守りと御札、右手には石ころと花冠。こんなに心の底から嬉しい餞別は初めてだ。
「おっと、私も忘れてたぜ」
魔理沙がとてとてと駆けてきて、俺の左手に小瓶を握らせる。小瓶の中身は白い粉のように見える。
「これは?」
「気分が落ち込んだりしたときに鼻から吸い込むとすっげぇ気持ち良くなれる粉なんだけど――」
ばしっ、と慧音が魔理沙の後頭部をはたいた。そして俺の手の小瓶をつまみ上げる。
「没収だ」
「え~、別にいいじゃんか~」
「いいわけないだろう!」
ぶーぶー言いながら魔理沙が離れて行く。それを睨みやったあと、こほんと咳払いをして慧音が俺に向き直った。
「まぁ、その、なんだ……ってチルノ、いい加減降りなさい」
「はーい」
俺の上からチルノが退いた。あぁ、最後の触れ合いが終わってしまう……。心の寂しさをひとり感じながら、チルノの冷たさと感触を脳内のフォルダに記憶しておく。
慧音が再び咳払いをした。視線を若干さ迷わせてから、まっすぐ見つめてきた。
「その、最後になんと言葉を送るべきか悩んだんですが、“ありがとう”でも“さようなら”でもないと思うんです。だから――“また会いましょう”。次は、私が幻想郷中を案内しますから」
「……そう、ですね」
優しく微笑む慧音に、小さくそう返した。
『またね』と言うのはただの慰めだ。次なんてもう二度とない。慧音も霖之助も、俺を気遣って発言しているに過ぎない。
結局みんな、これが最後の別れだと分かっているのだ。ただそれを表に出してしまうと、俺がつらくなるだろうと言わないだけで。
見送ってくれるのは嬉しい。気遣ってくれるのは嬉しい。でも、寂しさだけが膨らんでいく。
そのとき、すっと幽香が俺の前に歩み出てきた。
「レミリアからの伝言よ」
「え?」
「『次に来たときは私の屋敷に立ち寄りなさい。最高級のもてなしで出迎えてあげるわ』だってさ」
「――――」
その言葉を聞いた瞬間、体のなかを涼風が吹き抜けるような感覚がした。重く沈んでいた心がふっと軽くなる。
「ほ、本当ですか?」
「嘘をつく理由がどこにあるの? 昨夜あなたが眠ったあとにレミリアに頼まれたのよ」
「ぅうぉぉおおおおっ!!」
突然の俺の叫びに幽香が身を引いた。皆もどうしたことかと視線を向けてくる。だが今の俺はそんなもの気にならない。
他の誰でもなく、あのレミリアが『次』の話をしてくれた。それがどういう意味を持つのか、俺には分かる。
「ありがとうございます!!」
力強く幽香にお辞儀をする。「え、あ、あぁ」と困惑した様子ながらも幽香が頷いた。
「あらあら、随分と元気になったわねぇ」
声に振り向くと、紫が音も無く俺の背後に立っていた。日傘をくるくると回しながら面白そうに俺を観察している。
「別にどうでもいいでしょう。あなたには関係ないことです」
俺の不機嫌な返答にも眉一つ動かさずに紫が言う。
「そろそろ向こうも準備が出来たみたいよ」
紫が示す方を見ると、マイクとギターを用意した響子とミスティアがスタンバイし、その横では人形劇に使うと思しき木の台と枠が組み上がっている。枠の中には先程見たドレスアップされた二体の上海人形。アリスは台の後ろに隠れているのかここからは見えない。
響子と目が合うと、彼女は手を振るようにマイクを回した。そしてそのままゆっくりと口を開いていき。
次の瞬間。
――――――――!!
体が押される程の衝撃。それが音なのだと気付いたのは足を踏ん張ってからだった。
アンプにもスピーカーにも繋がずに、この広い青空の下で響子は全力のシャウトを響かせる。おそらく響子の能力で音を反響させているのだろうが、それにしてもすごい音量だ。その声を合図にして、エレキギターが荒々しくかき鳴らされる。
それはまるで音の嵐のようだった。騒音と揶揄されるのも分かる気はする。聞いている何人かは耳を塞いだり顔をしかめさせたりしている。これが現代なら間違いなく通報ものだ。俺だって通報する。そもそも大音量で音楽を聞く趣味なんてないし、ライブなんて一度も行ったことすらない。
だが俺には不思議とこの演奏をうるさいと感じられなかった。それどころか全身を貫いていく音が、声が、心地良いとさえ思った。
ミスティアが全身を痙攣させん勢いで右手を動かす。響子が口を大きく開けて空に吼える。何と言っているのかは分からない。ロックなんてまったく知らない。それでも、彼女達の全身全霊の熱い心は伝わってくる。もしかしたらそれが、ロックンロールというやつなのだろうか。
二人の隣に設置された台の上で、上海人形たちが踊りだした。踊り自体は優雅な舞踏会といった感じだが、音に合わせてテンポを速めている。最初は二体だけだった舞台上に、徐々に人形が増えていく。二人一組のペアになり、くるくるとステップを踏む上海人形たち。狭い舞台上であっても誰もぶつかることなくダンスを踊っている。
と、最初に踊っていた二体が舞台から前に飛び出した。下に落ちる、かと思ったが、変わらずそのまま空中でも踊りを続けている。それに呼応するように、舞台の後ろから新しい上海が次々と現れた。この空すべてが舞台なのだと言わんばかりに伸び伸びと踊り始める。
正直なところ、激しいロックに西洋人形のダンスというのはミスマッチではあった。でもそれがどうした。彼女達が放つ情熱や意志の輝きを前にして、そんなものは些細なことだ。
俺の握った拳に汗が滲む。歌を、音を、光景を、俺は全身で受け止めた。彼女達から貰ったこのエネルギーを、絶対に無駄にはしない。
クライマックスが近いのか、曲のテンポがどんどん速くなり、響子の声にも更に力がこもる。それに合わせて上海達も動きを揃えて踊りながら集まってくる。
響子がひときわ大きく叫ぶ。ビブラートを効かせたその声が消えて、エレキが高らかにフィナーレを鳴らす。
――音が止んだ。
歌は終わり、あとには響子の呼吸だけが耳に届く。上海達も舞台を取り囲んで全員がポーズを決めて静止している。
ぱちぱち、と。自然に俺の両手が動いていた。続くようにして辺りからもまばらに拍手が聞こえてくる。
響子がマイク片手に近寄ってきた。顔も首も腕も汗だくで、いかにハードだったかが伺える。
「どう? 私達の魂《ロック》は」
彼女は疲れた様子を一切見せずに、にこやかに聞いてきた。俺は迷わず答えた。
「最高でした」
響子は満面の笑みを浮かべてから、後ろを振り返った。
「おーい! ミスティー、アリスー!」
片付けを始めていた二人が呼ばれてこっちに来る。
タオルで汗をぬぐい、ミスティアが俺に微笑みかけて言った。
「楽しんでいただけたようでなによりです」
「いえ、その、俺の方こそありがとうございました。なんというか、言葉じゃ表せないくらい感動しました」
「当然ね! なんたって私達のライブなんだから!」
ミスティアからタオルを受け取りながら、響子が自信満々に言う。ミスティアが苦笑しながらアリスの方を向いた。
「アリスはどうだった?」
「……どうもこうもないわよ」
アリスは小さく息を吐いた。
「いきなり始まって鼓膜破れるかと思ったし、緩急はデタラメだし歌詞も分からないし」
そこで言葉を切って、ちらりと俺の方を見た。すかさず俺は言う。
「でも、アリスさんのもすごく華やかで見ていて楽しかったです」
「…………」
アリスが踵を返して戻っていく。帰り際に右手を上げた。
「たまにはこういうのもいいかもね。次があるなら曲調に衣装を合わせてあげる」
アリスの向こうでは魔理沙がニヤニヤと笑っていた。
こうして全員が並んでいるところを見るのは壮観だった。
響子、ミスティア、リグル、ルーミア、チルノ、大ちゃん、慧音、幽香、文、神奈子、諏訪子、早苗、霖之助、アリス、魔理沙、霊夢。
これだけの人に見送られるというのは本当にありがたいことだ。俺なんかには勿体ない。と同時に、これでいよいよお別れなのだという実感が湧いてくる。
「向こうに戻っても、お元気で」
霊夢の優しい微笑みに、「はい」と頷いて返す。
紫が隙間を広げた。
「行きましょうか」
隙間の中へと紫が入っていく。俺もあとに続いた。
恐る恐る片足を入れると、地面があるようなないような不思議な感触が靴越しに伝わってくる。中は暗く先が全く見通せない。唯一外の明かりで照らされている範囲も、底知れぬ闇が広がるばかりで何も見えない。
そのままもう片方の足を入れる前に、最後に振り向こうか迷った。でもここで振り向いてしまったら絶対に未練が出てくる。きっぱりと断ち切って先に進むのが一番だ。そう思って飛び込んだ瞬間。
「また遊ぼうねーー!!」
元気な女の子の声。
「今度は一緒に歌お!」
「おいしい八目鰻を用意しておきます」
次々と後ろから声がする。
「次はあのスペカで私とやるから!」
「死にそうになったら食べにいってあげる」
「そういうこと言っちゃだめだよ! あ、私も遊びたいです!」
「今度来たら酒でも飲もう」
「そっちの話も聞かせてよ~」
「それいいですね! 是非!」
「次こそ取材させてくださいよ!」
「待ってるよ」
「いつでも来るといいわ」
「また会いましょう。約束ですよ」
「次はもっと違うのを見せてあげる」
「実験やるから手伝ってもらうぜ~」
「お茶とお菓子くらいならいつでも出しますから」
言葉が飛び交い誰が何を言ったかは分からない。でも、想いは確かに受け取った。
「――――」
俺は我慢出来ずに振り返った。
ある人は微笑んで、ある人は悲しそうに、手を振っている。
視界がにじむ。頬を伝う何かに構わず、俺は叫んだ。
「絶対! 絶対戻ってきます! 幻想郷に!!」
言葉を続ける前に、隙間が音もなく閉じた。完全な暗闇で、俺はうずくまって目尻を指でぬぐう。
もっと居たかった。もっと話したかった。もっと遊びたかった。もっと、もっともっと――。
あふれ出た想いが涙となって次から次へと零れてくる。
これが最後? いや違う。必ずまたここに戻ってくる。何があろうと、絶対に。
「気は済んだかしら」
紫の声が聞こえる。その方向を見上げるが、暗いせいで何も見えない。姿が見えないからなのか、半ばヤケになっていたからなのか、恨み事が口をついた。
「さぞかし愉しいんでしょうね」
「何が?」
「こうやって人間がもがいて悲しむ様を見るのがですよ。あなたみたいに何でも出来るような大妖怪に俺みたいな人間の気持ちなんて理解できないんでしょうね!」
「…………」
紫は答えない。音も光もない空間で、ただ俺の洟をすする音だけが聞こえる。
ぽつり、と。漏らすように紫が呟いた。
「好き好んで演じているわけではないのだけれど」
「え?」
ぽん、と頭の上に手が置かれた。
「え? え?」
突然の行動に戸惑っていると、急に周囲が明るくなった。と同時に息を呑む。上下左右360度すべてにびっしりと並んだ夥しい数の目。それらが淡く紫色に光っているのだ。これまで暗闇だと思っていたが、単にその目が閉じていただけなのだろう。下を向いたときにいくつかの目と目が合ってしまい、ぞわっと腕に鳥肌が出来る。
「ごめんなさいね」
その言葉が何に対する謝罪なのか聞き返す前に、俺の意識は急速に闇の中に落ちていってしまった。
最後に見えた紫の表情は今にも泣いてしまうのではと心配してしまうほど、哀しそうだった。
目を開けて最初に見えたのは、ぼろぼろになっている天井と、あちこちに空いた穴から覗く緑だった。
「ん……」
しめった空気と黴びたような匂いが鼻についた。頭がうまく働かない。仕方なく目だけを動かして周囲を見てみる。
どうやらここは廃墟のようだ。辺りは壊れた家具や道具などが散乱している。
……どこかで見たことがある?
すぐ横に原付が倒れているのに気が付いた。見慣れた自分の原付。無残な状態だ。ミラーは折れ、ライトは割れ、無数の傷が車体に刻まれている。
「――――」
思い出した。と同時に跳ね上がるように立ち上がり、辺りを見回しながら叫んだ。
「紫! 八雲紫!」
呼びかけに反応は無い。俺は急いで廃墟の外に駆け出した。
そこは森だった。人の手の入っていない雑多な森。日は高く昇っており、木々の隙間から木漏れ日が差している。耳慣れたキジバトの鳴き声がどこからか聞こえてくる。
竹林じゃ、ない。
ついにというかやはりというか、どうやら元の世界に戻ってきたようだ。
感傷的な溜息が自然と出てくる。分かっていたこととはいえ、やるせない思いというのはどうしようもない。
廃墟に戻り、落ちていた自分の荷物を拾う。特に中身に変わりはないようだ。
続いて倒れていた原付を起こし、スタンドを立てる。鍵はやはり付いていない。
――ちょっと待て。俺は妹紅と一緒にこの廃墟を訪れたとき、原付を自分で起こしたはずだ。なのに何故また倒れている?
紫がわざわざ元に戻した? いったいなんの為に? いやそもそも原付を起こしたのを紫は知っていたのか? いちいちそんな細かいところまで気を回す必要がどこにある。
自問自答を繰り返した結果、ひとつの事柄にたどり着いた。
「……全部、夢だった?」
霊夢たちの声も仕草も表情も、全部覚えてる。これだけ鮮明に覚えているのに夢のはずがない。夢であって欲しくない。
彼女達からたくさんのものをもらった。生きる勇気も希望も情熱も。それが全部なかったことになるのなんて耐えられない。
「そうだ……!」
俺はジャケットのポケットをまさぐった。最後にもらった選別の品。しかしどのポケットを探しても、ジャケットを裏返して振ってみても、あったのは割れてしまった携帯だけ。お札もお守りも石も冠も写真も、全てが初めから無かったというように消えてしまっていた。
本当に、夢だったのだろうか。これまでのことは俺の妄想が生み出した都合のいい幻だったのか。
「はは――ははは――」
馬鹿らしくなって、情けなくなって、笑いが出る。おめでたいと思っていたが、こんなにおめでたい馬鹿だったとは。夢オチなんて最高に最低だ。
ひとしきり笑い、笑い声すらも出なくなって、廃墟から出た。
帰ろう。帰りたいとは思わないが、ずっとここに居るわけにもいかない。いっそ野垂れ死んでもいいかと考えたが、霊夢との会話が頭をよぎり思い止どまった。夢のなかの話なのにな、と馬鹿馬鹿しくなるが。
坂が緩やかだったこともあり、幸いなんとか車道にまで昇れた。ズボンやジャケットに枯れ葉や蜘蛛の巣がくっついているが仕方ない。
さて、どうやって帰ろうか。携帯は壊れているので誰かを呼ぶことも出来ない。となればヒッチハイクか。都合よくタクシーでも通ってくれればいいんだが。そういえば手持ちは足りるだろうか。
なんの気なしに財布のお金を確かめる。振り込む為に多めに下ろしていたはずの万札が、それどころか全てのお札が、綺麗さっぱりなくなっていた。
「あれ?」
…………。
……。
我慢出来ずに吹き出した。
「――あはっあははははは! そうかそうか! そりゃそうだな! 流石にそれを元に戻したら霊夢に恨まれるどころじゃ済まないもんな!」
勿論俺が気を失っている間に誰かが抜いた可能性だってある。でも俺にとっての答えはひとつだった。
まさか財布のお金が減っていてこんなに嬉しい日がくるなんて思いもよらなかった。
先程までの陰鬱な気持ちは吹き飛び、今日の天気のように晴れ晴れとした感情が胸に広がっていく。
「テンション上がってきた! 走って家まで帰るか? 車が通ったら乗せてもらえるか聞いてみるってことで」
顔が自然と綻ぶ。全身が軽い。力が感情がみなぎってくる。今だったら何でも出来そうな気がする。
暗く淀んだ現実が、こんなにも温かく煌めいて見えるなんて。
会社がどうした。社会がどうした。そんなもの、今の俺にとってはちっぽけなことだ。ましてやそれで死のうなんて馬鹿野郎にも程がある。
俺は駆け出した。一分一秒が惜しい。
会社に早く連絡しないといけないし、原付を回収する算段もつけなければいけない。
大丈夫。どんなことでもきっとうまくいく。なんたって、霖之助や慧音のお墨付きだ。それに、幻想郷の皆が俺を後押ししてくれるなら、どんな困難にだって打ち克てる。
まだ見ぬ明日に想いを馳せ、俺は大きく笑った。
胸を張って『ただいま』と言える日の為に。