肌を撫でるそよ風。草の擦れる乾いた音とどこからか香ってくるかすかな花の匂い。都会暮らしをしていたせいか、こういう情景のなかを歩くだけで心が弾んでくる。
今の日本ではこの景色もはるか昔のものになってしまった。
草を刈って均《なら》しただけの簡単な街道。村の周辺こそ田畑が広がっていたが、この辺りは手付かずの草原で一面が開けており、かなり遠くまで見渡せる。森林や迷いの竹林、そしてあれは山、だろうか。森の向こうの空に稜線がくっきりと見えた。
歩きながらふと違和感を覚えた。どうも風景に何か足りないような……。ほどなくしてその理由に気が付いた。
電柱がない。
道には電柱などの類いが一本も立っていなかった。だからこそこれだけの広い景色を存分に味わえているのだ。
だが電柱がないというのはつまり外灯もないということ。夜になると辺りは真っ暗闇になってしまう。ライトはおろか携帯すらない身としては夜に出歩くことだけは避けなければいけない。それに慧音が最後に言っていた言葉も気に掛かる。
『つい最近、里で子供がいなくなる事件が起きていまして。それほど危険ではないとは思いますが、里外を出歩くときは少し気をつけた方がいいかもしれません』
幻想郷には妖怪が住んでいる。人との仲が改善されつつあるとしても、なかには危険な者もいるかもしれない。所詮俺は体力も能力もない一般人なんだから、なるべく負うリスクは小さくしなければ。
ズボンのポケットから慧音が描いてくれた地図を取り出した。
里から博霊神社までの道はずっと一本道になっている。その道の下側に丁寧な字で『神社まで半刻』と記してあった。確か半刻は一時間だったはずだ。つまり徒歩一時間――だいたい5kmくらいか。
普段なら長いと思うところだが、今の俺なら一時間だって二時間だって歩くのは苦に感じない。叶うならずっとこの道を歩いていたいくらいだ。そうすれば永遠に幻想郷にいられる。
……なんて浮かれていたのも最初だけだった。
「いった……」
足が痛い。ろくに舗装もされていない道を歩いたせいか、靴ずれを起こしたようだ。普段デスクワークばかりで運動不足がたたったのか。せめて革靴じゃなくてスニーカーだったら耐えられたかもしれないのに……。
仕方なく俺はしゃがみこんで革靴をぬいだ。多少足の裏が痛いだろうが、これ以上靴ずれが悪化するよりはマシだ。どうせ誰も見ている人なんていないし。靴は持ち運びづらいので、風呂敷のなかに服と一緒にしまうことにする。どうせ後で洗うんだから今更気にしない。
さて、と風呂敷を肩に抱え直したとき、背後から。
「ばぁーーーー!」
大声と共に女の子が顔を出してきた。俺は驚きすぎたせいで反応も出来ずに硬直する。
「へへー、妹紅さんびっくりした? びっくりし……も、妹紅さんじゃないーーー!」
俺と同じくらい驚いた様子でその女の子は叫んだ。
何だろう。ここの人達は服装でその人を識別しているのだろうか。確かに個性的な服が多いし、誰ひとりとしてまったく同じ服装をしてはいないが。そもそも彼女たちはあの服をどこで買っているのだろうか。やはり香霖堂か。それとも自分で縫っているのか。
それはともかく、俺はいきなり背後から飛び出して来たその女の子を改めて見た。今俺の胸は驚かされたのとは別の理由で高鳴っている。
まず目に入るのは女の子が手に抱き抱えている紫色の大きな唐傘。傘にはぎょろりと剥いた一つ目と、だらりと垂れた大きな舌がついている。女の子の髪は水色のショートヘアーで、髪の色に合わせてベストとミニスカートも水色に統一されている。足は素足に下駄。素足というところがポイントが高い。
多々良小傘。付喪神の一種でよく聞くところの唐傘お化けというやつだ。
小傘は一つ目を表した水色と赤色のオッドアイを瞬《しばたた》かせながら口を開いた。
「あなたは一体誰ですか?」
「え、誰って……通りすがりの者ですけど」
「そんな妹紅さんみたいなカッコした通りすがりなんていません!」
言い切った後、はっ、と小傘は何かに気が付いたかのように目を見開き、震える指先で俺を指さした。
「ま、まさか、妹紅さんを殺して衣服を奪ってきたんじゃ……!」
「するかそんなことッ! というかそもそも殺せるわけないし」
「あ、そういえばそうですね」
つい怒鳴ってしまったが、小傘は気にした風もなくひとり納得した。
仕方なく俺は妹紅との経緯をかいつまんで話すことにした。もしかしてこの説明誰かに会うたびにしなければいけないのだろうか。
「……なるほど。昨日倒れてたっていうのに博霊神社まで歩くなんて、見かけによらず結構体が丈夫なんですね」
見かけによらずは余計だ。いや言われてみればその通りか。俺は痛む足を見下ろした。
「全然丈夫じゃないですよ。たかだか里からここまで歩いただけで靴ずれ起こすし」
「靴ずれ?」
「靴が擦れてかかと辺りが痛くなることです」
「だったら飛べばいいんじゃないですか?」
無頓着に首を傾げる小傘。俺は怒るよりも呆れてしまった。
「飛べるならとっくに飛んでますって……」
溜息交じりに答えると、小傘がぴんと人差し指を立てた。
「あ、じゃあアレがありますよ!」
小傘が自分の服のポケットを漁りだした。
何か探しているのだろうか。ふと何げなく観察していたら、唐傘の一つ目と目が合ってしまった。しばし見つめ合う。視線が逸らせない。もし視線を逸らしてしまったら襲いかかってくるんじゃないかという不安が頭をよぎる。あくまで脅かすことを目的としている妖怪だと分かってはいるが、実際に唐傘お化けを目の前にしたら不気味にもなるというもの。
そこではたと思いついた。
(そういえば、小傘の本体は傘の方だって説があったな。結局両方とも本体だったという話だけど……――ハッ! 待てよ。それってつまり、あの傘の舌=小傘の舌になるんじゃないか? ……やばいな……これは色んな意味でやばい……)
てらてらと光る舌をじっと見つめる。あの唾が全て小傘の口から垂れているものかと思うと、形容しがたい感情が込み上がってくる。
(いかん、何を考えてるんだ俺は! 同人誌内ならまだしも、本人目の前にしてそれは最低のクズ野郎だ! 本当のファンは相手に迷惑をかけない。落ち着け、冷静だ、クールになれ……)
深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。
俺の葛藤など知る由もない小傘が、ポケットから小さな巾着袋を取り出した。その袋のなかから円盤状の容器を出して、はい、と俺に手渡してくる。
「あの、これは?」
「裂傷によく効く軟膏です。塗ればすぐ治りますよ」
蓋を開けると確かにそこには軟膏が入っていた。俺は小傘を見返した。
「使っていいんですか?」
「どーぞどーぞ。それ、永遠亭でもらってるお薬なんです。ほら、私下駄履いてるじゃないですか。歩いてると鼻緒が指の間で擦れて結構痛くなるんですよ」
小傘が自分の足元を指しながら照れたように笑う。
「それこそ飛べばいいんじゃないですか?」
俺が聞くと、小傘は後ろに一歩大きく飛んだ。カランと澄んだ音が耳に届く。小傘は唐傘を大きく一回転させてから肩に掛け、水色の片目を瞑って舌を出した。
それはなんとも元気で可愛らしい――魅力的な女の子のウィンクだった。
「どうです? これでも下駄がいらないですか?」
目の前で自信満々にポーズをとったままの少女を見る。同時に多々良小傘という妖怪について思い出していた。何故彼女がいつも悩んでいたのか、その原因を。
俺はしばらく黙っていたが耐え切れずに、ぷっと笑った。
「え? なんで笑うんですか!?」
「いや、あの、ずいぶんと愛嬌のある驚かし方だなぁ、と」
「えぇ!? 唐傘ですよ? お化けですよ? もっと恐がっていいんですよ?」
「うーん、ならせめて夜にやった方がいいと思いますけど……」
「夜は寝たいじゃないですか!」
「お化けが夜寝てどうするんです。昼間じゃ誰も驚いてくれませんよ」
じと、と小傘が俺を見やる。
「……そんなこと言って、最初私が声掛けたとき驚いてたクセに」
「あ、あれは気配もなく急に後ろから来たからで!」
「やーいやーい、びびったびびった!」
「ぐ……っ!」
なおも言い返そうとしたとき、小傘が手を合わせてぺこりと頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
「…………」
ずるい。それを言われたら何も言えなくなる。
小傘のお腹がふくれるのなら、何回だって喜んで驚かされるに決まってる。いつも驚かすのに失敗するというのなら、俺を使って必ず成功させてみせる。それで小傘が少しでも幸福になるのなら安いものだ。
軟膏を傷に塗ってから小傘に返した。それを袋にしまいながら小傘が言った。
「すみません、そろそろ私行かないといけないんです。それがなかったら神社まで連れていっても良かったんですけど」
「どこか行くんですか?」
「はい、ちょっとベビーシッターのようなことをやってまして。と言っても歓迎されないことも多いんですけどね」
恥ずかしそうに小傘が頬をかいた。
そうだったな、と俺は一場面を思い出していた。これまでのただ驚かすだけの妖怪ではなく、人の役に立つ道具になりたい。それが新しい付喪神の姿なのだ、と彼女はそのとき言っていた。
「……つらくないんですか?」
ついそんな言葉が出たのは、あまりにも小傘が明るく前向きに見えたからなのだろう。
だがその心配は、小傘の顔を見てきれいさっぱりどこかにいってしまった。
「ううん、全然」
まったく曇りのない笑顔がそこにはあった。
「そりゃあうまくいかないこともいっぱいあるけど、でもこれが、私のやりたいことだから」
人を驚かすことも出来ず、墓場からも追い出され、霊夢たちについでにボコられて、その後も不憫な目に色々あっているというのに、彼女はどこまでも純真で真っすぐだった。
彼女を心から嫌う人なんて存在するわけがない。きっとベビーシッターだってなんとかなる。子供たちも両親もきちんと彼女と向き合えばその人柄に惹かれるはずだ。
(俺とは大違いだな……)
卑屈になりかけた自分を振り払って、俺は小傘に精一杯のエールを送る。
「大丈夫ですよ。小傘さんになら、きっと出来ます」
「ありがとうございます。……あれ? 私名前言いましたっけ?」
言ってましたよ、と笑って誤魔化す。小傘は首を傾げていたが、太陽を見て「あぁ、もうこんな時間!」と飛び立っていった。
小傘の姿が小さくなるのを俺は立ち止まったまま見送った。
風が頬をかすめ、来た方へと流れていく。足の痛みはほとんどなくなっていた。それどころか体が軽くなったようにさえ思える。
――よし、博霊神社に行こう。
それが今俺がやりたいことだ。小傘があれだけ頑張っているのに、俺が頑張らなくてどうする。
俺は荷物を抱え直して、前に向かって歩きだした。