幻を想う   作:亮馬

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弱音

 その後、魔理沙と慧音たちが寺子屋に戻ってきたが、特に有力な情報は得られなかった。

 俺たちが早苗から聞いた話を慧音にすると、慧音は申し訳なさそうに謝った。

「すまない、私があの子たちの親から聞いたものとは違うようだ。もしかすると、疑われるのが嫌で嘘を吐かれたのかもしれないな」

 今日の捜索はこの辺りで終わりにすることとなった。明日の打ち合わせを済ませてから、各自帰宅を始める。霊夢と魔理沙は念のため里近辺を見回りしてから帰るらしい。文は自宅で取材内容をまとめてきます、言って飛び立っていった。小町は明日は来ないという。二日連続で仕事をほったらかしには出来ないのだと。霊夢たちは疑わしげに小町を見ていたが。

 チルノたちも帰り、寺子屋には俺と慧音が残された。

 さて、と慧音が帰り支度を始める。

「家はどこですか? 送っていきますよ?」

「……その、まだ決まってなくて……」

 俺の泊まる場所が無いことを話すと、慧音が何か考えた後、こう提案した。

「良ければ私の家に泊まりますか?」

「…………」

 心臓が止まるかと思った。これはなんだ。夢か。夢ならせめて今晩だけは覚めないでくれ。慧音が優しく微笑んで続ける。

「まだ来たばかりでは勝手も分からないでしょうし、文秋君と幸ちゃんを捜してくれていることへのせめてものお礼です」

「で、でも、泊まるだけなら適当にホテル――宿とかに」

 ここで『是非泊まらせてください』と言えないのが我ながら情けない。いや、女性の家のお風呂に入るのすら初めてだったのにましてや泊まるなんて。勿論泊まりたい。それが慧音の家なら全財産払ったっていい。あぁ泊まりたい! だがその感情を出し過ぎてはキモいと思われてしまう。俺自身として泊まりたい気持ちが多々あっても、人としては断るのが筋というものではないか。

 俺の葛藤を慧音の言葉が打ち砕く。

「この里に旅人が泊まれる所はありませんよ?」

「……え?」

「空いている長屋になら寝る場所もありますけど、そもそもこの里に旅の方が来るのは稀ですので。昔は宿屋もありましたが、今ではもう無くなっているんです」

 まさか宿屋が無いなんて……。でもこれは要するに、慧音の家に泊まることが決定したということではないか。表情には一応申し訳ない感を出しつつ慧音に伺ってみる。

「あの、本当に迷惑じゃないですか……?」

「気にしないでください。妹紅もよく泊まりにきてるので、誰かがうちに泊まるのには慣れてますから」

 やっぱり二人とも仲がいいんだな、と思うのと同時に、俺のことを妹紅と同列にしていいのだろうかと思う。いや、泊めてくれるのは嬉しいし有り難いことなのだが、同性と異性では色々と違いますし。それだけ信用されているのだろうか。今日初めて会った素性不明の不審な男だというのに。人が良いのか不用心なのか。

 ともあれ、ここまで言ってもらって断るのも失礼な話だ。俺はその申し出を受けることにした。

 里はすっかり夜になっていた。丸い月が夜空に浮かび煌々と輝いている。街灯はないが、所々に篝火が焚かれており付近をゆらゆらと赤く照らしている。時折飲み屋からにぎやかな声が聞こえてくるが、それ以外はしんと静まり返り、冷えた夜気だけが微かに耳元を過ぎていく。

 慧音の家は里の端の方にあった。この辺りは篝火がなかったが、その代わりに月の光が立ち並ぶ家屋を青白く浮かび上がらせている。慧音の家も一般的な木造平屋で、外観からは他の家と違いがわからない。

 どうぞ、と慧音がなかへ招き入れる。俺は緊張する手足をぎこちなく動かしながら戸口をくぐった。

 暗くて何も見えない。と思ったらカチリと音がして部屋に明かりが灯った。慧音が白熱灯の紐を引っ張ったようだ。

 家の中は妹紅の家を広くしたような造りになっていた。土間と一体となった和室には座卓と本棚、洋服ダンスが置かれており、本棚にはぎっしりと書籍が詰められていた。座卓の上には電気スタンドと花を活けた花瓶が飾ってある。居間に間仕切りはなく、押し入れを挟んだ向こうが洗面所のようだ。中央にはやはり囲炉裏が設置してあった。妹紅の家と比べると生活感に溢れているように感じられる。

「今からご飯とお風呂の用意をするので休んでいてください。座布団はそこにあるのを好きに使って構いませんので」

「あ……はい、すみません」

 お言葉に甘えて、和室にあがり腰を降ろす。何となく使いづらかったので座布団は使わなかった。

 慧音があちこちに移動しながら準備を始めた。俺も何か手伝いたかったが、邪魔になるだけだろう。じっとしている方がマシだ。

 ご飯とお風呂。慧音の言葉を胸中で反芻する。

 ご飯、ということは手料理。慧音の手料理! その響きだけで天にも昇る心地がする。

 駄目だ。気が緩むとニヤけてしまう。だが考えてもみろ。慧音の手料理を食べたくない男がこの世に存在するだろうか。いやない。

 そういえば霊夢の所で食べた茶菓子以来何も口にしていない。これまでまったく気にしていなかったのに、意識しだすと途端にお腹の虫が鳴り出した。

 慧音が火打ち石で手際よく釜戸に火を入れる。藁から紙へ、紙から薪へと火が徐々に燃え広がっていく。それに伴い家全体にも暖かさが伝わってきた。

 米を炊く準備をした後、慧音が土間の下から食材を取り出した。地面を掘って貯蔵庫にしているようだ。すぐさま調理を開始する。

 静かだ。テレビも車の騒音もなく、ここにあるのは薪が燃える音や水を流す音、トントンと包丁がまな板を叩く音だけ。都会の喧噪など遠い昔のことのようだ。ふと小さいころに見た祖母の姿を思い出した。ごはんが出来るのを楽しみに待っていたものだ。距離が遠いせいもあって、大学以降祖母の家には行っていない。今も元気にしているだろうか。懐かしい記憶に浸りながら、俺はしばらく心地よい旋律に耳を傾けていた。

「そんなにおもしろいですか?」

「……え?」

 唐突に慧音が肩越しに話しかけてきた。慧音は手を休めずに話を続ける。

「楽しそうにこっちを見ていたので、どうかしたのかな、と」

「いや、その……」

 恥ずかしさに言葉が詰まる。しっかり気付かれている自分の迂闊さを叱咤する。というかそんなに頬が緩んでいたのか、気をつけないと。

「暇でしたら、適当に本でも読んでいて構いませんよ」

 そうは言われても慧音の物に勝手に触るのは躊躇われる。どのみち俺が読めるような本はあまりないだろうし。俺ははぐらかすように慧音に聞いた。

「あの、いつも自分で料理してるんですか?」

「ん? そうですね。屋台に食べに行ったりすることもありますけど、ほとんど自分で作りますね。あなたは作らないんですか?」

「俺は、あんまりしないですね。してもせいぜい焼くだけとかで。あとはスーパー……お店とかで買って済ませてます」

「へぇ。ちなみにどういったものを買うんですか?」

「レトルトとかインスタントとか惣菜とか」

「レトルト?」

 首を傾げた慧音を見て慌てて訂正する。

「べ、弁当のことです。あとは、パンもよく買ってましたね」

「パン!?」

 慧音が目を輝かせて振り向いた。

「パンってあれですか? あの茶色くてふわふわしてて香ばしい――」

「あ、はい。そのパンですけど」

「この辺りにはパンはほとんど無いんですよ。少し行ったところの館の従者がよく作ってるんですが、前にもらって食べたらそれはもう美味しくて!」

 意外だ。まさか慧音がそれほどパンが好きだなんて。確かに和食しか食べたことがなくて初めてパンを口にしたら驚くものがあるかもしれない。いや、それだけ美味しいパンをその従者が作っているということか。恐るべし、従者(おそらく瀟洒)。

「あぁ申し訳ない、取り乱してしまって」

「いえ、パンが美味しいのは分かりますから」

「それに比べれば私の料理なんて大したものではないと思いますが」

「そ、そんなことないです! 作ってもらえるだけで、お、俺は嬉しいんで」

 慧音が見返してくる。顔が熱い。何を俺は口走っているのか。

「ありがとう。そう言ってもらえると私も嬉しいです」

 微笑みを浮かべたその顔は本当に魅力的で、まともに目を合わせることが出来なかった。

 なかば無意識に荷物を引き寄せ、誤魔化すように風呂敷の結び目をほどく。薄汚れたYシャツにズボン。その上に新聞紙の包みが乗っている。

 あぁそうだ、と思い出した。

 新聞紙の中身は幽香からもらった花の蕾だ。無くしてしまわないように中に入れておいた。ちなみにこの新聞紙は文からもらったものだ。見出しに『幻想郷における宗教戦争!?』と大きく書かれてある。ゴシップみたいだ。

 包みを広げ、そのまま慧音のところに持って行く。花瓶か何かを借りて挿しておきたいが。

「あの……」

「ん?」

 慧音が俺の手にある蕾を見て、目を見開いた。

「月下美人じゃないですか。珍しい」

「この花知ってるんですか?」

「えぇ。その花は月下美人といって、夜だけしか咲かない花なんです。大きな白い花を咲かせるんですが、一晩だけしか花を咲かせず、朝になるとしぼんでしまうんです」

 月下美人という名前だけは聞いたことはあるが、それがこういう花だとは知らなかった。

 慧音が興味深そうに蕾を見つめる。

「少し時期が早いはずだが……どこで手に入れたんですか?」

「今日、風見幽香さんから」

 幽香が、と小さく呟いて慧音は何かを考えこんでしまった。慧音の横顔に尋ねる。

「あの、それで何か花瓶みたいなものをお借りできないかな、と」

「あぁ花瓶ですか。うーん……この徳利《とっくり》では駄目でしょうか」

 慧音が取り出した徳利に花を挿すと、ちょうどいい具合に生けることができた。

「すみません、こんなもので」

「いやいや、案外ピッタリでいいと思いますよ」

 徳利に水を入れて、流しの横に置かせてもらう。

「これっていつ頃咲くんですか?」

「この様子だといつ咲いてもおかしくはないですね。詳しいことは幽香に聞いた方がいいですが、明日あたりには咲くかもしれません。ちょうど満月ですし」

「満月だと何か違うんですか?」

「特に違いはありませんが、月下美人は満月の夜に咲く、という言い伝えがあるんですよ。まぁただの俗説なんですが」

 慧音が言いながら煮立てた鍋に味噌を溶かし入れる。湯気と共に味噌のいい香りが漂ってくる。胃のあたりがぐるぐると悲鳴を上げた。

「もう少しでごはんも炊けますよ」

 お腹の音を聞かれたのだろうか。俺はすごすごと畳の方へ戻っていった。

 

「いただきます」

 二人で手を合わせて食べ始める。

 炊飯ジャーではなく釜で炊いたご飯というのは大人になって初めてではないだろうか。一粒一粒が立ち、表面はつやつやと輝き、ふっくらと炊き上がっている。立ちのぼる湯気と独特の香り。白米を茶碗に盛っただけなのに、どんな豪華な食事より美味しそうに見える。

 主菜は味噌汁だ。ごぼう、椎茸、玉ねぎ、油揚げが入っていて、味噌の香りがなんとも食欲をそそる。小鉢にはわらびとぜんまいの煮付け、そしてたくわん。たくわんは自家製のものだそうだ。見事な純和風の献立が座卓の上に並んでいる。

 味噌汁に手を延ばし、汁をすする。慧音がちらりと俺を伺った。その視線に俺は笑顔で頷いた。

「美味しいです。すっごく」

 慧音が「良かった」と笑みを零す。

 実際料理は本当に美味しかった。味噌汁も煮付けもたくわんも、どれもが素朴で安心できる味だ。俺はどこぞの美食家みたいに蘊蓄を垂れながら感想を言うことはできないが、確実に一言で言い表せる。『うまい』。

「人が来ることが分かっていれば、もう少し食材を揃えておいたんですが」

「そんな、別に俺は余り物でも何でもいいんです」

 慧音がくすりと笑う。

「さすがに人様に余り物は出せないですよ」

「そ、そうですよね。あ、ならせめてお金を――」

「頂けません」

 財布を取ろうとした俺を慧音がぴしゃりと制止させた。

「もてなす、もてなされる、というのは金銭ではなく心の遣り取りです。お互いが礼をもって接し、礼によって想いに応えることがなにより大切なことだと思います。ここは宿屋ではなく、私の家なのですから」

 静かに諭されて、俺は自分を責めたてた。相手の気持ちも考えず、お礼=お金という短絡的な思考でつい口走ってしまった。慧音の話はもっともだ。まずは尽くしてくれた礼に応えることから始めなければいけない。人と人が交流する為に一番必要なのは金銭や物などではなく、心なのだから。

「と、偉そうに言ってすみません。ついいつものクセで……」

「いやいいんです。自分がまだまだ至らないと教えられました」

 お互いにぺこぺこと頭を下げてから、目が合った。同時に笑い出す。

「冷めないうちに食べましょう。おかわりはありますから遠慮せずに言ってください」

「はい。遠慮なくいただきます」

 それから俺はご飯を三杯、味噌汁を二杯おかわりした。誰かの手料理をお腹一杯食べたのは久しぶりだ。満腹感と同じくらいの幸福感が俺の体を包み込んでいる。

 夕飯が終わって一息ついた後、お風呂に入らせてもらった。妹紅の風呂と同じく五衛門風呂だったが、あそこよりも浴室はかなり狭い。狭いといってもマンションのユニットバスよりかは大きいくらいか。熱かったら蛇口から水を出してぬるくしてください、と同じことを言われた。

 お風呂から上がって、慧音が用意してくれた無地の浴衣のような衣服に袖を通す。こういった和服は着慣れないので変な感じがするが、慧音は「良く似合ってますよ」と褒めてくれた。

「あの、服を洗濯したいんですけど、洗う場所ってありますか?」

 元々着ていたYシャツやズボンは最悪そのままでいいとしても、妹紅の服と下着くらいは洗いたい。せっかく風呂に入ったのに下着がそのままというのは不衛生な気がする。夜洗って干しても乾かないだろうが、下着くらいは洗っておかないと。

「裏に共同の干場があるのでそこで洗えますけど。今からですか?」

「あ、服は明日の朝改めて洗おうと思うんですけど、ちょっと今のうちに洗いたいものが……」

「ならそこの勝手口を出て、右に立て掛けてあるたらいと板を持っていってください。石鹸は流しの上の、網に入れて吊ってあるのを使ってください」

「はい、ありがとうございます」

 石鹸を掴み取り、勝手口から外に出る。火照った体を涼しい夜風が撫で付ける。凍えるほどではないが、長時間いると湯冷めするかもしれない。

 立て掛けてあったたらいと洗濯板を持って、家の裏手へ歩を進めた。そこは家で囲まれた広い空間だった。物干し竿がいくつも並び、洗い場だろうか大きな排水溝がもうけられている。

 人気がない、と思っていたが、まだ家には明かりがついているところが多かった。こうして佇んでいるとかすかに話し声も聞こえてくる。

 俺は月明かりを頼りに洗い場まで行き、蛇口を捻ってたらいに水を溜める。そして周りをきょろきょろと見回して誰もいないことを確認すると、すみやかにパンツを脱いでたらいに放り込んだ。ついでに風呂前に脱いだインナーと靴下も洗うことにする。石鹸をじゃぶじゃぶと泡立て、衣類を洗濯板にこすりつける。

 洗濯板なんて生まれて初めて使った。現代では平らな胸を揶揄して使われるくらいで実物はそうそうお目にかかれないのではないだろうか。

 五分くらい洗い、よくすすいでから絞って水気を取る。パンツが綿ではなく化学繊維だったのが幸いした。黒のボクサーパンツを力いっぱい絞ってぶんぶんと振るうと、かなりいい感じに水分がなくなった。シャツと靴下は仕方ないので、物干し竿の端の方に干すことにした。完全には乾かないとは思うが干さないよりはマシだ。

 辺りを再び見回して、さっさとパンツを履き直す。しめっているせいでお尻がひやりとしたが、このくらいだったら大丈夫だろう。

 家に戻ると、慧音の姿がなかった。浴室の方から水の音が聞こえてきた。お風呂に入っているらしい。

 …………。

 いかん! 想像するな! 湯煙を全部雲山に置き換えろ!

 それにしても、ここの人達は警戒心が無さ過ぎではないか? 見知らぬ男を家にあげて、風呂に入れさせたり泊まらせたり、不用心にもほどがある。まぁ、俺のことを信用してくれているというのは有り難いし、その親切心はおおいに助かっているが、この調子でずっと生活しているのかと思うと心配になってしまう。

 逆に考えれば、俺が変な気を起こしたところで彼女たちに危害など加えられないということかもしれない。弾幕を張れない時点で敵うわけもないし、腕力でも正直勝てる気がしない。

 つまるところ余裕があるのだ。俺みたいなのを受け入れてくれる余裕が。

(考えてみれば、俺よりずっと長く生きてるんだよなぁ)

 長生きをするというのはどういう感覚なのだろう。不老不死、とは厳密には違うが、人よりも年を取ることが遅くなり、見た目もあまり変化しない。ただ、時間だけが等しい速度で過ぎ去っていく。

 漫画で似たような境遇のキャラを何人か見たことがある。たいていは『不老不死になんてなるものじゃない』と嘆いていた気がする。死ぬのは楽だ。自分が目を閉ざすだけでいい。死なれるのがつらい。その死を見つめなければいけないから。

 だからこそ、妹紅と親しくなっていったのだろう。彼女は慧音を裏切らない。いや、裏切れない。二人が別れるときが来るとすれば、そのときが慧音の長い旅の終点となる。そんな想像はしたくないけれど。

 しばらくして、慧音がタオルで髪を拭きながら戻ってきた。俺と同じく無地の浴衣を着用している。思わず視線を慧音から逸らした。布が薄い分、体のラインがよりくっきり出ている。おまけに濡れた髪の毛がつやつやと光り、艶やかで色っぽい。湯上がり独特の石鹸の香りが漂ってきた。

「そういえば、歯は磨きますか?」

「え? あ、いつもは磨いてますけど、今は歯ブラシを持ってないので」

「予備のがあるので良ければ使いますか?」

「いいんですか?」

「えぇ。妹紅がたまに突然ふらっと来ることがあるので、いつも予備を用意しているんですよ」

 笑いながら慧音が洗面所へ下がり、歯ブラシと木製のコップを持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

 手渡されたそれを眺める。形は現代の歯ブラシとほぼ同じだが、本体部分が木で出来ていた。表面に何か塗ってあるらしく、手触りがつるつるしている。先端の毛の部分は何かの動物の毛のようだ。黒くてごわついた毛がびっしりと挟まれている。

「歯磨き粉は置いてあるのを使ってください」

 歯ブラシとコップを持って浴室前の洗面所に向かった。鏡のところに同じようなコップに刺さった歯ブラシが置かれている。おそらく慧音のものだろう。それで歯磨き粉はどこだろうか。付近を見てもそれらしいものは見当たらない。あるのは長方形の缶ぐらいだ。

 そのとき、床に置かれた竹籠が目に入って。中には青い洋服が丸めて入れられている。これは……。

 俺は生唾を飲み込んだ。慧音の服だ。風呂に入る時にここに服を入れたのだろう。もしかしたら下着もこの中に……。

 ゴンゴン、と拳で自分の頬を殴りつける。最低だ。それは人として、男として。いや、しばしば二次創作界隈では見たことがあるが、俺がやると本当に洒落にならない。

 ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着かせてから、俺は居間に顔を出して慧音に尋ねた。

「す、すみません、歯磨き粉ってどれですか?」

「あれ? 鏡の前に缶が置いてませんか?」

「え?」

 言われて、再び洗面所に行き、その缶を手に取る。蓋を開けてみると中には白い粉が詰められていた。缶を持って再度慧音に見せに行く。

「この粉がそうなんですか?」

「えぇ、歯ブラシの毛先を濡らしてから、その粉を付けてください。……もしかして、初めて使います?」

「あ、はい、すみません……」

「謝らなくていいんですよ。それよりも普段はどのようなもので磨いているんですか?」

「えっと、こうチューブになってて、半固形というか練ったワサビみたいなやつで……」

「へぇ、やはり色々と違うんですね。もし分からないことがあれば何でも聞いてください」

 洗面所の鏡の前に立ち、言われた通り歯ブラシの先を濡らしてから缶の中の粉に近づける。どのくらい付けるべきか分からないので少しだけにした。

 歯先を口の中に運ぶ。途端にそのしょっぱさに驚いた。塩が入っていたのだろうか。ミントやシトラスの香りなんて気の利いたものが付けられているはずもなく、無味無臭の粉が口内に広がっていく。初めこそざらざらとした粉っぽい食感が気持ち悪かったが、溶けるにしたがいそれもあまり気にならなくなっていった。

 磨き終えて、居間に戻ると慧音が楽しそうに聞いてきた。

「どうでしたか?」

「なんというか、貴重な体験でした」

 慧音が笑い、俺もそれにつられて笑う。

「機会があればあなたの言う歯磨き粉も使ってみたいですね」

「あー、多分最初は驚くと思いますよ」

「望む所ですよ。驚きこそが発見ですから」

 慧音が立ち上がり、私も磨いてきます、と洗面所へ歩いていった。

 俺は畳みの上に腰を降ろす。ふぅ、と一息ついて、ある事柄が天啓のように脳裏を走る。

 あの歯磨き粉は慧音も使っている。俺はさっきそれを使った。つまり――。

 間接キス。

 うぉぉぉぉぉぉぉおおッ!

 得も言われぬ感情の濁流が脳内をわっしょいわっしょいと駆け巡る。と同時に、もっと味わっておけばよかったという後悔の念が湧き上がってくる。明日の朝もきちんと歯を磨こう。

「そろそろ布団を敷きましょうか?」

 帰ってきた慧音が聞いてきた。その言葉に一瞬ドキっとする。

「あ、そ、そうですね。あぁ、俺がやりますよ」

 押し入れから布団を二組出して、囲炉裏を挟んで畳の上に敷く。壁の時計を見ると夜の九時前だった。

 やはりというか、寝るのが早い。テレビも娯楽施設も無いのでは、さっさと寝るに限るのだろう。

「もし喉が乾いたりしたら、そこのやかんにお茶が入ってますので、好きに飲んでください。では消しますね」

 慧音が紐を引いて明かりを消した。消えた瞬間は真っ暗でよく見えなかったが、月明かりのおかげか徐々に目が慣れてきておぼろげには見えるようになった。

 自分の布団に潜り込み、慧音の方をちらと見る。ごそ、と慧音が同じように布団に入って仰向けになった。

 と、慧音がこっちに顔を向けた。反射的に俺は天井に顔をやる。

「……すみません」

「え?」

 慧音の口から謝罪の言葉が出てきた。

「あなたを巻き込んでしまって。関係のないはずなのに……」

「べ、別に巻き込まれたとかそういうのじゃ……。俺がそうやりたいと思ったから、お手伝いさせてもらってるんです。というか、俺なんていてもいなくてもあんまり変わらないだろうけど」

「そんなことないです」

 慧音がきっぱりと言った。視線が俺の方に向いているのはわかったが、俺は天井を見上げたまま目を合わせられなかった。

 不意に、本当に不意に自分の口から言葉が漏れた。

「……俺って、ダメなやつなんですよ」

 この夜の静けさと、慧音の温かい心に油断したせいだろう。止めようと思っても次々と言葉が溢れて止まらない。

「勉強もスポーツも平均以下。仕事も出来ない人付き合いも苦手、処世術なんて何一つこなせない。ようするに落ちこぼれのダメ人間だったんです」

「そんなこと」

「実際、会社の評価は最低でした。多くの人がが俺のことを『ダメ人間』だと評価したんです。それでも違うって言えますか?」

「…………」

 窓から射し込む月光が、部屋にかすかな明暗を作り出している。俺の視線の先はどこまでいっても暗いままだ。

「でも彼らの評価は正しいんですよ。俺という人間は会社に必要ない。いるだけで仕事の邪魔をして、空気を悪くして、誰からも厄介がられる。……でも、何が一番ダメなのかって、それを肯定も否定も出来ない自分自身が一番ダメだった」

 奮起することも開き直ることも出来ず、毎日の苦痛に耐えながら細々と生きていくだけ。いや、それは生きていると言えるのだろうか。生きていても死んでいても変わらない人生。無くてもいいものなら、無くしてしまった方がいいんじゃないか。

 沈黙だけが支配するこの空間に、慧音がぽつりと小石を投げた。

「たとえこれまでどんな評価を受けていたとしても、私はあなたの優しさを知っています」

 声につられて慧音の方に目を向ける。慧音の眼は真剣に俺を見つめていた。決して茶化しているのでも誤魔化しているのでもない、本当の言葉。

 思わず目頭が熱くなり、慌てて視線を天井に戻す。さっきまでの陰鬱な雰囲気を吹き飛ばすように、トーンを上げて言った。

「だから俺、ここに来れて幸せなんです」

「ここ?」

「幻想郷のことです」

 どんなに毎日がつらくても苦しくても、癒されるときがあった。

 東方――そのシリーズの本や動画を見るだけで、俺の心は満たされた。

 東方には何でもある。ギャグもシリアスも、涙を誘うセンチメンタルも、拳を握る慟哭も。笑って泣いて、震えて叫んで。俺という人生の八割は東方で出来ている。それだけのものを東方から学んだ。

「憧れだったんです。夢だったんです。幻想郷に来て、色んな人と話して、できれば友達になって……。こうやって泊めてもらったことですら、身に余ることと言うか。すっごい嬉しくて……」

 幻想郷が夢だの憧れだの、気持ち悪いと思われないだろうか。だが慧音の声音はそれまでと変わらず穏やかで優しい響きだった。

「私も、あなたと会えて嬉しいですよ。ようこそ幻想郷へ」

 その一言がどれほど俺の胸を打ったか。全身に熱が行き渡り、今までにない幸福感が胸中を満たしていく。言葉で認められたことで、ようやく幻想郷の一員となれた気がする。俺はここにいていいんだ。目尻に涙が溜まっていく。気付かれないように指で拭った。

「……そういえば、俺が外の世界から来たっていうのは知ってるんですね」

「え? 違うんですか?」

「あ、いやそうじゃなくて、何でバレたのかな、と。一応気をつけていたつもりなんですが」

「何でと言うか、幻想郷で人が住む里と言えばここくらいしかありませんし、違うところから来たということは外からしかないですよね」

 考えてみればそうだ。だから文もあんなに俺にしつこく付きまとってきてたのか。新しく外の世界からやってきた男。新聞の小さなコマくらいは埋められるだろう。

 まぁ隠し通せるはずもなかったし、早いうちにバレておいて問題ないだろう。東方について詳しいことさえ知られなければ。

「ところで、先程幻想郷に来るのが夢だったと言っていましたが、あなたのいた所ではここのことが知られているんですか?」

 さっそく聞かれたくないことを聞かれてしまった。もはや誤魔化すことも出来ない。

「あ……そうですね。こういう世界があるかもしれない、という噂程度でしたけど」

「成る程。どうりで落ち着いていたんですね。急に迷い込んできたら取り乱す人もいるのに」

「まぁ、それなりには心構えをしてましたので……」

「それで、どうやってここに来たんですか?」

「…………」

「あの」

「え、あぁすみません。ちょっとどうやって来たのかは覚えてなくて。気付いたら迷いの竹林にいたんです」

「そうだったんですか。普通の方がどういう手段でここに来られるのか気になったんですが」

 慧音が残念そうに声を落とす。それきり、会話らしい会話はなくなった。

「明日もありますし、寝ましょうか。おやすみなさい」

 おやすみなさい、と返してから布団を被り直す。寝る時間が早いからなかなか寝付けないかと思ったが、睡魔はすぐにやってきた。昼間は結構歩いたし、疲れが溜まっていたのだろう。

 目蓋が重い。意識が闇と交ざり合い、思考が霧散していく。この場所がどこなのかも、すぐ横に誰がいるのかも気にならなくなる。

 完全に視界が閉じる前に台所が目に入った。そこには窓越しに月を眺めるかのように、一輪の白い蕾が佇んでいた。

 

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