ワーレンは、剛毅で公正な人格者で知られている。彼の用兵も
例えるならばいぶし銀、それが彼の功績である。地球教本部の攻略直前、帝国軍に紛れていた教徒の毒刃によって、左腕を失った。それでも、病床から冷静に指揮を続け、独立商人を装ったユリアンらと協力のうえ、地球教本部を攻撃し、大量の土砂の下に葬り去った。
しかし、ワーレンは現在の地位に、むしろ悔やまれてならない。堅実である反面、自分は柔軟には乏しいのではないか。地球教本部を壊滅させて、根を断ったかに思えたが、こぼれた悪意の種子は、ヤン元帥らを殺し、ルッツを、ロイエンタールを、オーベルシュタインを死に追いやった。
ヤン元帥は、歴史に『もしも』はない、テロで歴史の流れを変えることはできないと、生前ユリアンに語ったそうだ。
しかし、あの時にもっと自分が柔軟に情報の流れを追い、あるいはケスラー元帥らにも協力を要請したらどうだったであろうか。先に挙げた死者は存命し、皇帝ラインハルト亡き後を支えてくれたに違いあるまい。
そして、イゼルローンの客人である亜麻色の髪の青年と、紅茶色の髪の少女は父を失うことはなかっただろう。緑の瞳と、青緑の瞳の二人の青年も、敬愛する上官で親しい友人を失ってはいなかったろう。
なにより、オーベルシュタインの後を継いだミッターマイヤーが公表したことは、のこりの六元帥を打ちのめした。新旧の軍務尚書は、ラインハルトの幕僚の中でもっとも水と油の仲であった。
そのミッターマイヤーが、オーベルシュタインが所管していた膨大な業務を、厳に公正に執行していたことを認め、これをそのまま引き継ぐことのできる者はいないと断言した。フェルナー少将が作成した軍務省の業務の概要が、元帥会議の場にも登場した。そこに並んだ内容は、猛将ビッテンフェルトの顔色をも蒼褪めさせるに足るものだった。
遺された者たちでこの重荷を分かち担わなくば、ラインハルトが王朝を創立したよりも、短期間で潰えるだろうと。軍人を民間に返し、失業問題に対応し、衣食住と教育を充実させる。軍政一致で早急に行わなければ、旧帝国の国民の不満が爆発する。敗戦国の住民が、勝者よりも豊かに暮らし、高い教育を受けていた。今はまだ新領土軍しかそれを知らないが、いずれ本土にも伝わるだろう。
そうなった時、門閥貴族に向けられた平民の怒りが、今度は帝国軍に向く。貴族は平民から富や地位を搾取してきた。しかし、多くの場合命までは取らなかった。
だが、旧同盟の帝国領逆進攻の焦土作戦、リップシュタット戦役の際のヴェスターラントの虐殺。そして貴族連合軍には、多数の平民が動員されていた。その後の旧同盟への侵攻。ガイエスブルク要塞の壊滅に始まる、ヤン・ウェンリーの奇蹟の犠牲者たち。勝ち戦だったランテマリオ、マル・アデッタの会戦とて、帝国軍にも相応の死者は出ているのだ。ましてや、帝国軍の双璧が互いに噛みあった新領土戦役による死者は、どちらも帝国人だ。
ラインハルトの炎の輝きに魅了されていた者も、そのうちに正気を取り戻す。死者への補償、生者の雇用。これを両立して、民生も豊かにする?
それは不可能というものだ。
ヤンの死後、離脱を表明した者を連れ帰った、ムライ元参謀長は知りぬいていたのだ。かの魔術師だったからこそ、できた作戦に保てた士気だった。ヤンの後継者に同じことも求めても不可能だった。
ならば、やる気のない無駄飯食いを排除する。自分が汚れ役になっても、後継者の足を引っ張ることのないように。彼がやったことは、
ユリアン・ミンツらと語るうちに、ワーレンにはそれが見えてきた。そんな人材を抜擢し、正論を言うがゆえに煙たがられやすい彼を立て、周囲に溶け込ませて一目置かせるようにした。さらに、親しみやすい説明役を配している。その配慮をした上官と部下を失えば、ムライの役割も十全には果たせない。
「卿の師父たるヤン元帥は、実に人を見る目のある方だったのだな」
ワーレンはユリアンに語った。微かに苦笑いを浮かべながら。
「いや、これは言うまでもないことだった。
我らの胸の内を、宇宙の彼方から見通したのだからな。
我々など、至近にいた僚友の真価を見抜けずにいた。
今になって、地球教徒の根を断てずにいたことに、断腸の思いがする」
「それは小官も同じです。
ヤン提督が亡くなって、戦い続けることしか念頭にありませんでした。
あの後すぐに講和を結んで、双方の情報を集約していたらと思わずにいられません。
ですが、時は戻せない。進むしかないのだと、提督はおっしゃっていました」
「実に強い方だ。それも今さらなのかも知れぬが。
思えばほとんどお独りで、先帝陛下と双璧らを擁する我が軍と戦い抜いたのだった。
卿らは、よく立ち直られた。心から敬服する」
ワーレンの言葉に、青年は亜麻色の頭を振った。
「
それを果たせなかったなら、提督が命の次に大切にしていたものを守らないとと思いました」
「それが民主共和制ということなのか」
「違います」
大地の色の瞳が、まっすぐにワーレンに向けられた。
「思想の自由に言論の自由。それが何のためのものなのか。
それは、人間が自分らしく幸せになるための権利です。
ヤン提督の望みは、戦争がなくなってみんなが幸せになることだった。
僕を戦場に出したくなかったのです、心から本当に。
僕がフェザーンに行く際に、渡してくれたお金の何割かは、
返還するつもりだったトラバース法の養育費だったそうです」
その十万ディナールでユリアンはフェザーンを脱出し、ヤンと合流を果たした。
「僕は結局、ヤン提督の願いの多くを果たしてはいません。
でも、僕が軍人になるのも許して下さいました。
それは僕の自由、僕の権利だからです。
そして、皇帝ラインハルトと戦ったのもそう思ってくださることでしょう。
多分、怒られるとは思います。
ですが、もう一度、僕の名を二度呼ぶあの声を聞けるならば、何を引き替えにしてもいい」
ユリアンは膝の上で握り締めた拳を見詰めた。
「でも、そう思うのは何も僕だけではない。数多くの戦死者の家族も一緒です」
そこで切られた言葉に、ワーレンは先日突きつけられた戦死者の数を思う。自分とて、妻を
「卿と語ると、自分がいかに大事なことを忘れていたのかと思わされるばかりだ」
黄金と炎と流血が、宇宙を彩ったこの五年余り。戦死者に数倍する家族の嘆きは、軍部に届いてはいない。帝国には司令官の下に、戦死者の遺族からの手紙が届くようなシステムはない。ワーレンには、考えさせられることが多々あった。
ユリアンが語るのは、師父の思い出だけではなく、それを支えた部下らの活躍である。艦隊を指揮したフィッシャー、アッテンボロー、メルカッツ提督らばかりではない。
旧同盟軍にとって、まったく経験のない宇宙要塞の防御部門を担当したシェーンコップ中将。帝国軍のマニュアルを訳するところから始め、地道に雷神の槌や要塞砲台の射程と死角、エネルギーの充填や照準を合わせるためのタイムラグを検証し、二度にわたる攻防戦を最少の犠牲で凌ぎ切った。
五百万人都市の行政と、二百万人の艦隊の補給に兵站、さらにはガイエスブルクで被った損傷の修理に、
ヤンは、ほとんど常に前線で指揮を執った。むしろ、いつ戦死してもおかしくない激戦だった。自分不在の体制を、それとなく構築していたに違いあるまい。これは、キャゼルヌ中将との会話の中で知れたことだったが。
「なにしろ、小官が着任して早々に捕虜交換がありました。
帰還兵の歓迎式典のために、一月半も不在になった。
ようやく帰って来たと思えば、二週間と置かずにクーデターの鎮定だ。
帰ってきたのは更に半年後。そして、翌年の三月に査問会に召喚だ。
そこにガイエスブルク要塞が来襲したのだから、小官も生きた心地がしなかった」
士官学校時代からの交友関係の持ち主はそう明かした。
「もとから無理のある人事ではありました。
同格者を二人置くのは下策だが、兼任させるのも論外だ。
要塞か艦隊か、どちらかが司令官不在になってしまうのですからな。
残念ながら、同盟軍に有力な艦隊司令官は不在だった。
メルカッツ提督が亡命をされた際に、小官はしめたと思ったものです」
これは、ユリアンも初耳だった。ダークブラウンの瞳を見開く青年に、薄茶色の目をした軍官僚は、にやりと笑った。
「何と言っても、小官など非力な事務屋ですよ」
ユリアンは、その目をそっと逸らした。大人は嘘つきだ。自分もその片棒を担いで、こうして人間は汚れていくんだろう。ヤン提督、ごめんなさい。
「正統派の用兵をする老練な名将が来てくれるなら、願ったり叶ったりだ。
逃がしてなるものかとね。先ほど、そちらにメルカッツ提督を受け入れた際に、
旧同盟軍の軍規や、報告書などの事務処理について解説した資料をお送りしました。
エル・ファシル時代から現在に至るまで、その法を準用して軍務を行っております。
それは要約ですが、小官が作成したものを、シェーンコップ中将が訳したものです。
貴官らは皆お若い。当方の軍規は、すぐに理解をいただけると思いますが」
ユリアンは、こっそりと乾いた笑みを浮かべた。言葉は丁寧だが、若い連中ならさっさと頭に叩きこめと言っている。なにしろ、この通話のタイミングすらキャゼルヌの交渉の一環だった。フェザーンから出立し、引き返しにくくなる地点で話を切り出す。不慣れな相手は、イゼルローンから提示された案に反論が難しくなる。
フェザーンを出立する前に、それを聞かされて、ユリアンは最初渋った。ワーレンは、公正で誠実な人格者だ。キャゼルヌの権謀術数の洗礼を受けるのは気の毒だ。
「ユリアン、まずはおまえさんが
「ですが、こんなのは不公平では……」
「組織としての大きさがまるで違うのに、正攻法を使っても正直とは褒められんな。
上に馬鹿とつけられるぞ。おまえさんによりよい代替案があるんなら聞いてやるが」
そんなものあるわけがない。ユリアンはキャゼルヌの提案を呑みこんだ。かくして、帰還のボーダーを越えたところで、イゼルローンから報告書に質問状が届き始めた。それは、
二ヶ月も時間を空費させられたキャゼルヌは、とっくに立腹していたのである。帝国の監視部隊が、宙域に張り付いているための燃料費に食糧費、そして空費されている人件費。
俺なら連中、
キャゼルヌの毒舌をたった一人で受けることになった、そばかすの後輩は彼の陰謀にこう言った。
「キャゼルヌ先輩、あなた悪魔ですね……」
「ふん、なんとでも言え。俺は仕事の鬼だ。そして、仕事ができん奴は許さない」
アッテンボローは慌てて弁解した。
「ちゃんと報告書もまとめましたし、イゼルローン要塞再奪取のプログラムも無力化しましたよ。
トリグラフの戦術データも抽出、整理しました。惜しい気はしますが」
「いいや、おまえさんじゃない。送った質問状に、まだ一件も返答が来ない。
二時間もあれば、簡単な案件ぐらい返事ができるだろうが」
「いやいやいや、それはキャゼルヌ事務監どのと、部下の皆様が優秀だからですよ」
「皇帝ラインハルトの部下に、無能者はいないそうじゃないか」
皮肉たっぷりのキャゼルヌである。
「戦場で勇を競うのを支えているのが事務部門だ。
当然、そっちも人材はたっぷりいるんじゃないのか。
まさか、たった二人の人間の死で、揺らぐような屋台骨ではないよなあ」
「その二人は皇帝陛下と軍務尚書でしょうが。無理もないことでしょうよ」
「だが、その皇帝ラインハルトは戦場に出ていたな。
テロの標的となったことも、一再ならずあるだろうが。
それで健康診断もろくすっぽしないとは、呆れた話じゃないかね。
今だから言うが、ヤンのお袋さんは33歳で心臓発作で亡くなってる。
あいつの健診をうるさく言ったのは、後方勤務本部からの指示さ」
「そういうことだったんですか」
アッテンボローは癖の強い髪をかき回した。心臓病は家族歴が大きく関与する。半分は
「なんのかんのと言ってもな、同盟軍の軍規はそれなりによく出来ていたんだ」
「それを聞くと、たしかにそう思えますよ」
「人事異動が後方でも三年に一度はあるだろう。人事の固着化防止だけじゃないんだ。
人間関係が気に食わなくっても、三年の辛抱だと思えるようにだよ。
何より軍人のトップは政治家だ。たとえ将官が戦死しても、交渉役は別にいる。
いっそ、皇帝ラインハルトもフリードリヒ四世を見習うべきだったな。
後継者を定めず急逝したが、国務の停滞は少なかった。
臣下にうまいこと丸投げをしていたからだ。そして34年間も波風立てずに在位をしてたんだ。
大多数の民衆にとっちゃ、皇帝ラインハルトよりよほどに名君だぞ」
「善政の基本は、平和で民衆を飢えさせないことだって、ヤン先輩も言ってましたね。
その
華麗極まりなかった皇帝に対しても、キャゼルヌの舌が切れ味を鈍らせることはない。
「そんな悪い嗜好とはとっとと縁を切れ、と言えた者がおらんのが泣き所さね」
毒舌の神様はお怒りだった。黒髪の後輩でもなだめられたかどうか。そばかすの後輩は、なんとか言葉を継いだ。
「武によって栄達したんですから、こだわりもあったんでしょう。
ハイネセンに駐留軍を置くのはしかたないでしょうが、
行政担当を最高責任者にすれば、
ロイエンタール元帥の叛乱は防げたでしょうに」
「ああ、それかいっそ、彼に姉を嫁入りさせて
アッテンボローは目を剥いた。
「はあ!? 何言ってるんです、キャゼルヌ先輩」
「ロイエンタール元帥の功績と才能はそれほどのものだぞ。
地位と金では報いるに足りぬ功労者を、一族に迎えるのが
ヤンならそう言うだろうよ。そうすれば、麾下艦隊とも切り離しできる。
この上なく名誉な理由でだ。だがクイーンを切れないから、ナイトを切ったんじゃないかね」
たしかに、黒髪の先輩もそう言うだろう。もっと穏やかな調子で。あの歴史論の根底には、これほど黒々としたものが
「新領土戦役は、そういうことだったんでしょうかね」
「もしくは、クイーンを使うべき人間が死んじまったからかもしれんぞ」
「……キルヒアイス元帥ですか」
アッテンボローの問い掛けに、キャゼルヌはひょい、と眉を上げた。
「いいや、皇帝の姉君を使ってでも、帝国に繋ぎとめるべき重要人物さ」