その示唆に、アッテンボローの顔は引き攣り、問いただす声が裏返る。
「まさか、まさか、ヤン先輩を!?」
キャゼルヌはこともなげに頷いた。
「ああ、政略結婚の常套手段だ。あの講和が実現していたら、ありえたかもしれん。
というよりもだ、バーミリオン会戦後の会談で、そいつをやられたらどうしようと、
俺は思っていたもんだ。ローエングラム公の性格上ありえないと、あいつは笑ったがね。
だが、皇帝になれば、また違った考えが出てくる余地はある」
「おっそろしい。二人して、そんなこと考えていたんですか」
「ゴールデンバウム最後の女帝を立てただろう。
あの時に、ヤンが言ったことが気になって、色々と聞いてみたのさ。
うちも娘二人だが、あんなことは考えたこともなかったからな」
アッテンボローは頷いた。男子相続の本質は、皇祖からのY染色体の伝達である。その血を引く男子はおらず女帝を立てた。それはゴールデンバウム朝の終焉の宣言だ。ヤンは幕僚にそう告げた。歴史学をかじったヤンならではの着眼点だった。
「歴史的には、女子の相続は認めないという法もあった。
一方で、家を継ぐのは娘で、息子は他家に婿入りするという時代もあったそうだ。
誰が父親でも娘の子だということさ」
末っ子長男は、姉三人と義兄三人の顔を思い浮かべた。そして、彼らが実家に一堂に会しているところを。しかも来る日も来る日も。そんな家にはたしかに帰りたくない。顔を片手で覆って項垂れる。
「それはそれで厳しい時代ですよね」
「ああ、武力による争いはなかったが、君主との閨閥を結ぶため貴族は暗躍したそうだ。
その国の君主だけは男子相続で、妃を
とにかく、あいつによれば、歴史は戦争と政争の縮図で、血縁は武器になる。
剣ではなく、鎖や檻だ。剣を抜かせないための抑止力となりうるんだとね」
「でも、皇帝ラインハルトの姉上の話を聞くに、到底実現するわけもないでしょう」
ついに鳩尾をさすりはじめた後輩に、先輩は頷いた。
「そうだな。皇帝ラインハルトには、彼女とキルヒアイス元帥という聖域があった。
だが、それは公爵ならまだしも、皇帝には持てないものなんだ」
巨星の特異点だった二人。一人の命を失い、一人の心を失ったから、彼はひたすらに飛翔したのかもしれない。この世のどこにもないものを探して。あるいは、それに替わるなにものかを求めて。ヤン・ウェンリーは後者だったのかもしれない。
アッテンボローもお返しにヤンの歴史論を披露した。こちらはずっとおとなしいものだったが。
「君主は法なり、平等たるべし。
名君たらんと欲すれば、これほど厳しく孤独なものはないってやつですね。
俺も学生の頃、ヤン先輩から聞いたことがありますよ。
それに耐えうる者は歴史上にも稀だから、立憲君主制が生まれ、
共和民主制へと移行していったんだとね」
後輩の相槌に、キャゼルヌは得たりと頷いた。
「そのとおり、特別を作ることはできない。
百歩譲って妻と子までで、無論臣下はアウトなんだとさ。
ロイエンタール元帥は、皇帝の命の恩人の一人でもあるんだぞ。
本当なら、帝国の双璧をキルヒアイス元帥並みに遇するべきなんだよ。
それをしなかったのは、彼らが健在だったからだろうが、部下にも情はある。
死者一人だけを尊ばれても、ふつうなら喜ばんよ」
「そりゃ、そうだ」
アッテンボローは頭をかいた。こりゃ、藪蛇だったか。人事担当者の手にかかると、どうして一般論がこんなに背筋の凍るものに変貌してしまうんだろう。
しかし専制君主とは、国家最高の人事担当者でもあった。あの金髪の美形は、こういう腹黒さとは無縁だろうし、その臣下もできた人物が多い。
「新軍務尚書のミッターマイヤー元帥は、よっぽどの人格者なんだろう。
だが、それを基準にするのは誤りだ」
一々ごもっともである。強きではなく、弱きを基準にしなくてはならないだろう。
「たしかにね。うちの連中を見てりゃ、よくわかりますとも」
ちゃっかりと自分を除外してみるが、それを見逃す先輩ではない。
「おまえや俺を含めて、人間は誰しもそうだよ。それが帝政の厄介さだよな。
人事評価に、皇帝と臣下の愛憎まで絡んできてしまうんだから」
「それに、こっちと違って三年の辛抱ってわけじゃないですしね。
結果としては、五年で足らずで終わっちまったが」
改めて思い返して、愕然とせざるを得ない。五年前の宇宙暦796年8月。まだ宇宙の半分は自由惑星同盟で、ヤンの魔術に沸き、その勢いで帝国逆進攻に打って出ようとしていた。あれは滅亡の前の輝きだったのだ。ヤンのその後の人生は、同盟の愚行の残務処理と言ってもよかった。
後輩の表情に、一人になった先輩は薄茶色の頭を振った。
「それは結果論だな。
常識で考えれば、あと五、六十年は皇帝ラインハルトの治世だ。
その間どれほど貢献しても、キルヒアイス元帥には絶対に敵わない。
皇帝に認められるには、結局は命を賭けなくてはならんと、
そう結論づけても不思議じゃないさ。そして、そんな敵はもういない」
「あるいは自分が敵になるか、ですか?」
「ヤン・ウェンリーも皇帝ラインハルトの特別だった。
味方なのに敵ほど評価してもらえなければ、面白くないに決まってる。
不満を持っている奴は、周りには案外わかるものだよな。
可能性が実現化する前に、謀略で除こうとしたが、見事に失敗したって線が濃厚だな」
「ウルヴァシー事件は
それを企んだ
相手が亡くなった後じゃ、しょうがないでしょうに」
キャゼルヌは渋い顔で肩を竦めた。
「でないと、ミッターマイヤー家の坊やが連座させられるからさ」
アッテンボローのほうは、酢を飲まされたような顔になった。
「結局、大逆罪と不敬罪は廃止していないんだもんなあ。こりゃ、難儀なことですよ」
「頑張れよ、議員候補生どの。それにしてももったいない。
ロイエンタール元帥がいれば楽だったろうに」
人事や行政のプロでもある、キャゼルヌの言葉は重い。
「あの時、ウルヴァシーで死なずに済んでよかったな、皇帝ラインハルトは。
妻と息子を得たのはせめてもだが、あと二十年は子どもが即位できん。
女子供が三人死ぬだけで、ローエングラム王朝は断絶する。
皇妃の館に大本営までテロの標的になる有様では、危険極まりないな」
「続いてほしいんですか、キャゼルヌ先輩は」
「正直、看板はどうでもいい。大事なのは平和の方だ。
だが、その看板を掛け替えるとなると大騒ぎになるだろう?」
「じゃあ、当方としては、看板の存続に微力を尽くすしかないですね」
「全くだ。軍規のカンニングまで許したんだぞ。しかも訳文つきだ。
これでピンとこないんなら、俺からはっきり言わなきゃならんな」
「やめてくださいよ。お願いですから」
アッテンボローは手を合わせて懇願した。
「冗談だ。やるなら政府が成立し、国交が開始されてからだな。
向こうが不敬罪を持ちだしてきたら、
言論の自由の侵害、憲法違反に内政干渉で訴えられるようになったらにしよう」
「いやもう、負けましたよ」
全面降伏する後輩に、キャゼルヌはにやりと笑った。
「おや、おまえさん、俺に一回でも勝てたことはあったかな」
こうして、手ぐすねを引いている事務の達人の元に、ワーレン艦隊はやってきた。半年前に、
「ああ、別に驚かれる必要はありませんな。
ヤン司令官の当初案から、講和を結んだら当要塞を返還し、
エル・ファシルに自治権を認めていただくつもりでした。
要するに、エル・ファシルをハイネセンに読み替えただけだ。
少々、距離は遠くなり、人口規模も三十倍以上になりましたが、
財布の大きさはそれどころではない。先帝陛下には感謝をしております」
キャゼルヌの先制攻撃が、帝国軍の鼻先に炸裂した。
「当方の軍規要約をご覧いただければお分かりになるでしょうが、
旧同盟軍はお役所の要素が強いのです。
作戦を計画し、予算を確保するためには、本来なら一年前から動かねばならない。
議会を通さねばならないからです。
昨今は、丼勘定の出たとこ勝負が続いていましたがね」
先へ先へと事業を見越して、予算を計上する。皇帝の一声で、大親征が決定する新帝国とは異なった。
旧帝国の皇帝の権威は、近年そこまで絶対ではなかったし、大貴族から制肘され、フェザーンもそれを後押しした。
それ以上にフリードリヒ四世は、積極的に軍を動かす皇帝ではなかった。ブルース・アッシュビーによる、第二次ティアマト会戦の人的損害の回復にも三十年あまりを要していた。喪の黒が薄まり、白熱の乱世に移行するまでの、停滞の灰色。その理由の一つである。
「卿の言葉のとおりなのだろう。我々は陛下の命令に従ってきた。是非を考えることもなく」
「失礼だが、今はそれに論評する時間も惜しい。どんどん疑問点を潰し合う事にしましょう。
二時間ほど、資料を見ていただくために休憩としましょう。その間に昼食もお取り下さい」
言うだけ言って、キャゼルヌは散会を告げた。ワーレンと若手将官らは、無礼となじる余裕もなかった。用意された資料に、二時間で目を通せということだからだ。とても読み切れる量ではない。
資料とコーヒーと昼食を運んできた、淡い金髪に空色の瞳の女性士官は、無言になった帝国軍の面々に気の毒そうな表情になった。
「なにもいちどきに、全部を細部まで把握する必要はありませんわ。
まずは、午後の議題となる第二陣の帰還計画をご覧ください。
それ以外は、適宜担当者を決めて、協議をしていただければ結構です」
なぜ、中佐の自分が
その部下らは、童顔のアッテンボロー提督と同じぐらいに見える。三十そこそこの将官が十名、もうちょっと腹が据わっていてもよさそうなものだ。彼は彼で基準を突破している人だが、この連中だって同じような階級ではないか。どうして縋るような目を向けて来るのだろう。
「第二陣帰還計画の概要は、32ページにあります」
ちゃんと帝国語で作成したんだから、さっさと読んだらいかがかしら。そんな言葉を呑みこんで彼女は告げた。彼らの手元から、一斉にページをめくる音があがった。やれやれ。彼女は退出してから、肩を竦めた。
「箱舟作戦に比べれば人数は少ないし、ほとんどが成人の軍人だし、
戦闘中でもないのに。なにを悩むことがあるのかしらね」
あの激務に比べれば大抵のものは平気だ。でも、あの時はヤン提督がいて、きっと大丈夫、必ず守ってくれると安心させてくれた。だが、帝国軍のお歴々はアッシュフォード中佐を不安にさせる。というより、自分の上官から発生しそうな寒冷前線は危険であった。
彼女の夫は、紅茶の呪文プロジェクトを手掛けた企業出向の技術士官だった。ハイネセンからヤンが脱出し、イゼルローンを目指すという情報に、俺が行かなきゃ誰がやるとばかりに、彼女と息子を引っ張ってきたのである。
彼女としても、ヤンを売り、レベロ議長を殺した、ロックウェル本部長らと同じ空気を吸うのも、我慢ができなかった。後方担当の女性軍人で、ヤン不正規軍に身を投じた者も少なくはなかった。後方本部長代理の席を蹴ったキャゼルヌに、ヤン艦隊の後方職員もついて行ったのだった。