銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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みどりのゆびの悪魔

 キャゼルヌなど、帰還したユリアンを帝国軍と一緒にしごきにかかった。ラオの圧力など、彼に比べれば優しいぐらいだった。圧搾機で締めあげて、脂汗を絞りつくす勢いである。叩いて掛け橋にするとの豪語は、過大なものではなかった。

 

 皇帝ラインハルトの意志が、すべての法の上に屹立(きつりつ)した銀河帝国とは異なる。旧同盟の法を引き継いだイゼルローン軍の手法は、ずっとシステマティックだった。簡潔で定型的な書式と、その根拠となる資料。人事異動が三年単位で発生するのだから、初日からある程度の仕事ができることを要求される。それに要する引き継ぎ期間は一週間から十日。それを基準にしたスパルタ授業だった。

 

 題材として槍玉に挙げられたのが、帝国軍監視部隊との交渉の停滞である。

 

「旧同盟軍においては、少将は二十万人、中将は百五十万人の統括者でした。

 イゼルローン政府の人員規模ならば、監視部隊の責任者の職責において、

 退去を行わなければならないのです。

 せっかくワーレン元帥閣下にお越しいただいたが、

 元帥の職責にふさわしいものではありませんな」

 

 剛毅といわれるワーレンだったが、旧同盟軍屈指の軍官僚の言葉には反応ができなかった。

 

「本来は、もっと下位者が務めるべきものです。

 これは単純な輸送作業であり、政府間の交渉は政治の役割ですからな」

 

「しかし、キャゼルヌ中将。貴官は返還の折衝役に条件を付されたはずだ」

 

「ええ、そのとおりです。

 イゼルローン政府に対して、反発し、武力行使に出る恐れのある者。

 こうした席で、帝国側の意見を適切に発言する能力に欠ける者。

 そうではない者を選んでいただきたいとね」

 

 薄茶色の瞳が、極めつけに人の悪い笑みを浮かべた。

 

「小官は、一言も元帥級の高官に来ていただきたいとは申し入れておりません。

 判断をなさったのは、帝国軍の軍務省首脳部でしょう」

 

 帝国軍の高官の頭上を、一個小隊の沈黙の妖精が飛び回る。そいつはユリアンの周囲もぐるぐると旋回した。黒い髪の守護天使の囁きも、聞こえたような気がする。

 

 玉虫色の話法も、ここまでくるといっそ美しいね。いいかい、ユリアン。とにかく、先輩を敵に回すんじゃないぞ。

 

 ユリアンは、守護天使の忠告に心から誓った。心配をなさらなくたって、僕もそんな勝算のない戦いはしません。

 

「適職者が元帥という判断でしたら、それは将官の育成が不十分なのです。

 ならば、管理職が引責を受けるべきでしょうな。

 管理職の役割の半分は、目標に応じて仕事を考え、それを適正に分配することだ。

 貴官のように高い能力があり、可能だからといって、小事まで抱え込むのは下策です。

 小事を統括し、大事への集約の橋渡しをする中間管理職の育成。

 これが管理職の仕事の残りの半分だ」

 

 必要以上の仕事を持つな、捨てろ。それは下にやらせるように考えろ。それがおまえたちの仕事なのだ。勤勉な帝国の将官が、考えもしなかった組織論である。

 

「複雑な事業は割り算で考える。すなわち、集約は掛け算で行うことになります。

 だから、トップからいきなり細分化してはいけない。手に負えなくなる。

 このために中間管理職はいるのです。管理職は目標を設定し、計画の骨子を作成する。

 中間管理職に大きな骨を一つずつ割り振って、肉付けさせるのです。

 必要に応じて、さらに小割りにするのは中間管理職の判断と責任です。

 気をつけねばならないのは、事業の完成予定図を明示することだ。

 各部門が仕事をやったはいいが、背もたれが二つで座板がなく、

 脚の長さが極端に違ったのでは、椅子として使い物にならないでしょう」

 

 ワーレンはこの言葉を手元の紙面に書き留めた。皇太后ヒルダにとって、重大な示唆である。管理職を皇太后、中間管理職を閣僚や元帥らに替えれば、そのまま帝国首脳部に当てはまる。

 

「自分で考えるのが難しいなら、中間管理職から意見を集約すればいいのです。

 現場の者の方が、自分の専門についてはトップよりも詳しい。

 中間管理職に権限と信頼と評価を与えれば、自ずと職責を果たそうとするものです。

 やる気を与え、責任を負うのも、トップの役割ですな」

 

 キャゼルヌがワーレンらに例として示したのは、故シェーンコップ中将の管理職教育であった。

 

「彼は白兵戦に極めて優れていましたが、それ以上に聡明で有能な将官でした。

 しかし、元々陸戦部隊の連隊長が、数十万人規模の要塞防御司令官に着任するというのは、

 大変なことだったでしょう。故ヤン司令官も、彼の育成には手間を掛けたのですよ。

 まずは、帝国軍並みの運用ができるように、

 帝国語のマニュアルを薔薇の騎士(ローゼンリッター)総出で訳してもらいました。

 次に、同盟軍の過去の要塞攻略戦をモデルに、帝国が来襲した場合の予想を提示した。

 その図入りの三ページのレジュメが、ヤン司令官が帰還兵輸送の留守の前に出した資料です」

 

 非常に整理されていて、一見そっけないほど簡単に見えるものだった。しかし、ワーレンに同行していた、一人の中将の顔が蒼褪めた。彼は、第九次イゼルローン攻略に参加した。彼らの艦隊が航行したのは、まさにこの経路のひとつだったのだ。

 

「細かいことは割愛しましょう。これを元に演習を行いました。

 実際の誤差や稼働時間を計りながらね。

 本格的な演習ができたのは、同盟のクーデター終了後、メルカッツ提督が加わってからです。

 彼の知識に、大変助けられましたよ。

 当時のシェーンコップ少将は、書類仕事が得意ではなく、

 二十ページ近い演習計画書を出しましてね。

 司令官自ら、こんなに長ったらしいものは見ていられないと、ばっさりと朱を入れました。

 そして、先ほど小官が言ったことを伝えて、彼の部下に計画を作らせるようにした」

 

 やはり、綿密な計画書の後ろに、簡単すぎるのではないかという手書きの計画案が付いている。ヤン・ウェンリーの肉筆のコピーだ。だが分量の多い方の内容を分解し、必要人員と行動を記載してタイムテーブル化してあった。ワーレンは食い入るように紙面に見入った。宇宙最高の軍事的頭脳の持ち主は、その思考を他者にわかりやすく表現するのに長けていた。

 

「これが入門編ですな。

 次にやったのは、メルカッツ中将に客員提督となっていただくために、

 小官が作成した軍規要約を訳して説明させたのです。

 軍の基本法から、さまざまな報告書の目的やら決裁区分や何かをね。

 これは非常に有効でした。

 仕事の根幹となるものが見えてくれば、彼はそれに適応できる能力があった。

 最後がガイエスブルク襲来後の彼の作成した報告書です。見違えるようでしょう」

 

 三ページに収まった報告書。まさに一目瞭然の内容に整理されている。司令官ヤン・ウェンリーのサインの下には『大変素晴らしい』のコメントが小さく添えられていた。ユリアンが眠った後で帰ってきて、起きる前に出掛けた時に、夜食の皿の下に置かれていたメッセージ。それと同じ言葉、同じ筆跡だった。

 

「ここまでで一年半です。実質半年はクーデター鎮定に同行していましたし、

 さらに三か月は司令官が不在で、ガイエスブルク要塞まで攻めてきましたがね。

 だが、二千人の上官から、数十万人を統括する者に育てられるのですよ。

 道を示し、能力を認め、さらに課題を与えて評価する。 

 この頃には、一般の白兵戦員から、薔薇の騎士に抜擢されるのは名誉になっていました。

 もう、亡命者の逆亡命予備軍などと謗る者は一人もいませんでしたよ」

 

 そして、これほどキャゼルヌが詳しいという事は、組織工学の英才たる彼も、陰に日向に様々な協力をしたということでもあった。

 

「だから、彼らは先帝陛下の総旗艦に突入して、二百四人しか帰ってこなかった。

 彼らにとって、ヤンの価値はあまりに重かったのでしょう。それは悔やまれてなりません。

 ヤンが死ななければ、防げた流血は何十万人分かあったでしょう。

 地球教の亡霊が、平和の根幹を揺るがそうとしているのを見過ごすことはできない。

 旧同盟の手法を、そのまま使用することもできないでしょうが、

 何かの参考にはなるのではありませんかね」

 

「卿に心から感謝したい」

 

 キャゼルヌの言葉は、皇帝と軍務尚書を失った帝国にとって、重要な手掛かりを含んでいた。ワーレンを始めとする帝国軍首脳陣が感じていた、大将以下の能力の不足。それも当然だ。こんなに手を尽くした教育をしていないのだから。

 

 ラインハルトは無能者を嫌った。その羽ばたきに、追随できる人間が階梯(かいてい)を昇っていき、能力の足りないものはその場に留まるか、泉下(せんか)へと転がり落ちた。

 

「しかしですな、これから重要なのは軍事より民生ですよ。

 負け惜しみで言うのではありませんが、戦争に負けても旧同盟の市民生活は、

 おおむね保たれているでしょう」

 

 ワーレンは、新領土戦役の際にミッターマイヤーの副将の一人であった。ロイエンタールが死去した後、ハイネセンに駐留し、治安の維持にもあたっている。

 

「ああ、卿の言うとおりだ」

 

「掛けていた金の桁が違うからですよ。

 帝国と旧同盟の戦争は、こう言っては何だが、決められた小遣いの中の火遊びでした。

 第二次ティアマト会戦以降、アムリッツァの会戦まではね。

 積み上げてきたものが違うし、社会のシステムが大変貌した帝国とは異なります。

 ところで、先日の昼食の味はいかがでしたか」

 

 突然の話題の変更に、ワーレンは脱色した銅線のような色の頭を傾げた。

 

「は、昼食の味? なかなか美味でしたが」

 

「あれはイゼルローンの食糧生産プラントを改良して、生産したものですよ。

 天上の美味とは言えないが、そんなに悪くはないでしょう。改良したのは民間企業です。

 現在は、余剰生産分をフェザーンに売っていて、貴重な収益になっている」

 

「キャゼルヌ中将、何をおっしゃりたいのだろうか」

 

「つまり、軍用の食糧も、同盟の企業ならばこの程度の味にはするんですよ。

 価格の方は、あれだと一食二ディナール以下で競争させます。

 帝国本土で、この品質の物を一帝国マルク以下で買えますか」

 

 帝国軍人は誰も咄嗟に回答できなかった。というよりも、軍用食一食のコストは知らない。しかし、たったの一帝国マルクということはないだろう。

 

「どうやら、ご存じないようですな。

 国営企業とはいえ、材料費に人件費、光熱水費、輸送費は必要でしょう。

 決して無料ではありえないのですよ。

 このまま貿易を自由化すれば、同盟の産品が帝国に流入します。

 為替レートのせいで、一マルクで二ディナールの物が買える。

 庶民にとっては、一時的にはありがたいでしょう。

 しかし、帝国本土製品が売れなくなる。企業が潰れ、給料が出なくなる。

 あるいは」

 

 キャゼルヌは腕組みをすると、薄茶色の目を帝国軍の高官らに向けた。

 

「コストを度外視しても、国費で雇用を担保する方法もある。

 しかし、長期的には国庫を圧迫し、深刻な財政危機を招く。

 かと言って、安易にフェザーンや旧同盟資本を参入させるのはお勧めできない。

 腸を食い破られ、肉を貪られ、骨の髄まで啜られるでしょう。

 残った骨さえ焼かれて肥料にされますよ」

 

 一つの軍用食が見せた巨大な問題だった。

 

「これは小官の私見に過ぎませんがね。

 帝国の閣僚たる方々ならば、既にお気付きでしょう。

 なにせ、帝国は五百年、同盟は二百年自前でやってきたのです。

 それを競争させたら安くて旨い方が勝つ。この軍用食の入札と一緒でね」

 

 同盟軍史上最高の名将が、最も信頼した勘定方は、凄味のある笑みを浮かべた。

 

「人を殺すには武器など必要ありません。一週間、飲み食いさせないだけでいい。

 帝国逆進攻にそちらがとられた作戦ですな。

 だが、もう他人のせいにはできないのですよ。

 ゴールデンバウム王朝も、門閥貴族も、自由惑星同盟もみな滅びましたからね」

 

 雷神の槌(トゥールハンマー)よりも強烈な毒舌の矢が、ワーレンらを直撃した。これからの悪政は、ローエングラム王朝のせいだと。色めきたった若手将官らが席を蹴立てて立ち上がる。口々にキャゼルヌの無礼を咎めて、中には詰め寄ろうとする者がいる。ワーレンが制止するより先に、官僚的な容貌の中将は一喝した。

 

「それが支配者の責というものだ。

 国民を一身に担う、その覚悟もなくして王朝を()てたと貴官らが弁護するなら、

 皇帝ラインハルトに対する、最大の不敬にあたるだろう!」

 

 彼の毒舌に慣れたユリアンでも、驚くような叱声である。

 

「先帝陛下は、自身の意志でそれを選ばれたのだからいい。

 だが、その遺族が否応なく責を相続させられるのが、専制政治の欠点だ。

 ヤン・ウェンリーが戦ったのは、それへの反対でもあったことを忘れるな。

 たしかに皇太后陛下と大公殿下はお気の毒だが、その責は何ら軽減されるものではない。

 ならば、貴官らや閣僚が、皇太后陛下に最適な意見を示すべきだろう。

 現場の専門家としてな!」

 

 そして、薄茶色の鋭い眼光が、帝国軍の面々を一巡した。

 

「仮にも将官の階級と俸給を得ていて、職分に応じた判断もできないのでは話にならん。

 こちらからの意見を集約して、回答できる状況になってから、声をかけていただこう。

 小官も忙しいのですよ」

 

 そう言い捨てて、さっさと席を立ってしまう。残されたユリアンは言葉が見つからず、帝国軍の面々と顔を見合わせることしかできない。

 

 書記役の中佐が、ユリアンに告げた。

 

「では、ミンツ軍司令官、続きをお願いします」

 

「ええっ、続けるんですか!?」

 

「はい、そうしないと意見の集約は不可能でしょう」

 

 空色の瞳の彼女は、取り残された高官らを前に、底知れぬ笑みを浮かべた。

 

「キャゼルヌ事務監が、怒って毒舌を言ううちは、まだ大丈夫ですよ。

 本気で見捨てられると、シリューナガルの四季が訪れるのです。

 それはそれは礼儀正しく、あの星の水で清めるような対応ですのよ」

 

 それを聞いたユリアンの顔から血の気が引いた。皇帝ラインハルトにも、臆さずに対応した青年の様子に、ワーレンは不審に思い声を掛ける。

 

「ミンツ軍司令官、どうされたのだ」

 

「待って下さい、アッシュフォード中佐。あの星に冬以外の季節はないですよね。

 そもそも液体の水だってない、全部永久氷河じゃないですか!」

 

 その星は、バーラト星系の第六惑星である。クーデター鎮定の最終章、ハイネセンの軍事攻撃衛星『アルテミスの首飾り』を粉砕した、一立方キロの氷塊一ダースの産地だった。つまり……。

 

「ええ、激寒の冷戦の開始です。小官も協力いたします。

 それこそ、胃薬も病院も無料ではありませんから。

 さあ、概要書の四十ページを開いてください。

 では、第二陣帰還後から、最終の帰還までの行程ですが……」

 

 彼女は書記席から、端末を操作し、ディスプレイに計画を表示した。淡々とした口調で解説を始め、ユリアンが所々で補足する。中佐と中尉が、元帥を含んだ十数人の軍高官の説明役だという、帝国では前代未聞の光景だった。

 

 憤慨しかけた若手将官らだったが、説明が進むにつれて沈黙するしかなくなった。現場担当者が把握し、それが司令官にもきちんと伝達されている。キャゼルヌの組織論の生きた見本だった。

 

「これはまさに良薬だな。いささか以上に口に苦いが」

 

 ワーレンは呟いた。組織として、イゼルローン軍ははるかに小さい。だから手が届くのだというのは容易い。だが、前線の若手将官は職責を意識しているだろうか。この五年間の昇進に、麻痺しかけてはいないか。部下らと同年代と思われる、中佐の冷静な説明と質疑応答を聞いていると、そう思わざるを得ない。

 

 そして、この女性中佐は約十年の軍歴を持つという。彼女の昇進もかなり早いということだが、さらに若いヒルダに帝国を背負わせるのは、いかに過酷なことだろうか。ヒルダは帝王学を学んだわけではなく、四年間の毎日を政務や軍務に費やしてもいない。ラインハルトの部下ではあったが、誰の上官でもないのだ。

 

 天才が選んだ女性は、頭脳は極めて優れていても、実務的には素人同然だった。皇太后という地位にあるからといって、責務のすべてを押し付けるのは、臣下としての怠慢であろう。皇帝ラインハルトと共に宇宙を統一した者として、許されることではなかった。キャゼルヌ事務監が立腹するのも当然だ。

 

「では、双方の意見の概略について表示します。

 重複した内容は、適宜整理させていただいてあります」

 

 画面に帝国語と同盟語で、会議の内容が表示された。

 

「後ほど、正式に録音議事録を提出いたします。

 まずは大きな誤りがないか、ご確認をお願いします。

 よろしいでしょうか、ワーレン元帥閣下、ミンツ軍司令官」

 

 名指しされた二人は画面に見入って、文字に目を走らせる。ややあってから双方は頷いた。

 

「詳細はこれから詰めるにしても、基本骨子はこれでよかろう」

 

「小官もそう思います」

 

「では詳細な日程表を作成し、作業と必要人員の計算に移りたいと思います」

 

 ユリアンは、書記席を振り返った。

 

「まだ、続けるんですか」

 

 ワーレンは席の配置でそうせずに済んだが、亜麻色の髪の青年と同じ問いを発したくなった。

 

「そうしないと、事務監に出席してもらえませんからね。

 回答できる状況とはそういうものです、ミンツ司令官。

 あらあら、そんな顔をなさっても、やらないと仕事は終わりませんよ」

 

 あの上官にして、この部下あり。その表情には、イゼルローンの外壁よりも冒しがたい威厳があった。地上一万メートルの冬の澄みきった成層圏色の瞳、その気温は零下六十度。

 

「そして、仕事が終わらないと、いつまでたっても家には帰れないのです。

 小官を夫と息子が待っていますから、何としてでも終わらせます」

 

 瞳の色はそのままに、うっすらと笑みを浮かべて一同を睥睨(へいげい)する。一介の中尉のユリアンが、どうして中佐殿に抗う事ができようか。帝国元帥だとて、一言もさしはさめぬ迫力であるのに。凍りついた面々に、アッシュフォードは時計を見て猶予を与えることにした。

 

「ですが、そのまえに三十分間の休憩としましょう。

 連絡事項、小用は休憩のあいだにお願いします」

 

 本国に泣きつくのなら、今のうちにしておけという通牒(つうちょう)だった。この関門を突破しなければ、本丸のキャゼルヌには到達できない。

 

 これは荒療治である。現在の帝国軍には、叩き上げの古参兵がほとんどいない。通常だったら、士官学校出の若い少尉は、そういった熟練者に揉まれて鍛えられる。だが、その機会もなく、どんどん階級が上がっても経験が伴わないのだ。大きな鉢に木を植え替えても、水や肥料や時間が不十分では、器に見合う大きさには育たない。それと同じである。天才の上意下達(トップダウン)の弊害でもあった。

 

 彼らと同じほどに若い、ずっと階級の低い後方事務官が、複数の兵士や下士官を使いこなしている。中佐でさえ、五百から千人の長となる階級なのだ。これが少将なら二千隻二十万人、中将ならば一万二千隻百五十万人の長となりうるのである。それを満たしているのか。若手の将官らに突きつけられた問いも、重く鋭い。

 

 席を立った中性的な美人に、ユリアンは追い付いた。

 

「あの、何と言ったらいいのか、何と言うべきか、その、ありがとうございます」

 

「これも仕事だから。給料分の仕事をするって、大変よね。

 本物の給料泥棒がどういうものか、わかったでしょう」

 

「……はい」

 

「部下に上手に仕事をやらせるのは、とても難しいの。

 人に使われるのとは違う才能が必要なのよ。

 まあ、私たちも休憩しましょう。お茶でもいかが?」

 

「是非ともご馳走になります。

 あのフレデリカさんのお茶を変えた、先生の味なんですよね」

 

 ユリアンには果たせなかった偉業である。 

 

「とんでもない、私はやり方を教えただけよ。変わったのは彼女自身とヤン提督のおかげ」

 

 ダークブラウンの瞳を瞬かせる青年に、彼女は告げる。

 

「惚れた相手から、評価と感謝をされれば、大抵の人間は発奮するのよ。

 男女を問わずね。あなたも覚えておくといいわ」

 

「は、はい?」

 

 ヤンの評価と感謝を糧に、長足(ちょうそく)の進歩を遂げたのは一人だけではなかった。

 

「部下にそういうやる気を出させるのが、上司の役割でもあるのよ。

 嫌われなくて一人前、好かれて一流、超一流は惚れこまれるの。

 なんて顔してるの、これは仕事の話よ。恋愛にも通じるけれどね」

 

 悪戯っぽい表情と言葉に、表情を緩めたユリアンだったが、結びの言葉で再び硬直することになる。

 

「つまり、ワーレン元帥のお手並みも拝見ってことよ。おわかりかしら?」

 

 もはやユリアンは、顔を上下動させることしかできなかった。黒く尖った尻尾を持つ者の部下も、やはり魔の系譜に連なっていた。

 

「さあ、一服して頑張りましょう」

 

 出された紅茶は、ユリアンが感嘆するほど美味だった。それがこの日、唯一の癒しだった。その後はもう……。事務の達人の顔を拝むまで、こんなに時の長さを感じたことはない。

 

 キャゼルヌの出馬を仰ぐまで、ワーレンらは中間管理職の佐官級職員たちに、現場の状況説明を受けることになった。フェルナーが同行させた者とは同年代である。上意下達、そして下意が上層に投げ返されるシステムは、帝国よりも遥かに洗練されていた。職権に上下はあっても、身分の差がない国家の利点に他ならないだろう。ようやく門番が取次ぎをしてくれたのは、一日と半の後であった。

 

 人の悪い笑みを浮かべた事務の達人は、開口一番に告げた。

 

「いかがかな、我々は自分と家族の為に働いているのです。

 お偉方のためにでも、司令官のためでもない。

 家を守るため、家に帰るために戦ってきたのですよ。

 そして、ヤン・ウェンリーは、誰よりも将兵を家に帰してくれる司令官でした。

 だから、我々は彼を信じて支え、十全に働いてもらったのです」

 

 もう色めき立つ者はいなかった。 

 

「さて、貴官らは何のために働くのか。それを心から考えていただきたい。

 国家が何を目指しているのか。答えは身近にあるが、だからこそ難問なのだ。

 それをたった一人で実現するのは、人間には不可能だ。

 たとえ、神のような天才であってもです。

 ならば一人でやらなければいい。ただそれだけのことです」

 

「仕事は割り算で、国家もそれと等しいとおっしゃるか」

 

「民主主義国家の人間は、そう考えてきたのですよ。

 専制政治については、小官は不勉強でしてね。

 貴官らの方がずっとお詳しいでしょう。よくお考えになることですな」

 

 かくして、ようやく交渉のテーブルは修復された。亜麻色の髪の中尉と、アッシュブロンドの中佐は、静かに安堵の視線をかわした。 

 

 すべては、魔王キャゼルヌの掌の中なのかもしれなかった。

 




注:(泉)下=黄泉

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