銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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ペクニッツ公爵家、特に夫人の経歴については筆者の創作によるものです。


希望の蒼――Hope Blue――

 色よい返事に緩みかけたヒルダの頬に、緊張の色が走る。

 

「何事でしょうか」

 

「ペクニッツ公爵令嬢ですわ」

 

 絶句したヒルダに、マグダレーナは淡々と告げた。

 

「あの父親の許で、オーディーンにいらっしゃるのは危険です。

 なぜ、あんな取るに足らぬ男に、先帝陛下に(くみ)する才覚があったと思われますか?

 その妻がオトフリート五世陛下の孫であり、リヒテンラーデ候の一門であったからですわ。

 でも、彼女はリヒテンラーデ候の反逆罪にも連座されなかった。お子がお腹にいたからですよ。

 親族の男性のほとんどが処刑され、女子供は流刑にされ、でも自分は無事だった。

 感謝するどころではなく、未来を悟りますわ」

 

 ゴールデンバウム王朝最初の女帝にして最後の皇帝。カザリン・ケートヘン一世の出自について、ヒルダは考えたことさえなかった。公爵となったペクニッツは元々は子爵で、象牙細工収集に入れ上げて借金を抱えるような男だ。ラインハルトはもとより、富裕な伯爵階層が詳しく知るところではない。これは、子爵よりも下の男爵階級ならではの知識だった。

 

「リンデンバウム伯爵家の三女でしたから、子爵に嫁いだのです。

 美しい聡明な方でしたが、親族の処刑のショックから難産で産後の肥立ちも悪くて、

 あの子が即位する前から寝たり起きたりの状態でした。

 そこに娘を女帝として差し出され、皇位を禅譲させられて戻ってきた。

 夫は娘の年金で象牙細工の収集三昧。それでも、あの方がいるかぎりは手綱も付いている。

 家令や従僕も奥方の味方で、よく差配をなさっているわ。

 でも、いよいよいけないらしいのです」

 

「ですが、父上から子どもを引き離すなんて……」

 

「あの男は、皇太后陛下のお父上とは違います」

 

 鋭い一言だった。

 

「皇孫たる伯爵令嬢が嫁ぐ家ですよ。

 あの男が継ぐ前は、ペクニッツ子爵家は豊かな名門でした。

 御輿入れの直前に、前当主が亡くなって、服喪している半年で家を傾けてしまったのです。

 そしてどうにも立ち行かなくなって、逆らえぬ相手とはいえ、

 娘を金と引き替えにしたのですよ。奥方は無論反対をなさいました。

 娘を抱えて走れる体があれば、逃げていらしたでしょうね。

 ですが、歩くのもやっとではとても無理」

 

 ヒルダは、黒髪の貴婦人を凝視することしかできなかった。ラインハルトの崩御後、親としてようやく思い知った非道を、再び痛感させられた。

 

 マグダレーナの形のよい唇から、言葉が紡がれていく。

 

「カザリン様の無事を祈り、ようやく戻ってきた娘をそれは可愛がっていらっしゃる。

 そう長いお命ではないのを悟って、貴婦人としての嗜みを教えながらね。

 そんなお体で、カザリン様のために茶会を開いては、

 貴婦人たちにお披露目をなさっているのよ。

 公爵夫人が、男爵のわたくしにまで招待状を下さって。本当に頭が下がります。

 カザリン様は利発で、それは愛らしいお嬢様でした。

 まだお若いのにどれほど心残りでしょうか」

 

「お若い方ですのね?」

 

「皇太后陛下と同い年ですわ。お気の毒に」

 

 それは壮絶な母の愛だった。幼くして数奇な運命を辿り、もうすぐ庇護してやれなくなる娘に、

女としてできる闘争の(すべ)を教え込む。一人でも味方を増やすために、少なくなった貴族を順に茶会に招いて。今少しヒルダが大きかったら、亡くなった母もそうしたのだろうか。幼すぎて記憶のない母は。そして、ヒルダが同じことをしてやれるだろうか。

 

 滅んだ貴族の中には、聡明で有為な人材がいたのかもしれなかった。過去から現在、そして未来は繋がっている。

 

 ラインハルトは現在と未来だけを見ていた。幼い黄金の記憶、そこに帰れぬようになった日から。ヒルダもいつしか、彼と同じ方向だけを見ていたのかもしれない。

 

 沈黙したヒルダには何も言わず、マグダレーナは視線を険しくした。公爵の行状を吐き捨てるように告げる。

 

「信じられまして? 

 妻が命を削っているのに、象牙商人が毎日のように出入りしているのです。

 オーディーン中の噂の的ですわ」

 

 ヒルダは口元を押さえた。

 

「初耳ですわ」

 

「お役人に、軍人さん、そういった方々が耳にはなさらないことでしょうからね」

 

 くすんだ金髪が力なく頷くのを見て、マグダレーナは再び扇を開いた。その陰で再び溜息を吐く。

 

「とにかく、あの男に子育てができるとは思えません。

 オーディーンにいるより、フェザーンで大事にお育てすべきですわ」

 

「それよりも、医師を手配いたしましょう。

 オーディーンの医師、いえ、帝国軍の軍医からでも優れた者を」

 

「男の軍医どのに、女の病を診ることができまして?

 あの方が拒否しますわ。わたくしなどとは違う、本物の深窓の貴婦人ですよ」

 

「では、フェザーンから送ります。ここには女性の医師も大勢いますわ」

 

「では、お急ぎになってください。

 あと何ヶ月持ちこたえられるかといった様子でしたから。

 奥方が回復すればそれが最上ですが、カザリン様には手を差し伸べることが必要です。

 治療中に奥方の目が届かなくなれば、あの父親が何をしでかすかわかりません」

 

 そして、優雅に手首を翻すと、通信画面に手にした扇を寄せる。

 

「皇太后陛下、この扇がお見えになるでしょうか」

 

「ええ、素晴らしい細工ですわね」

 

 それは、ヒルダの本心からの賛辞だった。乳白色の骨には精緻な透かし彫りが施され、ほのかに青みのある白い紗の扇面には、金糸銀糸で蔓薔薇が刺繍されている。

 

「母の嫁入り道具で、形見の品ですわ。この扇の骨は象牙細工です。

 あの男は、以前これを欲しがりました。

 断ったら、公爵家の名をかさに着て、買い叩こうとしましてね。

 止めてくださったのが、奥方のエレオノーラ様です。

 カザリン様への年金が、そんな形で浪費されています。

 あれだって、税金ではなくて?」

 

 ラインハルトは、帝位を禅譲させた乳児に対して、高額な年金を支払った。後ろめたさからか、金を宛がえば口をつぐむと思ったのかは定かではないが、その弊害だった。金を遣うにも、人間の格というものは滲み出る。

 

「あなたの言うとおりだわ。オーディーンはやはり遠いのですね。

 大公領の代官も宇宙艦隊司令長官も有能な方ですが、こんなお話を聞くことはできないもの」

 

「まずは、このことから大公妃殿下のお知恵をお借りしたらいかがでしょうか。

 期限を切らなくてはならない問題のほうが、逆によいと思いますわ」

 

「ほんとうにありがとう、ヴェストパーレ男爵夫人」

 

 ヒルダの謝辞に、黒髪の男爵夫人は再び優美な礼を返して、通信は終了した。そしてヒルダは気付く。結局、彼女は自分に以前のような言葉遣いでは接しなかったことに。ヒルダのことも、アンネローゼのことも、ずっと敬称で呼んでいた。

 

 賢いひとだ。友人としての関係に訣別し、臣下として接するという表明だった。アンネローゼの再婚は、ヒルダを名で呼ぶ人を失うということだった。ヒルダは、脱力したように肘掛椅子に身を埋めた。

 

「これがナンバー2不要論の本質だったのね、オーベルシュタイン元帥……」

 

 名君たらんと欲すれば、公正たるべし。汝が法、汝が正義となるのなら、人ではなく天秤たれ。傾きを歪ませる情など不要。それをもたらす特別な人間も。ただ一人、民の上に屹立(きつりつ)すべし!

 

「なんて厳しいことかしら。

 皇帝にしか自由がないのではないわ、フロイライン・クロイツェル。

 皇帝こそがもっとも自由ではないの。名君であろうとするなら」

 

 ラインハルトはその孤独を孤独とも思っていなかったのかもしれない。ジークフリード・キルヒアイスを失った日から、彼の心には埋められない空白ができた。それに比べれば、まだしも耐えられるものだったのだろうか。あるいは、君主たることの本質を充分には理解していなかったのか。

 

 オーベルシュタインは後者だと思っていたのだろう。あの度重なる冷徹な進言に込められた意味に、ようやく思い至った。

 

「ごめんなさい、オーベルシュタイン元帥。

 あなたの言葉は厳しすぎて、正しいけれど受け入れられないと思っていた。

 ですが、390億人もの人を背負うには、それほどの覚悟と孤独が必要だと、

 そういうことだったのね」

 

 だが、ヒルダはラインハルトではない。そして、アレクもラインハルトにはなれない。こんな苦労をあの子にはさせたくない。玉座の意味などわからぬうちに、そこに座らされ、その座から追い出された女の子にも、これ以上不幸になって欲しくない。

 

 ヒルダは立ち上がった。これは猶予がある問題だ。今悩む必要はない。一刻を争う問題から手を付けるべきだ。医師の手配と今後の対策を考えなくては。

 

 執務室に戻ると、シュトライト中将に告げる。

 

「グリューネワルト大公妃殿下をお呼びして」

 

 こうして、いままで皇宮の奥にいたアンネローゼが始めて表舞台へと引き出されたのだった。喪服を纏い、だがそれさえも美貌を演出する装束に変えてしまう。白磁の肌、波打つ黄金の髪、深い青玉の瞳。亡き弟によく似た、だがけぶるように優しい美貌。冬の直前の澄んだ秋の日の午後、琥珀の輝きで降り注ぐ陽光のような。その動作も優美を極め、雲を踏んで歩む天上の佳人のようであった。

 

 しかし、表情は困惑に満ちていた。ヒルダが後宮に戻れば、いつも顔を合わせるのだ。単に会いたいのなら、政治の場たる皇宮である必要はない。アンネローゼは聡くも気が付いた。

 

「摂政皇太后ヒルデガルド陛下、お召しに従い参上いたしました」

 

 そして、最上位の貴人に対する礼を執る。  

 

大公(プリンツ)アレクの面倒を見ていただいているところに、お呼び立てして申し訳ありません。

 義姉上に、お願いしたい仕事が三つありますの。

 一つ目に新たな王朝として、新しい典礼の方法を考えねばなりません。

 前王朝の作法にお詳しいあなたに、典礼省の顧問になっていただきたいの。

 次に、それにあたって私の相談役になってください。

 わたしは、このとおりの不調法な女でした。

 知らぬことばかりでは、改めるべき点もわかりませんもの」

 

 アンネローゼは、黄金の長い睫毛を瞬かせた。同意しても非礼だが、否定ができない事実であったから。美しい瞳を白黒させている義姉にかまわず、義妹は続けた。

 

「最後に、ペクニッツ公爵夫人がご病気のようです。

 医師を送ろうと思うのですが、大公妃殿下が名代となっていただけないでしょうか」

 

 アンネローゼは息を呑んだ。それは、弟が行ったさまざまな事の中で、特に新王朝への禍根となりうるものだった。たしかに、彼の妻たるヒルダの名で医師を送っても、最初の女帝で最後の皇帝、カザリン・ケートヘンの母には受け入れられまい。だが、アンネローゼも彼の姉なのだ。しかも、フリードリヒ四世の最晩年の寵姫である。国を滅ぼした女、そう囁かれているのも知っている。だが。

 

「わたしでよろしければ、この名をお使い下さいませ。

 幼くして母を亡くすほど、子どもにとって悲しいことはありません。

 わたしの母も早くに亡くなりました。母がいれば弟も違う生を歩んだでしょう」

 

 黄金の睫毛がサファイアを覆い隠す。再び現れた深い蒼には決然とした輝きが宿っていた。

 

「エレオノーラ様は、亡きフリードリヒ四世陛下の姪にもあたられるのです。

 わたしにとっても姪です」

 

 今まで沈黙を守っていたアンネローゼが、初めて自らの立場を表明したのだ。それはフリードリヒ四世の寵姫、いや伴侶であるというものだった。珊瑚礁の海と底知れぬ湖水の蒼が交錯した。

 

「お子様のためにも、ご快癒をお祈りしていますとお伝えください」

 

 いったん言葉を切ったアンネローゼは、白い手を握り合わせた。漆黒の喪服に映えて、力を込められた指先が薄紅に染まってゆくのがわかる。

 

「あの方は、わたしを育ててくださったのです。

 貧しい家で家事をして、父と弟の面倒を見ていたわたしは、

 学校にも満足に通っておりませんでしたわ。

 そんな無学なわたしに、様々な教師を付けてくださいました。

 あの方は、わたしにとても優しくしてくださったのです。

 この世でただひとり、わたしを甘えさせてくれました」

 

 思いもかけない言葉に、ブルーグリーンの瞳が大きく見開かれた。 ラインハルトの姉として、母代わりとして。その半身の永遠の女性として、崇拝めいた愛情を受けていたアンネローゼだった。彼女を等身大の人間、伴侶として寵愛したフリードリヒ四世。

 

「たしかに、わたしは金で買われた女と言えるでしょう。

 しかし、貴族の作法としては、決して間違ったものではなかったのです。

 使者を立てて妻問いをし、寵姫として迎えるにあたって婚資を贈る。

 そして、わたしに伯爵号を(たまわ)ってくださいました。

 宮廷に入って、初めて知ったことです。

 ラインハルトがあなたを迎えるよりも、ずっと礼に適ったものでしたわ」

 

 頬を赤らめた義妹に、優しい苦笑をおくる。その眼差しに陰が落ちた。

 

「わたしは、ラインハルトとジークに伝えるべきでした。

 当時のミューゼル家が破産の寸前であったこと。

 陛下にお仕えしていなければ、違う相手に同じことをしなくてはならなかったことを。

 でも、言えなかったのです。

 わたしは、あの子たちに清らかな少女として覚えていてほしかった。

 そして、父を恨む気持ちもあったのです。

 その一方で、あの子にあれ以上父を憎んでほしくはありませんでした」

 

 それを誰が責められるだろうか。ヒルダはくすんだ金色の頭を振った。

 

「ですが、それはあなたのせいではありませんわ!」

 

「いいえ、十五の時には言えなくても、二十五の時には伝えるべきでした。

 あの方が亡くなって、わたしがあの子たちの許に戻ったときに。

 そして、彼にも伝えるべきだったのです。あなたを愛していると」

 

 再び、黄金が青玉を覆う。

 

「それも言えませんでした。彼がわたしを受け入れてくれるのか。

 彼がわたしを受け入れ、わたしが彼を選んだら、弟はどうするのだろう。

 祝福してくれるのか、それとも怒るのだろうか? 

 考えあぐねて、何もしないでいるうちに、全ては終わってしまいました」

 

 アンネローゼの述懐は続く。ヒルダが掛ける言葉を見つけられぬままに。

 

「あの方はあの子の野心に気付いていらしたわ。

 兄上と弟君の権力闘争から身を守り、お二人の姫君の婚家との均衡を取ってこられた。

 とても聡い方でした。ゴールデンバウムの行く末が見えるがゆえに、諦めてしまわれた。

 だから、あの子に託したのかもしれません。王朝の幕引きを」

 

 彼が最も愛した女性の言葉は、ヒルダに反論の余地を与えない。

 

「だからといって、血を分けたお孫さんが、

 (ことごと)く不幸になるなど望まれてはいなかったでしょう。

 ブラウンシュヴァイク家のエリザベート様と、リッテンハイム家のサビーネ様。

 そしてルートヴィヒ皇太子殿下の遺児、エルウィン・ヨーゼフ様も。

 子どもに罪はありません。リヒテンラーデの一門も同様です。

 相談役としてお答えしましょう。先帝陛下の喪明けをもって、恩赦をなさることです。

 ローエングラムが、ゴールデンバウムを傀儡にして流した血を(そそ)がねばなりません」

 

 ヒルダは、アンネローゼを、たおやかな薄幸の佳人として見ていた。ラインハルト・フォン・ローエングラムとジークフリード・キルヒアイスの聖域、幼い常春の日々を彩った、白磁と黄金と青玉の女神だと。春は去り、永い冬が訪れた。悲しみの氷の扉に隔てられ、垣間見ることしかできない存在。そう思っていた。

 

 しかし、このひとは古い王朝の皇帝の妻で、新王朝の皇帝の姉であった。老いたる賢者と早熟の天才と、二人の男に違う形で愛された。外見が美しいだけでは、あれほどに愛され続けることはない。アンネローゼは、彼らに愛されるにふさわしい聡明さの持ち主であったのだ。

 

 その奥底には、計り知れない重圧のなかから生まれた金剛石が、いつしか形成されていたのだろう。遠い国から来た、いま一人の薔薇が、彼女を閉ざした氷に鋭い一撃を加えた。動く隙間がわずかにでも出来れば、ダイヤモンドは氷を穿(うが)つ。開かれた冴え冴えと輝く瞳。それはサファイアではなく、深い青の金剛石。

 

「そして、ローエングラムとして流した血にも償いをしなくては。

 先帝陛下は膨大な流血によって、宇宙を統一しました。

 二つの国の民の恨み、悲しみ、怒り。これらを鎮めずして、王朝は立ち行きません。

 皇太后陛下、あなたは白き手の王者として統治をしていかなくてはなりません。

 ゴールデンバウム王朝を否定した者が、ルドルフ大帝の道を辿ることは許されないのです」

 

「大公妃殿下……」

 

 有職故実に詳しいということは、ゴールデンバウム王朝の歴史にも精通しているということだ。ルドルフ・ゴールデンバウムは、心身障害者や同性愛者を弾圧し、異論を唱えた四十億人を断頭台へ送り込んだ。ヒルダにその道を歩むなと、アンネローゼは告げたのだった。

 

「思えば、こうなったのもよかったのかもしれません。

 あの子は、敵なくしては生きられぬ子でした。

 これからは戦場で敵を滅ぼすのではなく、民を味方にする戦いになるのですから。

 宇宙の中で、あなたにしかできぬ戦いになるでしょう。

 わたしでもお役に立てるのでしたら、お力添えをさせていただきましょう」

 

 そう言って、再び貴婦人の礼を執る。このうえなく優美で流れるような一礼だった。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、宮廷の作法については、多くを期待しないでいただきたいの。

 生まれながらの貴顕(きけん)の方々には、とても及ぶものではありませんでしたから。

 ですから、宮廷の行事も、大半は遠慮をさせていただいていたのです。

 そのわたしが、皇太后陛下の相談役とは恐れ多いことですね。

 わたしは、宮廷のわずかのことしか存じませんの」

 

「それでも、私よりはずっとお詳しいはずです。

 私など、ドレスを着てそんなに優美に動けませんもの。

 ヴェストパーレ男爵夫人が、大公妃陛下を推薦されたのです。

 あの方もフェザーンにお越しになって、ご結婚をする運びだそうですから。

 そのご夫君にも、早く新しい典礼の方式を定めないと恨まれてしまいますわ」

 

「まあ」

 

 アンネローゼは思わず微笑んだ。

 

「それは本当によかったこと。メックリンガー元帥の求愛が、ようやく実られたのね」

 

 これにはヒルダも目を瞠った。

 

「ご存知でしたの?」

 

「宮廷では有名でしたわ。ヴェストパーレ男爵夫人は男爵家の当主ですもの。

 メックリンガー元帥は平民でいらっしゃるから、相応の出世をなさってからねと、

 随分長いこと袖にされていらしたのです」

 

 ヒルダは溜息をついた。本当に自分は貴族の女性としては失格だった。他愛ない噂話にも、大事なことはちゃんとある。馬鹿な人たちだと思っていた、自分こそが馬鹿だった。愚かさを見つめてやりなおしていかなくては。

 

「ほら、そういったお話も大事なことだったのです。 

 わたしの目も耳も、沢山のものには向けられないでしょう。

 是非、義姉上のお力を貸していただきたいのです」

 

「ですが……」

 

「では、義姉上を帝国宰相に任命したら、私の相談にのってくださいます?

 これは、あなたの弟さんが私におっしゃったのですけれど」

 

 ヒルダの言葉に、アンネローゼは困ったような笑みを浮かべた。それは、悪戯っ子の相手をするような、たっぷりと慈愛をふくんだものだった。

 

「夫婦は似るとよく言いますが、相手の悪いところまで真似をなさるのはよくないわ。

 でも、ありがとう。わたしがその弟を育てたのです。

 遅くなってしまったけれど、間違いを正すのはわたしの義務です。

 なによりも、子どもには辛い思いをさせたくはありません。

 アレクにも、カザリン様にも、ヴェストパーレ男爵夫人のお子様にも」

 

 ヒルダは静かに囁いた。

 

「あなたのお子様にも?」

 

 それに言葉はなく、ただただ澄みきった笑みが返されたのみ。秋晴れを映す、深い湖のように静謐で、奥底に膨大な質量が秘められているような。ひたすらに美しく、悲しい微笑みだった。

 

 それがなにより雄弁な答えであった。


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