銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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オリジナルのキャラクターが登場します。ご注意ください。


サン・メルシ

「ヤン・ウェンリー元帥は、ローエングラム公と

 惑星ハイネセンの十億人の住民を天秤にかけたのです。

 そして、前者には後者ほどの価値はないと判断された。

 価値あるものを守るために、勝利などくれてやったのでしょう。

 あの国の、彼が率いる軍は国民の命と権利を守るためのものでした。

 たかが一人の男の命と、十億の命では比べるべくもありません。

 あなたのお陰で、小官にもようやくわかりました」

 

 敵と味方の命を天秤に乗せて、より効率よく味方を死なせ、さらなる敵を殺すのが用兵家の役割。メルカッツの副官のシュナイダーも、痛いほどに知っていた。宇宙一の名将は、誰よりも冷たく精密な(はかり)の担い手だった。ヤンは、金髪の覇者と無名の十億人の重さを量った。

 

 ここでラインハルトを殺した瞬間に、双璧が十億人が皆殺しにするかもしれない。では、尊い方を選択する。一万人分の才能をもつ、一人の天才。その人なりの才能を持つ、十億人の凡人。彼にとっての答えは一つ。

 

「ヤン・ウェンリーという方は、ただの一人も民間人に犠牲を出さなかった軍人です。

 常に旧同盟の法に従い、国民の権利と生命と財産を守るために戦われたのです。

 そして、ローエングラム公を斃す機会を前にしても、最も大事なものを見失わなかった。

 あのとき、双璧に武器を突きつけられていたのは、同盟の政府だけではありません。

 十億人もの民間人が人質となっていました。

 我々みんなが、ローエングラム公の命に目が眩んでいても、

 あの方だけは本当に尊いものを見ていた、そう小官は思うのです。

 そして、お父上は、小官などよりも遥かに早く、それを見抜いておられたのだと」

 

 大きな暗褐色の瞳が、ゆっくりと瞬きをした。大きな涙の粒が、目じりからこぼれる。透明な表情で、マルガレーテはシュナイダーを見詰めた。

 

「では、父が仕えた方は、あの嬬子(こぞう)よりも平民の命を選んだとおっしゃるの」

 

「はい。そのために給料を貰っているとおっしゃいました。

 一個艦隊で、精強の帝国軍と連戦をなさっても、給料分の仕事はすると」

 

「ふふ、おかしな方ね。そんなにお給料をいただいていたのかしら」

 

「元帥閣下でしたから、同盟軍の中では高給とりでいらっしゃいました。

 ですが、帝国元帥には比べるべくもないでしょうね。

 しかし、中尉であっても、三百万人の民間人の避難を成功させた英雄でした。

 従軍してたったの一年後、21歳の時のことです」

 

 涙の残る顔に、ゆっくりと微笑みの兆しが立ち上った。

 

「それも、ヤン元帥にとってはお給料分のお仕事でしたの?」

 

「いや……」

 

 シュナイダーは苦笑いを浮かべた。もしも、あの黒髪の司令官にそう言ったら、きっと同じ表情で髪をかきまぜただろうと思いながら。

 

「そんなことはないとおっしゃったでしょう。なによりも命あっての物種だ、

 逃げなかったら、死ぬか捕まったからさ、だからだよと。そういう方でした」

 

「では、父はあの嬬子より立派な方を選んだのですね」

 

 そう告げたメルカッツの娘の瞳には、嵐の後の凪が訪れようとしていた。

 

「皇帝ラインハルトが二百万人を見殺しにしたのと同じ歳で、

 百万人も多くの人を助けられたのね。あの男に勝てるはずもないのだわ。

 その方を知ってなお、他の者を仰ぐことなど父にはできません。

 母ならば、きっとそう言うでしょう。ですが……帰ってきてほしかった」

 

 言葉もなく項垂れるシュナイダーだったが、彼女が涙を拭うハンカチを見て驚愕した。貴族の奥方にふさわしい、白いレースのハンカチの半面に染みた血の量。それは、爪で傷付いただけの傷にはあまりに多かった。

 

「フロイライン、いえフラウ・ローゼンタール、手をどうなさいました!」

 

「手は大したことはございませんわ。ほら」

 

 開かれた白く痩せた手の、爪の傷はたしかに深いものではなかった。異常なのは、今もなお、盛り上がって赤い流れを作る血のほうだ。

 

「白血病の一種だそうです。血液を造る細胞が全部おかしくなる症例なのだとか」

 

「そんな、治療はなさっているのですか!」

 

「しても気休めです。効く薬がないのですから」

 

 骨髄移植をするには、先に抗がん剤や放射線を併用して、がん化した細胞を死滅させなくてはならない。マルガレーテが発症した骨髄異形成症候群には、特効薬がなかった。理論上は存在するが、それを使用したら、がん細胞より先に人間のほうが死に至る。そして、放射線だけでがん細胞を殺そうとしても、同じ結果となる。

 

 いくら科学や医療が進んでも、人間の肉体の強度には変わりがない。皇帝も未亡人も等しく同じ、生物としての限界だった。

 

「ですから、あなたにお会いできてよかったわ、ヘル・シュナイダー。

 余命は多く見積もっても、あと二ヶ月といったところらしいのです」

 

 慌てて止血をするシュナイダーをよそに、マルガレーテは定理を述べる学者のような声で自分の病状を告げた。その淡々とした口調に、旧同盟での治療をと、勧める言葉を失った。旅券と査証の申請に約一月。そして、ハイネセンまでの旅程は二ヶ月。その途中で死を迎えることになる。

 

「ですから、せめてここで死にたいのです。

 親娘(おやこ)そろって、あなたにお世話をかけるのは心苦しいのですが、

 あなたに貰っていただきたいものができました。

 ヘル・シュナイダー、あなたはお幾つですか?」

 

「は、小官の年齢ですか」

 

 相手の意図はわからずに、シュナイダーは年齢を告げた。マルガレーテは眉を寄せた。

 

「わたくしよりも、年上でいらっしゃいましたのね。残念なこと。

 では、申し訳ないのですが、わたくしを貰ってくださいませんか」

 

 突然の求婚に、シュナイダーの目と口が、三つのOの字を形作る。その少年のような表情に、未亡人は語りかけた。

 

「慎みのない、身勝手な女をお思いになられるでしょう。

 ですが、わたくしの養子にできない以上、他に方法がないのです。

 あなたに継いでいただきたいの。メルカッツの名を」

 

「フラウ、そのようなことをおっしゃってはいけません。

 治療をなされば、きっとチャンスはあります。

 新領土の進んだ医療が、いずれこちらにもやってくることでしょう」

 

「でも、それにはきっと間に合いませんわ。

 わたくしは、妻としての務めを何一つ果たせぬ女です。

 あなたを男やもめにしてしまうことになりますし、家名を奪うことにもなるでしょう。

 ですが、父を帰せなかったことをお悔やみになるのなら、わたくしの罰を受けて。

 メルカッツの名と共に生きて、本当に愛する方と一緒に家族を作ってください。

 そして、あなたの子どもに私の父のことを語って」

 

 もう一度、涙をこぼして、彼女は告げた。

 

「父は世渡りの下手な不器用なひとでしたわ。

 だから、元帥にもなれず、勝者に属することもできませんでした。

 私たち家族への愛情と、フリードリヒ四世陛下への恩のどちらも選べなかった。

 でも、それは誰も裏切れなかったからだと。

 そして、真に尊いものに出合い、力を尽くせた幸運な男だったのだと」

 

 彼女が浮かべた笑顔は、沁み入るほどに美しく誇らしげだった。

 

「皇帝ラインハルトの栄光を(けが)すことは、誰も口に出せなくても、

 ヤン元帥が、三百万の民を救ったことを消すことはできませんから」

 

 シュナイダーは頭を垂れた。

 

「……フロイライン・メルカッツ、あなたのお話をお受けします」 

 

 指輪のない彼女の右手を取ると、そっと甲に口付けた。それは、尊敬のキス。

 

「ありがとう、ヘル・シュナイダー」

 

 そして、彼女は姓を旧姓に戻し、シュナイダーと結婚をした。メルカッツから預かった遺品の、家紋の印章入りの指輪は、夫の左薬指に。亡くなった彼女の母の形見は、妻の左薬指に。居場所のなくなった、指から浮いていた結婚指輪は、鎖に通されて胸元へ。

 

 心臓のそばで、彼女の鼓動が止まるまでの短い間、アルベルト・フォン・ローゼンタールは見守ってくれたのだろう。

 

 結婚後、すぐに入院して、対症治療を受けながら彼女は語った。ベルンハルト・フォン・メルカッツが敬愛した上官の、家庭での顔を。彼を支えた奥方は、控えめだが芯の強い賢夫人であったことを。マルガレーテは、義母に似ているようだった。

 

 そして、ローゼンタール家の人々のことを幸せそうに語った。父の選んだ道によって、半ば逃亡を余儀なくされた短い間。そこにも、愛する人と過ごす幸福はあった。夫と義母は優しくて、趣味は園芸だった。二人揃って、よく庭の手入れをしていたという。冬枯れの名残を、マルガレーテがそのままにしていた理由だった。

 

 そのおかえしに、彼はヤン艦隊で過ごした日々を語った。まるで軍人には見えなかった、若々しくて線の細い学者のような司令官。二言目には給料と口にするせいか、マルガレーテたちへの送金と家族扶養手当について教えてくれた。魔術師ヤンの意外すぎる提言に、上官も副官も目を点にしたこと。おかげで、ここが早々に見つかった。何が幸いするかわからないものだ。夫は苦笑いし、妻は珍しく笑い転げた。

 

 戦場の名将は、日常では問題軍人だった。本と昼寝と紅茶が好きで、三次元チェスは下手で、書類仕事はサボりがちだった。まだ十六歳の被保護者に、やいやい言われてようやく散髪にいくようなものぐさだった。

 

 なにより驚いたのは、行事の際のスピーチの短さ。ガイエスブルクとの戦勝祝賀会に代読されたのも、彼の被保護者とふたりのメルカッツが、イゼルローン要塞から転属する際の送別も、本来の百倍も長かった。だが、それはたったの三分少々。周囲がいつもの百倍だとざわめいて、それと知った。帝国高官のスピーチに比べれば、普段の百倍でも二十分の一だっただろう。

 

「過去形で話すしかないことが、たまらなく残念でならないよ」

 

「ええ、その方のことを現在形でうかがいたかったわ」

 

「ヤン提督は帝国軍にとって、最大最強の敵だっただろう。

 あなたの知己にも、その手にかかった人がいたでしょうに」

 

「でも、その方は父を受け入れてくださったのでしょう。

 父こそ、四十年以上も戦場を往来して、多くの敵だった人を殺したのですわ。

 わたくしのように恨む方も大勢いたでしょうに、それでも守ってくださった」

 

 沈黙した彼に、マルガレーテはくすりと笑みを浮かべた。

 

「それに、あの方を糾弾(きゅうだん)することはできないのです。

 不敗の名将でいらしたから、彼を罵る言葉は、新帝国の諸将へとはねかえる。

 むろん、先帝陛下もそのお一人ですもの。不敬罪になりますわ」

 

 澄ました顔で、そんなことを言う妻に、夫は降参の身ぶりと共に告げた。

 

「あなたならば、ヤン艦隊でもやっていけるでしょうね」

 

「あら、光栄ね。わたくし、一度ああいう服を着てみたかったの」 

 

 だが、個性的な部下に慕われ、二人のメルカッツをその輪に溶け込ませてくれた。ヤンの幕僚の事務方トップのキャゼルヌ少将と、亡命者ながらに少将となっていたシェーンコップが通訳という、豪華な事務研修を受けて大いに助かったこと。

 

 宇宙一の名指揮官を支えていた、ムライ、パトリチェフの正副参謀長、副司令官のフィッシャー、同盟軍最年少提督のアッテンボロー、猛将グエン・バン・ヒューも、メルカッツに敬意を表し、一員として受け入れてくれた。いや、ヤンも含めて教授に教えを請う、学生のような熱心さであった。彼らの三分の二は、もうこの世にいない。しかし、生き抜いた人々は、それぞれの場所で活躍している。

 

 そして、ヤンの被保護者のユリアン・ミンツ。亜麻色の髪にダークブラウンの瞳をした端正な容貌の青年は、ヤンを失っても折れることなく歩みだした。そして、平和が訪れ、ここに帰りつけたのだ。そう夫は語り、妻は頷きながら泣き笑いの表情になった。

 

「では、わたくしはそれを父とヤン提督に伝えましょう」

 

「馬鹿なことを言わないでください。どうか、諦めないでください」

 

 手を握る新たなメルカッツに、静謐な笑みを浮かべて首を振る。聡明なこの女性は、いままでしたためていた遺言状に変更を加えて、それを夫に手渡した。メルカッツ家のささやかな資産と、ローゼンタール家のかなりの資産と不動産。その相続と処分についての指示だった。

 

 ローゼンタール家は、二十軒ほどの臣下を持つ領主だったのである。一旦、国家へと返納し、現在の借り手に説明をしたうえで、希望者へと分配されたい。土地の購入、贈与税については、ローゼンタールの資産を充てるものとする。その残額とメルカッツ家の資産は、そう多いものではないが、再婚した夫にと。いつの間にか公証人まで呼んで、きちんとした目録を作成していた。逡巡する夫に、妻は言った。

 

「わたくしは言ったでしょう? これは罰なのですと」

 

「わかりました。私はあなたの罰を受ける義務があります」

 

 そう答えると、妻は童女のように満足げな笑みを浮かべた。そして、その時は静かに訪れた。転寝(うたたね)から、目覚めぬ眠りへ、緩やかに滑り落ちるように、マルガレーテ・フォン・メルカッツは息を引き取った。入院してたったの二週間後のことだった。

 

 悔やみの言葉と一緒に、医師は死因を告げた。

 

「血小板の著しい減少による脳内出血で、苦痛はなかったでしょう。

 ご病状からして、入院なさったときには、話すのも苦しかったはずです。

 よく、ここまで頑張ってこられた。ご主人のおかげだと思いますよ」

 

 それだけがわずかな救いだった。

 

 彼女の葬儀と埋葬は済ませたが、身の回りの整理にはもう少し時間がかかる。それが済んだら、バーラト自治領に戻りたいと、手紙は結ばれていた。末尾の署名は、ベルンハルト・フォン・メルカッツであった。

 

「こんなのって、ひどい。あんまりじゃない」

 

 カリンは大粒の涙を拭う事もできなかった。応えるユリアンの目も赤い。

 

「ヤン提督がおっしゃっていた。

 いい人間が無意味に死に、不幸を呼ぶのが戦争なんだって。

 戦場で死ぬだけじゃないんだ。メルカッツ提督の娘さんも戦争に殺されたんだよ」

 

「この手紙、どうすればいいのかしら。私たちには何もできないの?」

 

「カリン、写しを取るから、キャゼルヌさんに読んでもらおう」

 

「でも、内政干渉になっちゃうんじゃないの。

 証拠だって、きっと出てこないでしょう。

 昔からの部下なら知っているでしょうけれど、だから余計に出てこないわよ」

 

 先帝の古参の部下は、獅子の泉の七元帥だった。そして、功績をもって元帥にのぼっていた、金銀妖瞳と義眼の二人もだ。それが、ユリアンの思考に閃きを与える。

 

「ああ、僕もそう思うよ。

 ミッターマイヤー元帥以下の七元帥は、きっと真実を知っている。

 だから、あんなにオーベルシュタイン元帥が嫌われていたんじゃないだろうか。

 これらの発案者が彼だったなら辻褄が合う。

 いくら冷たい性格でも、あれほどの事務の達人を、

 頭から嫌うなんておかしいと思っていたんだ」

 

 薄く淹れた紅茶の髪が、弾かれたように上がった。紫陽花の色が、雨の雫をたっぷりと含んでユリアンを睨む。

 

「勝手じゃない。進言したのはオーベルシュタイン元帥でも、

 それを採用したのは皇帝なんでしょ!」

 

 ユリアンは、それに首を振る。

 

「これには証拠がないんだ。決めつけるのはよくないよ。

 それに、共和民主制とはまったく国の仕組みが違うんだ。

 トップは常に正しい、詰め腹を切らされるのは臣下、それが帝政なんだよ。

 それをいっしょに変えていこうと、ヤン主席たちは頑張っているんだ」

 

「でも、でも、ヴェスターラントの人たちに、何もしてあげられないの?」

 

「カリンは、ガイエスブルク要塞の襲来の時に、イゼルローンにいたかい?」

 

「いいえ、私が来たのはその後よ。ユリアンとは入れ違いだわ」

 

「イゼルローンにも、ガイエスブルクの主砲の爪痕が残ってる。

 立入禁止地区がいくつかあっただろう?」

 

「ええ」

 

「来年あたりから、ようやく放射線防護服での作業ができるようになると思う。

 あそこには一万人以上の犠牲者が五年もそのままなんだ。

 ヴェスターラントの二百万人を殺した核兵器では、地表に降り立てるまで、

 何倍も時間がかかるだろうね」

 

 カリンは唇を噛んだ。二次被害を出さないためには、時を待つしかないのだ。

 

「私たちには何もできないのかしら」

 

 ユリアンは思案に暮れた。キャゼルヌやフレデリカにこの情報を届けたとして、手紙一通で動かせるほど帝国は軽くはない。

 

「この人たちを甦らせることはできないけれど、

 二度とこんな犠牲を生まない方法はあるかも知れない。

 例えば国際法で、人道に関する罪を制定するんだ。

 キャゼルヌさんが言ったんだ。法律は弱者の盾にして剣だってね」

 

「……キャゼルヌ事務総長が」

 

「キャゼルヌさんだけじゃない。アッテンボロー議員に、バグダッシュ情報管理官、

 ムライ帝都駐留事務所長に、シトレ国防長官。ホアン外務長官もだよ。

 こんな情報を逃すと思うかい、カリン」

 

「思わないわ。きっと、一分の隙もない法律を作って、帝国にも承認させるわね」

 

「それに、帝国は報いを受け続けるよ。このことを永遠には隠し通せない。

 ヴェスターラントに関わる人たちを、全て葬り去ることはできないからね。

 きっと、いずれ明るみに出る。殺人を見逃すのは重大な罪だから」

 

 カリンは、頷くと袖で涙を拭った。

 

「シュナイダーさん、ううん、メルカッツさんの奥さんって凄い人ね。

 皇帝陛下と皇太后陛下と大公殿下を、あんなにひどく言うなんて」

 

「でも、カリン、これはフェザーンには届かなくとも、

 多くの人に囁かれていることじゃないだろうか。

 きっと、もっと激しい言葉が使われていると思うんだ」

 

 まだ充血したダークブラウンが、深刻な色をのせる。少女はそれをまじまじと見返した。

 

「帝国は、旧同盟よりもずっと保守的な社会だよね。

 よき妻、よき母として育ち、夫や子を亡くした女性は、同じように思うんじゃないだろうか。

 そして、父や兄を亡くした子供が、この呪詛を子守唄に育ったらどうなるだろう」

 

 父や兄を喪った悲しみに、母や祖父母の嘆きと怨嗟(えんさ)が加わったら、どんな化学変化を起こすだろうか。カリンは身を震わせた。季節によらない、深刻な冷気を感じたのだ。

 

「恐ろしいことだわ。だって、あっちは親の罪に子が連座させられる社会でしょ?

 大公(プリンツ)アレクが即位する頃には、ものすごい数の怒りを抱えた大人が生まれてる。

 ううん、それよりもずっと早く、誰か一人でもあの子に怒りを爆発させたら……」

 

「憎しみはその人にとって絶対だよ。

 ヤン提督が亡くなった時、僕は奴らを皆殺しにした。

 あの時、人間の命の重さも、政治や歴史なんか知ったことじゃなかった」

 

 ユリアンの述懐に、カリンは息を呑む。 たった二人だけの有翼獅子(グリフォン)の血族。それが断絶したら、誰が後を襲おうと、宇宙は割れる。

 

「僕は、そいつらを殺したことを後悔なんかしてない。そういうことだよ」

 

「でもユリアン、あれは戦争中だったわ」

 

 ユリアンは一瞬瞑目し、静かな口調で返答した。

 

「バーラトの和約後に、ヤン提督を謀殺しようとしたのは同盟政府だった。

 そしてフェザーン人は、故郷を奪われたようなものじゃないのかな。

 皇帝でも八つ当たりしたのに、他の人が遠慮すると思うかい?」

 

 少女は青紫の瞳を見開き、口許を押さえた。

 

「これからは、人の心を味方にする戦いになるんだ。

 この五年間よりも、ずっとずっと長い時間がかかるだろう。

 敵として打ち負かしたら、ゴールデンバウム王朝となんにも変わりがない。

 圧政ではなく、善政でその怒りを解いていかなきゃいけないんだよ。

 とても、とても険しい道のりだ。それは、僕らも通らなければならない道だ」

 

「ええ、私たちも戦争で帝国の人たちを沢山殺したもの。

 どんなに憎まれても仕方がないわ。私もまだ許せないから。

 でもね、ユリアン、ヤン提督はやっぱり考えていたんだと思う。

 ハイネセンの十億人とエル・ファシルの三百万人はずっと恩人の味方だもの」

 

 恋人の言葉に、ユリアンは無言で頷いた。ヴェスターラントの虐殺は、様々な悲劇を生んだ。それに立ち向かっていかなくてはならない、皇太后ヒルダと大公アレクはかわいそうだ。

 

 だが、最大の犠牲者は、罪なく灼かれた二百万人の住民だろう。熱核攻撃によって、地表の形あるものはすべて灰燼(かいじん)に帰し、巻き上がった大量の死の灰が陽光を遮って核の冬を起こす。高濃度の核物質を含んだ、黒い雪が降っているだろうか。

 

 アルベルト・フォン・ローゼンタールも眠る星。マルガレーテ・フォン・メルカッツの魂は、そこに向かったのだろうか。

 

 帝国の神話に語られる、天上(ヴァルハラ)というものがあるならば、どうか常春の野で再会をしてほしい。きっと、あの物静かで気品ある彼女の父も待っているだろう。傍らに自分の保護者と、カリンの父がいるかどうかはわからない。いて欲しいと思う。聡明な彼女なら、戦争が終わったことを伝えてくれるだろうから。だが、敵なきがゆえに終わらぬ戦いが始まっていることも。

 

「とにかく、これは伝えてもらわなきゃいけない。

 平和を守り、戦争に殺される人を一人でも減らすようにね」

 

 ユリアンの言葉に、カリンは俯いた。帝国からの亡命者だった母は、健康や病気に対する知識が少なかった。 だから妊娠に気がついた頃には、あの不良親父は去ってしまっていたし、病気に気が付いたのは治癒が不可能になってからだった。皇帝も皇太后も、それは一緒。メルカッツ提督の娘さんも。それが、カリンの心の中できらめきを発した。

 

「ねえ、ユリアン。

 マルガレーテさんの言葉はそのまま言えないけれど、確実な復讐になる方法があるわ。

 しかも、誰もが恩恵を受ける。

 これが実現したら、皇太后陛下はそれだけで名君と呼ばれてもいいわ」

 

 彼女の言葉に、ユリアンは怪訝な顔を向けた。

 

「そんな都合のいい方法があるの?」

 

「医療の自由化よ。旧同盟の医療制度を、帝国に導入させるの。

 帝国に国民健康保険を作らせて、医療知識の向上も図るのよ。

 これは教育との二本立てになるんだろうけど。

 望まない妊娠をしたり、病気の知識がないことで手遅れになるような、

 そんな人たちがいなくなれば、皇帝ラインハルトへの最高の復讐よ。

 戦争に使ったより、もっと沢山のお金を使わせてやることにもなる」

 

 まだ涙に濡れた紫陽花に、夏の輝きが宿り始めようとしていた。

 

「誰も傷つかないし、誰もが喜ぶわ。

 帝国軍人も大きな顔ができなくなる。いい気味じゃない。

 バーラトから薬なんかも輸出できるし、

 帝国本土から医学を学びに来る人も増えるんじゃないかしら。

 母校って特別だから、バーラトの味方が増えると思わない?

 しかも、お医者さんよ。ロムスキー主席の卵になるかもね」

 

 その光は、大地からも水を蒸発させていく。

 

「名案だ。完璧だよ、カリン」

 

「ありがとう。じゃあ、リュシーの宿題の答えも考えてちょうだいよ」

 

「それはちょっと待ってもらえないかな」

 

 ユリアンは紅茶を淹れ直すことにした。涙の味がするうちは、本当の味もわからないから。父母を通して、帝国と旧同盟を知る、ティーポットの中身よりも淡い色の髪をした彼女。そして、帝国から旧同盟へ、またその道を往復するだろう、ベルンハルト・フォン・メルカッツ。二つの国を知る人が、掛け橋となっていくといい。

 

 ヤンの下で、薔薇の騎士(ローゼンリッター)たちが悪名を拭い、勇名を馳せていったように。メルカッツ提督の聡明な令嬢が、加わってくれればどんなによかったことだろう。彼の帰りを待とう。この情報を、カリンの提言をよりよく使ってもらえるよう、みんなで考えながら。

 

 葉が開くのを待つ間に、ユリアンも思いついたことを呟いた。

 

「もう一つは、不敬罪の緩和と言論の自由の推進かな。

 押さえつけるから、取り締まりが必要になり、怒りの圧力が高まるんだ。

 そうでしょう、ヤン提督」

 

 守護天使が頷いたかは定かではない。ただ、初夏の風がカーテンを(さや)かに揺らして入り込み、紅茶の芳香をキッチンに振りまいた。ユリアンは思わず微笑んだ。初任給でプレゼントした、ヤンのお気に入りのティーカップ。それにも一杯献じて、居間に戻るとしよう。ブランデーもたっぷり入れて。

 

 新帝国暦4年の四月の終わり。マーガレットは、美しく白く、誇らかに咲いていた。誠実と貞節という花言葉にふさわしく。ウエディングドレスを思わせる、純白のドレスでマルガレーテは天上へと旅立っていった。再び、ローゼンタールの指輪をはめて、母の形見を夫に託して。彼女の最初の夫は、妻となる女性に花嫁の道を歩ませたかったのだ。言葉のとおりの意味で。

 

 葬儀には、ローゼンタール家の所領の人々が大勢参列してくれた。前当主夫妻は、彼らにとって慈悲深い良き主だった。彼らは若夫婦を襲った悲劇に心を痛め、リヒテンラーデの名を隠れ蓑にして、メルカッツの令嬢を守ってくれていた。

 

 その後、若き未亡人は変わりなく所領を差配した。義父母と同じく、公正で慈悲深く。皆がそれに感服し、同情し、病に倒れた彼女を陰ながらに支えていた。遺言が読み上げられると、参列者から慟哭の響きが上がった。マルガレーテは決して独りではなかった。

 

 彼は最後に手のひらに口付けた。それは求愛のキス。書類だけの白い結婚、その期間はたったの二週間。あの爪の傷さえ、完全に治ってはいなかった。それでも人を愛するには十分な長さ。そして、そんな男を遺して逝ってしまった、つれなき美女(サン・メルシ)

 

 たしかに、これ以上の罰はなかった。メルカッツの名を継いで、彼は歩み始める。

 


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