余談だが、行啓の間のテキストは彼の部下に作成させた。その不運な男の名は、アントン・フェルナー少将という。かつて、冷徹無比なオーベルシュタイン元帥にも、一種のふてぶてしさをもって仕えていた男だ。
新帝国二代目の軍務尚書は、前任者の一万倍ぐらい明朗闊達で、親しみやすい上司だった。軍務省勤務者の胃薬にかかる医療費は激減した。
もっともフェルナーは、オーベルシュタイン元帥相手でも、さほどに胃薬を必要としていなかった。しかし、五歳児用にイゼルローン攻防戦のダイジェストを作成すると、胃薬と鎮痛剤のカクテルを流し込んで、上司にこれを上申した。
「ミッターマイヤー閣下、仰せのとおりイゼルローン要塞の歴史を要約いたしましたが」
「ほう、ご苦労だった。おい、フェルナー少将、顔色が悪いが大丈夫なのか」
「ひとつ確認しておきたいのですが、小官は不敬罪に問われないでしょうね」
ミッターマイヤーは無言でレポートのページを繰った。できるだけ中立の視点から、簡潔で、子供にもわかりやすい言葉で書かれている。たしかによくできたものだった。それゆえに『魔術師』が、どれほど新旧の帝国軍を翻弄したかも浮き彫りになっている。
「先帝陛下は虚言と追従を嫌われる方だった。
天上に行った者も、
ミュラー元帥はヤン元帥を尊敬していたから、怒ることはないだろうし、
メックリンガー元帥も戦ってはいないわけだからな」
前王朝においては、幼い皇族の一声で不敬罪に問われ、失脚した者も多かったのである。現在の中枢部は、そんな不見識ではないと信じたいが、フェルナーを追い落とそうとする人間にとっては十分口実となりうる。彼の言葉には、冗談と本音が半々に含まれていた。
「……閣下、お一人抜かしていらっしゃるでしょう」
「奴には大きな声で言ってやればいいさ。自分の家訓のとおりにな。
実際のところ、ヤン元帥に二度負けて生きているのは、褒め言葉ではないか」
「では、文責は閣下のお名前にさせていただきますよ」
「ああ、かまわん。いい出来栄えだ。大公殿下も航行の間、よい勉強になるだろう。そうだ」
敬礼をして退室しようとするフェルナーに、ミッターマイヤーの声がかかった。
「早晩、大公殿下は、新帝国の成り立ちにも興味をもたれることだろう。
それもまとめておいてくれ。学校教育の教科書の叩き台としても必要だろう」
「軍務省だけの手には余りますな」
「将来は国務省、学芸省、民生省あたりと横断的な組織が必要になるだろうが、
さしあたって卿を中心に準備をしておいてくれ。内々のものとしてな」
「――――御意」
「とは言っても、そう急ぐことはあるまい。
大公殿下の理解力が追い付くまでには時間がかかるだろう。
あと五年は必要だろうよ。…………だが早いものだ」
ミッターマイヤーの灰色の眼に、追想の
「先帝陛下がアスターテ会戦で大功を立てられてから、亡くなられるまでも五年と少々だ。
もう、あんな時代は訪れないだろうし、早々と来てもらっても困る。
俺たちにできるのは、あの戦争を語り継ぐことだろう。
できるだけ公正に、美化させずにな。なんとも難しいことだが、生き残った者の務めだろう」
この数世紀で、最高峰の軍事的才能の激突は、戦火に黄金と真紅の輝きを与えていた。それを凝視して、幻惑されないように自らを保つのはなんと難しいことか。軍務尚書の自戒に、心からの敬礼を送り、今度こそフェルナーは退室した。
フェザーンとイゼルローン要塞の旅程は、往復で約二十日前後といったところだ。
当然、厳重な警戒態勢と布陣が敷かれた。随行するのはミュラー・バイエルライン混成艦隊二万隻。ただし、ミュラー艦隊はそのままイゼルローンに駐留し、バイエルライン分艦隊が帰路を守る。この配置は、宇宙艦隊司令長官のワーレンと、統帥本部総長のメックリンガーによる合作である。
穏やかな
ミュラー元帥は、新帝国でヤン・ウェンリーと最も縁が深い将帥といってよい。魔術師の城に、王子達を先導する騎士としてはうってつけだろう。
ラインハルトの崩御後、初めて総旗艦ブリュンヒルトが星々の大海を往く。
そして、子どもを送り出す親の方は、もっと心配なのである。
「いいこと、艦隊の皆さんの言うことをちゃんと聞くのよ。
宇宙船は冷えるから、上着を脱いでお昼寝してはだめですからね」
「うん、わかったよ、お母さん」
素直に返事をするフェリックスだが、この注意を聞くのはもう五回目だ。
「
大公殿下の様子にも気をつけてさしあげなさい。
フェリックスのほうがおにいさんなんだから」
「おいおい、エヴァ、あんまり一度に言っても、覚えられんよ。なぁ、フェリックス?」
母からの注意のほうはもう覚えてしまったけれど、跳躍でどうなるのかフェリックスにはよく分からない。だから、宇宙で一番詳しそうな父に聞いてみた。
「お父さん、跳躍で気持ちわるくなっちゃうの?」
「人によるなあ。でも、すぐに治るし、慣れるからな。心配いらないさ」
まだまだ若々しいエヴァンゼリンは、呑気な夫を菫色の瞳で軽く睨んでみせた。
「まあ、ウォルフ、本当は、わたしも一緒に行きたいところなんですからね」
「お母さん、それだとアレクでんかがかわいそうだよ。
ぼくだけお母さんがいっしょに来たら、きっとさびしくなっちゃうと思うんだ」
夫妻は顔を見合わせて、息子に微笑んだ。ミッターマイヤーの頑丈な手が、少年の頭を撫でて、褐色の髪をくしゃくしゃにする。
「そうだな、たしかに不公平なのはよくないよなぁ。男同士、楽しんでくるといい」
政務に空白期間を作れるはずもなく、皇太后も国務尚書も軍務尚書も行啓には同行できない。ラインハルトは、あまりにも早く人生を駆け抜け、彼の血に連なる者を二人しか残さなかった。
門閥貴族制を廃したのと、建国の功臣にも叙爵を行わなかったのは、新帝国の大改革だった。だが、その結果、皇位継承者がただ二人というのも相当に危険なことだ。
まだ五歳の子どもが、母と離れて数千光年の行啓をしなくてはならないのも異常だし、同年代の友だちがたった一人というのも異常なのだ。
してみると、門閥貴族制にも一定の功はあったのか。血縁のつながりによる人材プールという点で。前王朝ならば、大公殿下のご学友として、ふさわしい貴族の令息が二個小隊ほどは集まった。さらに性格や容姿、頭脳の釣り合いという
ローエングラム朝の中枢は若い世代だ。その精粋が帝国軍である。女性は従軍しておらず、将兵の多くは未婚か家族を旧帝国領に残している。
ほとんどの貴族は解体され、皇宮勤めのできるような身分の女性が少ない。皇帝の家庭としての後宮の形成すら困難だった。次世代として期待されていたフォイエルバッハ嬢は、今は憲兵総監ケスラーの夫人である。多忙な皇太后にかわって、母同然に面倒をみるのはグリューネワルト大公妃。同行させるには、あまりにリスクの高い女性達だった。
銀河のほぼ全てを支配する新帝国なのに、皇室の維持にさえ人手不足だ。前王朝の轍を踏む必要などないが、大勢の中から相応な者を選ぶのと、優秀な少数に任せるしかないならばどちらがましなのか。
そんな内心はおくびにも出さず、ミッターマイヤーはことさら鷹揚に続けた。
「イゼルローンに詳しい人達に、航行中に連絡が取れるように頼んでおいたからな。
興味があるなら、ミュラー元帥にお願いするんだ。礼儀正しくな」
「お父さん、ありがとう!」
飛びついてくる息子を抱き上げながら、この航海の平穏を祈るミッターマイヤーだった。
初めての宇宙は、幼い少年たちを興奮させた。大気に影響されないため、瞬かない星々と永遠の夜。巨大な宇宙船の中は、見るもの聞くもの全て興味の種だった。
小さい男の子というのは、乗り物と機械が大好きな生き物である。それを、黒と銀の華麗な軍服に身を包んだ、かっこいい軍人さん達が操縦しているのだから。
二人とも、フェリックスが心配した跳躍による体調不良にはならず、皇帝ラインハルトが愛して止まなかった
その役を担ったのは、ハインリッヒ・ランベルツである。故ロイエンタール元帥の従卒で、その後フェリックスと一緒にミッターマイヤー家に引き取られた少年だ。現在、士官学校の三年次を終了し、夏季休暇中に従卒として一行に加わった。少年達にとって、年の離れた兄のような存在である。ハインリッヒにとっても、フェリックスはおむつまで替えた相手である。実の兄と同然の愛情を持っていた。
公私混同と言われるかもしれないが、ミッターマイヤーは、大公アレクとフェリックスのストレス軽減を第一に配慮したのである。これに異を唱える者もいなかった。ハインリッヒは、この栄誉ある任務を喜んで受けたが、それもフェルナー作『イゼルローンのれきし』の朗読を聞くまでだったかもしれない。
旅程の三分の二を消化したころ、二人はひととおりブリュンヒルトに対する興味を満たし、目的地への興味を思い出した。フェルナー少将のレポートは、フェリックスによって大公アレク殿下の前で朗読された。傍らで聞いていた不幸な士官学校生は、引っくり返りそうになった。
大公アレクが、父を馬鹿にするなと怒り出せば、義弟が不敬罪に問われるかもしれないのだ。そうしたら、我が身に代えてでも守らなければならない。固唾をのんで、金髪の少年を見守る。青玉色の瞳を大きく見開いて、聞き入っていたアレクは、ぱちぱちと瞬きした。
「ねえ、フェリク……このお話、ほんと?」
「ええと、さいごに『これはほんとうのお話です』って書いてあって、
お父さんのサインも入ってるから、ウソじゃないと思うんだけど」
問われた方も、形のよい眉の両端を下げて困惑の表情をしていた。
「ハインリッヒはしってる? このお話はほんとなの?」
「学校で習ったかぎりでは事実です、大公殿下」
この『イゼルローンのれきし』は簡潔平易で、非常に分かりやすい。学生にとってはこのまま副教材に採用してほしいくらいである。ヤン元帥の手練手管に
「あのね、フェリク、ヤンげんすいは、うちゅうで一番強い方だったって、
お母さまが言ってたんだけどね」
「ぼくもこの前、アレク殿下から聞いたよ。でもね、こんなにいつも勝ってたのかなあ」
「そうだよ! ぼくもそれがいいたかったんだ。
ねえ、フェリク、ほんとうかどうか聞いてみようよ」
ハインリッヒは、恐る恐る金髪の天使にお伺いを立てた。
「大公殿下、どなたにご質問をなさるおつもりでしょう」
「さっき、フェリクが読んでくれたお話に、
ミュラーげんすいとバイエルラインたいしょうのお名前があったよ。
おしえてくれないかなあ」
恐れ多くも大公殿下のご下問であるから、名指しされた高官として答えないわけにはいかないが、これは殺生な話である。
「お二人とも艦隊の指揮でお忙しいと思います。
私から、大公殿下のご希望をお伝えしておきますので、
お二人にお時間を作っていただきましょう」
このように、立ちそうな角を丸めるのも、従卒や副官の大事な役割なのである。
「まあ、いずれは興味を持たれることだとは思ってはいたが……」
ミュラー元帥は、温和な顔に苦笑を浮かべた。
「正直、第八次イゼルローン攻略の話をするのは辛いものだ。あれは無用の
ケンプ提督や兵士達の犠牲を思うと、小さな子どもに聞かせてよいとは思えない」
「小官は、幸いぎりぎりで虎口を逃れましたが、あの用兵は今思っても魔術ですよ」
恐縮しきりのハインリッヒの報告は、ミュラーとバイエルラインの副官からそれぞれに伝えられた。考え込んだ元帥と大将は、敬愛する帝国の至宝からの伝言を即座に思い出す。
『魔術師』の弟子への扉の鍵を。