その後、イゼルローン要塞到着まで、アレクとフェリックスはあわせて三回ユリアンと話すことができた。
最初の通話は、互いに小惑星帯に敷設した機雷原を縫ってランデブーするようなもので、ミュラーやバイエルラインは、ユリアンの思慮深さと自己抑制に驚嘆したものである。
ヤンの死からまだ六年しかたっていないのだ。どれだけ恨み言を叩きつけられるか、あるいは帝国の敗北を赤裸々に語られるかと戦々恐々としていたのだが。
しかしその後は、イゼルローンの新年パーティや幽霊騒動、電球の型が合わなくて、あのキャゼルヌ事務監が苦労したことなど、子どもが興味を持つような話が巧みに語られた。
やはり全員の興味を惹いたのは、ヤン・ウェンリーのエピソードである。紅茶が好きで、珈琲は泥水だと嫌う。寝起きが悪くて、昼寝が好きで、三次元チェスは弱かった。
ユリアンが教えてもらったのは、戦略戦術そのものよりも、専制と民主共和制の違いや歴史についてのことが多い。それはヤンが歴史学者志望だったからで、無料で歴史を学ぶために士官学校に入って、戦史研究科が廃止されてしまい、戦略研究科に転科させられて中の上の成績で卒業。
ただし、実技科目は赤点ぎりぎりで、首から下は役立たずと先輩に酷評される始末だったという。それがエル・ファシルの脱出行で英雄に擬せられて以来、人生は変わりっぱなし。
不敗の名将、温厚な紳士というヤンの評価しか知らなかった、真面目で善良な帝国軍の人々はかわいそうなぐらい面喰った。
特にユリアンの中学校の宿題に、偉人の伝記の感想文が出た時に『偉人を子どもに見習えなんて、善良な人間に異常者になれというに等しい』と発言したというくだりなど、年長者は顔色を様々に変色させ、こめかみや
「大変失礼ながら、ヤン元帥は自らを省みて発言されるべきだと思うのですが……」
ミュラーの言葉を翻訳するなら、『ヤン・ウェンリーにだけは言われたくない』というものだろう。
「ええと、ヤン提督はご自分を凡人だとお考えだったんですよ。
外見や生活態度は本当にそのとおりでしたから。
皇帝ラインハルトは、容姿からして美しい方だったでしょう。
『水晶を名工が銀の彫刻刀で彫りあげたようだ』と言って、
天は人に二物も三物も与えるもんだね、と頭を掻いていたものです」
確かにラインハルトは
「それにしても、政府や国家の偉人に対して、そのようなことを口にされて大丈夫なのですか」
こちらは、
「まあ、思想と言論の自由は憲法で保障されていましたから。
世間に迷惑をかけない限り、何を考えても話しても自由というのが建前ですけど。
でも、将官ともなるとなかなかそうはいきませんし、
難癖の材料にしようと思えばいくらだってできました」
「やはり、そうでしょうな」
「しかし、難癖をつけることはできても、それだけでは罪には問えません。
そこが旧帝国との国の仕組みの違いでしょうね。
ヤン提督もからかいや冗談の種にされたり、
ご自身も同じように相手に毒舌を言ったりしましたから」
「その、ずいぶんと自由というか……」
ユリアンは、苦笑した。
「ええ、ムライ参謀長はよく困ったものだとおっしゃっていましたよ。
ヤン提督は軍律に甘いとも言われてました。
ヤン提督が絶対に許さなかったのは、民間人への暴力と、
上官から部下への制裁くらいでしたからね。
有能な下級指揮官に、部下への暴力行為が多かった者がいましたが、
降格更迭されてからはぱったりとそれがなくなりました。
『奇蹟のヤン』にそれは軍隊の恥そのもの、
私の艦隊には不要だと言われてはそんなことできません。アムリッツァの後ですから」
「弱い者いじめはだめだよっていうことなの?」
「はい、アレク殿下。
軍事というのは、本当だったらやってはいけないことが正しいとされてしまうんです。
誰かと喧嘩をする時に、一人を大勢でいじめたり、後ろからいきなり叩いたり、
おやつやおもちゃを横取りしたりすれば、お母さんに叱られますよね」
「ぼく、そんなことしないよ!」
「ぼくもそんなことしません!」
「すみません、アレク殿下、フェリックスくん」
幼い抗議に、ユリアンは謝罪して続けた。
「これは卑怯なことです。
なのに軍隊の作戦だと、やるのが当然で やられた方が馬鹿なんだと言われてしまいます。
敵にやったことでも悪い事には違いがないんだと、ヤン提督はおっしゃっていました。
だからせめて、味方や守るべき人達に、そういうことをしないようになれるといいねと」
ユリアンは、ヤンからの言葉を自分なりに要約し、この子たちにも分かるような表現を心がけた。すこし拙い帝国語で、自分たちの質問に真摯に答えてくれる青年の態度に、彼自身と育てた人の優しさが浮かんでくる。
「ヤンげんすいは、やさしい人だったんですね」
そうでなければ、ユリアンがヤンの言葉をフェリックスやアレクに伝えようとするだろうか。
「うん、普段は優しい普通の人だったよ。
戦いの時はすごい作戦を指揮したけど、いつもの調子で、
旗艦の机に
でも、それを見るとなんか安心できてね。
ヤン提督がいつもどおりなら、きっと大丈夫だってみんな思っていた。
そして、ちょっと頼りない提督だから、助けてあげたいって思ったんだよ」
「ユリアンさんは、ヤンげんすいのこと、だいすきだったんだね」
金髪の少年の言葉に、亜麻色の髪の青年はゆっくりと頷いた。
「ええ、心から大好きでした。
もしも時が戻せるなら、何を引き替えにしてもいいと何度思ったか。
ヤン提督はきっと賛成なさらないでしょうけれど。
ですが、愛する人を失えば誰しも思うことなんです。
ヤン提督はそれを知り抜いていたんですよ。
だから味方とできれば敵である帝国軍も、
一人でも多くの人を戦場から帰すことを願っていました」
静かな声に、静かな表情だったが、人はこんなに悲しい顔ができるのだと、幼い子どもたちは始めて知った。
「ごめんなさい」
しょんぼりしてしまった大公殿下に、ユリアンは首を振って答えた。笑顔を浮かべることはできなかったけれど。
「いえ、こちらこそすみませんでした。君たちは全然悪くないんですから。
ヤン提督の一番の望みは、ひとときの平和でした。
ひとときの平和も、次の世代が責任をもって大事にしていけば、
続いていくのだろうとお考えだったそうです。
ヤン提督が生きている間には叶わなかったけれど、私たちは手にすることができました。
この平和を大事にするのが私の願いです。帝国の方々も同じようにお考えでしょう」
「そのとおりです、ヘル・ミンツ」
ミュラーは短く答えた。
「貴重なお話をいただき、心より感謝します」
「こちらこそ、お話ができてよかったと思います。
もうすぐイゼルローンに到着なさいますか?」
「あと一回
「そうですか。それでは貴艦隊の航海の安全を心より祈ります」
ユリアンは久々に同盟式の敬礼をした。かつての保護者と違って、教本に載りそうな一礼であった。
そして、イゼルローン要塞に到着した大公アレクとフェリックスだったが、好きに行動ができるわけではない。この行啓の最大の目的は、ミュラー元帥がイゼルローン要塞に駐留し、要塞司令官と要塞駐留艦隊司令官を兼任する着任式で皇太后の名代を務めることである。それが済むまでには、宙港での歓迎式典から始まって、貴賓室への移動してそこでも歓迎の辞に応じたりと、五歳の男の子には大変で退屈な日程が続く。フェリックスも侍従見習いとして、アレクに付いてなだめたり、それとなくトイレに誘ったりという役目がある。
皇太后ヒルダやグリューネワルト大公妃が、次の皇帝として教育しているアレクは、年齢に比べて聡明で聞き分けのよい子だった。しかし五歳児の限界というものがある。幼い頃のラインハルトによく似た大公アレクは、先帝への敬慕と愛惜もあって、国民の人気が高い。帝国軍人にとっては、さらに温度の高いものだった。当初はもっと過密なスケジュールが組まれたが、ラインハルトの妻と姉の反対でこれでも大幅に行事を削ったのだ。
アレクの父は、この年頃は母代わりの姉にべったりで、きかん気なやんちゃ坊主として遊び回っていたものだ。
だが、父の顔も覚えていない、まだ五歳の子に背負わせてしまってよいものなのか。ミュラーは考え込んでしまう。
ところで、旧帝国では二人の大将が同格者として、イゼルローンの要塞司令官と要塞駐留艦隊司令官を務めていた。これは両者と部下に感情の対立をもたらし、第七次攻略戦でヤン・ウェンリーの魔術の種に利用されてしまった。
その轍を踏むまいと、同盟軍はこれを兼任としてヤン自身をあてた。同盟におけるイゼルローン要塞司令官兼同要塞駐留艦隊司令官は史上ただ一人である。これもまた、あちらに付くとこちらに付けずという極端な人事だった。それを何とかすべく、ヤンと幕僚は相当に苦労したものだ。しかし、それは戦時中のこと、平和になればやはり兼任が当然だろう。
イゼルローン要塞はその攻撃力、防御力、生産拠点としての機能があまりに堅牢で、その気になれば独立国家になれる。ヤンが同盟政府に危険視され、彼の死後実際にそうなったように。
ミュラーがいかに帝国首脳部に信頼されているか、『彼を臣下に持ったという一点だけでも、皇帝ラインハルトは後世に評価されるだろう』というヤンの言葉どおりであった。
皇帝ラインハルト、ロイエンタール元帥、オーベルシュタイン元帥。ミュラーが亡くなった人々を思う時、その行政能力の損失に目の前が暗くなることがある。ミュラーは『
また、人には向き不向きというものがある。七元帥のアイゼナッハが軍務尚書として閣議で発言できるか、ビッテンフェルトが統帥本部総長として軍部の作戦や人事、予算の計画を策定できるかと自問すると、
そして、国家だけではなく、父としてのラインハルトの喪失も。
ユリアン・ミンツが語ったように、預かったペットに餌をやり忘れた罰として、本人に夕食を抜くように命じ、自分もそれに付き合うような、そんな父性をアレクに与えることのできる人間がいるだろうか。
嫌なら軍人になんかならなくてもいい、親のことなんて関係ない、養育費なら返還すると血のつながらない少年に言ってくれるような相手が。
ロイエンタール元帥の遺児は、この点ではるかに恵まれているだろう。
ラインハルトにとって超克すべき父性は、姉を皇帝に売った父ではなく、姉を奪った皇帝そのものであった。父性の負の部分の集大成に勝ち、勝ち続けるために戦いを欲し、翼の力の続く限りに飛翔を続けた。彼は
だが、それは幻獣、神話や伝説に語られる存在だ。飛翔する鳥は巨体を持つことはできない。そして領土、領民が1.5倍以上となった新帝国は巨躯をもつ獅子だ。身体を今さら切り捨てることは不可能だ。翼を捨て、四肢で歩むしかないのだ。
だが、それは眩い先帝の残照に、目を射られながらの長い道程になる。大公アレクは、いずれそれを継ぐ。先帝は器でなければ他の者が継げばいいと言い残したが、実際そんなことになれば、リップシュタット戦役が人的宇宙規模で拡大再生産されるだけだろう。
アレクが成人するまではあと十五年。七元帥はまだ五十代である。このまま平和が続けば、おそらく天上の門をくぐらずにすむだろう。それまでに、新帝国と旧同盟の共存の道筋を、少しでも