星路のサーガ
しずしずと歩み出た少女は、衣擦れの音さえしない、優美な一礼を見せた。
「こたびのご招待、まことに光栄に存じます。
摂政皇太后ヒルデガルド陛下、父母にかわりまして、ペクニッツ家より参りました。
大公アレク殿下の七歳のお誕生日に、心よりのお祝いを申し上げます。
お誕生日、おめでとうございます、大公アレク殿下」
柔らかな声と、優しい微笑み。少年が今まで見たこともないほど綺麗な女の子だった。彼は一目で恋に落ちた。それは幼い初恋だった。
新帝国暦十年五月。帝都フェザーンは祝賀の雰囲気に沸きかえっていた。ローエングラム王朝創立より十周年。大公アレクサンデル・ジークフリードは、まもなく七歳を迎える。旧自由惑星同盟、いや新領土では小学校への就学年齢である。幼児から少年への成長の第一段階だ。
今年から、
しかし、ローエングラム王朝となって、貴族の数は激減した。帝都をフェザーンに遷し、皇族の数も三人しかいない。それに応じて典礼の形式を改め、それはぐっと簡素なものとなった。新たな典礼は、先帝ラインハルトの、皇太后ヒルダの性格に見合ったものだった。
ヒルダは、こういった式典を全て廃止することも考えたのだったが、それは父と義姉に止められた。皇室の行事は、経済効果を生むものだから、金を遣うのは金持ちの義務でもあるのだと。ローエングラム王朝の首脳部は、貴族の浪費を白眼視していた側であるから、なかなかそういう発想が出てこないのだ。
これはむしろ、バーラト星系自治共和政府のフェザーン駐留事務所長のほうが柔軟に受け止めた。
「祝賀行事はよいことですな。帝国本土側の高価な物品の需要喚起の好機となります。
リップシュッタットの内乱後、新領土への供給も減ってしまいました。
ああいう、伝統をもつ品を欲しいという者は少なくないのです。
是非、生産者の保護と奨励をお願いしたいものだ」
招待状を届けたビッテンフェルト元帥は、何とも言えない顔になった。
「俺はああいう、虚飾に満ちた浪費は好かんな」
ムライ事務所長は、軽く咳払いをすると続けた。
「ふむ、伝統は尊ぶべきものですよと、私の上官はならば申したでしょうな。
歴史的価値あるものは、将来的には観光資源ともなります。
旧都の建築群も大切になさったほうがよろしいでしょう。
なにより、どんな高価なドレスも宝石も、兵器の価格には及びません。
虚空に散る戦艦などよりも、よほど経済に資するというものです」
ぐうの音もでないビッテンフェルトだった。この七年ほどで、呼吸する軍規だったムライは、経済戦争の尖兵たるセンスを身に付けた。また一人、恐ろしい存在の出来あがりというわけである。ローエングラム王朝を育てたのは皇太后ヒルダだが、彼女を支える臣下を育てたのは、魔術師の算盤と物差しだと、ユリアン・ミンツなどはこっそりと思っている。
「ところで、旧都からも大公アレク殿下の祝賀に訪れる方がおいでですかな」
「ああ、多くはないがな。ワーレン元帥も、
なにしろ、往復すれば三か月近い日数になるからな」
「ほう、いないわけではないということですか」
「貴族の連中だ。要するに暇なんだろう」
その声に込められた反感に、ムライは咳払いをした。
「では、皇太后陛下のご縁戚の方々ですな。
フェザーン回廊の治安が重要となることでしょう。
閣下も大変なことと思いますが、くれぐれもお気をつけて」
普段、忘れがちな事実を突きつけられて、ビッテンフェルトの鋭い目が丸くなった。大きな手でオレンジ色の長めの髪をかき回す。
「そうか、そういうことになるわけか。思ったよりも厄介なことだな。
単なる貴族のご機嫌うかがいでは済まされんということか」
「万が一、テロリストに襲われ、誘拐でもされたら大変なことになるでしょう。
皇帝が皇宮から誘拐されることだとて、例のないことではなかったのですから」
これにはさすがの猛将も言葉に詰まった。それもまた、ラインハルトの謀略であったのだが、そ知らぬ顔をしてあてこすりに相槌を打てるほど、彼はまだ練れていない。
「帝国から同盟まで連れてこられ、権力闘争の的にされた、
あの少年は行方不明になってしまいました。
旧同盟の一員として申し訳なく思います。
生きているのか、死んでしまったのか、気の毒なことです。
ちょうど、アレク殿下はあの子と同じ歳になられるのですな」
ムライは、最近かけ始めた老眼鏡の位置を直した。
「今でも覚えております。
銀河帝国正統政府とやらに、メルカッツ提督が軍務尚書に指名されてしまった。
私は彼を難詰しました。これからどうする気なのかとね。
それをなだめてくれたのが、ヤン司令官でした。
彼は国や立場の違いではなく、人間自身を見ることができる美点の持ち主でした」
ムライも帝国首脳部と接するうちに、自分の人が悪くなってきたことを自覚する。特に帝国軍の首脳部は、先帝を絶対視している部分がある。あれほど輝かしい、軍神の化身を目の当たりにしていたのだから、無理もないとは思う。ヤンとその問題の部下らは、咳払いだけで察してくれたのだが、ここまであからさまに言わないとわかってくれない。黙り込んだビッテンフェルトをよそに、ムライは話題を変えた。
「当事務所からは私が出席しますが、ハイネセンからは、ホアン外務長官が参加する予定です。
後日、正式な回答をバーラト政府よりお送りしますが、
帝都守備艦隊司令官の閣下にはお伝えしておきます」
ようやく見つかった話の接ぎ穂に、ビッテンフェルトはほっとして応じた。
「そちらも、なかなか主席の参加は難しいと言う事か」
「オーディーンよりは近いものの、やはり往復に一か月は必要です。
ヤン司令官は一万光年単位の跳躍が誕生したら、
軍事的には大転換となると考えていたようですが、
外交通商的には、その十分の一の距離でも跳躍できれば違ってくるでしょうな」
「研究と実用化にいくら金がかかるかわからんな」
「跳躍自体も無論ですが、航法計算も遥かに複雑になるでしょう。
新領土の航路は、充分に開発されているとも言い難い」
ムライの言葉のとおりだった。人が住みだして、二百年しか経過していない新領土の航路は、帝国本土側よりも難所が多い。アーレ・ハイネセンらが出発したときには四十万人、バーラト星系を発見したときにはその六割を失っていた。寿命を迎えた者も多いが、死因の次点は事故であった。ハイネセン自身も事故死をしている。惑星ハイネセンに辿りつき、ようやく余裕が出てきた段階で、少しずつ近隣星系へと足を伸ばしていった。それが新領土の航路開拓史だった。
彼らが通ってきた航行不能宙域の中の、細い道が後のイゼルローン回廊である。敵地に隣接する場所ということで、この周辺のデータの蓄積はかなり早い段階から開始されていた。
一方、フェザーン回廊の発見はその百年後だ。こちらへの航行については、旧同盟は安全性の確立された航路のみを使用した。ハイネセンらの血で記された航路図。その犠牲の大きさと新領土の星の海の厳しさに、新航路開発は慎重を通り越して、はっきりと消極的だった。国防上の問題でもあるが。
フェザーンからハイネセンの宙域図上の最短距離には、故シュタインメッツ元帥がヤンに憂き目にあわされたブラックホールもある。これは他星系からでも観測で発見可能な天体だからまだいいほうだ。困るのが、惑星シロンの流星群などの、その星系に住んでいないとわからない現象である。いきおい、有人惑星伝いに航行することになったのだった。
惑星は恒星の周りを公転している。虚空の中を、とんでもない速度で動き続ける。一方、ワープイン、アウトは、大質量のない場所で行わなくてはならない。星系の内部では、光速の数パーセントでしか通常航行できないのだから、できるだけ目的地に近い安全な位置へ跳躍する。これも航法士の役割の一つだ。
故エドウィン・フィッシャー中将のような名人になると、急ごしらえの半個艦隊でも四千光年を二十日間で踏破することが可能だ。非常に高度な知識と熟練を要する技術である。その計算に基づいて、跳躍や亜光速航行を行う機関士も貴重な専門職だった。これらも、軍に集中していた人材である。
二百年ぶりに平和が訪れて、恒星間交通の需要が飛躍的に伸びた。同盟軍は解体され、熟練した航法士や機関士は、民間企業が右から左に雇用していった。帝国軍が、教官や指導者として再雇用しようと思いついた時には遅かった。熟練した船乗りは、どこも喉から手が出るほど欲しがったのだ。
旧同盟軍人は生きて平和を掴めた者ばかりではなかった。マル・アデッタの会戦に出撃した者、イゼルローン革命軍に身を投じた者。いずれも、多くが還らぬ激戦であった。この職種については超売り手市場となって、高給取りとなった者が多かった。
「卿の言うとおりだな。おまけに、新領土の航路を詳しく知る者は、
そちらが囲い込んでいるも同然だろうが」
このままでは、人的資源の供給が追いつかない。バーラト政府は、旧同盟軍士官学校を、航法士や機関士、通信オペレーターの教育施設として再利用した。教材も教師も施設も揃っている。一から若者を教育するだけではなく、退役軍人の再教育の場としても門戸を開いたのだ。かつて十代の青年が戦争の術を学んでいた場は、老若男女が行きかうようになった。
そして、国籍は問わなかった。バーラトの国民、新領土の帝国国民、そして帝国本土の国民も。宇宙統一以前なら、亡命という形をとるしかなかった人々が、旅券と査証を取得して、星空の彼方から学びに訪れる。バーラト星系は教育国家としての戦略を取り始めたのである。
「誤解をされるのは困ったものですが、
宇宙統一後の状況に応じ、再教育を行わねばいけないのです。
新領土の星の海は、帝国本土よりも難所が遥かに多いのですから。
今まで、軍事優先で制限されていた航路を民間に開放したはよろしいが、
艦艇の性能が、軍民では著しく異なります。
六百メートル級の戦艦ならば問題とはならなくとも、
二百メートル級の貨物船では不都合がある場合も多いのですよ」
理路整然と言い返されて、オレンジの髪の猛将はまたもや言葉に詰まった。それを見たムライは、不器用な笑みの欠片を浮かべた。
「イゼルローンの戦艦を売却しようとした際に、民間の船舶会社から散々に言われたことです。
もっとも小さな軽巡洋艦しか買い手が付かなかった。
標準型戦艦を旅客船に改装するには、新造するのとさほどに費用が変わらぬと。
企業にしてみれば、中古品を買う意味がないわけです」
「その、なんだ、随分と切ない話だな……」
ビッテンフェルトは、大きな手で長めの髪をかき回した。ムライも嘆息交じりに続ける。
「結局、旗艦や標準型戦艦を、バーラト星系の警備隊に配属させたのは、
解体するにも相応の費用が発生するからです。
そして、新領土駐留軍のいるメルカルトまで航行させねばならない。
ポプラン元中佐が、二百機近いスパルタニアンを
開いた口がふさがりませんでしたが、今思えば正しい処置でしたな」
「それにしても、卿らは本当に色々考えているのだな」
「貧しいからこそ、知恵を巡らせるわけです。ヤン提督の言葉を拝借するならばですが」
この初老の紳士も、彼の支柱の一本だった。ビッテンフェルトは旗色の劣勢を悟った。攻撃においては宇宙最強の
それはなぜか。帝都となったフェザーンは、人口が急増して土地の価格が高騰した。もともと砂漠が多く、人間の居住域の少ない惑星である。フェザーンに本社を置く法人にとって、その固定資産税は洒落にならないものだった。
それに比べれば、人口三百万人から微増状態のエル・ファシルのほうがずっと土地が安い。住環境ははるかによかったし、過去のイゼルローン要塞攻略戦では、物資の補給経路となっていた。辺境の地ではあるが、国防上の理由で航路や宙港の整備が進んでいたわけである。
ヤン中尉の『エル・ファシルの脱出行』の奇蹟も、その種があってこそだ。彼は、その経験やキャゼルヌとの会話によって、エル・ファシルの可能性を予見していたのだった。講和会談の途上で彼が斃れたことは、帝国にとっても大きな損失だった。ヤンが健在であったら、この統一後の世界の基本構想も考え出せたに違いない。それこそ自分の後任になっていただいたのにと、マリーンドルフ伯爵は娘に語ったものだ。
ともあれ、フェザーン回廊を行きかう商船は三割減となった。混雑を極めていたうえ、ビッテンフェルト艦隊が我が物顔で出動し、頻繁に臨検を行う。これは、帝都の治安維持にはいたしかたなかったし、この七年の平穏に大きく寄与していたのは間違いはない。
しかし、これでは商売あがったりだ。商人がなによりも守らなくてはならないもの、それは納期と信用である。宙港機能が優れ、商売先にも補給元にもなるイゼルローン要塞経由路の方がいい。回廊が狭い分、航行予定が厳密に組まれており、一ヶ月前までの申請は必要だったが、それでもなお、イゼルローン回廊の利点を認めた商人が多かったのだ。こちらの交通量は三割どころではなく、数十倍の増である。
要するに、ビッテンフェルトの任務も暇ができてきたわけで、そうなると管理職教育がずんと圧し掛かる。戦場の雄を、平時の優に仕立て直すことは難しい。本人が一番承知している。悲しいことに、口うるさいムライが一番親切な教育役で、こういう折に至らぬ点を、ぴしりぴしりと定規で打ち据えられるのだった。
「そ、そうか。では、フェザーン回廊の警備について、関係諸所に通達せねばな。
来る貴族もさほど多くはないが、参加予定者には思ったよりも子供が多い」
「ほう、大公アレク殿下のご学友になるのかもしれませんな」
「な、なんだと」
大口を開けるビッテンフェルトに、ムライは淡々として続けた。
「私はよいことだと思います。
お立場からして、さすがに学校に通われるわけにはいかないでしょう。
複数の同年代の友人を作るよい機会ではありませんか。
普段は大人に囲まれて、友達といえば一人だけというのも、お寂しいのでは?
フェリックスくんにとっても、その立場はいささか重過ぎるでしょう」
ビッテンフェルトは、一瞬息を飲み込んだ。大声を家訓にしている彼らしくもなく、低い声で応じる。
「たしかに卿の言うとおりだろうな」