銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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黎明を支えるもの

 互いに理解をしなくてはならない。顔も見えず知らない相手だからこそ、帝国と同盟は百五十年も殺しあえた。それと同じことが、帝国の中で起こる。背を向け合っていた新帝国の首脳部と、旧王朝の貴族たち。国を治めるべき者がまとまらずして、どうして敵だった新領土の統治ができるだろうか。

 

 皇太后ヒルダは、いまや唯一の公爵であるペクニッツ夫人、エレオノーラの重病に医師を送り、ラインハルトの喪明けを以って、リヒテンラーデ候の一門を恩赦した。

 

 エレオノーラの治療は功を奏し、すんでで死の淵から逃れた。残念ながら全快とはいかなかったが、彼女の感謝を得たことは大きかった。彼女は、ゴールデンバウムとリヒテンラーデの血を引く女性で、実家は名門リンデンバウム伯爵家だった。娘を身ごもっていたがために流刑にされずに済んだが、親兄姉は死か流刑のいずれかに処されている。まだ八か月の乳児だったカザリンが女帝となり、その九か月後にラインハルトに譲位をしたことにより、ペクニッツ子爵家は公爵家に昇格した。

 

 彼女は、病身を押して娘のために茶会を主催し、自分の死後も人脈という砦を築こうとした。夫は、娘の年金で象牙細工の収集をすることにしか興味のない男で、頼れる自分の親族はいないのだから。エレオノーラにこそ、残り少なくなった貴族の女性らは同情し、力を貸そうとしてくれた。その彼女は、医師を送ってくれたヒルダとアンネローゼに感謝を送る。

 

 結果として、貴族の女性達もヒルダらを見直すきっかけになったのだ。妻たちは夫に告げる。

 

『皇太后ヒルダは、先帝よりも慈悲深いお方。

 万が一、七元帥が簒奪したらあの武断政治に逆戻りですわ。

 いいえ、皇帝(カイザー)ラインハルトほどの才を持たぬぶん、まだ悪いでしょう』

 

『あの方も女手のない家でお育ちになったし、まだお若い。

 至らぬ点は大目に見て、エレオノーラ様にもお任せしましょう』

 

『あのお小さい姫君は次代の核。わたくしたちも、お力添えしなくてはね。

 戦火が絶えたから、あの姫も母上を失わずにすんだのです』

 

『あんな武断は賛成はできませんが、先帝陛下の名は不朽のものです。

 残された貴族として、この大公領を守ることにいたしましょう。

 皇帝(カイザー)アレクサンデルの即位の暁には、その功が我らの力となります』

 

 ゴールデンバウム王朝ゆかりの女性たちが、主亡きローエングラム王朝を支えることになった。時の流れは、怒りや恨みといった鋭い棘もすこしずつ磨り減らしていく力を持っている。七年前のヒルダは、皇帝の子を生んで、死後その地位を継いだだけだった。だが、この七年間苦労を重ね、新帝国の安定に力を尽くし、皇太后という地位にふさわしい女性だと、貴族を含めた国民を納得させていったのだ。

 

 親族を処刑された恨みより、娘のために生きられた感謝を選んだエレオノーラ。親兄弟を失い、幼い娘は新王朝の礎とされ、この先の人生に大きな影響が出るだろう。恐らく、もっともローエングラム王朝を憎む理由がある女性だ。それを表面上には一切出すことなく、皇太后や大公妃への恭順を、完璧な礼儀をもって示した。おそらくは、ゴールデンバウムの誇りにかけて。

 

 皇太后らに送られてくる、なんとも優美な筆跡の四季折々の礼状。厳格な典礼の教師が見ても、満点をつけるしかない作法で、自らや家族、友人たる貴族らの消息、市井の人々の様子が綴られた貴重な情報だった。蓄積された伝統の精華を、ヒルダは目の当たりにすることになる。

 

「以前、大公妃殿下がおっしゃったけれど、これが生まれながらのほんものの貴顕の作法なのね」

 

 ヒルダはくすんだ金色の頭を振った。

 

「とても私には真似できないわ」

 

 ヒルダが馴染んだ文書は国内外への布告であったり、各省庁からの数字混じりの報告書だった。いかにも女性らしい、柔らかな言葉の並んだ時事の便りは、いつしかヒルダにとっても楽しみとなっていった。この礼状に、ヒルダが返事を出すことはできない。それが身分の差というものだ。アンネローゼの方は、フリードリヒ四世とのつながりで手紙がやりとりでき、それが羨ましくもある。

 

 しかし、様々な皇室行事への招待には、体調の不良と娘の幼さ、フェザーンへの距離を理由に欠席の返事が寄せられる。これはもっともすぎて、誰にも無礼と言い立てることはできなかった。

 

 彼女の病気は、難産による胎盤の異常が引き金となった、子宮がんの一種だった。フェザーンから送られた中年の女性医師は、患者の守秘義務の前に渋い顔をしたが、雇用主たる皇太后に乞われて報告をした。

 

「あそこまで病状が進行していたのに、優美な貴婦人としてドレスを纏い、

 茶会の主催をなさっていたなんて信じられません。

 私なら、ベッドの上で息も絶え絶えに唸ることしかできませんね」

 

 即刻手術が行われたが、それは女性としての機能を喪失することでもあった。大きな決断を必要としたのである。結局、骨盤内の臓器をほとんど摘出し、抗がん剤治療も行われた。抗がん剤がよく効く種類のがんだったのは、不幸中の幸いと言えよう。しかし、病みやつれ、髪を失った姿を見せたくないからと、超光速通信(FTL)を行おうとはしなかった。そんな彼女の代弁者となったのが、その女性医師イリーナ・イリューシンである。

 

「大変デリケートな問題でもあります。

 皇太后陛下、陛下はご健康でお美しく、男の子にも恵まれていらっしゃいます。

 支えてくださるご家族、臣下の方々にも。

 しかし、公爵夫人はそれらすべてをお持ちではない。

 陛下は命の恩人ですが、病人を労わるのは、いつだって健康な者の義務ではないでしょうか」

 

 フェザーン人らしい、きっぱりとした言葉だった。

 

「これからも投薬は続きます。それには強い副作用が伴います。

 いつ再発してもおかしくない、いいえ、薬でがんを押さえ込んでいる状態です。

 エレオノーラ様にもそう宣告させていただきました。

 あのままでは余命は三か月、手術して再発がなければ、

 三年が一つの目安、五年が一応の完治。しかし、その可能性は二割以下です。

 恐らく、何度も抗がん剤の投与が必要になり、それもやがて限界が訪れる。

 手術するより、終末期緩和医療の方がご自身にとっては楽です。

 それもお教えしましたが」

 

 フェザーンの医療は、旧同盟の方式を踏襲している。大手術、辛い投薬療法、それでも短い延命。一方、現在の生活の質を保って、本来の寿命を生きるか。こうした療法の選択も本人が行うのである。帝国の常識からは考えられなかった医療の形で、深窓の貴婦人には衝撃だったに違いない。ヒルダもまた言葉を失った。

 

「でも、その三年でも娘のために欲しいと泣かれてしまいました。

 父や母、兄姉には申し訳ない、でも女であることを捨て、生き恥を晒してもいいから、

 カザリンに教えなければならないことがある。

 四歳と七歳では教えられること、覚えられるものが違うと。

 私も泣けてきましたよ。飲食、排泄、動作の全てに制限がついて回るのです。

 この先一生、たぶんそれも十年以内となるでしょうが」

 

 イリューシンは、超光速通信の画面をひたと見据えて宣告した。

 

「とにかく、心の安定は病後の余命にまで影響します。

 安静にすべき人に、衣服や化粧を整えて通信に出ろとは酷なことです。

 手紙なら、体調をみながら書き溜めることができます。双方にとってよい方法ですわ。

 皇太后陛下、あなたはとてもお美しい。その豊かな髪も、女性らしいお体も絵のようです。

 そんな方に、やつれた姿を見せたくないと思う、

 同い年の女性のことをわかってさしあげてください」

 

 思わぬところに言及されて反論ができなかった。病死したラインハルトは、死の直前まで青春の美の結晶そのものだった。病床を離れられぬようになってさえ、彼の美しさは変わらなかった。死の神(タナトス)にも、美の女神(ビーナス)の恩寵は奪えなかったかのように。そんな病人こそ、稀有な存在である。従弟のハインリッヒの方が当然の姿だ。

 

「わかりました。先生の言うとおりなのでしょう。

 ですが、公爵家に招待状を出さないわけにもいかないのです。

 これは時候の挨拶のようなもので、出席を強いるわけではないと、

 皇太后の名において約束すると、公爵夫人に伝えてください」

 

「ありがとうございます、皇太后陛下。その方がよろしいかと思います。

 無理に出発したところで、翌日には棺に入ってお宅に逆戻りすることになります。

 先々帝の母上の服喪で、行事どころではなくなってしまいますものね」

 

 ああ、そうだった。イリューシン医師との会話の後で、ヒルダはくすんだ金の髪をかき回した。結婚前よりは長くなったが、一般的な貴婦人ほどには長くない、顎を越えた長さの髪を。

 

「フェザーンの人に言われてから気がつくなんて、本当に貴族の女として失格だわ。

 血縁に姻戚、本当に複雑なのね。

 残っている貴族の人たちも、どこかしらで門閥貴族と繋がっているし、

 もっと親戚の人の言うことを聞いておけばよかったわ」

 

 ペクニッツ公爵もまた、夫人の病に便乗してオーディーンを離れようとはしなかった。皇室の行事には、夫妻そろっての出席が基本であり、非礼にあたるということで。娘の即位と退位と、ふたつの式典で彼の小さな肝っ玉は完全に磨耗したのだった。かといって、子を産めぬ妻と離婚もできないし、側室を迎えることもできない。彼の生命線であるカザリンの年金は、エレオノーラからの血脈によってもたらされたものだ。出て行くなら彼の方ということになる。カザリンが公爵夫人となるだけのことだからだ。

 

 彼の常軌を逸した浪費が、この鬱屈にあることを見抜いたのは、カザリンの為に派遣された精神科医の資格も持つ小児科の女医である。ペクニッツ公爵もまだ若い。(いにしえ)の修道僧もかくやという禁欲生活を強いられ、その原因でもある娘を愛することができない。生きているだけでもましなのかもしれないが、不幸であることは間違いない。ペクニッツ家は年金のみの法衣貴族である。統治する領土領民でもあればまた違ったのだろうが。

 

 不平をぶちまける公爵ユルゲン・オファーの言を、小児科医のホアナ・ヒメネスはひたすらに相槌をうって聞いた。是とも非とも言わずに。一番小さな娘、彼女の本来の患者は、聞きわけのよい賢くて可愛い子だ。一番の重病者はさらに我慢強く、辛い治療の合間にも娘や夫に笑顔を絶やさない。その父で夫がなぜこうなのだろうと思ったが、それは顔にも口にも出さなかった。

 

 彼だとて、その小さな器が破裂しそうなほどに我慢をしてきたのだ。我慢が足りないと言うなら、まったくそのとおり。しかし、心の痛みへの耐久力は千差万別なのだ。

 

 親友の死、姉の心の喪失という痛みを、飛翔のための力にかえることのできたラインハルトのように。そのラインハルトが率いる帝国への叛旗を翻し、紅茶のブランデーの増量を控え目に要求したヤン・ウェンリーのように。彼らの死によって、担う事になった重荷に敢然と立ち向かう、ふたりの妻たちのように。そんな彼女たちを支えるあまたの人々のように。だが、世の中は強い人間ばかりではない。

 

 ヒメネスの職業は、そうでない人々のためにある。ペクニッツ公爵はその代表なのだった。とにかく、誰かが聞くだけでも大いに違う。しかし、旧帝国ではそれさえもできないことだった。精神障害者は弾圧の対象となり、不平不満は不敬罪や国家反逆罪に問われる社会だったからだ。医師の守秘義務など、社会治安保障局の拷問の前には薄紙も同然。ゆえに、精神科医という職業自体がなかったのである。ラインハルトの改革により、こういった医療従事者も増加するかに思われたが、帝国本土では五百年近く絶えていた分野である。

 

 結局、これもハイネセンの医科大学への留学に頼ることになった。こちらも入学資格に国籍を問わなかったのだ。しかし、入試は帝国語で受けられても、授業やテキストの多くは旧同盟語が使われている。学力と言語の二重の壁を越えられる帝国本土の人間は、まだ多くはない。

 

 なにしろ、こういう心理学用語の翻訳は、航行用語のように機械的なものではない。微妙なニュアンスを訳すには、帝国本土の専門家の協力が必須である。そういう人材は今まさに教育中。まだまだ先のことになりそうだと、帝国学芸省も溜息を吐いていたところだった。

 

 それが頭にあったヒメネスは、ふと思いついた。この公爵の相談に乗りながら、協力してもらったらどうだろうかと。フェザーン人の彼女は、二つの言語を使える。フェザーンの母国語は帝国語である。だが、フェザーンの帝国語が、帝国本土人と同一かというとこれまた違う。そして同盟語が第二言語だが、その能力は母国語には及ばない。同盟語のテキストの微妙なニュアンスが、しっくりと理解できないというのは、フェザーン人医学生に共通する悩みでもあった。

 

 同盟の用語を自分なりの帝国語で話し、帝国本土人、しかも貴族に添削してもらう好機。彼は一応大学を出ているし、貴族としての一般教養もある。学業成績は不明だが。なにかを作ることは代償行為として優れたものだ。上手に浮気をなさいとは勧められないのだから、その代わりに医学書の翻訳というのは、社会の貢献にもなり、貴族の嗜みとしては悪くない。ヒメネスは、うまいこと公爵をその気にさせた。

 

「象牙細工であなたの名を冠したコレクションを作るのは難しいですが、

 教科書の最初の訳者となれば、帝国の医学史にその名が刻まれるでしょう。

 その栄光はあなただけのものです。

 身分や血脈に関わりのない、あなた自身の手で作る名誉です」

 

 あれから六年。エレオノーラは、病後の身ながらも娘と暮らしている。精神科の教科書の翻訳も進み、一年前に帝国語版が上梓され、ペクニッツ公爵に名声を与えた。そして、帝国本土の医科大学も大いに助かったのだった。

 

 なによりも、心理学の本の翻訳を通じて、ユルゲン・オファーは自らの心と対峙することになった。何不自由なく育ち、父の死後家を継ぎ、父の選んだ女性と結婚した。彼の父は、名門だが貧しかったペクニッツ家を、皇孫を迎えられるまでに繁栄させた。周囲にも信望の篤い人物だった。ただし、跡取りである彼には厳しかった。父に言われるがままに育ち、父の選んだ妻は、美しく心根の優しい聡明な女性だった。では、自分の意志、自分の価値はどこにある。その劣等感が、父の死後迷走を始める契機となったのだろう。

 

 自分が省みないでいるうち、妻は病気にかかり、娘は玉座に据えられた。こうなると、主体性と人生経験に乏しい彼には、立ち尽くしていることしかできなかった。それを忘れるがために、唯一の趣味である象牙細工の収集に浪費を重ねる。金はあるのだ。彼に優しかった妻の親族と、揺りかごの娘を売って得たも同然の大金が。

 

 とても手元に蓄える気になどなれない。せめて、美しいものに姿を変えさせねばやりきれなかった。そんな心の奥底を。

 

 ユルゲン・オファー・フォン・ペクニッツはようやく気がついた。そんな自分には何も言わない妻と幼い娘が、最大の被害者だった。彼女たちは言わないのではなく、言えないのだ。彼の行動を自分のせいだと思っているから。その身に流れる、ゴールデンバウムの血の末流。それが原因なのだと。

 

 確かに自分には価値などない。妻と娘を守ることもせず、愛することも怠っていた。彼は、妻と娘を抱きしめて号泣し、詫びた。

 

「遅くなってしまってすまない。だがまだ間にあう。

 命がある限り、人は変わっていけると私は学んだ。

 この子を守らなくてはならないと、ようやく気がついたんだ。

 カザリンは小さな黄金樹だ。踏みにじられ、薪として火にくべられてしまうかもれない。

 だが、美しく薫り高い花となれば、そうすることを躊躇するだろう。

 誰からも愛され、敬意を持たれるような子に育てよう。私にしてやれるのはただそれだけだ」

 

 エレオノーラは、涙を一筋こぼしてから、美しい笑みを浮かべて頷いた。

 

「あなたのおっしゃるとおりです。

 この子の人生は、この子にしか切り拓いていくことはできません。

 私たちは、その道標となりましょう。みなさまのお力をお借りして、

 この子を幸せにしてあげたいの」

 

 ペクニッツ家の小さくも深刻な揉め事は、すんでで回避され、家族としての再生をも果たした。エレオノーラは、ヒルダらにますます感謝するようになり、夫も娘もそれに倣う。ついに、アレク主催の園遊会に、ペクニッツ家からの出席の返事が届いた。十歳になった令嬢のカザリン・ケートヘンがその出席者である。彼女だけではない。アレクやカザリンと同じ年頃の貴族の子弟らもである。

 

 これは、新王朝と旧王朝の貴族との関係の改善の証だった。この七年、安定した治世を行い、航路の治安も保たれた。往復三ヶ月の旅を子どもにさせても大丈夫だと、そういう判断を貴族らが下せるまでになったのである。

 

 時は無慈悲だが、公平な存在でもある。継続は力であり、伝統は信用になる。ヒルダは時間を味方にした。自らの才にあわせて、飛翔ではなく徒歩の速度で進みだした。

 

 それこそが、激動に疲れていた多くの人々が最も欲していたものだった。


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