ところで、アンネローゼの提案も全てに実りがあったわけではない。恩赦されて名乗り出てきた、リヒテンラーデ候の一門の爵位を持つものは一人もいなかった。貴族への暴行や略奪が横行する中、流刑にされた貴族の子女がどういう目に遭わされるか、想像力が一グラムでもあればわかる。ラインハルトにはわかっていたはずだ。
そしてオーベルシュタインにも。特権と後ろ盾を失くし、貴族として育てられたあらゆる年齢の女性と九歳以下の少年。この世でもっとも弱い存在だっただろう。書面上から罪を消しただけで、誰一人救えなかった。二人の高貴な女性も、七人の元帥も悄然と肩を落とした。
これはドライアイスの剣、オーベルシュタインがラインハルトの怒りに便乗した復讐だったのかもしれない。障害者を差別したゴールデンバウム王朝、その柱石を打ち砕く最大のチャンスでもあった。永久氷河をいただいた活火山のように、彼の中には現状への不満と怨み、平等な社会への希求が熱い渦を巻いていたのだろうか。
いまや誰にも知れぬ。しかし、これは彼の謀略の中では悪手と言えただろう。アントン・フェルナー中将はそう思うのだ。
大貴族らが持っていた、さまざまなノウハウも散逸してしまった。なかでも、記されることなく、目に見えぬものが重要で、皇族としての子育てと教育などがそれである。門閥貴族から選ばれた学友、その中で育まれていく次代の臣下たち。未来の皇帝の
皇子にとっては、絶対者となる自分は、対等な存在を持てないということを悟らされる。皆が臣下としてへりくだるなか、自分を冷静に保ち、人を見る目を養い、孤独に耐えることを学ぶのだ。それを、養育係の大人がそれとなく査定、矯正する。この皇子は帝位にふさわしいか。人並みの知能と性格を備えた凡君でいいのだ。暴君や暗君になりうる、激しく抑制を欠いた性格でなければ。
近年、成功例が少ないことは認めなくてはならないが、それ以前の問題もある。皇帝の血を引く者は大公アレクのみ。友達となりうる者も長らく一人しかいなかった。つまり、選択の余地もなく、失敗は許されず、フェリックスに重荷を背負わせるということだ。重荷を分かつことで、安定化を図ってきたローエングラム王朝。帝政を続けるなら、そろそろ次世代にも考慮を開始せねばならぬ。いい潮時だと。
この薄氷の平和を保つには、貴族を敵と見なしていた軍部の考え方こそ改めねばならない。少なくなった皇太后らの親戚、これから育っていく
ビッテンフェルトが彼から聞いた言葉はそれだけではなかった。フェザーンに遷都をしたラインハルトを、ヤン・ウェンリーは行動の天才の発想だと感嘆したという。一方、ユリアン・ミンツはオスカー・フォン・ロイエンタールを守成の人と評したそうだ。彼は、三代目あたりの皇帝としてはまことに優れた人物で、その彼ならばオーディーンからの遷都は行わなかっただろうと。
それを聞いたビッテンフェルトは、思わずオレンジ色の頭を掻き毟った。
「あの連中、魔術師というより
ヒルダらに求められているのは、この守成である。主要星系を隔てる距離は、統治年数が経つにつれ、頭の痛い問題となっていた。確かに千光年単位の跳躍航行技術は必要だ。その開発には途方もない費用がかかるだろう。新帝国の国家プロジェクトとして、省庁を横断して立ちあげたらどうだろうか。再就職の受け皿にもなるかもしれない。
ビッテンフェルトがそういう発想を書面で提出するようになるまで、それはもう本人も周囲もみんなが努力したのである。ムライの見えざる炭素クリスタルの定規も、何本交換したかわからないが、メックリンガーのコーヒーセットは何客おじゃんになったことだろう。
愛用の優美なデザインの名陶は、一月後にはビッテンフェルトの前から姿を消し、旧同盟軍御用達の強化磁器の安価なものに替わった。簡素なデザインのコーヒーマグには、一種の用の美があった。コーヒーがたっぷり入るし、冷めにくくていい。そのうち、粉から淹れる珈琲ではなく、粉を溶かす新領土のコーヒーが出されるようになったが、これが思いのほか旨いのである。不慣れな従卒に淹れられたものよりもずっと。
嫌味が嫌味にならない新領土の企業努力に、統帥本部総長も降参するしかなかった。以来、自身のコーヒーもカップも新領土のものに変えてしまったぐらいだ。
それはさておき、元帥直々の上申である。メックリンガーは、自身の上官である軍務尚書の決裁を仰いだ。
「ビッテンフェルト元帥の提案ですが、いかがでしょうか、ミッターマイヤー軍務尚書」
「なんだか、感無量だな……」
更生した問題児の卒業を前にした、担任と学年主任のような会話になってしまったが、二人の気分はそれに近いものであった。
「ええ、内容はまだまだ大掴みですが、発想の方向としては上出来です。
技術的な難易度もさることながら、航法計算や国防上の問題も加味されている。
この平和の中、帝国軍の士気と練度を保つためには、こういった発想は重要でしょう」
「ああ、宇宙統一の平和の中でしか、研究できぬものだろう。
半世紀以上の時を必要とするかもしれんが、これは検討する価値があるだろう。
こういった地道な内容こそ、アイゼナッハが向いていると思わないか。
ペクニッツ家の侍医のヒメネスが、ワーレンに告げたそうなのだが、
彼の沈黙は場面
軍服に囲まれた緊張状態が良くないのではないか、家庭で軍服を脱ぐと、
饒舌ではないが、きちんと家族での会話があるということを彼の夫人から聞いたそうだ」
メックリンガーは瞬きをした。
「そんな症状があるのですか?」
「ああ、珍しいものではないそうだ。
俺の親父もそうなのだが、医者の白衣を見ると血圧が上がる人間がいるだろう」
ミッターマイヤーの父の話に、メックリンガーは苦笑した。
「はは、どこも似たようなものですな。
私の父も同様です。血液検査の日は、行きたくないと大騒ぎでして」
「卿の家もそうか。男の方が度胸がないのかも知れんな。そういうものだな、要するに。
緊張によってうまく言葉が出なくなるから、回避するために沈黙する。
それでは仕事にならんから、指示を簡略化した問題解決法なのではないかとな。
本人も周囲も納得して折り合いもついているが、
他の職業のほうが適性が高いかもしれませんとのことだ」
メックリンガーは口髯を撫で付けた。確かに思い当たる点が多々ある。
「いやはや、知らずにいれば個性だが、ストレスによる症状かもしれないということですか。
旧王朝が覆い隠していた物は、大きな損失を与えていたわけだ」
「ああ」
ミッターマイヤーは短く答えた。メルカルトのハンター行政官からミュラーを経由して、もたらされた保健体育の教科書は、彼ら夫妻に産婦人科の門をくぐらせることになった。性教育とは生殖のメカニズムを知ることである。その知識は、避妊にも子沢山にも、双方向に使えるものだ。結婚して三年以上、特に避妊をしないのに子どもに恵まれなければ、不妊症として治療が必要。そう書かれていた。
ミッターマイヤー夫妻は、結婚してから十年目になっていた。七年前から治療の対象だったのだ。様々な検査が行われ、双方ともに問題はない。胸を撫で下ろした夫妻に、フェザーンの医師は逆に難しい顔をして告げた。
夫妻のいずれにも問題がないのに、子どもに恵まれない場合もあるということを、二人は想像だにしていなかった。不妊の五パーセントは原因不明。これは新領土の進んだ医学でも、いまだに解明しきれないものだった。ひととおりの療法を行ったが、ミッターマイヤー夫妻は実子に恵まれていない。子は天からの授かりものという格言は、まだまだ廃れることなく現役である。
メックリンガー夫妻は、新領土の医療の恩恵を受けた口だ。高齢出産に属していたマグダレーナは、母子ともに健康に過ごしている。妊娠中の検査で、良からぬ兆候が発見されて、食事から塩の味がしなくなった日々もあったが。
「とにかく、新領土の医療も宇宙統一の恩恵だな。
そのおかげで、今度の園遊会の賓客は、母親を失わずにすんだのだ。先々帝だった方でもある。
ビッテンフェルト元帥に特に念入りな警備をと、重ねて指示してくれ」
「あの時の赤子が、侍医と侍女と三人で、オーディーンから旅をするようになるとは、
子どもの成長は早いものです。あの時から十年ですか。本当に早いものだ」
メックリンガーの慨嘆に、ミッターマイヤーも頷いた。子を持って知る、乳児を帝位に据えたことへの後悔。即位の時も、退位の時も、泣いていたあの赤子はどんな少女になったのだろうか。その答えを、ミッターマイヤーは程なく知ることになった。
ビッテンフェルトが困惑しきった顔で、第一報を入れてきたのだ。
「俺は今まで、貴族どもの馬鹿息子に馬鹿娘を軽蔑していた。
あれは間違いだった。十歳でも姫君は姫君なんだな……」
「おい、まったく報告になっておらんぞ。卿らしくもない、どうしたんだ」
「いやもう、下賤の男が口をきいて申し訳ない、畏れ多いとなるような令嬢だ。
ミッターマイヤー元帥、悪いことは言わん。フェリックスを会わせんほうがいい。
あれはまずい。アレク殿下にも会わせんほうがいいと思うがなあ……」
「また無茶を言うものだな。彼女は主賓の一人だぞ。なにがあった」
ビッテンフェルトは、オレンジ色の髪を乱暴にかき回した。
「グリューネワルト大公妃殿下を、そのまんま十歳にして、
更にたおやかにした存在だと言えば近いと思う」
彼らしくもない表現に、灰色の目が疑念交じりの視線を突き刺す。
「ああもう、俺に言えるのはそれだけだ。
どのみち三日後の園遊会に出席するのだろう。その時に卿自身が見て判断してくれ。
俺はもう知らん。関わりたくない」
ぶつ切りにされた超光速通信に、ミッターマイヤーは唖然とした。フェルナーの視線は、上官と暗転した通信画面を往復した。
「何があったのでしょうか。カザリン嬢の悪い評判など、聞いたこともありませんが。
むしろ、賢くて愛らしい、母上によく似た姫君と、
オーディーンの貴族の女性たちにも可愛がられていると伺っております」
「さすがに卿は耳が早いな。しかし、その母上というのはどのような女性なんだ。
皇太后陛下と同い年だとは聞いているが……」
「リンデンバウム伯爵家は、夫婦円満な子沢山でしたからね。
兄が二人、姉が二人、彼女は五人きょうだいの末っ子だったと思います。
先代のペクニッツ子爵はリンデンバウム伯爵の友人で、
末娘を特に気に入り、早いうちから息子と婚約させたそうで。
ですから、彼女は社交界にはほとんど顔を出していません」
「ほう、随分と詳しいな」
「それはまあ、小官も貴族連合の末端ではありましたのでね。
リヒテンラーデ一門の情報収集ぐらいはしたのです。
あの家は引き入れたいが、いかんともしがたいのは承知してましたがね。
当主はリヒテンラーデ候の従弟。かなり歳が離れてまして、息子同然に目を掛けられていた」
「なるほど、それでは無理だろうよ」
「ええ、ブラウンシュヴァイク公やリッテンハイム候のライバルでしたしね。
息子二人はオトフリート五世の皇孫です。存命なら、カザリン嬢より玉座に近い。
そうでなくとも、エルウィン・ヨーゼフ二世を守る立場だ。彼らにしてみればいとこの子です」
ミッターマイヤーは、難しい顔になった。
「名門中の名門だったのだな」
「はい。そんな名門の三姉妹が、珍しいことにほとんど社交界に顔を出していないんです。
フリードリヒ四世の目にとまることを恐れたのだ、との噂もありました。
長女と二女は、グリューネワルト大公妃殿下の二つ上と下でしたからね」
「いや、しかし姪だろう!?」
慌てたミッターマイヤーにフェルナーは首を振った。
「歴代の皇帝には、あまり珍しくありませんからね。
皇妹と言っても、フリードリヒ四世の異母妹です。許容範囲内ですよ。
それでも、全員結構な名門に嫁げたわけですから、おわかりでしょう」
ミッターマイヤーはげんなりした。
「ああ、そうなのか。さぞや美人だったのだろうな」
「恐らくは。兄二人も聡明な美男子として評判だったそうです。
リンデンバウムの次代は安泰だ、さすがは大帝より名を賜った名門と皇妹殿下夫妻の子だと。
二人とも先帝陛下より十歳以上は年長でしたから、
陛下が社交の場に出た頃には、結婚していた計算になります。
独身者の多い夜会には、出席していなかったのでしょう」
つまり、若いラインハルトや、軍人のミッターマイヤーが面識を持つこともない相手だったわけだ。兄らと年齢が近く、母が伯爵家の出であった親友ならば知っていたのかもしれないが。
「そうか、しかしワーレンやアイゼナッハとの交流はないのだろうか」
フェルナーは首を振った。
「仮にも公爵家の幼い令嬢を、親族や親しい友人でもない男性の目に晒すことなどありえません。
社交界にデビューするまでは、娘は母と親族と領民の女性に育てられるのです。
お嬢様学校もその延長ですよ。しかるべき紹介がないと入学できないのです。
皇太后陛下の方が、貴族としては特異な育ち方をなさっています」
「わけがわからんな。新領土の教育の方が、よほどわかりやすい」
「ええ、まったくです。小官も平民出でしたから、貴族に仕えて知った風習です。
新領土では、ほとんどの分野の職業に女性が進出していますが、帝国はそうではかった。
そして、まだああはなっておりません」
蜂蜜色の頭が頷く。
「しかし、こちらにも女性が進出している職業はあるでしょう。
教師に看護婦に助産婦。そして産婦人科医と小児科医ですね。
要するに、貴族が娘を育てるために、帝国騎士や平民の女性らを援助して、
そういう職に就けたのが始まりなわけです」
「なぜだ」
「いくつであっても娘を男に任せるわけにはいかないんですよ。夫を得るまでは。
結婚も家門の繁栄のために、厳密なルールがあるんです。
先帝陛下と皇太后陛下は、銀河帝国で最初の、
自由な恋愛結婚をなさった皇帝夫妻かもしれません」
灰色の目がまん丸になった。そうすると、若々しい軍務尚書はまるで少年にも見える。
「いや、しかし、侍女を皇后にしたマクシミリアン晴眼帝もいただろう」
「いいえ、皇帝の侍女は結婚相手と同義です。世話をするのは昼だけではありませんからね。
ジークリンデ皇后も、とある候爵家の令嬢です。
側室腹でしたし、皇帝の敵の注意を引かぬよう、母の実家の名を名乗るようにしたのだそうで」
今度は灰色の下の口もまん丸に開いた。
「こういう、見えないしがらみはまだまだ多いのでしょう。
ミンツ元中尉の提案を容れると、結局バーラト政府に近い国家になってゆく。
帝政を重視するならば、帝国貴族の慣習にも配慮せざるをえない。
ミッターマイヤーは、まじまじと軍務省官房長を見つめた。
「卿には歴史と政治のセンスがあるな。
ともあれ、カザリン嬢が平穏に帰ってくれることを祈ろう」
「そうですね」
フェルナーは相槌を打ったが、内心ではかなり危惧していた。あの粗野、もとい豪放磊落なビッテンフェルト元帥が、恐れ入るような相手である。これまでフェリックスしか友達がいない、大公アレクにとっての劇薬にならないか。
彼の恐れは的中した。