銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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So What Again.後編

 アッテンボローは、もつれた毛糸のような鉄灰色の髪をかきながら自問した。無理そうだよなあ。あの皇太后陛下には、うちの姉貴らのように、少ない予算内で可愛い服や靴を探して、半日繁華街を彷徨するような経験なんてないだろう。マリーンドルフ伯爵令嬢が着ていたパンツスーツは、帝国内で市販されてはいなかった。出入りの仕立屋のオーダーメイドで、それ一着を着たきり雀というわけではない。服一着とってみても、貴族と平民との経済感覚の差は大きい。

 

「そういえば経済は戦争だと、キャゼルヌ先輩は以前言いましたっけね」

 

「経済戦争の恐ろしいところはな、庶民の台所を直撃することだ。

 防戦してくれる前線なんて存在しない。真っ先にやられるのが旧帝国領の元下層階級。

 次が旧同盟の低所得者層。飢えた連中が、右と左で暴動を起こしてみろ」

 

「退役軍人は巷にあふれてるし、同盟人の大半は兵役経験者ですからね。

 いくら宇宙で精強を誇ろうとも、船に乗り込む前に圧殺されちゃいますよ」

 

「そのとおりさ。人間なんて、拳の一撃、投石の一個でも死ぬ。

 そして、一週間飲み食いができなくてもな。

 ここまで帝国は軍事一色に金を注ぎ込んできたが、本当に金が要るのは民生だ。

 長征一万光年の十六万人から、二百年かけてここまで蓄積した、

 旧同盟のナショナルミニマムをかなり甘く見ているようだが」

 

 全ての子どもに初等中等教育を。困窮世帯には生活の保障を。

同盟末期には、十全に機能していたとは言いがたい。ユリアン・ミンツが対象となったトラバース法など、その最たるものだ。小中学生に、養育費という名の借金を負わせる。保護者となる軍人が、高給取りの独身者でもないかぎり、返還するのは実質的に不可能であった。職業選択の自由の侵害で、悪法も悪法だ。

 

 だが、そんな法でも、戦争孤児の義務教育と生活は担保されたのである。荒すぎる安全網であり、網の目から零れてしまう子どもも少なくはなかったが。

 

 だが、帝国はどうであろうか。帝国の貴族階級は統治者であり、資本家、知識者階級でもあった。

そのほとんどを排除したが、貴族に替わる統治機構ができているのか。戦時という状況下では許容されても、平時になると受け入れられない事は多々ある。

 

 キャゼルヌの示唆に、アッテンボローは考え込んだ。

 

「そうか、だからヤン先輩は互いに遠くで幸せになればいいって考えだったんだ」

 

「ああ。あっちは五百年弱、こっちは二百年。ほぼ閉鎖した経済圏でやってきた。

 旧帝国と旧同盟の自由貿易なんて危険極まりない。

 関税や為替のような障壁で保護しないと、帝国本土のほうがまずいことになる。

 俺が考え付くだけで、十や二十は火種があるな。

 なのに、政戦について両面的思考ができる人間が死んでしまっている」

 

 キャゼルヌは、ふと溜息を吐くと、長い付き合いの後輩に自分の考えを明かした。

 

「俺が、ヤン夫人をトップに据えるのに賛成したのは、

 彼女はヤンの副官として、その仕事を見ていたからでもあるんだ。

 下から回ってくる決裁文書も、あいつが部下に出す指示も、彼女を通っていた。

 幕僚会議にも出席し、議事録を作成してくれたのは彼女だった。

 あいつがそこまで考えていたわけはないだろうが、歴史好きの端くれらしく、

 きちんと文書を残すことにはこだわったよな。そして、考えを言葉で語ることもだよ。

 では、あの皇太后陛下はどうだろうか」

 

 アッテンボローは息を呑んだ。給料泥棒と揶揄(やゆ)されていた、怠け者の黒髪の先輩。他人任せにできる仕事は、適当に分配して、自分で抱え込んだりはしなかった。特に、事務関係は副官と事務監まかせで、彼はサイン製造機と化していた。

 

 だから彼の死後も、給与や補給や兵站が滞ることはなかった。戦闘は、軍隊のほんの一部分にすぎない。一回の戦闘には百倍する訓練が必要であり、それを行う人間の衣食住と給与がついてまわる。

 

 それを限りなく壮大に、緻密に計画、実施できた皇帝ラインハルトに、ヤンは戦略の天才という絶賛を惜しまなかった。戦略とは戦いを略す、という意味でもある。戦わずして勝つ、あるいは戦う前に勝負をつけ、楽に勝つ。

 

 この点において、ヤン・ウェンリーは皇帝ラインハルトに絶対的に敵わなかった。相手の思考がわかる。取ってくる手段も読める。だが、それを戦略レベルで防ぐ権力も手段もない。

 

 もしもその権力を得てしまったら、彼は第二のルドルフになる。自由惑星同盟という『国家』を守るために、市民に圧政を押し付けるのは本末転倒だ。個人の権利と、思想と言論の自由を認める、民主共和制という『考え方』こそが尊い。だからヤンはハイネセンには戻らず、エル・ファシル政府に所属したのだ。

 

「彼女は、皇帝ラインハルトの相談役だったな。

 バーミリオンの最中に、双璧を動かしてハイネセンを抑えた。

 そして、ヨブ・トリューニヒトに停戦命令を出させた。それはお見事だったよ。

 まさに間一髪だったからな。相手がヤンじゃなきゃ、あんな命令に従わなかった。

 あいつの性格まで見切ったのは大したもんさ」

 

 アッテンボローは不承不承に頷いた。キャゼルヌは不服そうな後輩に、にやりと笑いかける。人事担当の経験も豊富な彼は、その側面から才女の皇太后に査定のメスを入れた。

 

「だが、彼女はグリーンヒル少佐のような意味で働いているだろうか。

 密かに何ヶ月も産休とって、仕事に穴を開けるようじゃあ、旧同盟軍ならクビだぞ」

 

 そう言うと、キャゼルヌは親指を立てて握った右手を、首の前で横一文字に動かした。彼の動作に、そばかすの頬の血色が悪くなる。

 

「こっちでそんな真似をやらかしたら、同僚にぼろくそに言われる。

 それはな、対等な仕事仲間だからだ。何も言われず、仕事に穴も開いていないなら、

 要はお飾り、皇帝陛下のお気に入りで、周囲もそう思っていたということになる。

 皇帝に進言したり、相談に乗ったりしても、実権は大してなかったと見るね。

 引き継ぎもせずに辞めて結婚したのに、後任に支障もなさそうじゃないか」

 

 アッテンボローは呆気にとられてしまった。だが、冷静に考えれば大いに頷ける意見だった。

 

「言われてみれば、キャゼルヌ事務監の言うとおりですよ。

 グリーンヒル少佐がそんなに欠勤していたら、ヤン司令官は書類の山に潰されていました」

 

「欠勤させる甲斐性が、あいつにあれば良かったんだがなあ」

 

 とんでもないことを言い出す人事担当者だったが、後輩も同意した。実に見ていて歯痒いふたりだったのだ。

 

「いや、まったく。まあ、それはさておき、彼女に地位や権力があったら、

 自分の判断で双璧に頼むのではなく、命令なり上申なりすればよかったんだ。

 新領土戦役だって、勃発前に手を打てたでしょう。

 職権でもって、公式に憲兵や査閲担当に調査させればいい」

 

「おまえの言うとおりさ。あくまでも皇帝ラインハルトの私設秘書みたいなものだ。

 社会の仕組みがまるっきり違うんだから、一概には比べられんがね。

 その中から出現したってのは確かに凄いことは間違いない。

 しかし、出自は貴族のお嬢様だし、勝ち馬の尻にいち早く乗った。今まで苦労は本物じゃない。

 圧倒的に不利な状況で上官を支え続け、父親のクーデターに引導を渡したり、

 人を殺めてでも夫を救ったりはしていないだろう。

 しかし、仕事なんてやれば覚える。優秀な人間なら二、三か月でものにはなる。

 だが、管理職の役割にはさらに上があるんだ。ヤン夫人も言っていただろう」

 

「そうでしたね。ヤン先輩の指示に従ってきたけれど、その指示を考えることこそが難しいって」

 

「そのとおりさ。仕事を作るのが仕事なんだ、管理職ってのはな。

 それをうまく部下に割り振って、全体の統括をして責任を取ることだ。

 彼女は皇帝だけの部下だっただろう。

 命令や献策は一対一のやりとりで、他の人間に揉まれていない。

 そんな女性が、武勲を上げた年上の男を使うってのは非常に難しい。

 無理難題さね。最初の頃は、皇帝ラインハルトの遺訓やら威光が効くだろう。

 だが、十年、二十年後はどうだ。

 あの赤ん坊が、どんな大人になるかはわからんからな」

 

 先輩の指摘に、後輩はさらに髪をかき混ぜた。癖のある髪が鳥の巣のような有様になったが、彼の胸中はそれ以上に複雑だった。

 

「ああ、あの金髪美形は働き者だったでしょうからね。

 オーベルシュタイン元帥は、ナンバー2不要論者だったそうですが、

 こんなことになったんじゃなあ。

 軍部のナンバー2は、彼だったそうじゃないですか。

 それにしても先輩、随分あちらに対して親切ですね」

 

 キャゼルヌの辛口の分析は、相手を理解していればこそのものだった。

 

「俺は子連れの女性には優しくする主義なんだよ。

 まして、乳飲み子を抱えた未亡人には余計にな」

 

「ほんと、確かにそうなんですよね。

 ヤン先輩の妻と弟子に、地位を押し付けた俺らに言うべき資格はありませんが」

 

 皇太后という殻を外せば、ヒルダは思いがけない妊娠によって結婚し、子どもが生まれたばかりなのに、夫に先立たれたうら若い女性でしかない。

 

「だが、ヤンの言葉を借りるなら、それでもあの二人は自分の意志で選んだんだ。

 どんなに少ない選択肢からであってもな。しかし、あの赤ん坊には選択肢などないのさ。

 帝政を続けるのなら、玉座に立たない自由などあり得ない。

 かわいそうな話だが、父親だって幼児と乳児を利用したからな」

 

 アッテンボローは溜息と共に言葉を吐き出した。

 

「因果は巡るですか」

 

「そういう言い方はなんだが、夫の負債を妻子が清算するようなもんだ。

 正直、これ以上内輪もめしてもらっちゃ困るんだよ。

 ハイネセンの九月一日事件の再来になったら、泥沼の内乱になる。

 十回の会戦よりも、多くの人が死ぬぞ。弱者から順にな」

 

「確かにね。俺も肝に銘じておきますよ。先輩こそ、選挙に出馬しなくてよかったんですか」

 

 キャゼルヌの政治経済への見識と、行政手腕こそ政府に必要不可欠なものだ。

 

「政治家は落選したら終わりだからな。裏方のほうが長く関われる。

 バーラトの新政府に再就職させてもらうさ」

 

 後年、バーラト星系共和自治政府の最初にして最高の事務総長といわれた、アレックス・キャゼルヌの意志表明であった。彼はすでに選挙後を見据えていたのだ。

 

「そしておそらく圧勝するだろうが、ヤン夫人が首班となり、

 民主共和政権を運営することが重要なんだ。理想に近い形でな。

 彼女は、皇太后ヒルダの先行者となりうる。

 年齢、性格、天才の夫を亡くした未亡人という点はそっくりだ。

 よき先輩がいれば、後輩はそれに倣うもんさ」

 

 そう言うと、アッテンボローも頭の上がらぬ先輩は、それはそれは悪い笑みを浮かべた。黒髪の魔術師が、黒い魔道士と心中で呼んだ策略家が、久方ぶりに蠢動を開始した。

 

「とりあえず、目標は八年後、国家主席の任期上限時の改選だな。

 その時までに、ユリアンを政治にひっぱり出さなくてもいい体制を作る」

 

「そりゃまた、なぜですか」

 

「今度こそ、あの子に職業選択の自由を与えるべきだ。

 そして、共和民主制の英雄の息子が、自分の選んだ生を歩むのを見て、

 専制君主制の英雄の妻と息子は、どう感じるだろうなあ」

 

 喉の奥で笑い声を発するのは、本当に止めていただきたい。アッテンボローは切に願い、そして心の底から感謝した。彼が銀河のこちら側に生まれ、味方であったことに。

 

「キャゼルヌ先輩って、悪辣(あくらつ)だったんですね……」

 

 キャゼルヌは、後輩を鼻で笑ってから続けて言った。

 

「だからおまえは甘いんだ。ヤンはあからさまに口には出さなかっただけさ。

 なにも、戦場でドンパチやるばかりが戦いじゃない。

 これから、長い長い政争が始まる。あちらは、生まれたばかりの若い国で、首脳部も皆若い。

 武力的に負けた国家が、文化的政治的な勝者となった例なんて、枚挙に(いとま)がないんだとさ。

 さて、後世の歴史家はどちらを真の勝者と評するかな」

  

 そんな言い方をする人物は、アッテンボローとキャゼルヌの先輩で後輩だった唯ひとり。明かされたのは、ヤン・ウェンリー未完の独立交響曲の断片だった。

 

 彼と一つ年の差を縮めた後輩は、青灰色の瞳を見開いてから、黒い魔道士と同じ笑みを浮かべた。そういえば、未完の曲を弟子が完成させた例もあった。神の器(アマデウス)と称された師匠には到底及ばないものとなっても、完成させることが重要なのだ。だからこそ、天才の遺した構想が後世に評される。

 

 彼に及ばずとも、第二、第三の楽章を奏でていく。出来栄えに文句があるなら、あの世に行ってから聞くとしようではないか。

 

 無論、返す答えは決まっている。

 

『それがどうした?』


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