銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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Daybreak Heartbreak

 そのアレクが、カザリンには一目で惹かれた。それは彼女の美貌だけではなく、全身から醸し出される、いかにも優雅で優しげな雰囲気によるものだった。柔らかに微笑みながら、大人たちが感嘆するほど落ち着いて園遊会に臨み、列席者に挨拶をしてまわった。新領土とバーラト政府の客人も、これには目を瞠りっぱなしにした。いつも謹直なムライ駐留事務所長さえ、不器用に目じりを下げて、挨拶に応じたほどだ。

 

「はじめまして、ヘル・ムライ。

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツにございます」

 

「こちらこそはじめましてですな、フロイライン・ペクニッツ。

 ヤン主席からも、あなたによろしくとの伝言があります」

 

 そして、ヤン・ウェンリーからも。ムライは胸中で呟いた。閣下、あなたが心配をなさっていたあの赤ん坊は、もはや立派な姫君だ。あんなに悲しげな目をして、きっと自らの事を知っている。だがそれに立ち向かおうとしている。絹と宝石の戦場に、きっと力強く羽ばたいていくでしょう。

 

 そして、その隠せぬ寂寥。なんとかしてあげたいと、七歳の少年にさえ思わせる瞳のせいだった。毎朝のカザリンの挨拶は、アレクにとって楽しみでたまらなかった。七歳の五月の朝は、いつも以上の輝きに溢れていた。だが、緊張してろくに口が利けなくなってしまう。この年齢の四歳近い差は大きい。小学校一年生と五年生だ。滞在して二日過ぎ、三日過ぎ、明後日には帰りの船に乗って行ってしまう。

 

 ついに、アレクは意を決した。午後のお茶の席で頬を真っ赤に染めて、かちんこちんに緊張して、アレクはカザリンに問いかけた。七年間の人生で、一番の勇気を振り絞って。

 

「フロイライン・ペクニッツ、あの、オーディーンにもうお帰りになってしまうんですか」

 

「はい、慌ただしくてたいへんな失礼をいたしますが、どうかご容赦くださいませ。

 やはり、オーディーンの母が心配なのです。

 明後日に出発しても、オーディーンへの到着は一月以上は後ですから」

 

「ずっと、フェザーンにいてくれればいいのに……」

 

 カザリンは微笑んだ。エレオノーラが恒星間旅行ができるような病状ではない事を知っている、アレクの精一杯のわがままだとわかったから。お母さんをフェザーンに呼べばいいと言わないのがその証拠。

 

「ありがとうございます、大公(プリンツ)アレク殿下。もったいないお言葉です。

 母は、大公殿下と皇太后陛下、大公妃殿下への感謝を、一瞬たりとも忘れてはおりません。

 そして、わたくしも。四歳の時に失うはずだった母が、今も生きていてくれるのです。

 これ以上の喜びはありません」

 

 これに、思わずアレクの本音が転がり出した。

 

「ぼくが、好きですって言うのよりも?」

 

 様子を窺っていたヒルダとヒメネス医師は、一気に緊張した。

 

「そのお言葉は光栄に存じます。

 でも、わたくしは殿下からそういう想いをいただくのに、ふさわしい人間ではないのです」  

 

 群青色の瞳が、優しくアレクを見つめる。

 

「どうして……」

 

「わたくしが、先帝陛下の前の皇帝だったからです。

 大公殿下は、いずれ皇帝に即位されるのでしょう。

 帝位というものから見れば、わたくしは殿下の『祖母』にあたります。

 おばあちゃんと孫には、それ以外の関係は許されないのです」

 

 オーディーンからの旅路の間、カザリンは母の言葉を繰り返し反芻(はんすう)し、考え抜いた。自分の立場とそれが与える影響を。自分に流れる八分の一のゴールデンバウムの血は、宇宙の人々の憎悪の焦点だった。

 

 かくて、アレクの初恋は、言葉にした瞬間に粉砕されてしまった。幼年期の終わりを告げる、黄昏に沈んだ王朝の(すえ)からの言葉。

 

「ぼくのこと、嫌いなの?」

 

「いいえ、わたくしはこの世で最も殿下に感謝を捧げる身です。

 殿下のお父上は、わたくしに担えぬ玉座を継いでくださいました。

 それを殿下が受け継いで下さるのですから。

 殿下はもうひとりのわたくし。どうして嫌うことなどできましょう」

 

 それは、アレクに刻まれた最初の『なぜ?』彼は生涯、その言葉と向き合う事になる。なぜ、好きな子に好きと嫌い以外の返事が返されるのか。なぜ、自分は皇帝になるのか。

 

「よくわからないけど、駄目なの?」

 

「わたくしは、終生あなたに忠誠を誓いましょう。

 あなたが、先帝陛下や皇太后陛下のような統治者でいらっしゃるかぎり」

 

 言葉を切って、カザリンは立ち上がった。ふだんは、ほとんど音を立てぬ流麗な動作の少女が、始めてさやさやとスカートの布地を鳴らした。

 

「もったいないお言葉をありがとうございました。

 そろそろ、帰りの手配をいたさねばなりません。

 お先に失礼をさせていただきます」

 

 そして、最上級の貴人に対する礼を執った。かつて、ヒルダは義姉のそれの優美さに、驚くしかなかったものだが、上には上がいるのだと、思い知らされるような一礼であった。 アレクも見惚れることしかできなかった。母子が何も言えぬうちに、カザリンは滑らかに踵を返すと、静かに歩み去った。

 

 微かな靴音に我に返ったヒメネスが、蹌踉(そうろう)と後を追う。それらの小さな音が、いかにカザリンが動揺したかを表していた。貴夫人は、どんな時でも礼儀を守り、慌ててはいけませんと、母に躾けられたあの子が。いまや家族同然の、小さな患者に寄り添い、医師としての役割を果たすときだ。

 

 部屋に戻ると、少女は彼女に抱きつき、静かに涙を流した。

 

「ごめんなさい、ホアナ先生。もし、わたくしが処罰されたら、先生はお逃げになって」

 

「まさか、そんなことはありませんよ」

 

「いいえ、不敬罪、大逆罪に問われても仕方のないことを言いました。

 でも、ああするしかありませんでした。

 カザリン・ケートヘン・フォン・ゴールデンバウムの名において、

 旧同盟を滅ぼしているのです。

 新領土を統治なさっている白き手の皇太后陛下と、

 その後継者にふさわしい身ではありません」

 

「カザリンさま……!」

 

 ヒメネスも少女をかき抱いた。

 

「あなたのせいではありません。あなたに罪などないのです」

 

「わたくしのお母さまのご家族もそうでしたわ」

 

 小さな声に、ヒメネスは愕然とカザリンの顔を見詰めた。地球時代の天才画家が描いた、智天使のように幼くも美しい顔。ラピスラズリから作られた、金よりも高価なウルトラマリンの瞳を。

 

「この国は、血と名によって人生が定められてしまいます。

 わたくしの祖先がそう決めて、王朝が変わってもそれはそのままです。

 だから、駄目なの」

 

「誰かが、あなたにそんなことを言ったのですか」

 

「いいえ、これはわたくしの考えです。だから、誰も悪くないの。

 ホアナ先生、皇太后陛下にそうお伝えしてくださらないかしら。

 だから、父も母も誰も罰しないでくださいと」

 

 最後は震え声になった。そして、少女はもう一人の母とも言える医師の胸で泣きじゃくった。

 

「そのようなことはさせません。たとえ皇太后陛下であられても。

 でも、深刻にお考えにならなくてもいいのですよ。

 だって、初恋は実らないものと相場が決まっていますもの。

 七歳の男の子が、年上の女の子に振られるなんて当たり前のことです。

 なにより公爵令嬢が、たった四日前に会った相手に(ヤー)と言うなんてありえませんものね。

 お父様がおいでだったら、大公殿下に手袋を投げつけることになって、もっと大騒ぎですよ」

 

 ヒメネスはくすりと笑った。ペクニッツ公爵は、人が変わったように子煩悩な父親になっていた。

 

「大公殿下も、紳士らしいマナーを身につける時期が来ているのですわ。

 だから、そんなに自分を責めてはだめよ。あなたも悪くなんてありません」

 

 小さな肩を抱きしめ、象牙の髪を撫で、ヒメネスは精一杯冗談めかして慰めを口にした。この子を罪を問うならば、罪にならない国に逃げるまでだ。皇宮の門を出てたったの五分のところにある、バーラト星系共和自治政府のフェザーン駐留事務所の門を潜ればいい。か弱いエレオノーラにはできなくとも、自分ならこの子を抱き上げて走れる。

 

 だが、そんなことにはならないだろう。この子は途方もない宝物だ。過去を知り、現在を考え、未来を見とおせる。それは、統治者には必要不可欠だが、その配偶者にも求められる資質だ。あの賢い皇太后陛下が、見逃しなどするはずがない。

 

「無作法な相手にも礼儀を尽くして否と言えたのだから、あなたは正しいわ。

 今頃は、大公殿下がお母様にお叱りを受けていらっしゃると思いますよ」

 

 

 置き去りにされて、青玉色の目に涙を浮かべている息子に、ヒルダは苦笑を浮かべていた。

 

「まったく、誰に似たのかしら。

 あなたは偉いわ。好きな子に好きですって言えたのだもの。

 お父様は、私についぞそんなことはおっしゃらなかったのよ」

 

「でも、だめだって」

 

 ぽろぽろと涙をこぼすアレクの金髪を、ヒルダは撫でた。

 

「それは当然よ。ちょっと気が早すぎるわよ、アレク。

 出合ってたったの四日では、まともな女の子は、『はい(ヤー)』とは言わないのよ」

 

「四日も前から好きなのに?」

 

「それでもたったの四日でしょう。せっかちなところはお父さまに似たのかしら?

 いいこと、あれで『はい』と言ってくれる女の子は、

 あなたを本当の意味では好きになりません。

 アレクサンデルという男の子ではなく、大公アレクだからそう言うだけよ。

 あの子はとてもいい子ね」

 

 母の言葉に、泣きべそをかきながらそれでもアレクは頷いた。

 

「うん、とってもきれいで優しいんだ。歌うみたいにお話ししてくれるし、

 まるでワルツのお手本みたいに歩くの」

 

 ヒルダは眉を上げた。おやおや、いっぱしに惚気てるわ。でもよく見てること。ヒルダも同じように見て、感嘆するやら羨ましいやら、母が健在だったら、こんなことも教えてもらえたのかと思ったものだ。ただし、覚えられるという自信も持てなかった。あんな繊細な動きはできそうにない。

 

「ええ、そうよね。とても素敵な女の子よね。

 ねえ、アレク、今のあなたがふさわしいと思う?

 あなたは三つも年下で、まだまだ何にも知らなくて、ダンスだって習い始めたばかり。

 背だってこんなに小さいんだもの」

 

 カザリンもあまり大柄ではないが、アレクよりも頭一つは背が高い。

 

「背はもっとのびるよ!」

 

「背ばっかり伸びても駄目よ。こことここも伸ばさなくちゃ」

 

 ヒルダは、アレクのおでこと胸を突いた。

 

「たった一回断られたぐらいで、諦めちゃうような子に、

 素敵なお姫様は振り向いてはくれないわ。

 それはフロイライン・ペクニッツでなくても同じよ」

 

 母の言葉に、息子はむきになって言い返した。

 

「じゃあ、ぼくがんばる。フロイライン・ペクニッツじゃなきゃいやだもん。

 いいって言ってくれるまで、好きだって言うし、お勉強も他のこともがんばるから!」

 

 ヒルダは珊瑚礁の海の瞳で、まじまじとアレクを凝視した。

 

「ほんとうに、誰に似たのかしら、あなたは」

 

 

 前向きで粘り強く、そして一途だ。考え方にいい意味での中庸がある。でも、まずは親としての責任は果たさねば。アレクの無作法について謝罪しないといけない。先々帝という重荷にひっそりと耐えていた少女がどんなに思いつめることか。そう思っていたヒルダに、彼女の侍医から伝えられた言葉は、雷撃のようにヒルダを打ち据えた。とても今のアレクに(ヤー)と言ってくれる子ではない。

 

 だが、十年、いや十五年以内に諾と言ってくれるようにしなければ。アレクの教育、新銀河帝国の法制度等の改正、そしてゴールデンバウム王朝の功罪を明らかにすること。むろん、ローエングラム王朝も同様に行わなければ。

 

 アレク自身を、カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツが受け入れてくれるには、それが前提条件。

 

「ああ、でも一目惚れした、大変な高嶺の花を射止めようとするなんて、

 そっちは絶対にヤン主席の影響だわ。もう、お恨みしますわ、ヤン元帥!」

 

 八つ当たりされた黒髪の魔術師だったが、彼ならばこう反論しただろう。

 

『いやいや、とんでもない。子は親を映す鏡といいますよ。

 ならその親は、本物の鏡を見るといいのではないでしょうかね』


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