銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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宇宙暦809年初夏 As Time Goes By
時の翼が越えるもの


 

 皇帝ラインハルトによる宇宙統一がいつか、という疑問の答えは諸説ある。バーラトの和約を主張する者にとっては、宇宙暦799年5月25日。新帝国暦元年6月22日の彼の即位をもって、という者は二番目に多い。

 

 いや、宇宙暦800年2月2日の自由惑星同盟政府の降伏だというのが最大多数派で、宇宙暦801年6月1日のイゼルローン共和政府との講和説を主張するものは少数派である。

 

 それらの説の最初をとるなら十年、最後ならば八年の時が流れた。第二次ヤン政権は残り半年となった。次期改選からは、もう彼女を主席とはできない。バーラト星系共和自治政府の議員の任期は最長一期四年。最大多数派の党首が主席となるのだが、

二期八年を限度としている。

 

 それはフレデリカにも望むところであった。自分は夫の巨大な七光のおかげで今の地位に就いた。

以前の同盟政府の末期があまりにひどすぎたので、何かに手をつければそれで改善になる。

これが、皇太后ヒルデガルドとの苦労の差の皮肉というものだった。

 

 ヨブ・トリューニヒト、ジョアン・レベロとラインハルト・フォン・ローエングラム。

 

 国を売り蛇蝎のごとく嫌われた巧言令色の徒で、帝国の高官に納まって、故国に帰還した厚顔無恥極まりない男。高等弁務官個人の意向におもねり、救国の英雄を謀殺しようとして、暗殺された良心的だが非力な政治家。

 

 反対に、その才能で帝国の停滞を破壊し、宇宙を統一に導いた絶世の美貌の天才。跡を継いだ者が、文句を言われずにすむにはどちらが容易いか。考えるまでもないことである。

 

 だから、政治家としてはまだまだひよっこ、ボロが出ないうちに安定した手腕の者に任せるべきだ。自分の才能を客観視し、手に余ることはできる者に振り分ける。夫だったヤン・ウェンリーの怠け者ぶりも、惚れた欲目で見ればそれなりにいい方法だったので、フレデリカも彼を倣って政権を運営してきた。

 

 事務総長室にはキャゼルヌ、情報管理室にはバグダッシュ、スープの冷めない距離には、先ごろ結婚したユリアンとカリン夫妻、フェザーンにはムライとリンツ、スーン・スールにベルンハルト・フォン・メルカッツという、素晴らしいブレーン達がいる。

 

 教育国家として歩み始めたバーラト星系には、帝国本土からの留学生も増えてきた。第一次ヤン政権の国防長官だったシドニー・シトレは、かつての名校長ぶりを買われて、教育長官に異動し、後任には次官だったダスティー・アッテンボローが就任した。

 

 この七年で、バーラト星系共和自治政府の閣僚人事も様変わりした。第二次ヤン政権で、役職がそのままなのは、主席のフレデリカ、ホアン外務長官、ガードナー財政長官の三名だけだ。ヒメネス厚生長官は、フェザーンのヒメネス医師の伯父で、そのネットワークを買われ、ハイネセンの医師会長から任命されている。

 

 彼は、帝国本土の医療の向上の必要性を痛感していた。帝国で先進医療を受けられるのは上層階級に留まっている。それでも新領土の水準からは一世代は前のものだ。まだ若い女性が、羞恥心と病気への知識がなかったがために、治療の時期を逸して死期を迎えつつある。小児科と精神科の医師で、彼女の家の侍医となった姪が、泣きながら訴えてきたのだ。昨年の晩秋のことだ。大公アレク主催の園遊会から半年と経ってはいなかった。

 

「お気の毒でとても見ていられないわ、伯父さん。

 なんとか治す、いいえ、あと二、三年の延命でいい。

 なにか方法はないのかしら。もう、今の薬は、がん細胞が抵抗性を示して効かない。

 白血球が減少しすぎたから中断したの。あの方はまだ死んではいけないの。

 皇太后ヒルダが持たない、古い知識の宝庫なのよ!」

 

「まあ、落ち着きなさい。医者は冷静でなくてはならんよ。

 バーラトで承認されたばかりの、放射線療法と併用する薬があるんだ。

 がん細胞に選択的に取り込まれてな、マーカーと放射線の感受性を高めるのを兼ねるんだ。

 以前より低量の照射で済むから、副作用が少なく全身のがん細胞を逃さず狙える。

 そちら、オーディーンに機器はあるかね?」

 

 伯父が告げた機種に、ホアナ・ヒメネスは頷いた。フェザーンや旧同盟領よりも医療水準が低い帝国本土でも、珍しくないものである。

 

「ふむ、それは幸いだ。薬はバーラト政府御用達、宇宙一の快速便で送るよ。

 安心なさい、フェザーンにも工場があって、運送会社もフェザーンにある。

 あそこからなら一月で着くさ」

 

「じゃあ、じゃあ、もしかしたら……」

 

「おまえが泣きついてくるくらいだが、あと半年は余命があるんだろう?」

 

 目を真っ赤にした姪は、幼女のようにこっくりと頷いた。

 

「薬の到着までは、保存療法中心に、患者の体力の回復に努めなさい。

 ああ、そんなに泣くんじゃない、ホアナ。

 治験でも著効が認められ、使用を開始したばかりだが非常に有望な薬だぞ」

 

 ホセ・ヒメネス厚生長官は、腫瘍内科の専門医だ。ハイネセン記念大学医学部でも教鞭を取っていた。伯父の言葉に、彼女はまた涙した。

 

「延命じゃなく、治るかもしれないのね!」

 

「ああ、そうさ。おまえの患者さんは絨毛がんだそうだな。

 あれは抗がん剤や放射線への抵抗力は低い。もとは胎盤だから当然だがね。

 そういう点ではデリケートなんだが、それゆえに増殖も速い。

 放射線は副作用との兼ね合いで、がん細胞を殺しきるのは難しかった。

 この薬だとそいつがクリアできる。患者には無理なく、がん細胞が死ぬまで叩けるんだ。

 どうだい、画期的だろう」

 

 彼の姪は大粒の涙を流しながら、首が振り子にでもなったように頷き続けた。

 

「帝国ではまだ承認されておらんが、我らはヒポクラテスの使徒として、

 自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択しよう。

 医薬品の個人輸入は、旧帝国時代から禁止されていないのさ。現在もそのままだ。

 実は、旧同盟とフェザーンが一番利潤を上げていた売り物だったんだよ。

 誰にも文句などつけられんように、うちの事務総長がうまくやるだろう」

 

 そして、予言のとおり奇蹟は起こった。この療法は劇的に功を奏し、がん細胞が消え、寛解状態が訪れた。やせ細っていた患者が、かろうじて華奢と言えるまでに肉付きを取り戻して、象牙の巻き毛が柔らかに顔を縁取るようになるまでに。顔色を良く見せ、痩せた体形をカバーできるドレスを選び、ふさわしい化粧を整えて、皇太后を始めとする恩人らに、超光速通信(FTL)で心からの感謝の挨拶ができるようになるほどに。

 

 彼女は、オーディーンの貴族らの核となり、あらたな藩塀となるべく采配を開始した。リンデンバウム家は、いずれは皇妃を出す家門と目されていた。皇妃の母や祖母という、皇室の擁護者となるべく育てられてきた女性である。ヒルダやアンネローゼが及びもつかないほどに繊細に、ローエングラムを守る絹の網を織り上げていく。

 

 バーラトのヒメネス厚生長官にも、感謝の通信は届いた。患者だった女性は、姪が死なないでと願うのが無理もないような優美な貴婦人だった。地球時代の名画、ラファエロの聖母を思わせた。傍らのよく似た娘も、心から嬉しそうに何度も礼をした。流水のような所作で。通信の後、ヒメネス長官も微笑みながら呟いた。

 

「時代は変わったものだ。

 フェザーン人が、帝国貴族の助命を、旧同盟人に嘆願するとはね。

 だが、いいことだし、いいものだ。殺し合い、子が復讐を誓うよりもずっといい。

 それにしても、実に可愛らしいお嬢ちゃんだったなあ。将来が楽しみだ」

 

 エレオノーラ・フォン・ペクニッツは、大公領の安定に力を尽くし、娘との小さな約束を果たしてから生涯を閉じた。それはもっとずっと後のことである。

 

 こうした経緯もあって、バーラト政府からの国民健康保険制度の制定と、教育や医療の拡充という提言に、帝国首脳部も乗り気であった。ただし、それにつけても金の欲しさよというのが正直なところだ。

 

 帝国の税収を一目見たアレックス・キャゼルヌは、片眉を上げて言ったものだ。

 

「はん、ガイエスブルク要塞の投入だけでもやめておけば、随分違ったろうにな。

 イゼルローンも、まだ旧同盟軍人の遺体の回収、宙葬も終わっちゃいない。

 ヤンの幽霊で騒いでないで、あと一万人けりをつけなきゃならんだろうが」

 

 これは、ヤン・ウェンリーが査問会に召喚され、その留守に抗戦しなくてはならなかった、イゼルローン要塞司令官代理の恨みがたっぷりと込められた発言である。しかし、事実から決して外れたものではない。

 

 敵地だったから容赦ない攻撃を加えたが、戻ってきたらそれで首を絞められる。現在イゼルローンで苦労しているのは、第八次イゼルローン攻略戦において副将を務め、完膚なきまでに叩きのめされたナイトハルト・ミュラー元帥その人である。

 

 あのガイエスブルク要塞があれば、フェザーンを守護する影の城、三元帥の城どちらかは建設せずともよかったわけだ。おまけに、イゼルローンには、蓋をされただけの大穴も、硬X線ビームによる放射線汚染区域も存在しなかっただろう。これらは完全に癒えていない戦争の傷痕だった。

 

 けちは平和が好きで、欲張りは戦争が好きという言葉がある。ゆえに平和が訪れると、文官らは思うわけである。

 

「ああ、なんともったいないことをしたのか!」

 

 ラインハルト・フォン・ローエングラムの数少ない軍事的失敗。が、財政的には少なくない失敗である。門閥貴族から没収した資産を、思い切りよく使ったのは。平民からの税収は、思うように元下層階級の所得が伸びていかない。旧同盟の税制に倣うのなら、こういう世帯は非課税又は税の減免対象である。その割合が新領土よりずっと多いのだった。これもまた二百年の民生の格差で、新帝国の十年あまりで解消できるものではない。

 

 先帝ラインハルトの構想であった、通貨の統一が遅れていたのは幸いだった。彼の存命中にも一度延期されたものであるが、その死でさらに後回しにされていたのだ。その間に、新領土の安価で良質な製品を求め、帝国マルクが流出していた。

 

 一方、ディナールで帝国本土製品を購入する量はずっと少ない。その生産者は、貴族相手の商売が成り立たなくなって、バーラト星系などに就労ビザで出稼ぎに行ってしまったりもした。自分が作った品は、フェザーン商人の仲介料、輸送費を上乗せしても売れるのだ。では、そこに行ってその値段で売れば、全部自分の懐に入る。

 

 リップシュタット戦役による貴族の滅亡で、こうした人々も大きな被害を受けていた。

 

『貴族相手に商売をしやがって、おまえらも同罪だ!』

 

 略奪されたり、工房に放火をされたり、襲撃された負傷者や死者も少なくなかった。帝国の伝統工業は、熟練までに長い期間を要する。こんな激動に年配の職人たちは耐えられなかった。中堅、若手層はかろうじて残ったが、先細りになる商売に見切りをつけて新領土を目指した。帝国の伝統は、思わぬところから崩壊しつつあったのだ。

 

 そういうものに興味が薄い皇太后ヒルダと、軍人や下級貴族中心の帝国首脳部が気付かぬうちに。

 

 気がついたのは、象牙細工の収集をしていたユルゲン・オファーである。あれ以来、きっぱりと購入はやめ、気に入った数点の傑作を残して、少しずつ売却をしていった。それでも手元に残した象牙細工には手入れが欠かせないし、収める箱なども修理や新調したいものが出てくる。

 

 だが、出入りの象牙細工商が首を横に振った。できる職人が減ってしまい、商売を畳もうと思っていると。驚き慌てて、ペクニッツ家で伝統工業の保護を開始し、とりあえずの歯止めをかけた。これを復興させるのは一貴族の手には余るが、新帝国上層部の態度を見るに、関心を払ってくれそうにはない。

 

 彼は考え込んだ。このままでは、文化的な勝者は旧同盟になるのではないだろうか。自分の心も、妻の重病も新領土の医療が癒してくれた。娘に笑顔を取り戻させてくれたのもそうだ。カザリンには、貴婦人としてだけではなく、新領土の教育も受けさせている。いずれも、新領土が帝国本土に勝るものだった。

 

 最初から負けているもので勝負を挑んでも勝ち目はない。帝国が勝っている点、それは人間の手を介した伝統の技術ではないのだろうか。極めて異例ではあるが、彼は妻の礼状に自身の書状を添えた。こういった現状と考察を簡潔に記して。

 

 帝国首脳部は仰天した。これをそのままに通貨を統一すれば、帝国本土は空っけつになってしまうところだった。帝国マルクだけでなく、その稼ぎ頭もどんどん流出していってしまう。ヒルダやカール・ブラッケ、オイゲン・リヒターは冷たい大汗をかいた。

 

 もう一人、それでいいのかと提言した者がいる。そのフェザーンの商人組合長は、帝国の財務省の顧問となった。

 

「さすがのバーラトだって、そこまで親切に公式に教えてくれないでしょうなあ。

 黙っていれば、丸儲けができる。それを逃したと民間から突き上げを食らいますからな。

 ま、これはガードナー氏からの内緒話です。そのおつもりでお願いしますよ」

 

「しかし、通貨を統一しなくては先々問題が出てくるだろう」

 

「フェザーンは百年間、帝国と同盟の通貨を変動為替相場で扱っておりました。

 だが、なにひとつ問題はありませんでしたよ」

 

 五十代半ばの商人組合長はあっさりと返答すると、仕立ての良いスーツに構わず腕と足を組んだ。先帝は軍事と政治の天才だったが、経済はそのかぎりではない。

 

皇帝(カイザー)ラインハルトが、宇宙を統一された直後でしたら通貨統一もよかったが、

 ここまで為替相場による貿易が発展すると、害しかありませんな。

 そもそも、現在流通している貨幣を全て刷新するのに、

 何百億帝国マルクが必要だと思われますか」

 

「試算では、そこまでの額にはならぬはずだ」

 

 色をなす財務尚書に、コモリ・ケンゾウは顔の前で手を振った。

 

「単に通貨だけの問題ではありません。

 様々な機器も変更しなくてはならないこともお忘れなく。

 すべての自販機にATM、金融機関のデータベース、その他諸々ですよ」

 

「それも当然試算に含めてある。我々もそこまで無知ではない」

 

「そうですか? 帝国本土の機器も全てを網羅していらっしゃるのでしょうか。

 それこそ、辺境も辺境、帝国軍の船でもなければいけないような皇帝直轄領もです。

 人口が数万人しかいない惑星でも、大容量の超光速通信システムがおありですかね」

 

 言葉が返ってこないので、コモリは足を組みかえた。

 

「それが整わないうちは、絵に描いた餅というやつですよ。

 我ら、日系イースタンの諺によるならね。

 通貨の切替えには膨大なデータの移行が必須になるのはご存じでしょうが、

 バーラト、フェザーン、新領土の超光速通信網の発達は帝国本土の比ではない。

 それを基準に算定したものなら、再計算をなさるべきだ。

 帝国本土有人惑星すべての超光速通信網の整備を上積みしてね」

 

 言葉を失うリヒターに、彼はきっぱりと告げた。衣料メーカーの経営者らしい言葉で。

 

「金のために金をかけるのは、もったいないとしか申せません。

 金は人間のために使ったほうが、また金を生んでくれますからね。

 経済は生き物です。先帝陛下の構想時点ではちょうどいいサイズの服でも、

 育ってしまったらもう着られません。小さな型紙は捨てておしまいなさい」

 

 天才の構想を現実が越えていくこともあるのだ。


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