アッテンボローの言葉にユリアンも頷いた。
「ヤン提督は、よく会議をなさっていましたから」
「そうそう、まだ可愛かったころのユリアンが、お茶くみ係をしてくれてね」
「ヤン提督ではありませんが、過去形で言わないでください」
「今はかっこよくなったぞ、おまえさん」
一言でユリアンの反論を封じると、呆気に取られているミュラーにアッテンボローは片目をつぶった。
「哨戒してデータを集め、演習計画の策定のために会議を開く。
これだけでもサボっている輩には効きます。
そして難所を洗い出して危険宙域図を作成し、回廊の利用者に公開するんです。
交代で複数の艦艇をパトロールさせるのもいい」
莫大な費用を使って、演習をする必要さえない。悪事を働く暇と隙を与えるな。おまえらの悪だくみなどお見通しだと見せつけろ。アッテンボローの政治家らしい提言だった。ミュラーは舌を巻く思いだった。イゼルローンの面々は、なんと多彩な能力を持っていることか。帝国軍の上層部が、なかなか軍人以外の道に踏み出せないのと好対照だった。
しかも、帝国軍内の犯罪抑止に留まらない。回廊を利用するフェザーン、いやエル・ファシル商人と言うべきか、彼らにとってのメリットも高い。事故や海賊の防止に、密貿易をさせないという抑止力もある。
「とはいえ、お望みなら簡単な解説ぐらいしますよ。
鉄壁ミュラーに対するに、退役中将じゃ僭越なんでしょうが」
「いや、とんでもない。是非にお願いします」
「もっとも、俺はあんまり得意分野じゃありませんので、ご容赦ください。
ヤン先輩とのコンビは長かったんですがね。
士官学校時代、戦闘シミュレーションでは、俺たちは負けなしでした。
キャゼルヌ事務総長が機器まで準備したのに、使わないのはもったいない」
アッテンボローは手慣れた動作で、シミュレーターに凹形陣を表示した。
対する帝国軍は紡錘陣を取らせる。
「これがだいたいの戦闘開始時のものです。
このままじゃわかりにくいでしょうから、ちょっと表示を変えます」
凹に分割線が入り、左翼、右翼、中央の本体に分けられた。次いで、それぞれの指揮官の姓のイニシャルも表示された。左にアッテンボローのA、右にメルカッツのM、中央にヤンのY、フィッシャーのF。
Aの左翼が、Bと表示されたビッテンフェルト艦隊を、巧みに引き摺りこみ元の位置へと治まる。B艦隊は、凹のくぼみを分断すべく、その破壊力を発揮して突進を開始した。中央のYとFがそれを柔らかに受け止めるように後退し、左右のAとMがしなやかに腕を伸ばすように前進する。あたかも死の抱擁のように。ほとんど一瞬で完成した縦横防御陣の、V字型となった両翼から交錯するように砲火が浴びせられた。
ファーレンハイト艦隊のF2が、Bを救うべく前進する。したたかに反撃を食らいながらも、F2はY・Fの分断に成功。そしてBとF2は合流を果たしたが、それは四つのアルファベットの火線の中央に立ちすくむ結果となったのである。この縦深陣は、攻防一体というだけのものではなかった。航行不能宙域に挟まれる位置まで、帝国軍を誘い込む蟻地獄の巣だったのだ。
ファーレンハイトもビッテンフェルトも、攻撃に優れた非凡な将帥だ。この状況にあっても麾下艦隊を建て直し、包囲網を突き崩して、回廊の出口へと撤退する。だが、これさえヤンの誘いだった。背を向けたBとF2の背後で、するりと包囲網がほどけ、再び縦深陣に隊列が変形する。彼らほどの将帥が、凄まじい火と熱の嵐の中をひたすらに逃げることしかできない。
冷たい汗が、ミュラーの軍服の背を濡らす。
「かなり端折りましたが、これでしょう」
「そのとおりです」
ミュラーは固唾を呑んだ。得意ではないなど、そちらこそ謙遜がすぎるというものだった。これほどにアッテンボローが克明に記憶しているいうことは、戦術案を練りに練り込んで、その舞台へと帝国軍を引っ張りだした証左である。どうやら、かなり手痛い授業になりそうだった。
ユリアンは言葉が出てこなかった。ヤンの智謀の底知れなさ。罠の中に罠があり、逃げたと思ったところに最大の罠が口を開けている。
『落とし穴の上に、金貨を乗せておくのさ』
ブランデーを垂らした紅茶を啜りながら、穏やかな口調で教えてくれた。優しい、誰よりも戦争が嫌いな人だった。だが、誰よりも戦争が上手な人だった。あの五年間でもっとも人を殺した人でもあった。善良と冷徹が複雑に絡み合う矛盾の人。
『信念のために人を殺すのは、金のために人を殺すより下等なことだ。
金は万人に価値があるが、信念は本人にしか価値はない』
ヤンはそう言っていた。だが、共和民主制度という信念のために、皇帝ラインハルトにそれを知らしめるために、二百万人以上を殺したのだ。負けないために戦っていた人が、初めて勝つために戦った。その結果が、バーミリオン会戦を上回る帝国軍の死者だった。
ユリアンは愕然とする。ヤンは、どれほどに孤独だったか。英雄や絶対者を否定する共和民主制。
それを掲げながら、自身は皆に縋られる存在なのだ。自分こそが、共和民主制に対する最大のアンチテーゼであるその矛盾。聡すぎるほどに聡い、ヤン・ウェンリーが気がつかないはずがない。
だがその座から降りることはできない。皇帝ラインハルトにとって、回廊決戦の目的はヤンの打倒という一点だったから。
みんなが思っていた。ヤン提督ならなんとかしてくれる。いつも悠然と、旗艦の指揮卓に胡坐をかいて座っていた。百五十万人、二百万人もの期待と信頼は、どれほどの重みだっただろう。だが、誰にもそんなことを感じさせなかった。ユリアンにさえ気付かせなかった。魔術師のポーカーフェイスは、無表情ではなく、穏やかで悠然とした小春日和。
ヤンの後継者となったユリアンは、ようやくそれに気付かされた。ユリアンには、誰もそこまでの期待をしていなかったのに、途轍もなく重かった。へこたれて、妻となった少女に愚痴をこぼし、喝を入れられたりした。
ヤンも愚痴はこぼした。年金がフイになったとか、ブランデーも満足に紅茶に入れてもらえないだとか、そんなことを。退役してすぐ、こんな厚かましい内容のメモを書き残してもいる。
『仕事をせずに金銭をもらうと思えば
しかし、もはや人殺しをせずに金銭がもらえると考えれば、
むしろ人間としての正しいあり方を回復し得たというべきだ』
ちょっとあんまりにもあんまりで、ユリアンも見なかったことにしたくなった言葉だ。
しかし、あれこそがヤンの本音なのではないか。自分は英雄などではなく、金を貰って人殺しをしていた人でなしだ。もう人殺しをしなくていい、ようやく人間に戻れた。犯した罪が消えることはないにしろ。
そういう思いの吐露ではないのか。
『評伝 ヤン・ウェンリー』を著すことは、己の無知と対峙し、ヤンの語られなかった思いを探ること。問い続けてなお、二度と答えを返さない彼岸の師父を追う旅だ。塞がりかけた傷を何度となく抉り続けることになる。ユリアンは初めて、はっきりと認識した。
沈黙する亜麻色の髪の青年の傍らで、アッテンボローの解説は進んでいく。あの見事な艦隊運用は、エドウィン・フィッシャーの苦心の結晶だったこと。ヤンの構想を、単純動作の積み上げに再構築したムライ参謀長、それを巧みに艦隊全体に周知させたパトリチェフ副参謀長。客員提督メルカッツ中将には、シェーンコップ中将が細かく通訳をした。そして、一兵卒に至るまで、必死でそれに食いついて行った。
「当時のヤン艦隊は、マル・アデッタの会戦に参加できなかった連中が主でした。
三十五歳以下で、ビュコックのじいさまらに門前払いを食わされたんだ。
ビュコック元帥は最後まで、同盟の旗を掲げて抗戦したでしょう。
あの連中も、それに倣ったんですよ。なにしろ帰るところもない。
同盟軍人として国家に奉仕したのに、その国が潰れちまったんじゃね。
でも、俺は後悔なんぞしませんよ。あんな連中にヤン・ウェンリーの命を捧げて、
同盟が永らえたとしたら、俺たちこそが国を滅ぼしていたでしょう。
その点は皇帝ラインハルトに感謝します」
鉄壁ミュラーも顔色を失くすほど、強烈な皮肉だった。ダスティ・アッテンボローは、アレックス・キャゼルヌの後輩でもあるのだった。
「ヤン先輩の目的は、皇帝ラインハルトと講和を結ぶことでした。
だから、イゼルローンに拠って帝国の将帥らを手玉に取ったんです。
バーミリオン会戦を
戦いを嗜む獅子帝が、膝を乗り出すに決まっている状況を作るためです。
しかし、あの時とは違う。彼には生きていてもらわないと宇宙が大混乱だ」
限られた幕僚に明かされていた、ヤン・ウェンリーの戦略構想だった。
「勝てない戦いはしないヤン司令官は、あの疾風ウォルフを相手にした。
引き分けか、こっちの辛勝か意見は分かれるが、負けてはいません」
いつの間にか、戦闘シミュレーターの画面は変わり、ミッターマイヤー艦隊との戦闘が表示されていた。左翼を後退させ、中堅と右翼を反時計回りに半回転させて、ヤン艦隊を引き摺りこみ左側面を攻撃しようという陣形である。しかし、これはアッテンボロー分艦隊の一点集中砲火によるエネルギーの乱流で、隊列を整えることができなかった。なによりも、狭い回廊内では『疾風』と謳われる迅速性を発揮できない。
そこにYからの光と熱の
Yが動いた。M2を砲火で牽制しつつ、10時方向に前衛を動かしてB2を半包囲する。B2は慌てて後退し、虎口を逃れたものの、攻め手を欠いた状況は続く。
「これで、ヤン・ウェンリーは、帝国軍の主な将帥に負けなかったということになる。
あの狭いイゼルローン回廊では、一対一に近い状況であたるしかない。
ロイエンタール元帥は統帥本部総長、皇帝ラインハルトの傍にいたでしょう。
そちらに、切れる札はない。こっちには一枚しかないが、そいつはジョーカーだ」
画面はさらに変わり、シュタインメッツ艦隊が壊滅した時の陣形を表示していた。
「ハイ&ローをやってる限り、すぐには勝てない。
大軍をぶつけ続ければ、こっちはいずれすり潰されたでしょうがね。
だが、それに見合う利益が帝国にあるのか?
得られるものは、皇帝ラインハルトがヤン・ウェンリーに勝利したというだけです。
帝国の事務の達人にとっては、許容できるもんじゃなかったはずだ」
帝国の事務の達人。それは義眼の軍務尚書を示していた。
「あの時の最適な戦略は、回廊を封鎖して我々の枯死を待つことでした。
その間に、ローエングラム王朝が盤石の体制を築き、
我々を時代遅れの共和主義者にしてしまえばよかった。
皇帝ラインハルトは、理想的な専制君主でした。若く、美しく、天才だ。
そんな輝ける王者が何でもやってくれる世の中なら、みんな政治に参加するのが面倒になる。
ヤン先輩が、もっとも恐れた戦略でした。
それは、オーベルシュタイン元帥がもっとも望んでいた戦略だったはずです」
平和な世の中を希求しながら、まったく違う方法論を選んだ二人だったのかもしれない。
「名君の統治の何が悪いのか!」
「一生を名君として過ごし、次代も名君がずっと続くなら、庶民にとっては望むところです。
しかし、人は必ず過ちを犯すし、一生変わらない人間はいないというのが先輩の自論でしてね。
なにより、絶対の法則がある。死なない人間も同じ人間もいないというのですよ」
青灰色と砂色の視線が噛みあい、砂色の方が逸らされた。
「これは歴史のもしもに過ぎない。
そして歴史にもしもはない、というのも先輩の自論です。
皇帝ラインハルトが、存命でいらしたら今がどうなっていたかということもだ。
しかし、人間楽すると苦労した頃に戻るのは大変です。
新領土の人々が、アーレ・ハイネセンの精神を忘れぬうちに、
共和民主制度の苗を残しておく必要があった。
ビュコック元帥の死は、腐敗したのは政治家と国民の問題であって、
その理念は、いまだに輝いているのだと皆に知らしめてくれた。
そして、エル・ファシルが独立を宣言した。
あそこを味方につければ、イゼルローンを獲っても孤立しない」
再び、砂と大地の色が曇り空を凝視した。
「エル・ファシルは第一次からずっとイゼルローン攻略戦の橋頭保でした。
一方、回廊帝国側付近に、あれほど環境のいい有人惑星はありましたかね」
「いや、残念ながら……」
「そうでしょうね。だから、同盟は五十年も隠れていられたわけだ。
戦いを挑むなら、あの時しかなかった。旧同盟の滅亡を皆が悔やんでいるうちに。
なによりも、名君の治世に慣れてしまわないうちにやらねばならなかった」
ヤンの戦術構想を最も継承した将帥は、その思考もよく知っていた。学生時代に戦史を教えてもらいながら、合間合間に語られる地球時代から現在までの歴史のエピソード。
「名君とは希少な存在です。ゴールデンバウム王朝はどうです?
五百年近く続いたが、はっきりそう言える皇帝が何人いますか」
「おそらく、マクシミリアン晴眼帝ぐらいかと……」
「あなたがた新銀河帝国も、常に抱え続けるジレンマになることでしょう。
名君が二代続き、三代続くか。これは世襲によるものでもないことはないそうです。
地球時代まで遡ればですがね。それでも極めて珍しいんだとか。ご存知ですか?」
「いいえ」
ミュラーは首を横に振った。
「帝国のモデルになったゲルマン系の国ではありませんから、
そちらには伝わっていないかもしれませんね。
しかし、流血帝アウグスト、痴愚帝ジギスムント、そんな連中が出ても、
周囲はゴールデンバウム王朝そのものは支えようとしたでしょう。
だから、皇帝ラインハルトが出現するまで存続した。それでは我々にとって遅い。
宇宙暦800年時点ではそう思ったわけですよ」
口には出さぬ。しかし、青灰色の目が雄弁に語る。あと一年待っていればどうなった?
ミュラーに返せる言葉はなかった。
「とにかく、歴史にもしもはない。回廊決戦の戦術データを解析なさるのは結構です。
こいつはイゼルローンの宙域特性を、研究し尽くした結果ですからね。
悪事を企む輩には、大変に鋭い釘になるでしょう」
そこまで言うと、アッテンボローはすっかり冷めた紅茶をすすって、渋い顔になった。
「悪いがユリアン、淹れなおしてきてくれないか。
せっかくの菓子だ。久しぶりにおまえさんの名人芸で味わいたいんだよ」
「あ、はい」
息詰まるような思いで、ヤン政権きっての論客の言葉を聞いていたユリアンは、むしろほっとして茶器一式を盆に載せ、台所へ向かった。アッテンボローはその後姿を見詰め、足音が遠ざかるのを待つ。
そして、ふたたびミュラーに向き直った。テーブルに肘をつき、組んだ手に顎を乗せ、マイクに近づいて囁く。
「しかし、私の話を元に実際の演習をやるというのはお勧めできない。
あなたが本物の戦闘に使うのではないか、と邪推されるのは危険だ。
この時の統帥本部総長どのは、その後にどうなりました?」
魔術師の左腕は、強烈なフックでミュラーの顎を捉えた。実際に、一瞬眩暈を感じるほどの衝撃だった。