アッテンボローの目論見どおり、『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』はバーラト星系と旧同盟領で飛ぶように売れた。旧同盟時代からのヒットチャートを更新する勢いで。
その話題は永遠の夜を渡り、帝都に辿りつく。
「なるほど。閣下は、アッテンボロー氏らの著作を入手されたいとおっしゃる」
「ムライ事務長、ご協力を願えませんか」
砂色の髪の元帥を見やり、ムライは内心で深く深く溜息をついた。前々から思っていたのだが、帝国の軍人は、若い連中が言う『天然』揃いなのではなかろうかという、ムライの疑念は一層深まるばかりである。
特に、彼とビッテンフェルト元帥が双璧ではなかろうか。
たしかにこれでは、あの茫洋として決して腹の底を読ませぬ司令官に、いいようにカモにされる訳だ。三次元チェスは下手だったが、ポーカーの強いことといったら。カードの引きの強さ、勝負の見切りの的確さ。ブラフを見破るのも仕掛けるのも抜群に上手かった。
「バーラトは独立国家です。帝国の法の及ぶところではない。
そこで出版された本を、新領土に居住する『バーラト国民』が
購入するのには制約はないでしょうな。
ですが、あなたは立場がおありになる」
「いえ、実は軍務省が長らく放置していた件と重大な関連がありまして……」
「まさか、それをミュラー軍務尚書閣下が直々に調査をなさるのですかな」
厳格な教師を思わせるムライの一瞥に、ミュラーは不揃いな高さの肩を竦めそうになった。まあ、それも仕方がない。彼の苦言には、不敵で不遜で不逞なヤン艦隊の面々も膝を屈したのだから。
「部下には部下の立場というものがあることもご存じでしょう」
言外に下手な言い訳はやめろとの勧告である。
「ですが、閣下が密輸に手を染められるのを見過ごすわけにも参りませんな。
『ヤン少佐』とは
その時の縁で、ヤン提督は小官を抜擢してくださったのだと思っております。
『魔術師』の弟子たちも、そう思ったようです。
義理堅いことだ。実にミンツ元中尉らしい」
応接ソファから立ちあがると、ムライは執務机の抽斗からその本を取り出した。出版から約一月遅れで、2400光年の彼方から届いた『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』。目次の前のページに、ムライへの献辞が手書きされて、末尾にユリアン・ミンツ、ダスティ・アッテンボローの署名。献辞と前者の署名の筆跡は一致してる。
「この待合室に置きましょう。暇潰しの読み物にでもなさってください。
所用でお越しいただいた際、お待たせするようなことがあるでしょうからな」
ミュラーは表情を明るくした。この待合室に通されるのは、帝国の尚書か元帥級の高官のみである。わざわざ足を運ぶのは、実質彼一人だけ。ムライの最大限の温情、というか妥協案だった。この元帥には前科がある。薔薇と違って、こちらは言い逃れできない。
「ムライ事務長、卿のご配慮に感謝します」
「くれぐれも持ち出しは厳禁です。貴重な献辞入りですからな。
それと、帝国語訳のご協力は致しかねます」
「は、それは無論のこと……」
心理的な価値で、抜け目なく釘を刺すムライは、確かに『魔術師』の参謀長であった。だが、常識人の考えを突き抜けるのが『天然』の『天然』たるゆえんだった。あの上官と、四年あまり行動を共にしていたのに、まだまだ理解が足りなかった。ヤン・ウェンリーは、根っこの部分は常識的だったのだな、と回想するほどに。
「事務長。奴さん、また来てますぜ。今日は二回目ですよ」
「リンツ主任、みなまで言わなくていい。私の認識が甘かったようだ」
「事務長のせいじゃないでしょうが、随員の連中が気の毒でして。
先日は、小官に訳してくれとせっつかれましてなぁ」
リンツは逞しい腕を組んで嘆息した。
「無論、丁重にお断りしましたとも。
五百頁近い本を訳せるようだったら、違う職についておりますよ」
あのころよりも皺の増えたムライの眉間に、より深い皺が寄った。
「まったく、困ったものだ」
「これはあれですな。ヤン提督に倣うべきでしょう」
敬愛すべき頭痛の種を持ちだされて、警備主任をじろりと見つめる。
「何をだね」
「適材適所ですよ。あちらの有能な部下に
軍務省だって、尚書閣下がうちに入り浸るのと、
この本に目をつぶるのと、どちらをとると思いますか。
賭けても構いませんよ」
「残念ながら賭けは成立せんよ。私も負ける勝負はしない主義だからな。
それにしてもフェルナー大将も気の毒なことだ。
軍務省官房長は軍務尚書が替わるたびに、
ヤン提督の事績をまとめなくてはならんという掟でもあるのかね?
記録をするのは軍務省の役割だが、もっと適当な職位の者がやる仕事だろう」
要するに下っ端の仕事だ。本来なら大将閣下の仕事ではない。至極まともな事務長の言だが、警備主任の賛同は得られなかった。
「そんな、かわいそうなことをおっしゃるもんじゃありませんよ。
ヤン提督の事績をまとめて上官に報告するなんざ、
帝国の人間にとっちゃ、家族宛ての遺書を書いておくような任務ですよ。
まあ、イゼルローン攻防記よりは精神的にマシでしょうが、
普通の神経じゃできないでしょうな」
無論、フェルナー大将の神経は『普通じゃない』ので、リンツは同情しない。ムライも反論はしなかったので、フェルナーへの労りが本気なのか疑わしい。
「他にマシでないことがあるのかね」
「ムライ事務長、五百頁ですよ。これを読んで、帝国語に訳すとは……」
「ふむ、一冊の本を一から書くに等しいな。
では、こちらを進呈して、軍務省の精励に期待しよう」
デスクの抽斗から、もう一冊の『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』が取り出された。
「ちょっと失礼……」
目次の前は白紙のページだった。
「なんだ、事務長も買われていたんですか」
ムライは、笑顔に慣れていない人が見せる笑いを見せた。
「も、というからには君もかね」
「ええ、帰還兵輸送に同行した際にね、この話を閣下からちらりと聞きまして。
事務長とパトリチェフ少将のご活躍もですがね。
おいおい話して下さるとおっしゃったが、聞けずじまいでした。
ようやく謎がとけましたよ」
ムライは首を振った。
「なに、活躍というほどのことはしていない。
この本は同僚と部下への応援のつもりだったが、その必要はなかったようだ。
それに私も俗物のようでな。自分がほめられるのに悪い気はしない。
あの方は、正に天才だったが、苗の頃は低木でも仰ぎ見るものだ」
すっかり板についた趣味をうかがわせる言葉で、ムライは会話を締めくくった。
その日のうちに、『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』は丁重な挨拶文を添えて、軍務省の官房長の下に届けられた。ここ数日、目を離すと姿を消している上官の行動理由を知って、フェルナーはまず天井を仰ぎ、次に項垂れた。
冷徹ながらも、公正で理性的な初代軍務尚書が懐かしくなる。バーラト星系共和自治政府の帝都駐留事務所から、やんわりと禁足令を出されるような真似は、オーベルシュタインならしなかっただろうから。
「で、これを訳さねばならんのか」
デスクに置かれた本は、相応の厚さを備えていた。彼は数頁をめくり、黒々とした活字の密度に、はやばやと降参した。同盟語の会話や読解に不自由はないが、文学作品の翻訳にはより高度な言語力が必要だ。士官学校を卒業して、四半世紀以上。そちらの能力はすっかり錆びついている。もともと得意な教科ではなかったが。
いっそ、士官学校の学生に人海戦術でやらせるか? いや、本の内容的に却下。では、軍務省の語学堪能な者にやらせるしかないか、とまで考えて、フェルナーは顔を手で覆った。著作者の質問が、二年も放置された理由に思い至ったからだ。
こうして、元ヤン艦隊分艦隊司令官の思惑より早く、軍務省の中枢部を人類最強の武器が直撃した。それも、なかば省の最高責任者による、
フェルナーの苦労は割愛するが、これにより軍務省は揺り動かされた。ケーフェンヒラー老人への質問状と、ジークマイスターとミヒャールゼンの事件について。さまざまな資料が発掘され、新たな検証が始まるのも、そう先のことではないだろう。
そして、アッテンボローが一番に願った、ケーフェンヒラー老人への追悼。
残念ながら、彼の縁者が現れることはなかった。同年代の二つの職場関係者も。だが、彼が捕虜収容所から遺品を送った捕虜の遺族や、その子、孫から感謝や追悼の手紙が少しずつ、次々に届き始めた。
また、エコニアに駐留し、ケーフェンヒラー老人と関わりを持ち、惑星マスジッドに在住している元軍人は、あわせて半個中隊ほどにもなったのである。もともと中継点になっている星系である。近隣といって差し支えない。兵役による赴任者も、四十三年分積み重なれば結構な数にのぼる。
彼らは元在郷軍人会の一員であり、きちんとした経理組織の基盤があった。本を読んだ人々が、手を上げて委員会を作り、ハイネセンタイムズ社に申し出た。専門家が合格点をだすような、委員会の規約なども添えて。
こうして、ケーフェンヒラー基金の管理委員会は誕生した。期間を十年としたのは、委員の年齢を考慮してのことだ。この問題さえ解決するならば、無論、延長も可能という規約にはしてある。
幸い、印税については、活動期間を三倍にしても大丈夫そうである。