銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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第五章 魔弾の射手

 アッテンボローの目論見どおり、『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』はバーラト星系と旧同盟領で飛ぶように売れた。旧同盟時代からのヒットチャートを更新する勢いで。

 

 その話題は永遠の夜を渡り、帝都に辿りつく。

 

「なるほど。閣下は、アッテンボロー氏らの著作を入手されたいとおっしゃる」

 

「ムライ事務長、ご協力を願えませんか」

 

 砂色の髪の元帥を見やり、ムライは内心で深く深く溜息をついた。前々から思っていたのだが、帝国の軍人は、若い連中が言う『天然』揃いなのではなかろうかという、ムライの疑念は一層深まるばかりである。

 

 特に、彼とビッテンフェルト元帥が双璧ではなかろうか。

 

 たしかにこれでは、あの茫洋として決して腹の底を読ませぬ司令官に、いいようにカモにされる訳だ。三次元チェスは下手だったが、ポーカーの強いことといったら。カードの引きの強さ、勝負の見切りの的確さ。ブラフを見破るのも仕掛けるのも抜群に上手かった。

 

「バーラトは独立国家です。帝国の法の及ぶところではない。

 そこで出版された本を、新領土に居住する『バーラト国民』が

 購入するのには制約はないでしょうな。

 ですが、あなたは立場がおありになる」

 

「いえ、実は軍務省が長らく放置していた件と重大な関連がありまして……」

 

「まさか、それをミュラー軍務尚書閣下が直々に調査をなさるのですかな」

 

 厳格な教師を思わせるムライの一瞥に、ミュラーは不揃いな高さの肩を竦めそうになった。まあ、それも仕方がない。彼の苦言には、不敵で不遜で不逞なヤン艦隊の面々も膝を屈したのだから。

 

「部下には部下の立場というものがあることもご存じでしょう」

 

 言外に下手な言い訳はやめろとの勧告である。

 

「ですが、閣下が密輸に手を染められるのを見過ごすわけにも参りませんな。

 『ヤン少佐』とは小官(・・)もいささか関わりがありました。

 その時の縁で、ヤン提督は小官を抜擢してくださったのだと思っております。

 『魔術師』の弟子たちも、そう思ったようです。

 義理堅いことだ。実にミンツ元中尉らしい」

 

 応接ソファから立ちあがると、ムライは執務机の抽斗からその本を取り出した。出版から約一月遅れで、2400光年の彼方から届いた『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』。目次の前のページに、ムライへの献辞が手書きされて、末尾にユリアン・ミンツ、ダスティ・アッテンボローの署名。献辞と前者の署名の筆跡は一致してる。

 

「この待合室に置きましょう。暇潰しの読み物にでもなさってください。

 所用でお越しいただいた際、お待たせするようなことがあるでしょうからな」

 

 ミュラーは表情を明るくした。この待合室に通されるのは、帝国の尚書か元帥級の高官のみである。わざわざ足を運ぶのは、実質彼一人だけ。ムライの最大限の温情、というか妥協案だった。この元帥には前科がある。薔薇と違って、こちらは言い逃れできない。

 

「ムライ事務長、卿のご配慮に感謝します」

 

「くれぐれも持ち出しは厳禁です。貴重な献辞入りですからな。

 それと、帝国語訳のご協力は致しかねます」

 

「は、それは無論のこと……」

 

 心理的な価値で、抜け目なく釘を刺すムライは、確かに『魔術師』の参謀長であった。だが、常識人の考えを突き抜けるのが『天然』の『天然』たるゆえんだった。あの上官と、四年あまり行動を共にしていたのに、まだまだ理解が足りなかった。ヤン・ウェンリーは、根っこの部分は常識的だったのだな、と回想するほどに。

 

「事務長。奴さん、また来てますぜ。今日は二回目ですよ」

 

「リンツ主任、みなまで言わなくていい。私の認識が甘かったようだ」

 

「事務長のせいじゃないでしょうが、随員の連中が気の毒でして。

 先日は、小官に訳してくれとせっつかれましてなぁ」

 

 リンツは逞しい腕を組んで嘆息した。

 

「無論、丁重にお断りしましたとも。

 五百頁近い本を訳せるようだったら、違う職についておりますよ」

 

 あのころよりも皺の増えたムライの眉間に、より深い皺が寄った。 

 

「まったく、困ったものだ」

 

「これはあれですな。ヤン提督に倣うべきでしょう」

 

 敬愛すべき頭痛の種を持ちだされて、警備主任をじろりと見つめる。

 

「何をだね」

 

「適材適所ですよ。あちらの有能な部下に丸投げ(おねがい)しましょう。

 軍務省だって、尚書閣下がうちに入り浸るのと、

 この本に目をつぶるのと、どちらをとると思いますか。

 賭けても構いませんよ」

 

「残念ながら賭けは成立せんよ。私も負ける勝負はしない主義だからな。

 それにしてもフェルナー大将も気の毒なことだ。

 軍務省官房長は軍務尚書が替わるたびに、

 ヤン提督の事績をまとめなくてはならんという掟でもあるのかね?

 記録をするのは軍務省の役割だが、もっと適当な職位の者がやる仕事だろう」

 

 要するに下っ端の仕事だ。本来なら大将閣下の仕事ではない。至極まともな事務長の言だが、警備主任の賛同は得られなかった。

 

「そんな、かわいそうなことをおっしゃるもんじゃありませんよ。

 ヤン提督の事績をまとめて上官に報告するなんざ、

 帝国の人間にとっちゃ、家族宛ての遺書を書いておくような任務ですよ。

 まあ、イゼルローン攻防記よりは精神的にマシでしょうが、

 普通の神経じゃできないでしょうな」

 

 無論、フェルナー大将の神経は『普通じゃない』ので、リンツは同情しない。ムライも反論はしなかったので、フェルナーへの労りが本気なのか疑わしい。

 

「他にマシでないことがあるのかね」

 

「ムライ事務長、五百頁ですよ。これを読んで、帝国語に訳すとは……」

 

「ふむ、一冊の本を一から書くに等しいな。

 では、こちらを進呈して、軍務省の精励に期待しよう」

 

 デスクの抽斗から、もう一冊の『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』が取り出された。

 

「ちょっと失礼……」

 

 目次の前は白紙のページだった。

 

「なんだ、事務長も買われていたんですか」

 

 ムライは、笑顔に慣れていない人が見せる笑いを見せた。

 

「も、というからには君もかね」

 

「ええ、帰還兵輸送に同行した際にね、この話を閣下からちらりと聞きまして。

 事務長とパトリチェフ少将のご活躍もですがね。

 おいおい話して下さるとおっしゃったが、聞けずじまいでした。

 ようやく謎がとけましたよ」

 

 ムライは首を振った。

 

「なに、活躍というほどのことはしていない。

 この本は同僚と部下への応援のつもりだったが、その必要はなかったようだ。

 それに私も俗物のようでな。自分がほめられるのに悪い気はしない。

 あの方は、正に天才だったが、苗の頃は低木でも仰ぎ見るものだ」

 

 すっかり板についた趣味をうかがわせる言葉で、ムライは会話を締めくくった。

 

 その日のうちに、『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿――』は丁重な挨拶文を添えて、軍務省の官房長の下に届けられた。ここ数日、目を離すと姿を消している上官の行動理由を知って、フェルナーはまず天井を仰ぎ、次に項垂れた。

 

 冷徹ながらも、公正で理性的な初代軍務尚書が懐かしくなる。バーラト星系共和自治政府の帝都駐留事務所から、やんわりと禁足令を出されるような真似は、オーベルシュタインならしなかっただろうから。

 

「で、これを訳さねばならんのか」

 

 デスクに置かれた本は、相応の厚さを備えていた。彼は数頁をめくり、黒々とした活字の密度に、はやばやと降参した。同盟語の会話や読解に不自由はないが、文学作品の翻訳にはより高度な言語力が必要だ。士官学校を卒業して、四半世紀以上。そちらの能力はすっかり錆びついている。もともと得意な教科ではなかったが。

 

 いっそ、士官学校の学生に人海戦術でやらせるか? いや、本の内容的に却下。では、軍務省の語学堪能な者にやらせるしかないか、とまで考えて、フェルナーは顔を手で覆った。著作者の質問が、二年も放置された理由に思い至ったからだ。

 

 こうして、元ヤン艦隊分艦隊司令官の思惑より早く、軍務省の中枢部を人類最強の武器が直撃した。それも、なかば省の最高責任者による、友軍誤射(フレンドリーファイア)という形で。本来の役職を交換し、アタッカーは元参謀長。ある意味、初の完全無血勝利だった。

 

 フェルナーの苦労は割愛するが、これにより軍務省は揺り動かされた。ケーフェンヒラー老人への質問状と、ジークマイスターとミヒャールゼンの事件について。さまざまな資料が発掘され、新たな検証が始まるのも、そう先のことではないだろう。

 

 そして、アッテンボローが一番に願った、ケーフェンヒラー老人への追悼。

 

 残念ながら、彼の縁者が現れることはなかった。同年代の二つの職場関係者も。だが、彼が捕虜収容所から遺品を送った捕虜の遺族や、その子、孫から感謝や追悼の手紙が少しずつ、次々に届き始めた。

 

 また、エコニアに駐留し、ケーフェンヒラー老人と関わりを持ち、惑星マスジッドに在住している元軍人は、あわせて半個中隊ほどにもなったのである。もともと中継点になっている星系である。近隣といって差し支えない。兵役による赴任者も、四十三年分積み重なれば結構な数にのぼる。

 

 彼らは元在郷軍人会の一員であり、きちんとした経理組織の基盤があった。本を読んだ人々が、手を上げて委員会を作り、ハイネセンタイムズ社に申し出た。専門家が合格点をだすような、委員会の規約なども添えて。

 

 こうして、ケーフェンヒラー基金の管理委員会は誕生した。期間を十年としたのは、委員の年齢を考慮してのことだ。この問題さえ解決するならば、無論、延長も可能という規約にはしてある。

 

 幸い、印税については、活動期間を三倍にしても大丈夫そうである。


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