銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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外伝 無限回廊――エンドレス・ロード――

 やや小柄だが引き締まった後ろ姿がドアの外に消える。笑顔の中のブルーグリーンには、憂愁の底流があった。秘書官のシュトライトの耳には届かぬように、ヒルダは密やかに呟いた。

 

「お怨みしますわ、陛下。

 自分の両親が、無二の親友の仇同然と知ったら、アレクはどう思うかしら。

 この責任を取るまで、生きていてくださらなくてはいけなかったのに……」

 

 彼女は皇帝ラインハルト亡き後の帝国を、その細い両肩に背負って生きてきた。大胆な改革を堅実に軟着陸(ソフトランディング)させた、その一点だけに限っても、史上最高の第二代君主と言えるだろう。

 

 だが、名君として出発し、死に至るまで名君であった君主が、いかに少ないことか。地球時代から数えたとして、両手の指を越えても、両足の指を加えると余るだろう。さらに、それが二代に渡って続いた例は、片手の指で足りるだろう。

 

 ローエングラム王朝は、皇帝ラインハルト、摂政皇太后ヒルデガルドと二代に渡って名君が続いている。歴史上の奇蹟と称した歴史家たちは数多い。

 

 だが、こういう見方もある。皇帝ラインハルトが帝位を継ぎ、崩御するまではわずか二年。それ以前の、同盟軍の侵攻に対する焦土作戦、リップシュタット戦役とヴェスターラントの虐殺の放置。リヒテンラーデ候を一門もろとも処断し、独裁権力を握った手法。幼帝の亡命を口実に、自由惑星同盟に侵攻し、ヤン・ウェンリーの挑戦に応じたともいえるバーミリオン会戦で、麾下艦隊の七割という戦死者を出したことを、『まだ皇帝ではなかったから』数え上げずに名君と称するのか。

 

 彼が即位してからの、同盟への大親征とイゼルローン回廊の決戦。帝国の功臣二人が相打った新領土戦役。そして再びのイゼルローン攻略。

 

 その本質は覇王であって、名君とは呼べないという主張も一派を形成するほど多い。早世したから暴君となる時間がなかっただけだ、という者さえ後世には現れる。

 

 『歴史にもしもはない』が持論のヤン・ウェンリーが聞けば、肩をすくめること間違いないだろうが。そのヤン・ウェンリーは、政治を誰かの責任にできてしまえるという一点で、最良の専制政治も最悪の民主政治に劣ると語った。

 

 人は変わる。赤ん坊は少年になり、青年は壮年に。やがては老いを迎えてこの世から去る。心も共に変わっていく。心の柔軟性と活力と清新さを、青年のまま保ち続けられたら、それは一つの奇蹟なのだ。

 

 二十一歳のヤン少佐が、先輩や後輩にふと語る言葉。住み慣れた家でもあった富裕号と一緒に、父と乗組員を失った十六歳の少年が、やがて辿りついた思い。それが人の命と心の儚さ。

 

 永遠に続くものはこの世のどこにもない。

 

 本の表紙の中で、軍人とは思えないほど優しげで線の細い青年が、はにかんだ笑顔を見せていた。この人のどこに、苛烈な覇気に満ちたラインハルトと、対峙しうるものがあったのだろうか。だが、平凡な容姿と穏やかな言動に隠された彼の本質は、実は冷徹なまでに手強い。

 

 『半数が味方になってくれれば大したものさ』という言葉は、謙虚で自信なげに聞こえる。が、これは自分プラス半数で一票の差の過半数となり、残りの半数マイナス一票が少数意見として切り捨てられる。民主共和制による多数決の非情さを、弟子にもそうとは感じさせず、見事に表現しているではないか。

 

 父の死による不本意な進路、上官の逃亡によって祭り上げられた偽りの英雄。二十一歳のヤン・ウェンリーは、それに振り回され、急な人事異動で捕虜の叛乱に直面しても、出来ることはほとんどなかった。

 

 そのわずか八年後、司令官の負傷により敗走寸前の艦隊の指揮を引き継ぎ、潰走を食い止める。皇帝ラインハルトと、最初の艦隊指揮による対決であったアスターテの会戦。

 

 それは『不敗の魔術師』の伝説の始まり。 その後のイゼルローン要塞の攻略で名声を確固たるものにし、戦功を積み上げていった。たとえ戦力差では絶望的な戦いであっても、麾下の士気を最高水準に保つ宇宙一の名将に至る。

 

 ヤン・ウェンリーは人が変わっていくことを、自身で痛感したのではないだろうか。ラインハルトは、政戦両面の天才で潔癖な性格を持ち、望みうる最良の専制君主だとは彼も認めるところだった。だが、それが変わってしまったら? 

 

 専制君主として即位した者は、辞めること、辞めさせることができないのだ。彼がこだわった民主政治は、権力者に民衆が否を突きつけられるということが最大の理由ではないのか。まだ戦史研究科生だったヤンが、繰り返し読んでいたのが、銀河連邦の簒奪者、四十億人の虐殺者、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの史伝であったという。

 

 あのルドルフだとて、理想に燃えた強力な指導者だった時期があったのだ。だからこそ、ヤンはラインハルトに膝を屈することはできなかったのではないだろうか。ヒルダはそう思うのだ。

 

 だが、ヤン・ウェンリーの懸念は杞憂に終わった。ラインハルトは変わることなく、その時間を許されずに生涯を終えた。彼の心の聖域の定員は、黄金と真紅の髪の二人だけ。別の区画には黒い髪が佇んでいる。もっと時に恵まれたのなら、そこにヒルダとアレクは加わることができたのだろうか。

 

 彼の心の底の底、精神の核は十歳の少年のままだった。十歳では確かにわからないだろう。だが、思春期を過ぎ、青年になればわかるはずだ。ラインハルトにとって記憶の薄い母は、その夫にとって何よりも愛しい存在だったことが。彼とその姉に絶世の美貌を受け継がせ、姉に家庭的な優しさを育んだ女性なのだ。人生の宝、心のすべてといっても、大袈裟なものではなかったことだろう。

 

 皇帝に姉を奪われても、彼女は生きていて、怒りをぶつける相手にも不足はない。だが、事故で妻を失い、身分の差ゆえに加害者に償わせることもできなかった父は、その怒りを我が身に向けるしかなかったのだろう。

 

 そして再び、圧倒的な権力に、亡き妻によく似た娘を奪われる。友人と二人、皇帝になって娘を取り戻すという夢を、彼は見ることができない。子どもの心にだけ許された、夢を広げられる空間の広さと時間。それは大人には決して持てぬものだ。やり場のない怒りと絶望は、どれほどのものだっただろう。

 

 それが他者を灼くか、己を灼くのか、矛先がほんのわずかに違うだけだ。ラインハルト・フォン・ローエングラムとセバスティアン・フォン・ミューゼルはよく似た父子(おやこ)だったのだ。

 

 それに気付くには、セバスティアンが亡くなるのは早すぎたのかもしれない。だが、父が亡くなってからも彼を許すことなく、フリードリヒ四世の崩御で姉が戻ってきても、その羽ばたきを止めることなく、半身を喪い、姉の心を失っても、親友との誓約のとおり宇宙を手に入れた。

 

 彼の心には、大きな欠落があったのだと思う。多分、それをかな(悲/愛)しく思ったのだ。当時の激動の中、ほとんど夫の動揺に引き摺られるように結ばれてしまい、我が子を授かった。半ばはその責任をとるためのような結婚に思えて、ヒルダも自分の心の在り処を見失ってしまったこともある。

 

 テロリストの襲撃によって、予定よりも早い出産を迎えて、夫が散々に悩んだ息子の命名で、ミドルネームの親友の名に密やかに胸を咬むものがあった。それから一月も経たないうちに、イゼルローン軍のブリュンヒルト襲撃と停戦、ラインハルトの死病の発覚と、さらなる激動が続いた。

 

 イゼルローンからフェザーンへの夫の帰還。彼はヒルダや閣僚、幕僚たちと帝国の今後について話を重ねた。その一方で、イゼルローン軍司令官だったユリアン・ミンツとは、生前のヤンについて語らったそうだ。死してなお、死の床のラインハルトの心を離さない魔術師に、嫉妬を覚えなかったと言えば嘘になる。

 

 今にして思えば、ヒルダの初恋はラインハルトだったのだろう。相手があまりに眩しすぎて、自分が彼の恋愛対象に値するとは思えなかった。おまけに彼の女性観はアンネローゼが基準である。だから彼の手足になれるようにと励んだのだ。もっと早く、せめてどちらかの嵐の夜に、自分の気持ちに気付いていれば。

 

 ヒルダが覚えた感情を、旧同盟に伝わっていた古い小説がわずか一文で表している。

 

『可哀想だたぁ、惚れたってことよ』

 

 そして、万古の昔より恋愛の勝敗は決まっている。すなわち、惚れたほうが負け。

 

 統一後に新領土から流入してきたこれらの文化に触れたとき、ひとしきり笑って、後に涙した。これらの多様な文化が、ヤン・ウェンリーの思想を作り上げ、後に受け継がれたのだろうか。

 

「そしてヤン元帥。私はあなたの死を惜しみます。

 あなたが生きていてくだされば、どれほど宇宙の安寧に協力していただけたことか。

 民法の改正で大騒ぎになっているのに、立憲君主制へどう舵を取っていくべきなのでしょうね」

 

 旧同盟軍の宇宙艦隊司令長官だった故アレクサンドル・ビュコック元帥は、民主主義を対等な友人を持つ思想と語った。フェリックスのことは、アレクにとっても大きな問題なのだ。皇帝となる以上、国や臣下を父から受け継ぐことは理解し、納得できるだろう。

 

 だが、親友も父の遺言によるものだと知れば、どう思うことだろう。勅令なのだから、拒否などできないのだといずれ思い至る。もちろん、フェリックスとの友情が、父からの強制によるものではないことはわかるだろう。むしろ、顔も覚えていない父に反発を覚えはしないか。あの子も難しい年齢を迎えるのだし。

 

「私もフェリックスにお節介を焼いている場合ではないわね。

 アレクのことこそ、よく考えないといけないわ。……ああ、もう」

 

 美しい顔を、仄かに紅潮させて考え込むヒルダの目には、嵐の去った朝の、夏の名残りの薔薇の花束が映っていた。こちらの方こそ、とても正直に言えたものではない。新銀河帝国の皇太后という肩書きも、子育てには無力だ。

 

 とりあえず、子供に恥ずかしくない恋愛をしなさいという忠告をするか否か。悲しいかな、帝国の首脳部に胸を張ってアドバイスができそうな人物は、息子の親友の両親ぐらいだ。

 

 また問題が一巡してしまい、無限回廊を築いていきそうだった。立憲君主法の制定と、甲乙つけがたい難問であった。


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