その日、どうやって家に帰りつけたのか、エヴァンゼリンは、はっきり覚えていない。それでも熟練の主婦の技で、夕食を作り、息子と一緒に食べたようなのだ。皿もきちんと洗ったらしい。帰ってきた夫の声で我に返った時には、台所はいつものように綺麗に片付いていた。
ただならぬ妻の顔色に、こちらも血相を変えたミッターマイヤーに、彼女は昼間に聞いた疑問をぶつけた。豪胆な国務尚書が絶句して、瞳の灰色が顔中に拡散された。
それが答えだった。夫の考えではないことと、女帝の意味を知ってはいなかったこと。エヴァンゼリンは、声を絞り出した。
「……あなた、ねえ、あなた。アレク殿下はご存知なの? そして、皇太后陛下は」
「俺にはわからん……。だが、フロイライン・ペクニッツは知っていたんだ。
だから、あの時も、今も断り続けている」
「なぜ、なぜです! まさか、ゴールデンバウムの再興をお考えでは……」
「……わかったぞ、エヴァ。再興ではない。――逆だ。
皇帝ラインハルトは、血統によって帝位を継ぐことを否定された。
ローエングラム王朝は、ゴールデンバウム王朝から、宇宙を奪ったと言われている。
しかし、大公殿下とフロイライン・ペクニッツが結ばれれば、婚姻によって帝位が繋がる。
だからか!」
これもまた獅子帝の遺訓。それを破ったと言われないがため、帝位から見ると祖母だと告げた。祖母と孫が結婚するのはおかしい。そういう意味であったのか。
「考えてみるべきだった。あの令嬢は、一人っ子のフェリックスを婿にすると、
俺の家が困るからと断ったんだが、真の理由は違った。俺には教えてくれた」
「なんとおっしゃいましたの」
エヴァンゼリンは、冷え切った指先を固く握り締めた。
「フェリックスの実母は、自分と近い血筋だと。髪の色が似ている。
ああいう淡い色の金髪は、リヒテンラーデの一門に多かったそうだ。
名前も似ているだろう。……エルフリーデとエレオノーラ」
クリーム色の髪と象牙色の髪の女性たち。格上の優れた親族にあやかる、貴族の風習による名づけ方。それは、近親婚を避けるための知恵でもあった。後に知ったミッターマイヤーは、かの令嬢に更に舌を巻いたものだ。六年を隔てて、彼の妻も夫の思いを共有することになった。
「ロイエンタールの元を飛び出した彼女を、保護していたのが公爵夫人かもしれない。
ロイエンタールが、マールバッハ伯爵の孫にあたるということも言われたんだ。
フェリックスには、リヒテンラーデとマールバッハという貴族の血が流れている。
帝国の至宝に育てられた宥和の象徴。大公アレク殿下の直臣としてふさわしい。
ペクニッツ家の婿にはもったいないと」
エヴァンゼリンは、夫の胸に縋りついた。息子を袖にした少女と、どこかしら共通する色合いの髪を打ち振り、瞳に涙を滲ませて。
「なんて、なんてことでしょう。……いけませんわ、あなた!
フロイライン・ペクニッツをそのままになさっては。
きっと、大公妃殿下と同じ道を選ばれるおつもりだわ」
「エヴァ、いきなり何を言い出すんだ」
「ヤン元帥がおっしゃったことを、よくお考えになって。
大公妃殿下の子孫が、帝位に就くことがあっても、
ローエングラム王朝ではなくなるということでしょう!」
「なっ……」
胸郭を殴りつけられるような衝撃だった。
「大公妃殿下は、皇帝の寵姫だった方だわ。その意味をご存じないはずがないでしょう。
ましてや、女帝でいらした姫君です。
フロイライン・ペクニッツのお子には、ゴールデンバウムの血が流れる。
もし、フェリックスと結ばれれば、アレク殿下のお子と帝位を争う存在を生み出してしまうと!」
妻を抱きしめかえすことも忘れて、ミッターマイヤーは呆然と呟いた。
「あれは、そういうことでもあったのか?」
底知れぬ群青の瞳には、皇太后ヒルダとは異なる種類の智が湛えられていたのか。そのことを、女帝擁立の一報だけで、黒い瞳の持ち主は察したのか。
ミッターマイヤーは、改めてヤン・ウェンリーに恐れを抱いた。恒星の如く、その天才を輝かせたラインハルトとは異なる。星をも取り込む宇宙の闇のように、どれほど深い知性と洞察力を持っていたのだろう。凡人が衆知を集める民主共和制には、有害とさえいえる存在であることも、彼は覚っていたのではないか。給料分の仕事というのは、軍人の規範を超えないという意味もあったのだろうか。すべては疑問形だ。それが残念だった。この難問に、彼は何らかの答えを持っていただろうに。
「あなた、皇太后陛下にお知らせして下さいな。
ヘル・ムライにもお願いして、ヤン提督の言葉を伝えていただいて」
エヴァンゼリンは顔を覆った。ひそめた嗚咽の合間から顔を出した疑問は、夫を戦慄させた。
「国とはなんなのかしら、ウォルフ。
十歳の女の子に、そんな悲しい決心をさせてしまうのが、先帝陛下のご遺訓なのですか?
フェリックスは許されて、あの子は許されぬまま。
生きていられるだけで、先の王朝よりもこの王朝は慈悲深いと、そういうことですか」
「エヴァ!」
「わたしには、国家というものは正直よくわからないわ。
でも、十五年も前の先帝陛下の言葉が、少年少女たちを縛る。
それでは、旧王朝と何も変わっていないということではないの?
今を生きる子どもたちのために、お考えになってください」
知らぬ者が知らぬうちに、知る者は密やかに決意を固めているのだろうか。人は、自らが生まれる場所を選ぶことはできない。それを二度と利用はさせないと、心の芯に静かに叛旗を突き立てて。
「ああ、そうだな。おまえの言うとおりだ」
再び、宇宙一高貴な保護者の相談会がひっそりと開かれ、外部講師も招かれた。老紳士は、魔術師の言葉を伝えた。色を失うヒルダとミッターマイヤーに、彼は軽く咳払いをした。
「申し訳ありませんでした。私も少々、言葉がよくなかったようです。
当時の私は、ヤン提督の参謀長をしておりましたが、
この人は何を言い出すのかと、仰天したものですよ。
しかし、帝国からの亡命者であった、シェーンコップ中将も、同様の反応でした。
現に、国務尚書閣下のご夫人もご存知ないようですからな」
「いいえ、私も存じませんでしたわ」
「皇太后陛下、私も妻と同様です」
「なるほど、そういうことでしたか。
恐らく、帝国の中でも知識差のある事柄なのでしょう。
皇帝の目にとまり、皇子の母となりうる階層の人々にとっては、
当たり前の知識ですが、関係のない者は知らないという類いのものです
貴族の女性が、母や親族の女性から教えられるのでしょうな。
皇太后陛下がご存じないというのなら、その可能性が最も高い」
ブルーグリーンと灰色が、老眼鏡の奥の漆黒を見つめた。
「どういうことですの、ヘル・ムライ?」
「つまりですな、ペクニッツ公爵夫人や令嬢は、
皇太后陛下がそれをご存じなかったとは、考えてもいないのでしょう。
知っていて、大公殿下の求婚を認めていらっしゃる、
王朝の交代を婚姻によって、さらに正統なものとなすおつもりだと、
そう受け取っているのかも知れませんな。困ったものだ」
自分達が知らないということを、相手は知らない。ムライの指摘はそれだった。男子相続の意味、王朝の交代を告げる女帝という存在。
「皇太后陛下は、当時のローエングラム公の相談役でいらしたのでしょう。
カザリン嬢を帝位に就けたのは、陛下の献策であると思ってもまったく不思議はない」
「まさか、公爵夫人がそのように」
色をなしかけるミッターマイヤーに、魔術師のものさしは正論を告げた。
「いや、それにはいささか無理がありましょう。
女帝に就けられたことを、真実恨んでいるのなら、
何も言わずに殿下の求婚を受けられるでしょう。
ローエングラム王朝の血脈を、再びゴールデンバウムの血で塗り替えることができる」
旧同盟の人間から、こんな閨閥論を聞く日が来ようとは、帝国人には想像もつかなかった。
「おや、驚かれたようですな。
私や、ヤン提督のルーツである地球のアジア圏は、
専制君主による王朝が、非常に長く続いた歴史がありましてな。
こういう話は枚挙に暇がないのです。血を流さない、血による闘争と言えましょう。
つまり、受けたほうが復讐になるわけですよ。
それを拒むということは、逆の感情をもっていらっしゃるということです」
二対の目でOの字を形作る貴顕らの前で、ムライは不慣れな笑みを浮かべた。
「私は、大公アレク殿下の求愛には脈ありと見ますな。
深い友情と愛情なくしては、そもそも文通は続きませんよ。
国務尚書閣下の奥方に、お貸しそびれた本のように」
そして、ムライは大公アレクにと、古い古い物語を手渡した。小さな島国の、天皇と呼ばれる君主の血を引く青年が主人公だという、恋と短詩で織りあげられた、美しい物語を。
「大公殿下に、私からの贈り物です。
この本では、男は濃やかに愛情を表現して、美しい歌を贈って女性の心を動かす。
やはり、心を言葉で伝えなくてはいけないんですな。
言葉が伝わらぬと、梓弓や白玉のような悲劇となる」
謹厳な紳士の思わぬ贈り物に、ブルーグリーンの瞳をせわしなく瞬かせた保護者の一人が、首を傾げて、疑問を口にした。
「……悲劇ですか?」
「『梓弓 引けど引かねど 昔より 心は君に 寄りにしものを』
『白玉か 何ぞと人の 問いしとき 露と答えて 消えなましものを』
前者は女性の、後者は男性の歌です。いずれも女性の死で終わる話です。
だが、誰であれ、置いていかれるのは辛いものです」
周囲に皺の刻まれた、黒い瞳は誰を見ていたのか。ブルーグリーンと灰色も、失った人を
「しかし、見事に恋が成就する話もあります。
筒井筒というのは、私のルーツでは、男女の幼馴染を指す慣用句にもなったほどでして。
要するにですな、もっと文通をお続けになることをお勧めしますよ。
首尾はどうあれ、人生の宝となるでしょう」
魔術師のものさしは、なかなかに手厳しかった。アレクの恋が実らないこともありうると、そう言ったも同然である。
「親としては、実ってもらいたいのですけれど……」
「私もそう願っておりますが、恋情というのはまことに難しい。
日本にはいろいろな古典文学がございましてな。
この世ならぬ美女に、五人もの貴公子が求愛するのですが、
彼女はその気がないので、貴重な宝物を持って来た者に応じると答えます。
誰も贈り物を用意できず、すげなく袖にされてしまう。
ようやく、君主の求愛に、本当にしぶしぶ了承するのです」
「は、はあ……」
ヒルダが言葉を探しあぐねているので、仕方なくミッターマイヤーが相槌を打った。
「実は、その姫君は月の国から流罪になった貴人だったのです。
故郷からの迎えに、君主の求愛も振り捨てて、月へと帰ってしまう。
地位によって強制したところで、相手の心が伴わなくば、
より強く高い理由をもって、女性の方に断られてしまう。
獅子帝ラインハルト陛下の言葉が、月からの迎えとなるか否か。
それは、大公殿下次第ですからな」
ヒルダとミッターマイヤーは顔を見合わせた。夫人へのプロポーズに、小ぶりの黄色い薔薇を贈ってしまった者と、
前者の花言葉は、笑顔で別れましょう。
後者には二つの意味がある。一つには温かな心。二つ目は和合。意味を知っていたならば、考えうるかぎり最悪の選択である。あれは合意の上と、父親の前で受け渡しをしてしまった。父が、二人とも落ち着いて考えなさいと言うのも無理はない。
しかし、両方とも知らなかったのだ。貴族の因習と馬鹿にしていた事柄に含まれていたので。そのエピソードを聞いたアンネローゼが、倒れそうになったのは言うまでもない。
寵姫の弟として入学した幼年学校には、そういった礼儀作法の授業もあるのだ。テストの対象とはならないし、帝国の改革の野望を抱いていたラインハルトは、耳を素通りさせていただろう。ヒルダと同様に。
「どうしましょう……」
途方に暮れるヒルダに、ミッターマイヤーは返すべき言葉を見つけられない。ムライは、咳払いをした。
「先日、軍務省にお渡しした本ですが、ヤン夫人のインタビューが含まれていましてね」
「ええ、私も拝読しましたわ。よく意味がわからなかったのですが」
ヒルダの首を捻らせたのは、フレデリカ・G・ヤンの言葉の一節だった。
『一回目のプロポーズは、軍服のままシンデレラ・リバティの時に。
二回目は軍服を脱いで、真紅の薔薇と一緒に。
あの人が、よくも知っていたと思いました。
きっと、周囲の人の知恵を借りたのでしょうけれど』
「ヘル・ムライ、シンデレラ・リバティというのはどういう意味ですの?」
ムライの額に、山脈と峡谷が生まれた。二回目の方だけ注目してくれればよかったのだが。正直に言えるわけがないだろう。その求婚が、ヴァーミリオン会戦の直前の休息時間だったことは。ヤン・ウェンリーは、この戦いが終わったら結婚しようと、フレデリカ・グリーンヒルに申し込んだ。彼女の回答はイエス。
その結果かどうかは余人にはわからない。しかし、一万隻も多い帝国軍を相手に、皇帝ラインハルトを撃破寸前まで追い詰めたというのは事実だ。ムライはもう一度咳払いをした。
「それは、本題とは関係ありませんので、今は割愛いたしましょう。
ヤン提督は、苦手なことを、他人に任せられる度量があったのです。
恐らく、真紅の薔薇はキャゼルヌ氏やシェーンコップ中将のアドバイスでしょう。
皇太后陛下は、典礼省とその顧問に、お任せすればいかがですかな?」
ヒルダははたと手を打った。
「ヘル・ムライのおっしゃるとおりですね。
先帝陛下を育てた方に、この際責任を取っていただきましょう」
ミッターマイヤーは直接的な回答を避けてこう言った。
「皇太后陛下。大公殿下は立太子式や戴冠式について、学び始められる時期です。
その一環となさればよろしいかと存じます」
ムライも頷いた。
「左様です。将来的には大公殿下ご自身の問題にもなるでしょう。
憲法改正をお考えならば、皇帝の婚姻や帝位の継承も関わってきます。
徐々に、知識を蓄積しておかれたほうがよいでしょうな。
知識は戦力とは違います。頭脳と心にとっての食べ物ですから、
本人の消化吸収が追いつくように、少しずつ与えた方がよいと考えますよ」
そして、シンデレラ・リバティについては、結局口を濁したまま、ムライは難行を乗り切った。皇太后ヒルダは、外務長官ヤン夫人と親友だから、本人から直接聞けばいいのである。何が馬鹿馬鹿しいといって、他人の惚気を他人に伝達するほど白けるものはない。当事者同士、話をするがよろしかろう。揉んだ眉間の下に、そんな思惑を隠して。
「もうひとつ、付け加えさせていただけるなら、
公爵夫人は娘に自由に生きて欲しいと願っていらっしゃるようです。
側室を迎えて、跡継ぎとなる男児と、自身の知識を伝達する女児を得たわけです」
またまた、呆気に取られる皇太后と国務尚書だった。
「お詳しいですな、ヘル・ムライ……」
「これも日系イースタンの物語の一節ですよ。美貌の貴公子が位人身を極め、
美しい正室を迎えるのですが、なかなか子供に恵まれない。
彼女は、夫の側室の娘を大事に育てて、帝に嫁ぐような貴婦人にするのです。
貴族の知恵は、昔も今も、姓の東西も変わらないのでしょうな」
「それにしても、アレクの恋心と、どう関係がありますの?」
「公爵夫人は、非常に母性的な優しい女性でいらっしゃる。
カザリン嬢も、よく似た性格ではないのでしょうかな」
くすんだ金色と、やや色の淡くなった蜂蜜が同時に頷いた。
「ええ、弟妹を可愛がって世話を焼くこと、まるで母親が三人いるようだと、
公爵ご自身のお言葉ですわ」
「カザリン嬢にも、弟妹の世話を通じて、貴族としての子育てを学ばせているのでしょう。
アレク殿下の求婚を受けても大丈夫なように。
しかし、父親のほうは、異なる生き方もできるように、
新領土の知識や、事業家としての手腕も教育しているようですな」
ムライは皇太后を見据えて、静かに言った。
「もう、娘にあんな真似は許さないということでしょう。
人間は守るもののためには、立ち上がり戦いを選ぶようになります。
何も特別な感情ではなく、普通の人間が当たり前に持つのです。
最初から天才でなくとも、強くなどなくても、人は変わることができる。
あの本の少佐のように」
ヒルダも眉間を押さえた。魔術師のものさしは、見えない炭素クリスタルの定規で、彼女の鼻っ面をぴしゃりと叩いたのだ。あの本の少佐ぐらい手強いことも覚悟しろと。
「……ありがとうございました、ヘル・ムライ。
とてもためになるお話をありがとうございました。
アレクにも、あなたのルーツのお話をしてやってくださいな」
「それは、喜んでと申し上げたいのですが、これらの物語の男性は、いわゆる色好みでしてな」
「まあ」
口許を押さえて瞬きするヒルダと、無言で鳩尾をさするミッターマイヤーだ。思春期の少年に、同性の大人としては教えにくいというのは、心から納得できる理由だった。
「門外漢がお教えするのは、いささか荷が重いと申せましょう。
ハイネセン記念大学の、超光速通信講座をお勧めいたしますよ。
比較文化論の見地から教えているのですが、非常にわかりやすく面白い。
ミズ・キャゼルヌは、いい先生になりましたな。
しかし、ヤン提督の幽霊は、未だに謎だそうですがね」
そうやって、思いは繋がれていく。時には血縁を超えて、敬愛する人の後ろ姿を追って。 シャルロット・フィリス・キャゼルヌは、あの幽霊が入りたかった学校に進学して、就きたかった職業に就いた。やや、専攻は異なるが。
ほぼ時を同じくして、軍務省官房長フェルナー大将が、なんとか人員をやりくりして取り組んでいた、『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿』の翻訳が一応の完成をみた。
本を渡されてから、半年以上を経過した新帝国暦十七年二月のことだった。