銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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第六章 有害図書愛好委員会

 親愛なるカザリン

 

 バーラト自治領のヘル・ミンツとヘル・アッテンボローが本を出版したんだ。ヤン元帥の弟子と後輩の名将が、今や大学の准教授とジャーナリストなんだから、バーラトというのは凄いところだね。ヘル・アッテンボローは、ほんの四年前は政治家だったのに、全然違う仕事に就いているんだから。これが、職業選択の自由ということだそうだよ。

 

 それにしても、軍人としても、政治家としても、ジャーナリストとしても功績を上げるというのは、ご自身の才能だ。それもまた凄いことだ。メックリンガー大公府総長と、似たタイプだと思う。才能的にはね。性格は全然違う人だったけれど。

 

 本のタイトルは『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿』だ。もちろん、帝国には売られていないけど、母上がちゃっかりヤン夫人にお願いして、二人の著作者から寄贈を受けていたんだ。一年近く前にだよ。

 

 フェルナー大将が大苦労していたのに、それは抜け駆けだと思わないか? これは僕の感想だから、無理に答えを返してくれなくてもいいからね。

 

 僕が読んだのは、軍務省と学芸省とで訳した物だ。大変だったことだろう。正直に言うと、訳がところどころ変で、意味が通らない箇所もあるんだよ。帝国語と旧同盟語は、似ているけれどやはり違う言葉だね。でも、医師の教科書がそれでは困る。あの本を翻訳したペクニッツ公爵とホアナ夫人の凄さがようやく理解できましたと、ご家族にも伝えてください。

 

 それでも、とても面白い本だった。だからこそ、完全な訳で読みたいと思ったよ。あるいは僕がもっと勉強して、旧同盟語をすらすら読めるようになるかだね。どちらもすぐには難しそうだけれど。

 

 ヤン元帥は、沢山の言葉を残した人だから、思いの欠片が伝わるんだ。ご家族を早くに失くされたけど、その言葉もその思いも、周りの人に伝わっていたんだ。羨ましいと思う。

 

父上が心を打ち明けられる人は、故キルヒアイス大公殿下しかいなかったのだろうか。そして、メモを残すような時間はなかったんだね。行動あるのみで、それに向かって仕事に励む、たいへんな働き者だったんだと、ミッターマイヤー国務尚書が教えてくれた。それは寂しかったからかもしれないと、最近思う。

 

 ヤン元帥はサボりの常習犯で、あのキャゼルヌ事務総長に怒られながら仕事をして、それでも手を抜いていたんだそうだ。……それもすごいことだ。僕には無理だ。きっと震え上がって仕事をするだろうな。でも、そんな時間に書かれた膨大なメモが遺されているから、彼の死後まで考えを残せたのだろう。それをまとめるのが、ヘル・ミンツの次の目標だそうです。

 

 僕も、更に旧同盟公用語の勉強をして、その本は原文で読めるようになりたいと思っている。その頃には、帝都でもバーラトの本が自由に売買できるようにしたい。もちろん、旧都でも。

 

 僕がそう言ったら、買い手がつくかが問題でもあるらしい。商売というなら、そちらも考えないといけないんだね。超光速通信(FTL)によるデータ配信だと、内容を変更されてしまうかもしれないから、紙の本による流通を選択したんだそうだ。半面、輸送費がかかるので、売れないと損をしてしまう。なるほどと思わされた。

 

 こちらはヘル・アッテンボローの言葉だ。

 

『帝国と旧同盟は百五十年も戦争を続けました。その遺恨が十分の一で消え去るとは思えません。

 今の赤ん坊が大人になったころならば、この本が帝国本土でも売れるかもしれませんが、

 まだ当分は無理でしょう。あの戦争が、時の流れに熱を冷まし、血の色を薄れさせるまでは』

 

 そっくり同じことが、新領土やバーラト自治領でも言えるんだ。それでも平和が保たれている意味を、よく考えていきたい。

 

 アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム

 

 

 そして、こちらがフェリックスが見せられた返信だった。

 

 

 親愛なる大公アレク殿下

 

 最初に、父と夫人の翻訳へのお褒めのお言葉に、お礼を申し上げたいと思います。双方とも、とても光栄に存じております。しかし、ホアナ夫人はこうも申しました。教科書は誰にもわかるような言葉で書かれているから、文学作品を訳するのとは難しさが違っておりますと。

 

 そして、父はこう申しました。

 

「人の心は、国を変えても、そう大きな違いはないものだ。

 誰しも豊かに、幸福に生きたいだろう。そして、子どもには幸せになってほしい。

 そのためにも、平和で、争いのない国に生きたい。

 それが叶わないから、人は悩み、苦しんで、心にも怪我をするんだ。怪我にもいろいろある。

 すぐに治るものもあれば、治るまで長い年月を要するものもある。

 だが、ゴールデンバウム王朝は心に怪我をするな、

 怪我をした者は役立たずだと切り捨ててきた。

 先帝陛下と皇太后陛下が、それを改めてくださったんだ。

 その恩義をわずかなりともお返しできればいいが。

 まあ、これは結果論になるな。あの頃の私は、それどころではなかったよ」

 

 わたくしにも、うっすらとした記憶がございます。助けの手を差し伸べてくださった、皇太后陛下と大公妃殿下に、改めてお礼をさせていただきたいと思いました。

 

 それにしても、軍務省のお仕事というのは、本当に多岐にわたるのですね。父の友人には大公府にお勤めされている方が何人かいますが、新銀河帝国になってからの変化には、目を瞠るものがあるとのことです。

 

 たとえば、空き家になっていた貴族の屋敷の一つを、テイラー・コモリ社が買い取りました。半分は帝国の服飾を研究、展示する博物館に、残りの半分をホテルにしました。ホテルの従業員の手配も、父たちの会社が手がけることになりました。かなりの雇用が期待できそうだとのことです。

 

 もうひとつ、庭師の方たちにも、新しい職を生むことになりました。生垣や木々の手入れに、季節の花の植え替えなど、空き家には欠かせないものです。組合で若い庭師を教育していますが、組合の顧問はミッターマイヤー国務尚書閣下のお父上です。本当にお元気で、誰よりも見事な手さばきで庭木の刈り込みの指導をなさっているのを、わたくしもお見かけして驚きました。

 

 ミッターマイヤー国務尚書閣下の灰色の瞳は、お父上譲りなのですね。お顔もよく似ておいででしたから、すぐにわかりました。大貴族の庭木は珍しい品種が多いので、若い者には任せておけないと、大いに張り切っておいででしたわ。コモリ社の方は恐縮しきりになったそうですが。

 

 痛んでいた内装やカーテンや家具も、帝国の伝統的な方法で綺麗に生まれ変わりました。伝統の様式による建築は、最近はすっかり数が減り、ひさびさに腕の奮い甲斐のある仕事だったと、職人もみな大喜びしておりました。

 

 そして、祖母や母が大事にしていたドレスも、研究用にお貸しすることになりました。伝統を生かしながら、もっと軽く、着心地良い服が作れないものかと研究するそうです。なによりも、祖母のドレスのレースや刺繍を作れる職人を育てたいと言ってくださいました。帝国本土の人の手の技を、フェザーンや新領土の人が認めてくださるのです。

 

 人が何を美しいと思うのかは、星の海の彼方でも変わりはないのでしょうか。わたくしがそう申し上げましたら、ヘル・コモリは笑って頷かれました。

 

 どんな人が美しいと思われるのか、時や場所に大きな違いはないのだと。美しい人が、貴重な存在であることも変わらず、それに近づくために装う。手の込んだレースや刺繍、金襴の布は、特に人を美しく見せてくれる素材だとおっしゃいました。そんな素材を作るための手間が、価値を高めるからで、絶えさせるのはあまりに惜しいと。

 

 また、こうもおっしゃいました。オーディーンは、宇宙有数の時間と手間を掛けられた惑星。大人が何人も手を繋がないと囲めないような太い幹をした木は、帝都や新領土にはないのですと。

 

 わたくしが、当たり前のように見ていた木々も、アレク殿下がお住まいの帝都には、珍しいものでしたのね。自分が当たり前と思うものが、そうではないことを知りました。ミッターマイヤー国務尚書閣下のお父上が、丹精して下さる理由の一つなのでしょう。

 

「このまま平和が続けば、オーディーンの歴史と美観は国の宝になるはずですよ。

 貴族の屋敷を朽ちさせるのは、あまりに惜しい。

 しかし、仇敵の資産だったものを国費で保護せよとは、一足飛びには行きますまいて。

 千光年単位の跳躍航法が早く実現するといいのですがね。

 フェザーンや新領土の者ならば、高級ホテルや別荘にしたいと思うことでしょう」

 

 わたくしは驚きました。オーディーンは、かの地にとっては敵国の中枢のはずです。

 

「我々、フェザーンは百年前に、旧同盟は二百年前に帝国から飛び出した者の子孫です。

 その間の帝国の国内政治について、我々には非難する権利はないでしょう。

 オーディーンの建築物は、帝国本土の平民にとっては搾取の産物です。

 まあ、そう思っている。実際は、普請に動員された平民にも報酬が出ているでしょうに。

 作業員は必ず飲み食いをします。すると、それを売る食料品店にも金が回るんです。

 昨今のように、節約節約では経済が萎縮して、余計に貧乏になってしまうんですよ」

 

 これも思いがけない言葉でした。経済に携わる方の意見は、貴族の者には考えてもみなかったことばかりです。

 

「私もオーディーンで、かなり市場を開拓させてもらいました。

 多少はそれを還元する意味でもありますし、なにより憧れますよ。

 集中した富が生み出す豪奢な美というのは、新領土にもバーラトにもほとんど存在しません。

 五百年近い時の蓄積があるものは、何一つないといっていい。

 そういう文化を、羨む気持ちはあるのです。このホテルは半分道楽のつもりでしたが、

 オーディーンに来るデザイナー連中が、我もと泊りたがる。需要はあるのです。

 千光年単位の跳躍が可能なら、フェザーンから一週間、バーラトからでも十日間。

 素晴らしいでしょう?」

 

 

 そんな研究が進んでいるとは存じませんでした。オーディーンからフェザーンまで、一週間で行ける日がきたら、なんて素敵なことでしょうか。

 

 カザリン・ケートヘン・フォン・ペクニッツ

 

 

 読んだ少年たちは、色合いの異なる青を互いの顔に向けた。

 

「ねえ、フェリク、この手紙どう思う?」

 

「正直に言ってもいいでしょうか」

 

「ぜひ頼むよ」

 

「ペクニッツ公が、ローエングラム王朝賞賛と同時に、

 フロイラインの手紙越しに牽制をかけてきたんだと思われます」

 

「僕も同感だ」

 

 長い睫毛を伏せて、アレクは溜息をついた。こうすると、大公妃アンネローゼにそっくりな美少年なのだが。

 

「大変高度な社交辞令だと思わないか。これが貴族の伝統の社交術なんだね。

 ロイエンタール元帥もこういう育ち方をしてたのなら、

 短気で情緒に欠けたタイプとは相容れないだろう。フェリクはどう思う?」

 

 短気者の息子は悪戯っぽい笑いを浮かべた。この表情の豊かさが、彼の美貌に紗を掛けているのかもしれない。

 

「そちらにつきましては言葉を差し控えたいと存じます」

 

「何にしても、フェリクのお祖父さんもお元気でよかったね」

 

「ほんとうにもう、何をやってるんだろうか。迷惑になってるんじゃないかなあ。

 でもわかりました。祖父が見かけた花の女神は、フロイライン・ペクニッツだったのか……。

 ついにお迎えが来たかと思ったそうです」

 

 

「それは、大丈夫なのかい?」

 

 アレクは形の良い眉を寄せた。フェリックスは眉を下げ、首を振った。いっそ、引退をしてくれればよかったのだが、完全に逆効果だった。

 

「大張り切りで若手をしごいているらしいんです。おかげで、祖母の機嫌が悪くなりました。

 綺麗な女の子に鼻の下を伸ばして、年甲斐もないって」

 

「それにしても、お二人とも、こちらに来るつもりはないのかな」

 

「父も何度も勧めているけど、住み慣れた家や家具がいいし、

 もし家ごと引っ越しができたとしても、友人知人はオーディーンに残る。

 そして、フェザーンでは仕事もできないと」

 

「国務尚書のお父さんを、庭師として雇う人はいないと思うけれど。

 むしろ、オーディーンでお仕事をしているほうが、僕には驚きだな」

 

「昔からの付き合いの建築事務所の新規事業に、押しかけたみたいです。

 そこの創業者とはずっと仕事仲間で、孫の現所長さんには断りきれなかったようで……。

 でも、さすがに帝都ではそうはいかないし、手入れする庭も貧弱なのに、

 どうやって毎日を過ごすんだと、そう言われるとなかなかです」

 

 新帝国の首脳部は、身軽な若い世代が多かった。だから、皇帝ラインハルトの翼についていけた。しかし、時は流れ、フェザーンに根を下ろすと、容易には飛び立てなくなる。オーディーンに住んでいる、アレクやフェリックスの親や祖父母の世代はなおさらだった。

 

「実は爵位貴族もそうなんだ。みんな、オーディーンに家を持つ人だよ。

 七つの園遊会の時に、何人かの貴族の子に、僕の学友にならないかと打診をしたらしい。

 でも、みんなに断られた。前の王朝なら断られること自体ありえないけれど、

 貴族にもお金がないから、子ども一人を別の星で生活させることはできない。

 では、その費用を皇室が持つのか。周囲から憎悪を買うので、お受けできないとね」

 

「そうだったんですか。申し訳ありません、アレク殿下。全然知りませんでした」

 

 豪奢な金髪が左右に振られる。アレクの表情はさばさばしたものだった。

 

「僕も最近になって知ったんだ。バーラトにはオーディーンからでも留学するのに、

 フェザーンに来る貴族の学生が少ないなって、そういう話になってね。

 ゼーフェルト尚書が教えてくれた。

 ここにも学校を作り、いい教師や設備もそろえた。

 でも、軍人や役人の師弟の中に、いじめられるのを覚悟で進学するのは難しい。

 あちらには言葉の壁があるが、そんなに差別はされないそうだよ」

 

「あの国こそ帝国が敵だったはずなのに、なぜでしょうか」

 

「『内政不干渉』だよ。カザリンの手紙にも書いてあるように、

 二百年前に帝国を飛び出して、新たな国を築いたのが新領土の人たちだ。

 百五十年戦争は、自国を守るためのものであり、帝国大侵攻は誤りだった。

 そして外国となった、銀河帝国の国内政治に口をはさむ権利はないって。

 法に触れぬ範囲で、互いに提言や折衝を行い、平和を保ちましょう。

 貴族でも平民でも、バーラト星系内にいる外国人として等しく扱いますというのが、

 あちらの公式見解だ。それに、亡命者だった人が大勢いるからね。

 名字や貴族号でいちいち詮索されないそうだ。学業成績がすべてなんだって」

 

 アレクは肩を竦めた。

 

「学校のレベルは高いし、言葉や文化の壁もあるけれど、貴族にとって、どちらが楽だろうか」

 

「アレク殿下……」

 

 海色の瞳が本棚の一角に注がれた。アレクは読書家だった。宇宙にただ二人の、皇帝ラインハルトの血を引く者。彼が出歩くには、テロに最大級の警戒をしなくてはならない。学校の帰りに寄り道をして、裏町に迷い込む自由さえない。だからアレクは、書物の中で心の翼を羽ばたかせた。奇しくも、その本のタイトルとなった青年のように。

 

「フェリク、よかったらこの本を読んでくれないか。

 君の幸運の星が言ってたことが書いてある本だ。

 君の選んだ道の参考にもなるかもしれないよ。

 この人も、お父さんとは全然違う道を選んだんだ。

 ただし、学校には持ち込まないように」

 

「ちょっとお待ちください、殿下。この本は……」

 

 裏返った声になったフェリックスに、アレクは愛嬌たっぷりに片目をつぶってみせた。その表情筋の器用さは、ある人物を容易に連想させて、フェリックスを震撼させた。

 

「もしかして……知ってる?」

 

 口に出された言葉はないが、小粋に竦められた肩が回答だった。時と場所を超えて、有害図書愛好委員会が誕生する。アレクに渡された本が、フェリックスにも波紋を投げかけていく。

 

 『エコニア・ファイル――ヤン少佐の事件簿』は非常に面白い内容だった。訳の意味が通らない部分も散見されるが、宇宙屈指の名将の若き日が活写されていた。

 

 エル・ファシルの脱出行の後、軍部やマスコミにもみくちゃにされ、退役しようかとこぼしたこと。それを引きとめたアレックス・キャゼルヌはこう述べていた。

 

『最初は芸能界に引っ張りだこになり、次は政界に引きずり込まれる。

 だから、退役するのはやめておけと慰留したのが、私の一生の後悔だ。

 彼が政治家として歩んでいたら、アスターテの会戦自体が起こらなかったのではないか。

 あれもまた、政権支持率を上げるために、ダゴンの会戦を再現しようとした無益な出兵だった。

 エル・ファシルの英雄ヤン・ウェンリーが、国防委員会の議案に待ったをかければ、

 おそらく最高委員会は通らなかっただろう。当然、イゼルローンも帝国の要塞のまま、

 アムリッツァの大敗も起きなかったかもしれない。

 さらに百年も戦争が続いたかも知れないが、

 私は大事な友人を、たった一人で死なせることにはならなかったのだ』

 

 その思いからか、イゼルローン要塞返還時には『雷神の槌(トゥール・ハンマー)』に数倍する威力の、言葉の剣が繰り出されたという。同じく、この本を読んだ運輸労働尚書のアウグスト・ザムエル・ワーレンの言葉だった。

 

「しかし、あの一言で目が覚めた。我々は先帝陛下に従い、全てを委ねてきた。

 それを妻子だからという理由だけで、皇太后陛下と大公殿下に押し付けるのか。

 現場の専門家として、意見を提示する義務があると。

 実に手痛い教訓だった。我々は確かに先帝陛下を絶対と仰いできた。

 そうではない者、もっと冷静に陛下に接していた者に、隔意を抱いていたのだろう。

 オーベルシュタイン元帥や、ロイエンタール元帥のような。

 そういった資質こそが、国政を支える重要事と意識してはいなかった。

 戦争という手段に慣れすぎていた、我らすべての病根だろうな。

 だから、ヤン元帥は講和を望んだのだろう」

 

 硬い左の義手が、出来うるかぎりの丁寧さで、訳文を綴ったファイルを携えていた。アレックス・キャゼルのインタビューは、こう結ばれていた。

 

『だが、たらればもしもの仮定など、彼は無意味と言うだろう。

 歴史にもしもはない、というのが、ヤン・ウェンリーの口癖だった。

 彼のいない平和な世界を、私の生あるかぎりは存続させて、

 あの世とやらで再会するときには、せいぜい悔しがらせてやるつもりだ。

 シェーンコップ中将ではないが、百五十歳まで生きてからだがね』

 

 対等で、友情と皮肉が()い交ぜになった、飾らぬ言葉。こんなことを父に言える人は誰もいないのだ。アレクはラインハルトの孤独を思った。

 

 だが、それは父にも問題はなかったのか。どうして、無二の親友を失うことになったのだろうか。キルヒアイス大公と伯母を大事に思うあまり、他者への天秤は著しく軽くはなかったのか。帝国においては、命の重さは身分によって違う。

 

 でも、命の数は、一人につきただ一つ。皇帝でも平民でも何ら違いはない。姉を奪われて、権力の不公平に憤った少年が、その座に立つとそれを当り前と感じる。帝政とはなんだろうか。絶対的な権力を、ただ一人に任せていいのか。五百年分の疑問は尽きない。

 

 父の輝かしい業績は、幼い頃から何度も聞き、教師からも教えられた。その相手として、必ずと言っていいほど顔を出すのが、黒い髪と黒い瞳の敵将だった。幼い日に、イゼルローンで出会った優しい幽霊。彼は、色々な情報を集めて、公平な視点から物事を考えることを教えてくれた。亜麻色の髪の青年が、金髪の子どもに伝えてくれたことだ。

 

 アレクは、ラインハルトの功績について、様々な文献を熱心に読み漁った。ヤン・ウェンリーが存命ならば、さぞ羨ましがったことだろう。その髪には霜が降り始め、もはや黒髪ではなくなっていたかもしれないが。金髪の少年は、彼の思考法を真似してみようと思ったのだ。


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