銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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※本作は、にじファンに投稿したものを、加筆修正した作品となります。


宇宙暦819年~XXX年 イゼルローン・ポートレイト
イゼルローン・ポートレート


 あの灼熱と激動の時代が、あと数年で二昔前になろうとしていた。三年前に引退した事務長が残した二種類の薔薇は、すっかりバーラト星系共和自治政府の帝都駐留事務所の名物になった。今でも時々は、元事務長のムライが顔を出して様子を見ているが、日々の世話は職員の仕事の一つである。

 

 もっとも、職務外のことであるから、早出や帰宅前といったシフトを組んでのことだ。若い職員の中には『薔薇当番』なんて煩わしいという意見も無論ある。

 

 しかし、一番熱心に世話をする警備主任とその部下達の前で、どうしてそんなことが言えようか。警備主任は、色褪せた麦藁色の髪と青緑色の目をした壮年の男性だ。かつて帝国軍、同盟軍の双方に勇名と悪名をもって知られた薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊、最後の連隊長。カスパー・リンツ退役大佐である。

 

 壮年期も半ばを越え、炭素クリスタルの戦斧を握ることもなくなって久しい。しかし、未だに鍛錬を怠らぬ体躯は強健そのもので、折々に見せる鋭い眼光や隙のない挙措動作など、やわな文官が対抗しうるものではない。

 

 かつての所属部隊と同じ名の花が、敬愛した司令官と通称を同じくしているとあっては、世話にも力が入るというものだった。

 

 リンツ自身も結構まめな性格であった。白兵戦技の技量、陸戦指揮官の指揮能力に裏打ちされた、強烈なカリスマ性を誇った前連隊長を尊敬していたが、自分はああはなれないとも自覚していた。

彼は、部下とは意思疎通を図り、上司とは連隊の運用の折衝を行う調整型のトップであった。また帝国からの亡命者だけあって、帝国語は非常に流暢である。

 

 もう一つ、『金があったら○○になっていた』のは、なにもヤン・ウェンリーだけではない。

 

 リンツの場合は、画家になっていただろう。イゼルローン要塞駐留時代は、よく上官や同僚、部下の肖像をスケッチしていたものだ。つまり、人間の顔を覚え、見分けるのに秀でていたのである。空戦隊の元ハートの撃墜王(エース)とは違って、男女双方分け隔てなく。

 

 彼を警備主任にしたのは、あの最後の戦いで戦傷を受けた薔薇の騎士達の受け入れ場所を探した結果でもあったのだが、これ以上ない適材適所となった。不審人物を見分け、不穏な空気を察知する認識能力。そして、元部下からの信頼と実績。これらが有機的に噛みあい、半ば敵地で孤立するにも等しい駐留事務所を守り抜いてきた。

 

 なにしろ、バーラト星系共和自治政府の前身は、銀河帝国ローエングラム朝の最後にして最大の敵であった。当時の軍司令官にしてからが、先帝ラインハルトの旗艦に突入し、人血に塗れた装甲服で対面を果たしている。

 

 石もて追われるどころか、家屋破壊弾を投げ込まれても、リンツ自身は仕方がないと思う。しかし、外交的、政治的に互いにとって非常にまずい。帰還した二百余名の薔薇の騎士のうち、約半数がバーラト政府に籍を置き、そのうちの半数がこの帝都に在留し、交代で警備にあたっている。

 

 しかし、やはり戦火が途絶えて十五年余りも経てば、風も少しは冷たさを減らすものだ。『ヤン中尉の薔薇》の情報は、ムライ元事務長が見事に遮断したが、咲く花の数は年々増えていった。ミュラー軍務尚書の元帥府も似たような状況であるが、薔薇の色合いが少し異なる。元帥府は、ピンクとクリームイエローの色調が多く、駐留事務所では象牙色が多い。なによりも違うのが漂う芳香で、事務所のそれはお茶会でも開いているようだった。

 

 薔薇は古くから画家に好まれた画題である。色調と花容に樹形、いずれも数多(あまた)あるが、どれも美しい。リンツが非番の日には、画帳片手にスケッチを楽しむようになった。出来のよいものには、簡単に彩色を施すこともある。

 

 リンツ自身は、どちらかというと人物画の方が好みなのだが、警備主任としては迂闊なことはできない。まだまだ旧同盟を憎む帝国人も多いのだ。自分の家族、はたまた駐留事務所の職員の肖像画がなにかの弾みで流出し、テロの資料にされるのは願い下げである。

 

 かといって、元が半分砂漠のフェザーンには、帝都近くに景勝地がない。完成した皇宮『獅子の泉(ルーヴェンブルン)』は大きいが、質実堅固な建物だった。昔、立体写真で見た『新無憂宮(ノイエ・サンスーシー)』のように広大壮麗なものではなく、絵心をそそられない。もっとも、リンツも立場が立場だ。皇宮をスケッチしていたら痛くもない腹を探られるだろう。

 

 かくして、大人しく薔薇のスケッチに勤しむというわけだ。ムライに倣って、違う花でも植えようかと思わないでない。しかし、フェザーンの気候に耐え、余計な死角を作るような植物ではないというと種類が限られてくる。

 

「どちらも棘があるが、サボテンはちょっとなあ……」

 

 画題として、こちらも正直あまりそそられない。花は美しいが、悪友の表現を借りるなら『顔だけ綺麗でもいい女とは言わない』のである。リンツは花の種類には疎い。

 

「そのうち、ミュラー元帥にお願いして、国務尚書の父上に教えていただくことにしようか。

 ところでビッテンフェルト元帥閣下、本日は何のご用でしょう」

 

「い、いや、用事というほどのものではない。近くを通りかかったので、様子を見に来ただけだ」

 

 オレンジ色の髪の猛将は、リンツに声を掛けようとしたところで機先を制された。

 

「随員も連れずに、お独りでですか? 

 くれぐれも気をつけていただきませんと当方としても困ります。

 もしも、帰路になにかありましたら、我々バーラト政府の責任問題になりかねません」

 

「随員ならば車にいる。それにしても卿にこんな特技があったとはな。ほう、上手いものだ」

 

「素人の手すさびをお褒めいただき光栄です。

 ところで、酒宴を開くならこちらではやめてくださいよ。

 ミュラー元帥府の出来事は、ラッツェル中将から聞き及んでおりますので」

 

「本当に褒めているのだから、素直に聞かんか! まあ、薔薇の様子を見に来たのも半分だが、

 近々メックリンガー代官府総長がオーディーンから来るのだ。それでここに相談があってな」

 

「十分に立派な用事ではありませんか。

 ただいま取り次ぎをいたしますので、少々お待ちください」

 

「違う、卿自身にだ。今そう決めた。こういう特技があるなら多少は詳しいだろう」

 

「何がでしょうか」

 

「せっかくフェザーンに来るなら、旧同盟の画材を研究したいそうだ」

 

「それで皇太子領の総長閣下が、わざわざオーディーンからおいでになると?」

 

「まあ、本来の用事のついでだな。今度、奴が学芸尚書に就任するのだ」

 

「だから、それが重大事だというのです! ……そんなにうちの事務長が苦手ですか」

 

「い、いや、そんなことはない、断じてない!」

 

 結局、ビッテンフェルト元帥は三歳年下の警備主任に苦言をもらい、事務長と面談することになる。彼は性格的に、元事務長のムライを苦手としてきた。ムライが交代して、彼もイゼルローン要塞司令官に任命され一息つけるかと思ったが、残念ながらそれは長く続かなかった。

 

 三番目の後任者は、惑星シャンプール出身で、アレックス・キャゼルヌが見込んで育てた経済官僚だった。彼女は、まだ小学生のころに救国軍事政府のクーデターに遭っていた。それを鎮圧したヤン艦隊、それも薔薇の騎士連隊を命の恩人と思っていた。

 

 年齢が許せば、イゼルローン軍に身を投じていたかも知れない。しかし、当時はまだ無理だったので、彼女は代わりにできることを探した。それが亡命者だった曾祖母から、熱心に帝国語を学ぶことだった。その甲斐あって、帝国本土人同様の語学力の持ち主となった。そういう女性が、キャゼルヌに認められるほどの有能さと鋭敏さを備えていたのだ。これが氷、あるいは鋼鉄のような女傑だったら、まだ帝国首脳部にとっても気が楽だった。

 

 バーラト星系共和自治政府事務総長の、先の尖った黒い尻尾はいまだに健在だった。新銀河帝国の首脳部は、ほぼ男性だ。旧同盟やハイネセン共和自治政府の構成員の男女比に、早く慣れさせてしまえ。ついでに、いい男がいたら旦那として連れてこい。

 

 そう言われて赴任した駐留事務所長は、春の女神の侍女が勤まりそうな優しげな容姿の持ち主だった。中身の方は、事務総長の不用意発言を、微笑みと言葉一つで黙らせる『白き魔女』の系譜を継ぐ者だっが。彼女は、真綿のように柔らかく強靭に、数々の交渉に辣腕を振るった。

 

 銀河帝国ゴールデンバウム朝にあっては、女性の高等教育の体制は十分なものではなかった。マリーンドルフ伯爵令嬢(フロイライン・マリーンドルフ)は、例外も例外な存在だった。平民はなおのこと、総じて帝国の女性は今も早婚傾向にある。

 

 旧同盟では珍しくもない、高等教育を受け、官僚としてキャリアを積んだ未婚女性(フロイライン)など、帝国首脳部の思考の埒外だったのだ。まず、呼称一つにも右往左往した。昨年彼女が結婚して、今度は呼称を夫人(フラウ)と変更すべきかで首脳陣を悩ませた。結局、事務所長は業務上では旧姓を名乗り続けたので、彼らの困惑は不要のものとなった。

 

 その顛末を聞いて、駐留事務所の所員は嘆息したものである。社会的慣習、常識の擦り合わせは宇宙統一より難しいのだと。人種、文化の混合が進んだ同盟でも、氏名表記にW式とE式が混在しているのだから。

 

 それから、様々な折衝を経た約半月後のことである。エルネスト・メックリンガー学芸尚書とカスパー・リンツ退役大佐は、ビッテンフェルト元帥府で互いを紹介された。

 

 前者は、旧帝国の学術院にも認められた水彩画家であり、ピアニストであり、散文詩人だった。

後者は、素人の日曜画家で、薔薇の騎士連隊一の歌い手という程度であった。

 

 当初は、二人はメックリンガーの疑問に、リンツが答えるという形式の交流を行った。帝国の文化、芸術は古典復古調なものである。西暦十八から十九世紀の西欧の文化形態に近い。旧同盟の美術、音楽の表現の多様性は、帝国にはないものだった。

 

 画材についても、旧同盟の方がはるかに多様で、しかも安価である。旧帝国においては、画材は職業画家や貴族、富裕な中産層にしか購入できないものだった。

 

 元々、旧帝国と旧同盟では、中産階層の人数、教育の充実に圧倒的な差があった。戦後十五年以上が経過しているのに、その擦り合わせにはまだまだ試行錯誤が続いている。この問題は、教育を受ける側、すなわち子供たちがどんどん成長してしまうことだった。新帝国にとっては、喫緊の課題である。

 

 一方旧同盟では、教育課程について大きな変更はなかった。むしろ新帝国にノウハウを供給する側である。一般人の初等、中等教育にも絵画や音楽のカリキュラムがあって、そこで興味を持てば専門教育を受けなくても、趣味で続けることもできるのだ。

 

 帝国側から見れば、驚異的なことである。門閥貴族制を廃し、農奴階級を開放しても、教育や福祉の充実は一朝一夕にいかない。旧同盟のようにどの家庭の子どももみな中等教育を受け、家計が許す範囲で様々な娯楽や芸術を楽しむ日が来るのだろうか。考え込んでしまうメックリンガーだった。

 

 メックリンガー自身はかなりの富裕層に生まれ育ち、芸術を続ける為に軍人として安定的な収入を得たが、やはり支援者を必要とした。 一方、亡命者で軍隊に入ったリンツは、中等教育までの授業以降は、ほぼ独学で絵を描いてきた。あまり豊かとはいえない下士官の給与でも、それなりのことはできたのである。そのリンツの才能は、メックリンガーにとって新鮮なものであった。似たような趣味の持ち主は、その感受性にも少なからぬ共通点があるということだ。階級にして七段階――旧同盟なら六段階――、年齢も七歳違いの彼らは、やがて同好の士として交流を深めていく。

 

 特にメックリンガーの興味を惹いたのは、イゼルローン駐留時代のヤン艦隊の面々の肖像だった。モデルの階級と氏名、描かれた日とリンツのサインが記されている。

 

 やはり多いのは、要塞防御司令官と薔薇の騎士連隊の面々である。

 

 要塞防御司令官――ワルター・フォン・シェーンコップ中将――は、同盟軍で一、二を争う色事師だったそうだが、それもなるほどと頷ける美丈夫ぶりである。画家にとっては絶好のモデルだったようで、何度も画帳に登場している。時に白兵戦の訓練風景として、あるいは少し皮肉な笑顔で。

 

 童顔で純朴そうなライナー・ブルームハルト中佐は、チェスで王手をかけられて、呆気にとられた表情を切り取られている。心やさしい褐色の雄牛といった巨漢のルイ・マシュンゴ大尉が、それをなだめていた。そのほかにも、怜悧な印象の美男子に、強面で三次元的な肉体の持ち主や多くの部下が描かれている。勇者を迎える女神(ブリュンヒルト)(かいな)に抱かれて、今は去った魔術師の騎士達。

 

 艦隊司令部の面々も画帳に登場していた。

 

 目鼻のかわりに『秩序』と描き込まれているのはムライ元事務長。現在ではやや肉が落ちたが、姿勢の正しさや体つき、顔の輪郭でそれと分かるのは大したものだ。

 

 理知的で、瞳のきらめきが伝わってきそうな美貌の女性は、フレデリカ・G・ヤンだった。歳月は、彼女の上にも降り積もっていたが、今も美しさはあまり変わっていない。

 

 デスクに積まれた書類にサインをしているのは、アレックス・キャゼルヌ事務総長。現在では、絵よりもすこし恰幅がよくなり、薄茶の髪は白いものが混じり、眼鏡をかけはじめた。

 

 もつれたような髪とそばかすのダスティ・アッテンボロー。彼の二歳年上の先輩も若く見える人だったが、彼はまた違った若々しさがある。悪童の雰囲気とでも言おうか。本来の志望どおりジャーナリストに転身し、ベストセラー作家の仲間入りをしたという。

 

 まだあどけなさを残したユリアン・ミンツが、真剣な面持ちで紅茶をカップに注いでいる。師父に供するための一杯だ。繊細な印象の美少年ぶりだった。彼の息子は、この絵の少年よりもすこし年下だったはずだ。

 

 誠実な印象のエドウィン・フィッシャー中将と、陽気な巨漢のパトリチェフ少将が、作戦図を前に額を寄せて相談している。回廊決戦の最中とその後に亡くなった彼らに、歳月の波が寄せることはない。

 

 空戦隊の中で描かれているのは、二人の撃墜王だった。やはり、所属の違いによる交流の差はあり、空戦隊のメンバーは他に登場しない。陽気で威勢のいい言葉をかけてきそうなオリビエ・ポプラン。物静かな表情で、クロスワードを埋めるイワン・コーネフ。

 

 健在な者と、虚空に散った者と。今は1枚だけになったトランプの(エース)

 

 客員提督ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ中将は、さらりとした走り書きながら、重厚な宿将の雰囲気を伝えてくる。亡命を受け入れた司令官の旗艦(ヒューベリオン)と一緒に、一年遅れで天上に旅立っていった。

 

 そして、何度か登場し、大抵未完に終わっている絵が司令官たるヤン・ウェンリーだった。一年ほどの間に三階級も昇進しているのは、彼の武勲の巨大さを示している。だがその一方で、旧同盟軍の有力な将帥が激減していった事実を物語っていた。

 

「難しかったんですよ、ヤン提督という人は」

 

 メックリンガーに未完の理由を問われたリンツは、しぶしぶ告げた。

 

「まあ、小官は素人ですから、特徴をデフォルメして顔を似せているわけです。

 でも、ヤン提督には、デフォルメするほどの特徴や欠点がありません。

 専門教育を受けていれば、違ったかもしれないのですが」

 

「いや、卿に言われてみると、確かに難しいように思えるな」

 

 よくよく見ると、顔のパーツも配置も整っているのだが、美男子というにはなにか足りない。似顔絵を描くのが一番難しい顔立ちだった。

 

「メックリンガー閣下は新領土産の豆腐やバターは……ご存じないでしょうね……」

 

「いや、私は食品自体ほとんど購入したことがないのだが……ところでトーフとは?」

 

「それは忘れて下さって結構です。

 では例えとしては壮大すぎますが、イゼルローン要塞はご存じでしょう」

 

「無論のことですよ」

 

「あのイゼルローンを、背景を描かずにデッサンで表現するようなものです。

 雷神の槌を撃っているような表現も使わずに」

 

 頭の中でその描写方法を数秒検証し、メックリンガーは唸った。

 

「それは確かに難しい」

 

 相当な画力の持ち主が描いても、ただの球形にしか見えないだろう。

 

「彩色してそれらしく見せようにも、提督は黒髪黒目ですからね。これと変化がないんです」

 

「だが、この一枚は完成しているように見えるのだがね」

 

 その絵を見せられて、リンツは苦々しい表情になった。

 

「これはですね、逃げたんですよ、小官は。確かに、一般に一番流布している映像に近い。

 ヤン提督は、顔の骨格が整った人でした。だからサングラスをかけると美男子になる」

 

 サングラスをかけた、ヤン・ウェンリー大将。マスコミ嫌いと言われた彼は、数少ない映像にサングラス姿で現れることが多い。

 

「ヤン提督の一番の特徴は目だったんです。

 いつも微笑んでいるけど、とても静かではるか遠くを見ているような目でした。

 とても小官の技量で描けるものではなかった」

 

「しかし、こちらも完成していますな。確かに目は閉じているが、とてもいい絵だ」

 

 それは、いとも幸せそうな顔で、ベンチで昼寝をするヤン・ウェンリー大将だった。

 

「こちらを見せたら、もっとハンサムに描いてくれと言われたものですがね。

 ところでヤン提督は、歴史学者になりたかったそうで、

 美術や文学にも結構詳しかったんですよ。

 なんでも、歴史とその時代の文化は不可分のものだそうで」

 

「ほう、興味深い」

 

「西暦十九世紀から二十世紀にかけて、カメラの発明と普及で、

 肖像画家の多くは廃業を余儀なくされたそうです。

 風景だって、写真の方が正確ですから。でも、絵画はなくならなかった。

 ある画家は、人間や風景を構成する形を図形として

 再展開し、形に内包されるものを表現しようとした。

 また、ある画家は自分の想像の中のありえぬ幻想を形にした。

 この二人は、それこそ写真のような絵を描ける天才だったそうですが。

 一方で、ありのままの人物や風景を描いて高い評価を得た者も数多い。

 ヤン提督がおっしゃるには」

 

 リンツは冷めかけた珈琲を啜って、喉を潤すと続けた。

 

「画家は、対象を自分の心を通して表現する。

 画家と題材の対峙が人の心をうつから、絵画が廃れないのだろうねと。

 その時、小官は思いましたよ。

 提督の目を表現できないのは、自分の理解が及ばないからだと。

 その瞬間に描けない理由が分かりました。

 小官にあの方と対峙する度胸はありませんでしたから」

 

 宇宙最強の白兵戦部隊の元連隊長の、意外な告白だった。メックリンガーは目を瞬いた。

 

「ヤン元帥は、温厚で穏やかな人だと聞きましたが」

 

「確かに穏やかな人でした。

 まあ、ものぐさな人でもありましたから、怒るのも面倒だったのかもしれませんがね。

 ですが、私は、あの人が怒ったところを一度だけ見たんです。

 第七次イゼルローン攻略で、奪取したイゼルローンから……」

 

 メックリンガーの表情に、リンツは逞しい肩を竦めた。

 

「これは失礼。やめたほうがいいでしょうかね?」

 

「いや、どうぞ、続けていただこうか」

 

「イゼルローンの駐留艦隊に降伏勧告をしたんですよ。

 降伏を是としないなら、逃げろとまで言った」

 

 メックリンガーは、白いものが混じりだした美髯を撫でつけた。

 

「しかし、相手はそれをよしとしなかった。

 武人の魂がどうとか言って、突っ込んで来たんですよ。

 玉砕覚悟だとね。あの人はそれに猛然と反発しました。

 死ぬなら自分だけにしろ、部下を巻き込むなとね」

 

「何とも耳の痛い言葉だ」

 

「そして、次の命令が、旗艦だけ識別できるかです。まあ、それは可能でした。

 次にヤン提督は、雷神の槌の二射目を自分で指示し、

 旗艦以下の最小限の艦艇を撃沈させました」

 

 メックリンガーは、リンツの顔を凝視した。

 

「信じられん」

 

「一種の天才なんだと、シェーンコップ中将が言っていました。

 三次元空間の把握能力が桁違いだった。

 要塞防御部が散々苦労したのを、初見でやれたんですからな。

 ヤン提督自身が実戦で雷神の槌を撃ったのは、あの時が最初で最後なんですよ。

 今思うと意外ですが」

 

 リンツは顎をさすり、メックリンガーは溜息を隠しながら、こめかみを揉みほぐした。

 

「卿のお陰で、ようやく腑に落ちた。

 ヤン艦隊の一点集中砲火は我々も研究したのだがね。

 数光秒は離れて移動している相手に対し、狙点を定め着弾を揃えるような、

 そんな非常識な指揮能力のある将帥がいなかったのだ」

 

 ブルーグリーンが瞬きした。

 

「はあ、そうだったのですか。帝国は圧倒的大軍なので、必要がなかったのだとばかり」

 

「イゼルローン回廊の攻防を思い起こしてみてくれたまえ。

 実に嫌な宙点に布陣し、こちらの大軍など無意味な状況にしてしまったではないかね」

 

 褪色の進んだ麦藁の頭が捻られた。

 

「当時の小官は、要塞防御を担当しておりまして、なかなか出番がありませんでね。

 そんなに難しいんですか、あれは? 

 分艦隊のアッテンボロー提督もやっていましたがねえ。

 やっぱり、そのへんは先輩後輩でやり方が似てくるのでしょうか?」

 

 リンツは中空を凝視して考え込んだ。

 

「待てよ、フィッシャー提督とメルカッツ提督はあんまり得意ではなかったな」

 

「いや、もう結構。今となっては必要のない技術だ」

 

 知りたくない事を知ってしまったメックリンガーだった。あと一個艦隊の兵力があれば、双璧と鉄壁のいいとこどりをしたような奇術師が誕生していただろう。バーミリオン会戦で、停戦勧告以前に決着がついていたかもしれない。

 

「たしかに、閣下のおっしゃるとおりですね。

 地上だと方向音痴で、三次元チェスは下手くそだったのに、不思議なものです。

 イゼルローン攻略のあと、アムリッツァでも、バーミリオンでも、

 イゼルローン回廊の決戦の最中でも、たったの一個艦隊で、

 皇帝ラインハルトとあなたがたを敵に回していたのに、

 旗艦の艦橋乗組員はヤン提督の怒鳴り声を聞いたことはないそうです」

 

「卿も聞いたことはないのかね」

 

「私は、いま申し上げた戦いの際には、ヤン提督のそばにはおりませんでね。

 薔薇の騎士が彼の下に再配属されたのは、アムリッツァ会戦以降です。

 イゼルローンの攻防時には、私は要塞防御でヤン提督は艦隊司令官。

 バーミリオン会戦のときも、万が一に備えて待機です」

 

「では、卿は艦隊司令官としてのヤン元帥とは、(まみ)えることがなかったと?」

 

「いいえ、一度だけあったんですよ。

 旧同盟の軍事クーデター、ドーリア星域会戦の際です。

 あの時、ろくでもない戦いだから勝たなくては意味がないとおっしゃった。

 国の滅亡なんて、個人の自由や権利に比べれば、大したものではないと。

 実に淡々とした調子でスピーチして、味方だった第十一艦隊を叩きのめしました。

 逃げろとはもう言いませんでした。敵の犠牲も減らそうとしていた人がです。

 いや、言えなくなったのでしょうね。

 あそこでクーデター軍を逃すと、同盟は泥沼の内乱になっていたでしょう。

 今、どうなっていたことやら」

 

 リンツは言葉を切ったが、それこそが手痛い暗喩だった。旧同盟でリップシュタット戦役のような有人惑星での内乱が起きたら、新領土の現在の繁栄はありえなかった。帝国という外敵には屈したが、住民同士がいがみあうような状況を招かなかったのだ。そして、バーラト星系共和自治領という旗印を残せたことで、新領土も一気に団結した。帝国の支配に粛々と服するかに見えて、惑星自治のノウハウに乏しい新帝国の行政官を逆に教育している。

 

「どれだけのことを思っていたことか。でもおくびにも出さなかった。

 たとえ鈍感にしても、イゼルローンの外壁よりも堅固なものではありませんか」

 

 メックリンガーは絶句した。苛烈な先帝は、その怒りさえ身を飾る華麗な炎だった。部下の失策には鋭い叱声を上げたものだ。魔術師は、穏やかな水面の下に、どれほどの深淵を抱えていたのだろう。灼熱の炎と膨大な死を呑みこんでも、その温度を変えないほどに。

 

 ヤン艦隊の士気は、どんな状況下でも最高の水準にあったといわれる。その原因の一端を、垣間見た思いがした。

 

「とてもではないが、私などに対峙できる相手ではなかったのです。

 イゼルローンに戦斧で立ち向かうようなものでね。

 その一方で、ヤン提督はこうも言いました」

 

 ブルーグリーンの目が、ふと中空を彷徨い、机上に広げられた絵画材料のカタログに止まった。

 

「カメラの生まれた頃に、絵具も大量生産できるようになり、安価になったそうです。

 工業の発達で、中産階級が増えて、そういう人々が趣味で絵を描くようになった。

 まあ、大抵は下手の横好きです。

 中には役人の傍ら、近所の植物園や雑誌やポスターから着想を得て、

 行ったこともない幻想的な熱帯を描いて、賛否はあれど大いに評価された画家もいました。

 ――貴官がそうなるかもしれないし、そうはならないかも知れない。

 でも、リンツ大佐、他人の評価よりも自分が楽しいかどうかが大事じゃないか。

 こんな、むさ苦しい連中ばっかり描いてて楽しいのかい? 

 どうせなら綺麗な女性でも描いたらいいじゃないかと」

 

「しかし、卿にとってはそのモデル達こそが、

 描いていて楽しい画題だったと、そういうことですか」

 

「ええ、私もそう答えましたよ。そうしたら、

 ――貴官が楽しいならそれが一番さ。

 君が名画家になって、これが傑作と呼ばれるかもしれないね。

 そうなったら、モデル料を弾んでもらいたいな。――

 それで、先程のハンサムに描いてくれと続いたのですがね。これはあの時だから描けた絵です。

 場合によっては、私の遺作集になっていたかもしれないのですから」

 

 その後、メックリンガーとの交流を深め、二人展の開催を行うまでになっても、この画帳の出展は拒み続けたリンツだった。数枚の白紙を残した画帳の最後は、張り詰めた面持ちをしたリンツ自身が簡素な筆致で描かれていた。宇宙暦801年5月30日の日付とサインとともに。この画帳唯一の自画像であった。

 

 後年、自由惑星同盟の末期からバーラト星系共和自治政府設立までの歴史資料として、この画帳は高い評価を受ける。

 

 ヤン・ウェンリーは、歴史はそれに付随する文化と不可分であることを知っていた。芸術的価値より、歴史的価値により評価される、そういった絵画も数多いことを。日曜画家の描いた絵が、戦争で焼失した街並みの復元の資料となったことがあるように。

 

 『イゼルローン・ポートレイト』と名付けられたこの画帳は、リンツの死後、遺族からハイネセン記念大学に寄贈され、多くの歴史研究家に英雄達の素顔を伝えている。


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