種を蒔いても実らせるようなヘマはしないと豪語していた彼だ。僚友の隠し子を部下に持ち、気を遣った経験もある。一月に婚約と結婚式、大公アレクの誕生は最後の決戦直前の五月十四日。誕生のニュースを聞いたかもしれないが、それどころではなかった。そして七月。ユリアン・ミンツにくっついてフェザーンに行ったら、皇妃が二、三か月の赤ん坊を抱いていた。
旧自由惑星同盟では、さほどに珍しいことでもない。諸手を挙げて賛成される類いのものでもないが。バーラト星系の共和民主制による自治を認めてもらった以上、ローエングラム王朝が存続して貰わないと困る。
乳飲み子を抱えて夫に先立たれるのは気の毒だが、子を遺すことなく逝ってしまったヤン・ウェンリーよりもいいと、ポプランは考えていた。あれだけ惚れて惚れぬいた男の後釜なんて、見つかるもんじゃない。あの人に勝てる男でないと、フレデリカ・G・ヤンに新たな姓を名乗らせることはできないだろう。
「そんな奴ぁ、いないわな」
ポプランの呟きに、イゼルローン残務処理部隊の面々は、深く頷いたものである。なお、ユリアン・ミンツはキャゼルヌ直伝の教育指導中でその場にいなかった。
「その点、あちらさんは忘れ形見がいるからな。羨ましいだろうなあ」
「ほんとに残念よね。男の子か女の子か、顔がどちらに似るかもわからないけれど、
きっと黒髪に黒い瞳だったのに」
衛生兵資格者の言葉に、みんなしんみりとした。
「あっちの坊やは、まだ髪の色ははっきりしないが、目は随分濃い青だったなあ。
大公妃に似たのかねぇ?」
「双方の祖父母、どちらかからの由来よ。
マリーンドルフ伯はブルーグリーンじゃないし、きっと父方似かな。
どっちに似ても美男子間違いなしよ。結婚で苦労しそうよね。
自分より顔のいい男なんて、そばに寄りたくもないもの」
女性陣から賛同の声があがった。発言者は、黒髪に黒い瞳、ブロンズの肌の肉感的な美女だ。モデルになるには筋肉質にすぎるだろうが、イゼルローン軍でも五指に入る美貌の主。しかし、絶世の美青年というと、これまたレベルが異なるわけであった。
「そういえば、ミンツ軍司令官から聞いたんですけど、
ヤン提督が美貌と遺伝子のお話をなさったことがあるそうです。
美貌の持ち主は、遺伝子の変異がすくない傾向にあるから、
劣悪遺伝子排除法の中での、貴族の知恵だったんじゃないかって」
発言者は、薄く淹れた紅茶色の髪に、青紫の瞳と貴族号をもつ少女だった。父母は帝国貴族の亡命一世で、彼女は二世。亡き黒髪の司令官の薀蓄の正しさを、証明するような存在である。ポプランの好みからいうと、花なら蕾といったところだが、咲き誇った暁には、見事な大輪になりそうだ。
「ふーん、そういう見方もあんのかねえ」
「でも、裕福な生活をすると、人間は美しくなっていくし、
裕福な人間が美貌の基準になっていくともおっしゃったんですって。
貴族階級は少ないから、限られた人数の中で結婚を繰り返していく。
だから、とてつもない美男美女が生まれるんだろうって」
「へぇ、そりゃ面白い。
じゃあ、帝国には他にも絶世の美女がいるかもしれないのか。
そいつは楽しみだ。いまや宇宙は一つ、愛の伝道に差別をすべきじゃないもんな」
色あせた麦藁色の髪に、ブルーグリーンの目の屈強な青年が、呆れ果てた表情でぼそりと言った。
「アホか。一代に一人しかいないから絶世というんだぞ。
他にもいたら、皇帝の網に引っ掛からんはずがないさ。
同盟ならともかく。で、同盟なら世間に見出されんわけがない」
「じゃ、遥か以前の美女と、かなり未来の美女ならいるのかも知れんぞ。おれは後者に期待する」
ポプランを除いた一同は、さっさとコーヒーの載るテーブルから踵を返し、休憩はそこで終了になった。
そして時は流れ、ポプランは予言の的中を目の当たりにしたのだが、それは苦闘の始まりであった。妙齢を迎えたペクニッツ公爵家の令嬢が、立太子式への招待を受けることを、勇気を奮い起こして決心した。しかし、当主である父の許しを得なくてはならなかった。
彼女はまだ未成年だから、パスポートの取得に保護者の署名が必要だ。貴族の場合、旅券の取得は庶民よりも少々厳しい。父母が健在ならば双方が署名しないと申請が通らない。ローエングラム朝唯一の公爵の署名だ。筆跡の偽造は不可能である。
「君がフロイライン・ペクニッツを説得したんだろう。頑張ってその父上も説得したまえよ」
「いやいや、俺みたいな若造よりも、コモリ社長のほうが絶対に適任ですって」
「ははは、何をおっしゃるポプラン船長。私の説得力なんぞ、到底君には及ばんし、
君ももう、若造とは口が裂けても言えん歳なのだからして」
初老と外見青年の社長達は、互いに責任をなすりつけあった。
「人間とは世を忍ぶ仮の姿、おれはきらきら星の高等生命体ですからね。
おれの本当の故郷では、まだ若造どころかおしめも取れてませんよ。
もうドレスも発注してるんだし、最大の受益者がここは一つ!」
「だが、もっぱら煽動したのは君だろう。素材の輸送はこれからも御社に頼むから、な?」
「だから、おれは逆効果ですって。
フロイラインと話すとき、メイドがみんなこっち見てるんですよ」
「なあに、それは君がいい男だからだよ」
「そいつは否定しませんが、七十近い公爵夫人のばあやさんまで箒片手にって、
おかしいでしょうが! なにより、目が違う。あれは殺す気の目だ」
「ああ、あのお人は、宮廷付きの武装女官だったそうだからなあ。
警護官としての意識の高さゆえだよ。多分な」
「ちょっと、おれの目を見て言ってくれませんかね。
それにしたって、宮廷付きの武装女官って、いったいいつの話ですか」
コモリ・ケンゾウは焦げ茶色の目で、虚空を睨んだ。緑の瞳を見返すことはなく。
「あー、多分、オットーフランツ二世のころじゃないかね。
オトフリート五世は、締り屋だったから廃止されたんだろうなあ。
かわいい孫娘の学友に、武芸を仕込んだ令嬢を選んだというところかね」
張りを失っていない額に、くっきりと縦皺が刻まれた。
「勘弁してくださいよ。
祖母から孫までの三世代に渡って仕えてる、帝国貴族保守派の最右翼じゃないですか!」
星間商人となって知ったことだが、よき妻たれとの帝国の子女教育は、気楽なポプランの想像を遥かに超えるものだった。爵位ある貴族の令嬢が、家族以外に顔を見せる異性は、婚約者とその親兄弟ぐらいなのだ。女性当主となるべき令嬢は、その限りではないが、必ず複数の人間が目を光らせている。あのばあやさんの目つきや挙措動作は、明らかに只者ではない。肉弾戦で負けるとは思わないが、容易に勝てそうにない気がするのだ。
「あー、そのなんだ、そうなんだよなあ。
私も彼女から、皇女エリーゼ殿下の話を聞いたんだが、
三人の娘の中で一番似ているのが、エレオノーラ夫人らしい。
カザリン嬢が誰に似ているかは言うまでもない。娘や孫同然だろうなあ」
旧王朝では歴史の授業は、皇帝への美辞麗句に満ちたものであった。皇帝の不行状は、国民が学校で教わることはなかった。多少の悪政ならば、それよりはましだと思えるように、流血帝や痴愚帝の悪事は教えられたのであるが。
これが、女性教育となるとさらにベールで包み隠されてしまう。皇帝陛下の聖恩を讃えるのみだ。オトフリート四世が庶子を含めて六百人以上も子を為しただとか、フリードリヒ四世は、若い頃は美熟女、晩年には美少女を寵愛したとか、そんなことを学校で教えられたものではない。はしたないし、正直にそう言えば皇帝への不敬罪になりかねない。歴史学と専制政治は相性がよくないのだ。
ラインハルトとヒルダの場合、公開したがゆえに帝国の保守層に忌避された。他の皇帝だってやっているじゃないか、という反論は帝国の一般庶民には通じない。旧同盟に知られているのは、皇妃選びの敗者だった貴族が報復を恐れて亡命し、その原因を怨恨交じりにぶちまけたからだ。
同盟政府は、そういう情報を教育に盛り込んだ。皇帝の暴虐と専制政治の欠点をあげつらい、共和民主制を守るために戦い抜けというのに、これほどうってつけのものはない。ゆえに、帝国国民が知らないことを、旧同盟国民が知っているという知識のねじれ現象が起こった。
旧同盟の者からみたら、もっとひどい皇帝がいたじゃないか、なんで自国民がそんなに嫌うんだと疑問に思う。さらに反問されたポプランが例に挙げたのが、絶倫帝オトフリート四世だったのは確かにまずかったかもしれない。
ポプランにかかれば、彼らは権力に物を言わせなければ、女をものにできない腰抜けの甲斐性なしだ。その感想は胸中に留め、口にはしていない。不敬罪を気にしたのではなく、男としての慈悲である。
そんな彼らでも、正妃相手に『できちゃった婚』はしていなかった。正妃と側室、寵姫には、身分の序列がきちんと定められていて、皇帝も見合った待遇をしなくてはならないからだ。伯爵令嬢に、成り上がり者が狼藉を働いた、と見る向きも当然に存在する。皇妃の実家は貴族の筆頭となるから、公爵に昇格させなくては宮廷の序列が乱れる。先帝がそれをしなかったから、皇太后や前国務尚書にはもうできない。自らの家を昇格させるのは禁忌だ。
「おまけに、リンデンバウムの上の姉妹が、社交界に顔出ししなかった理由が、
これまたまずいんだよ」
「はぁ? できちゃった婚以上に悪い理由なんぞあるんですか」
「オッドアイの美しい肉食魚が、夜会を遊泳していたからなんだとさ」
ポプランは再び渋面を作った。さっきの調味料にコーヒーが加わったのである。
「うわあ……。あの坊やは坊やで結構大変だな。
自分の顔が嫌いだって言っていたのは、なんて罰当たりなと思ったが、
そりゃ当然過ぎる理由になるわな」
明るい褐色の髪を乱雑にかき回す。
「そこへ持ってきて、プロポーズに紅白の薔薇を贈ったなんて聞けば……。
キャゼルヌのおっさんも黙っていてくれりゃいいのに」
「何かあってからじゃ遅いと、娘を持つ側の考えとしちゃ当然だね。私だってそうするぞ」
「あれ、社長、お嬢さんいらっしゃったんですか?」
「いればの話さ。うちは四人とも男だ。娘も欲しかったんだがねえ」
ここにもカザリンに娘を投影している者がまた一人。彼女の人名録は、自称保護者で一杯だろう。
「ただ、氏より育ちとはよく言ったもので、ミッターマイヤー国務尚書夫妻の評判は至極いい。
あのお二人に育てられたのなら、滅多なことはないと言っておいた」
「あ、そりゃどうも」
フェリックス・ミッターマイヤーも、ポプランと縁のない仲ではない。生真面目で賢い、繊細な美少年だった。かつての亜麻色の髪の少年に少し似ているところがある。巨大な才能を持っていた父二人との対比に、悩み続けることだろうという点でも。
「だから、こんどは君が担当するんだ。これがバーラト政府のいう機会均等の原理だろう」
「そりゃずるいってもんだ。明らかにおれのほうがウェイトが大きいでしょ!
戦力の逐次投入は下策だって、ヤン司令官も言ってました。
おれで駄目なら、結局コモリ社長がやらなくちゃならないし、
三回目におれたちが揃って説得する頃にゃ、意固地になっちまっててもおかしくない」
「ううむ、一理ある。旧王朝の門閥貴族のような権力はないにしろ、
公爵の機嫌を損ねるのは得策じゃない。
かつての門閥貴族にはない、平民からの人望もお持ちだ。
そのうえ、彼より身分のある男は、大公アレクだけだからな」
「まだ十六やそこらの坊やが対抗するには難しいよなあ。惚れた女の子の親でもあるし。
なんで、他に高い爵位の家がないんですか」
「先帝がやらなきゃ、皇帝アレクサンデル以外にはできん。
そういうものなんだ。立憲君主制に舵を切ると、臣下の爵封は難しいな。
子沢山なら、皇太子以外を公爵に叙せばいいんだがね」
「ややこしいもんですねえ」
「ああ、七元帥じゃなくて、七侯爵とかにするのが普通の皇帝なんだ。
公爵の対抗馬としてね。自らの宮廷を、先帝は考えなかったんだろう」
ペクニッツ家が唯一の公爵家という問題はまだあった。門閥貴族制を否定した皇帝ラインハルトだが、女帝カザリンの実家を子爵のままにはできなかった。王朝の開祖が先帝の父を公爵に叙し、生涯にわたって年金を賜るということは、非常に重い意味を持つ。それを軽視していたというよりも、無知だった節がある。
軍部は言うに及ばず、当時の国務尚書は宮廷の主流派でなかったマリーンドルフ伯爵だ。新帝国の者はみな、宮廷の力学は門外漢だった。その結果、オーベルシュタイン元帥がナンバー2不要論を唱えていた帝国首脳部ではなく、貴族にナンバー2が存在する。
「なるほど。いまや、大公領の実質的な指導者ですもんね。
駄目男と皇太后に告げ口された人が、そこまで変わるとはね」
遷都によって、切り捨てられたかに見えたオーディーンと帝国本土を、残った貴族の力を集めて復興に導いた、ペクニッツ公ユルゲン・オファーだ。伝統工芸を保護する一方、医療従事者への奨学制度や、平民の雇用先の開拓を行っている。その功績は貴族の筆頭として申し分ない。メックリンガー夫人マグダレーナが匙を投げていた男と、同一人物とは思えない活躍である。
「考えてもみたまえ。リンデンバウム伯爵家は、文化や典礼の名門だった。
母はフリードリヒ四世の妹。いい意味での貴族、真の貴顕だよ。
その可愛い末娘を、本物のろくでなしに嫁がせるわけがないじゃないかね」
「じゃ、公爵は根っからの駄目男じゃなかったわけですかね?」
「前当主のペクニッツ子爵は、
息子は少々気が弱いが、よき妻が補佐すれば自分を超えるだろうと、
親友を拝み倒して、夫人を婚約者にしたんだとさ。
長い婚約時代、互いに家を行き来して、夫人の兄二人には実の弟のように可愛がられた。
彼は一人っ子だからな。それを奪われて、荒れないほうがおかしいだろう。
父はクロプシュトック候事件で亡くなって、買い物依存症はそれが原因らしいが」
彼は趣味の象牙細工に父の遺産を注ぎ込んで、負債で首が回らなくなった。しかし、それが彼の育ちのよさからくる限界だった。酒や麻薬に逃れるという発想がないのだ。
「もっとも、ペクニッツ公は下戸でね。乾杯のシャンパン一口がせいぜいらしい。
象牙につぎ込んで、麻薬代を工面できなかったのも幸いだったな」
「コモリ社長、なんでそこまで知ってるんです」
「服を注文する時は、好みや何かを口にするもんだよ。お年寄りの意見は重要だ。
そんな話を聞くうちに、昔話も出てくる。
要は、彼を立ち直らせたお嬢様たちが、いかに素晴らしいかという自慢だ。
さすがは、皇女殿下の娘よ孫よと、こうさ」
「ははあ、あと四十年、せめて三十年若けりゃあ、俺も喜んで拝聴しますがね。
あんなばあさん、失礼、年配のご婦人の意見が、今のファッションの参考になるんですか?」
首を捻る明るい褐色に、半白になった黒髪が振られる。
「帝国には、ドレスの色や柄、襟あきや袖丈まで、実に細かいルールがある。
宮廷にいた人だから、貴族から平民まで、あらゆるドレスコードを知っている。
貴重だよ。新領土やバーラトと違って、ここでは流行より伝統が重要だ。
そいつを取り入れて消化せんと、帝国では商売にならん。
例えば、純白のドレスは、社交界デビューとウェディングドレスの時のみ許される。
真珠は昼、ダイヤは夜に着けるものだ」
「へぇ、信じらんないな。おれなんてドレスの下ばかり気になりますがね」
服飾メーカーの社長は、眼光を鋭くした。
「馬鹿かね、君は。女性が着飾るのは、男のためじゃない。自分のためだ。
異性を虜にし、同性から身を守り、攻撃する武装だぞ。
欠陥があれば、たちまちにつけ込まれて、敗北に追いやられる」
色事師の口の端が引き攣った。
「あの、そいつは服の話ですよね?」
「当然だとも。こいつは、フェザーンや旧同盟でもまったく変わらんよ。
あんなにファッション関係の情報が溢れているのはそのためだ」
ポプランは、これまでの女性遍歴に思いをいたした。以前は軍服、現在は船員服が彼の交遊録の主たる衣装だ。気品ある、長い裳裾のドレスを着こなした相手はいなかった。
「なにやらシビアな話だなあ」
「とにかく、あの家はわが社の帝国本土の広告塔だからな。
今度は宇宙全土の広告塔となるんだ。失敗は許されん」
「じゃあ、一緒に頑張りましょうや」
二人は固く握手を交わして、決死の思いでユルゲン・オファーに面会を申し入れたのだった。
「どうしたのかね、ヘル・コモリにヘル・ポプラン。貴卿らが揃って、私に話とは珍しい。
まさか、カザリンのドレスの納期が間に合わないのではないだろうな?」
怪訝な顔で口火を切ったのは、ユルゲンの方からだった。二人が言葉の選択に迷っている間に、彼は懸念事項に思い当ったようで、表情を険しくする。それがまた二人を驚かせた。
「え、あ、その、ドレスの納期には問題はございません」
反射的に返答したコモリを、ポプランは肘でつついて、旧同盟公用語で囁きかけた。
「いや、その話を言いに来たんでしょうが。なんか、話が違いませんか?」
「なんのことだね」
公爵から返されたのは、明瞭な同盟語だった。これはポプランの手抜かりだった。側室のホアナと二人三脚で、同盟の精神心理学の医学書を訳したユルゲンは、帝国貴族らしくなく同盟語が堪能だった。ハンター行政官が、鉄壁ミュラーに語ったように、言葉を覚えるにはその国の女性を恋人にするのが一番なのかもしれない。
「こ、これは、失礼をばいたしました。
じゃあ、公爵閣下は、フロイラインがそのドレスを着ていく先を、
ご存知でいらっしゃるんですよね……?」
ユルゲンは渋面になった。
「仕方があるまい。
知りたくはなかったが、私の妻は内緒でドレスを誂えるような浪費家ではない。
あの子は悩んでいたようだが、立太子式の主役直筆の招待状を、蹴れるものではないのだ。
公爵家の令嬢だからこそ、ローエングラム王朝の
コモリとポプランは顔を見合わせ、安堵の溜息を吐いた。
「お許しになっていらっしゃったとは、これは私どものお節介でございましたな」
「それにこれから、フェザーンに留学する気だというのだから、
大公殿下や皇太后陛下に、表敬訪問をしないわけにはいかない。
どうせなら、一度で済ませたほうがいいだろう」
ユルゲンも溜息を吐いて、眉間を揉んだ。
「は、はい? 留学ですって!?」
ポプランの相槌は、調子外れの音程になった。
「留学とは、フェザーンにですか? 一体、どちらへ」
生粋のフェザーン人が怪訝な顔になった。科学や人文系ならオーディーン大学の方が勝る。フェザーン大学は、まだまだ研究の蓄積が足りない。
「オヒギンズ商科大学といったか、その大学院に行きたいとね。
私の事業を継げるようにと、通信教育を受講していたらしい。
修了試験の合格証と、大学院入試の合格証を見せられて、私は始めて知ったのだが」
焦げ茶色の目が大きさを増して、コモリはハンカチで額の汗を押さえた。どうやら自分たちよりも、カザリンの方が三枚ぐらい上手だったようだ。立太子式の出席は迷っていたが、帝都には行く気で、着々と準備をしていたのか。
「聡明な方だとは思っておりましたが、フェザーンきっての名門ですよ。
大学に通学していても、難しい授業が多いという話ですのに、
通信教育で修了証書を手になさるとは。いや、驚きました」
「そうかね、そんなに難しい学校だったとは。
学校に通ったことがないあの子が、飛び級までして、授業について行けるのだろうか……」
別の意味で難しい話になってきた。よその子の学校の成績も、神経を使う話題である。
「ずいぶん早くに出発なさるのですな。フェザーンも新年度は九月からですが」
「ああ、正式な入学は九月からだが、六月から通信教育修了者の準備授業があるのだそうだ。
しかし、うまくやれるのだろうか。
ヘル・コモリ、私は帝国の人間なので、フェザーンの大学の評価基準がよくわからなくてね」
ユルゲンは、コーヒーテーブルに載せてあった、カザリンの修了証書をコモリに差し出した。
「その成績で本当に大丈夫なのか。
無理なら考えないといけないだろう」
ポプランは首を傾げた。
「あの、側室の方はフェザーン出身でしょう。お聞きにならなかったんですか?」
ユルゲンは重々しく頭を振った。
「正室の子の相談を、側室にするのはマナー違反だ。もめる原因になる。
子どもの頭の出来の差を、張り合うことになりかねん」
社長らは顔を見合わせた。大貴族の生活というのもかなり気を遣うようだ。夫と正室は公平を、側室は正室への配慮を必要とされる。
「さ、さいですか」
「それにあちらは医学、こちらは経済学だ。学校を知る人に聞いたほうが、私が納得できる」
「では失礼しますよ。私はあんな一流大出ではありませんが」
コモリは証書を開き、ポプランもそれを覗きこむ。
「う、すげ、AプラスとAばっかりだ。Aの方が少ないって、まあ……」
「ペクニッツ公、この成績表をフェザーンの者にお見せになって、
さきほどのようなことをおっしゃると、喧嘩を売っていると思われますよ。
非常に優秀な成績です。それこそ、カウフ二世になれるかもしれないほどです」
コモリの言葉に、ユルゲンは愁眉を開いて、椅子の背もたれに体重を預けた。
「ああ、ならばよかった。ヘル・コモリ、貴卿に感謝する。
では留学の準備を進めても大丈夫だろう」
心配性の父親を、かきくどく心配性がもう一人。
「ペクニッツ公、フロイラインのお住まいは私に手配させてください。
我が社の専属モデル用のマンションに、空きがございます。
妻が管理をしておりまして、男子禁制のうえ、セキュリティーも厳重です。
不埒なマスコミ対策も万全。お安くいたしますから」
「いや、しかし、あの子は家事や炊事はほとんどやったことがない。
コーヒーを淹れたり、茶菓を取り分けたり、ワインを開けたりぐらいはできるが。
だから、ホテルか賄い付きの寮を考えていてね」
「それは大丈夫です。火傷や青痣を作られてはいけませんから、
モデルにはその類の事をやらせません。そちらの管理も含まれておりますから」
ユルゲンは、腕組みをした。
「こういう事は、女親に任せた方がよさそうだ。
エレオノーラとも相談して、後ほど返答をさせていただこう。
だが、ヘル・コモリのご厚情には心から感謝する」
ポプランは、頭をかいた。男どもが気を揉んでいるうちに、当の本人はとっくに旅立ちの準備を済ませていた。父親を納得させ、満足させる成果を武器にして。戦いは事前の準備、戦略で九割九分の勝敗が決すると、黒髪の魔術師が言っていた。カザリン・ケートヘンは天性の戦略家かもしれない。
「でも、ご心配でしょう。おれも知り合いに頼んでおきますよ」
「ポプラン社長の励ましにも、礼を申し上げなくては。
ほんとうにありがとう。どれほどカザリンが勇気づけられたことか。
あの子に罪がないことを、私たちの口から世間に言えない。それが爵位と年金の代償だ。
だが、カザリンには言葉で伝えられないことを伝えられる武器がある。
それをよく、あの子に教えてくださった」
ユルゲンは貴族らしく、気品ある一礼をした。
「はあ、武器ですか?」
「可愛いは正義だったかな。可愛いという形容詞は、帝国では子どものものだ。
赤ん坊ならば更に可愛いものだろう。カザリンはそれを知ったのだろう。
正義と自分の心のありかを」
子どもの名において、門閥貴族が討伐され、赤ん坊の名において、自由惑星同盟に侵攻した。その皇帝の名を引き継いだのは、さらに小さな赤ん坊だった。
時は流れ、幼児は乙女に、乳児は少年になった。自分と同じく、逃れられぬ血の重圧に立ち向かう少年。 ずっと手紙を送り続けてくれた相手が、心に占めている位置を。
「正直、気付いてほしくはなかった。
だが、強要されるならば私にも考えがあるが、カザリンが望むなら話は別だ。
先帝陛下は、欲するものを手に入れるために戦われた。
先々帝であるカザリンが、同じことをしても非難される
ヘル・コモリ、金に糸目はつけん。
あの子に似合う、最高に美しいドレスを私からもお願いしよう。
エレオノーラが差配しているなら、そうなるに決まっているがね」
公爵の灰緑の眼には、妻への信頼と愛情が浮かんでいた。
「そこから先は、アレク殿下次第だ。
さて、どうなさるのか、お手並みを拝見させていただこう」
「少なくとも、赤と白の薔薇を贈るようなことはしないでしょうね」
混ぜっ返したポプランに、ユルゲンは洗練された動作で肩を竦める。
「いいや、赤と白の薔薇は、場合によっては最高のプロポーズの方法になる。
そこまで極めていただかないと、私の娘は『
緑と焦げ茶がOの字を描いた。帝国貴族の文化は実に奥深く、螺旋の迷宮のようであった。