銀河英雄伝説 仮定未来クロニクル   作:白詰草

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スターバト・マーテル

 変わり映えのしない食事を二回済ませた後で、ヒルダとの面談の時間が告げられた。午後二時に、仮皇宮の応接室へということだった。緊張するユリアンとリンツの傍らで、鼻歌交じりに身だしなみを整えるポプランに、部下の視線は冷たい。

 

「見境いのない男も最っ低です」

 

「誤解すんなって、仮にも宇宙一のお偉いさんとの面談だぞ。

 これはマナーだよ、マナー。

 亭主の墓の土も乾いていない相手を引っ掛けようとは思わんよ」

 

「戦ったところで勝てないしな」

 

 

「そういえば大佐のおっしゃるとおりでした。ごめんなさい、隊長」

 

 あっさりと頭を下げる薄い紅茶色に、ポプランは遠い目をした。

 

「何でだろう。その謝罪の方が傷つくよなあ。

 俺の部下が、薔薇の騎士(ローゼンリッター)連隊長の方を支持するなんて……」

 

「勝手に退職しようとしたくせに、虫がいいことを言うなってことさ」

 

「みんな、その辺にしてください。キスリング准将が困っていらっしゃいますし」

 

 言わせるだけ言わせてから仲裁に入るユリアンに、ポプランは更に遠い目になった。ヤン提督の傍らで、目をきらきらさせていた素直な美少年が、どうしてこうなったのやら。男なんて、彼女ができたらそっちの味方だもんなあ。もっとも、自分だってそうするが。

 

 たしかに、先日の所業は根に持たれても仕方がない。かっこよく立ち去ったのに、のこのこ出戻るとは、かっこ悪いったらありゃしない。だが、再就職はできないと思え、というキャゼルヌのお達しは強烈過ぎた。宇宙海賊は冗談だが、金と身分証と履歴書の添付書類を盾にされれば、宮仕えなんて弱いものだ。キャゼルヌの毒舌に晒されながら、お片付けを最後までやらされるのだろう。その前に、ちょっと美人の顔を拝むくらい許して欲しいものだ。

 

 だが、その考えは少々甘かったらしい。今年一月二十九日の結婚式で、輝くばかりに美しかった、あの女性はいなかった。容姿はほとんど変化がないのに、表情一つでこれほど人は違って見えるものか。あれからまだ半年少々なのに、香り立つような青春の気配は消え、白い顔は青ざめて面立ちが鋭くなった。珊瑚礁の海の色の瞳さえ、冷たい宝石に変わったようだ。

 

 当たり障りのない挨拶の後で、運ばれて来たコーヒーをヒルダは所在なげにかき回し、逡巡してから口を開いた。

 

「急に会談を申し込んで、驚かれたことでしょうね。

 イゼルローンの方々にお訊きしたいことがあるのです。

 立憲君主制の提案をしてくれた、あなたたちならば歴史にお詳しいのではないかと思いまして」

 

「こちらこそ、皇太后陛下のお招きに与り光栄です。

 しかし、立憲君主制の立案者は、亡くなったヤン元帥でした。

 小官らの知識は、とても彼には及ばないものです」

 

「横合いから失礼します。小官は薔薇の騎士連隊長のリンツ大佐と申します。

 ヤン元帥は、生前小官にこうおっしゃいました。

 広く歴史の流れを知ろうとすると、その水深は浅くなると。

 ご自身も、素人の愛好家だと自覚をなさっていたようです。

 ミンツ司令官は、ヤン元帥からの又聞きであることをご了承ください」

 

 リンツが語る、ヤンからの言葉に一同の視線は彼に集中した。

 

「リンツ大佐、よろしければヤン元帥の言葉を教えてくださいませんか」

 

 ヒルダの言葉に、彼は頷くと言葉を続けた。

 

「あれはもう四年前ですが、捕虜交換式典の後、帰還兵の輸送に同行した時のことです。

 当時のローエングラム候のことを、こうおっしゃっていました。

 彼は一万人に匹敵する才能の持ち主だ。逆を言えば、凡人二万人なら彼を凌駕できる。

 それには二万人が意志を統一し、一つの目標に邁進(まいしん)することが条件だ。

 だが、大勢の人間に対立や派閥が生まれることは避けられない。

 だから、一人が一万人の力を持つ天才は、冠絶した存在なのだと。

 普通の人間の能力の損失は、数量で補いがつくが、天才はそうではないという意味のことでした」

 

 ヒルダの手元で、茶器が耳障りな音を立てた。受け皿に黒褐色が領土を広げていく。それを案じたキスリングが、彼女の手からそっと茶器を受け取る。ヒルダは震えて冷たくなった手を握りしめた。まさに、ヒルダと帝国が直面する問題の根幹だった。恐ろしいほどの慧眼、その人が存命であったらどれほど協力をしてもらえただろう。

 

「そうおっしゃった、ご自分も同類でいらっしゃった。

 全く自覚をなさってはいませんでしたがね」

 

「ですが、あなたがたはそれを乗り越えてこられました」

 

「乗り越えただなんて、とんでもない。

 本当に乗り越えたなら、未亡人と孤児を引っ張りだしたりなんかしませんよ。

 それは、帝国と何ら変わりはありません」

 

 ポプランは切り返した。

 

「そして、あの人の願いを尊重するなら、戦うんじゃなくて平和を手にしなくちゃならなかった。

 だが、皇帝ラインハルトはそれを勝ち取るには、戦いをもって示せというお人だった。

 だから、みんな戦ったんです。回廊決戦のヤン提督のように!

 皇太后陛下を責めても仕方がないことなんでしょうがね」

 

 ヒルダは俯いた。

 

「ええ、それこそが問題でした。

 わたしは陛下の相談役でしたが、実際の政策に寄与はしていなかったのです。

 オーベルシュタイン元帥の死によって、先帝陛下の指示は大きく狂ってしまいました。

 ですが、私にはそれを収める力量がありません。

 イゼルローン政府は、わずか二月で再出発をなさいました。

 どうして、そんなに素早く対処ができたのかと思ったのです」

 

 軍務尚書というのは帝国軍事務方のトップである、ということを皆は予め聞いていた。ポプランは、イゼルローン政府の事務方トップの名前を挙げた。

 

「うちの場合、キャゼルヌ事務監が健在でしたからね」

 

 そして、ユリアンは政治のトップに立った、ヤンの妻について言及した。

 

「もう一つ理由があります。ヤン夫人はヤン提督の副官を長く務めていました。

 ヤン提督は、事務仕事をこの二人に頼りきりにしていまして、

 指示書の清書や決裁書類の概要作成などは、みんなヤン夫人が手掛けていました。

 ヤン夫人は、大変記憶力のいい人で、ヤン提督の仕事をよくご存知でした。

 だから、独創性はなくとも日常業務は続けられたのだと思います」

 

 更に、リンツは連隊長としての発言をした。

 

「そして、ヤン提督の戦略戦術指南を受けた、ミンツ中尉もおりましたんでね。

 小官が思うに、あの会談に同行した人員も、

 ヤン提督なりの危機管理だったのではなかったでしょうか」

 

 全員の視線が、リンツに集中した。

 

「地球教徒のテロは、まったく予見はできませんでした。

 しかし、皇帝の下に赴くにあたって、覚悟はなさっていたのでしょう。

 もしかしたら、処刑されるかもしれないし、暗殺されるかもしれない。

 ですから、あの場に同行したパトリチェフ中将、ブルームハルト中佐は、ナンバー3でした。

 ヤン提督の思想なり、仕事なりを把握しているナンバー2は、

イゼルローンに残したのでしょう。

 ヤン夫人は感染症に罹っていたせいもありますが」

 

 そう語るリンツは、膝の上で両拳を握りしめた。手の甲にくっきりと血管が浮くほど強く。

 

「小官やシェーンコップ中将も同行していたらと、何度考えたことかわかりません。

 しかし、ヤン提督とフィッシャー提督とパトリチェフ副参謀長も亡くなり、

 ムライ中将が離脱された理由はよく分かります。

 ヤン提督の作戦案は、あの二人なくしては不可能なものだったからです。

 それをミンツ司令官に提示しても、害にしかならなかったでしょう」

 

「リンツ大佐、どういうことですか」

 

 ユリアンも初めて耳にする言葉に、硬い声で問いかける。

 

「ヤン提督の艦隊運動は、フィッシャー提督あってのものだというのは知ってのとおりだが、

 あの複雑さをまとめたのはムライ参謀長、うまいこと説明したのはパトリチェフ副参謀長だ。

 ヤン提督は、よく会議を開かれる方でしてね。

 小官らも、出席しては報告し、また課題を出されるという塩梅でしたが、

 自然と全体の構図が見えてくるのです。

 だから、ヤン提督の戦術構想というのを、将兵はだいたい理解していました。

 いかに説明役が重要か、その人望ごと副参謀長は貴重な人材でした。

 ユリアンには見えにくかっただろうけどな」

 

 逆に問いを返されて、ユリアンは頷くことしかできなかった。

 

「壮大な設計図はあっても、作り上げることができなけりゃ、イゼルローン軍は潰れてた。

 規模を縮小して再構築したからどうにかなった。

 その引導役を、ムライ中将は引き受けてくれたわけです。

 それは、ヤン提督という天才を、本当の意味でご存じだったからだと思っていますよ」

 

「ああ、ずいぶん演習ばっかりやって、その度にブリーフィングだった。

 フィッシャー提督は演習の鬼だったし、メルカッツ提督は輪をかけて熱心だもんな。

 あの不良中年も、ずいぶん雷神の槌と要塞砲台を撃ったもんさ」

 

 

 亡き人々に去った人の名を挙げて、大佐と中佐は説明を続けた。ポプランは言う。

 

「おっとりしていて、ヤン提督はここぞと言う時、厳しい人でしたから。

 最善案を考えないで努力をしても意味がないと、こうですよ。

 ああ、俺は騙されてたと思ったもんです。おかげで、三機ユニットがどうやらものになった。

 ずいぶん相談に乗ってくれて、フィッシャー中将も助けてくれたんです。

 ヤン提督は、組織の調整役としても名人でしたよ。人を動かすのが上手かった」

 

 絶対の存在として君臨したラインハルトとは、まったく異なる組織の長の姿だった。権力を分散化させる民主主義国家のシステムは、しばしば縦割りによる弊害を招く。隣の部署は何する人ぞ。そうなりかねない巨大な組織の、各部門の理解と連携を図ってきた。

 

 そのヤンの組織経営術の師は、アレックス・キャゼルヌだった。その意地にかけて、あの事務の達人は停滞など起こすはずもなかったのだ。ユリアンも、リンツのように両手を握りしめ、自分の手の甲に視線を落とした。

 

「ええ、でも子どもだった小官は、提督のことを怠け者だとばかり思っていました」

 

「それも間違っちゃいないがね。

 ただ、ヤン・ウェンリーは一人しかいないし、一人でできることは限られてる。

 だったら、自分に一番求められてることをやり、

 他はできる奴にやらせればいいと考えていたんでしょうね。

 いざという時の責任は取るからと。ですからね、皇太后陛下もそうなさればいいんですよ」 

 

 明るい褐色の髪に、緑の瞳をした美男子の言葉に、ヒルダははっと顔を上げた。話を聞くうちに、亜麻色の髪の美青年と同じ姿勢になっていた彼女だった。

 

「沢山人材がいるんでしょう。二万で足りなきゃ、三万人でやらせればいいでしょう」

 

 ユリアンも言葉を添えた。

 

「そうです。

 たしかに、宇宙統一は皇帝ラインハルトのような天才でなければできなかったでしょう。

 ですが、人々が学校に通って、仕事をして、まあまあの生活ができるような政治は、

 末期のどうしようもない同盟政府にもできていたことです。もちろん、課題は沢山あります。

 同盟の民生は、長征一万光年の十六万人から、二百年かけてここまで積み重ねてきたものです。

 それを、一気に帝国本土の230億人に広げようとすれば、必ず破綻をします。

 むしろ、ゆっくりと穏やかに変えていかなくてはならないと思うのです」

 

「ゆっくりと……?」

 

 くすんだ金髪の頭部を、童女のように傾げるヒルダにユリアンは胸を衝かれた。この女性はラインハルトと一歳違い、ユリアンと五歳しか違わない。生まれたばかりの赤ん坊を抱え、それだけでも育児ノイローゼになる人もいるのに、390億人を細い肩に背負うことになるのだ。怨恨に囚われている場合ではなかった。

 

「皇帝ラインハルトは、大変な早さで宇宙を変革しました。

 でも、普通の人間には、とてもその速度についていけません。

 彼についていけた帝国軍の方々は、並はずれた人たちだと思います。

 そろそろ、速度を緩めないと脱落者が相次ぐことでしょう」

 

「そうですね。

 ミンツ司令官が指摘されたように、オーディーンは放置しておけないでしょう。

 ですが、動かせる人員がおりませんの。

 あなたがたに相談するのは筋違いなのは判っています。

 しかし、皇帝が若くして亡くなり、幼い子供が後継者となった国が、

 存続した例はあるのでしょうか」

 

 この質問に、イゼルローンの面々は顔を見合わせた。

 

「申し訳ありません。小官は地球時代史に詳しくはないのです。

 オーディーンについての対処法なら考えがあるにはありますが、

 先帝陛下の改革に逆行するでしょう」

 

「構いませんわ。教えてください」

 

「ヤン提督が考えそうな方法といえば、大公殿下の直轄領にすることでしょうか。

 現在の行政府の責任者は代官に任命し、駐留軍を派遣して警護します。

 惑星の規模からいって、二個から三個艦隊は必要だと思います」

 

 ヒルダはヤン・ウェンリーの弟子の案に眼を見開いた。

 

「大公殿下の所領ではありますが、

 当面の間は保護者たる皇太后陛下がその責を代行することになります。

 この方法なら、権力が分散化はされます。対立は起こるかもしれませんが。

 だからこそ、新領土戦役のような事態には発展しにくいと思います」

 

「だがユリアン、それだと第七次以前のイゼルローンの構図になる。

 部下同士が反発しないだろうか」

 

 『奇蹟(ミラクル)』の名を冠せられることになった作戦の立役者が疑問を投げかける。

 

「ですが、直径60キロも密室のイゼルローンと、惑星のオーディーンでは規模が違います。

 一か所を制圧されれば手も足も出ないという事態では、かえって危険ではないでしょうか」

 

「たしかにそうかも知れないな。拠点の分散化はテロへの対策にもつながる」

 

 検討するに足る意見だった。ラインハルトが余りにも優れていたからこそ、帝国軍の行動は連鎖的に、一気呵成(いっきかせい)に進んでいった。兵は拙速を尊ぶが、政治はその限りではない。衆知を集めて、多数決で方向を決める民主共和制を知る者からの指摘は、ヒルダの心をわずかに軽くした。

 

「ところで、皇族の方々はテロへの備えは充分にしていらっしゃることでしょうが、

 膠原病の検査はなさっておられますか。

 小官らの部下が言うには、遺伝的要因がある病気らしいのだそうです」

 

「なんですって……」

 

「ご存じではいらっしゃらなかったのですね」

 

 蒼白な顔になったヒルダに、ユリアンは労りの言葉をかけた。

 

「そういう体質をもっているからといって、発病するとは限らないそうです。

 様々な要因が影響するそうですので。

 しかし、本来は二十代から三十代の女性に多い病気だとのことです。

 こんなことを敵だった小官らが申し上げても、信じてはいただけないかもしれません。

 しかし、もしも知識がないことによって、皇帝ラインハルトの血縁のお二人が、

 病気になったら陛下はご自分を許せなくなるだろうと、クロイツェル伍長が申しておりました」

 

「クロイツェル伍長とはどなたです」

 

「我々の中で、唯一の女性兵です。シェーンコップ中将の娘でした。

 この宇宙に大勢いる未亡人と孤児たちのためにも、

 皇帝ラインハルトが選んだ平和の道を感謝し、

 皇太后陛下にも歩み続けていただきたいそうです。

 そして、自分の父達が最後の戦死者となるように願っていると」

 

 リンツとポプランは、心中で拍手をした。あの危険発言に大鉈を振るったおかげで、優しい性格の可憐な美少女に思えるじゃないか。ポプランの部下でも上位に位置する、スパルタニアンの腕利きパイロットだとは予想がつくまい。物は言いようである。

 

「そうですね、ありがとうございました。ワーレン元帥と一緒に出立するまでに、

 またお話を聞かせてください。今度は、クロイツェル伍長もご一緒してくださいね」

 

 それを合図に、イゼルローンの面々は退出した。ヒルダは瞑目して彼らの言葉を反芻した。イゼルローン一行の中の女性兵は、まだ十代後半の美しい少女だった。旧同盟軍では、女性のほとんどは職業軍人だという。あんな年端もいかぬ子が、従軍するには相応の理由がある。彼女もまた戦争孤児なのだ。

 

 自分はどうだ。母は病死したが、高潔で人格者の父がいる。可愛い息子と、美しく優しい義理の姉がいる。有能で人格も優れた部下たちが帝国を支えてくれている。宇宙にいる大勢の孤児と未亡人の中で、最も恵まれた存在だろう。そんな自分に、父の仇の妻という恨みを越えて、わざわざ病気の危険を教えてくれたのだ。

 

 一人でできないなら、大勢でやればいいと緑の瞳の美男子は進言した。一番ヒルダを必要とする仕事以外、上手にできる者に任せる、そのための最善案を考えなくてはならないが。

 

 そして、ヤン・ウェンリーが部下に慕われ、士気を最高水準に保ち続けた理由の一端を明かしてくれた、自分と髪や目の色が似た屈強な青年。ヤンは、己が魔術を舞台のスタッフに、充分に説明をしていた。だからこそ、敵対していた帝国は、手玉に取られ続けたのだろう。

 

 彼らの話をまとめ、オーディーンへの対処法の一端を披露したのは、かの魔術師の弟子だった。いままで、ラインハルトに集中していた権力を分散化し、飛翔する速度で進んだ変革を、民衆の足並みに合わせた緩やかなものとするように、同盟の例を引いて説明してくれた。

 

 彼から実の父を奪い、尊敬する養父を死に追いやった発端は、いずれも帝国軍であったのに。

 

 それはすべて、平和のため。彼らが敬愛した黒髪の青年の心からの望みであったから、恩讐(おんしゅう)を越え、恨み言の代わりに未来への提言をする。彼らこそがヤン・ウェンリーの遺産だった。

 

 このまま平和が続くなら、ヤンは史上最高の軍事的天才と評価をされることだろう。だが、それ以上に彼は良き師であった。イゼルローンの人々は、彼の言葉を種火に、自らの心に火を灯して歩もうとする。

 

 ラインハルトの残した輝きは、巨大にすぎる。しかし、その一欠片ならば携えることができるだろう。ヒルダ一人に持ちきれなくても、姉であるアンネローゼに、ミッターマイヤーを始めとする七元帥。義父でもあるフランツを始めとする帝国の尚書たち。そして、帝国の国民が皆で分かち合うことができないだろうか。歴史上でも稀な天才だから担う事ができた重圧を、担う人間を増やすことで分散させる。それは、専制から民主政治が生まれていった過程そのものだった。

 

 ヒルダは瞼を開き、ゆっくりと顔を上げた。眼に映る部屋の天井の上には蒼穹(そうきゅう)が広がっている。そこを飛びだせば、遥かに星の海に浮かぶ幾多の惑星と四百億の人々がいる。ゆるやかに、穏やかに変えていかなくては、脱落者が出るとユリアンは語った。天才が五年でなしえたことの、十倍、いや二十倍もかかるかもしれない。こんな形で彼が亡くならなかったとしても、いずれ子孫が直面する問題であったろう。

 

「見ていてくださいますか、陛下」

 

 あなたのような天才は、五百年に一人だった。だから凡人である私たちは、身の丈にあった方法を模索するしかない。あなたの構想に逆行することかもしれない。歴史の勝者となるのはヤン元帥かもしれない。

 

 でも、あなたの原初の願いは、愛する家族が揃って、飢えず凍えぬ暮らしができることだったはず。親友と同じ学校に通い、夢を語り合って、望む未来に進むことだったのでしょう。理不尽な権力に脅かされることのない、平和な暮らしを望まれていたことでしょう。

 

「あなたの最期の言葉の続きを」

 

 『宇宙を手に入れたら、みんなで』幸せに暮らそう。私はそう信じて、彼方にある理想をめざす放浪者の一人になる。星亡き宇宙に、未来を探す長い旅に出る。でも、私は独りではない。今この時を最後に。だからこの一時だけは許してほしい。

 

「少しの間、一人にさせてください」

 

 シュトライトとキスリングは、静かに退出した。静かに閉じられた扉の音を聞いても、ヒルダは姿勢を変えることはなかった。そのままで、瞳から熱い流れが頬を伝うに任せた。

 

 それはヒルダが、ラインハルトの妻だった最後の日であった。

 

 摂政皇太后ヒルデガルド・フォン・ローエングラムは、ローエングラム王朝を背負い、390億人の母となった。その姿を、後世の歴史家は失われた宗教の象徴になぞらえた。『悲しみの聖母(スターバト・マーテル)』と。

 

 


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