フィレスは腕を失ってからずっと、一つの疑問を抱いていた。
疑問の答えは、目前の二人が持っている。
感情に押し流されてしまえば、今二人に尋ねる機会を逃してしまえば、答えは永遠に返ってこない。
そんな確信が心の中にあった。
だから泣けなかった。
泣かなかったからこそ、答えを求める権利があるとも思った。
意を決したフィレスは口を小さく引き結んで、そして疑問を声に出した。
「あの時『姫』と呼ぶ声を・・・聞きま・した・・・」
水色の瞳は溢れそうな涙を湛えている。両眼を覆う透明な膜が、激情を抑えてる様にも見えた。
「あれは・・・あの声は・・・・お祖父様の船の・・・」
クロムレア公は、悪戯っぽく笑うと人差し指を立て、笑みの形をした自分の唇に当てた。
「おじ・・・い・・・」
フィレスの顔がくしゃっと歪む。
姉さんと対峙したあの場所で、「姫」と呼びうる人物は、私の知る限りでは私の他にもう一人だけ、いた。
薄れゆく意識の中で見えたのは、呼ぶ声がした方へと進んで私から去って行く姉さんの背中。
お祖父様を始めとして、お祖父様の配下の人達は姉さんを「姫」と、私を「妹姫」と呼ぶ。そして私の聞き間違いでなければ、あの声の持ち主はお祖父様の右腕ともいえる人だ。
あの声を聞いたとき、私はお祖父様と兄様が姉さんに対して秘密裏に動いたのではないか、と仮定した。
「いつか、全てをアレスから聞きなさい。」
クロムレア公のしゃがれた声は、フィレスの仮定を確信に至らせると同時に、これ以上は聞いても無駄とも言っている。
だったら、姉さんは、今―――――
フィレスは言いたかった言葉を、苦い思いと共に呑み込んだ。
どうしても欲しかった答えは教えてもらったのだ。それ以上は望めない。
ほう、と安堵の息をついた瞬間に、水色の双眸から我慢してきたものが零れ落ちた。
涙が頬を伝う感触が、ようやく泣いてもいいんだと教えてくれる。
はたはたと顎から落下する涙は、後から後から溢れでて止まる事を知らない。
始めに手を差し伸べて労りの言葉を言えば、この面会はそれだけで終わってしまう。
それでは駄目なのだ。
単なる「お見舞い」で終わらせれば、ある意味フィレスは何も知らずに、それこそ自身に降りかかる事柄に対応できなくなる。
利用されていると気づいた時点で手遅れだ。何故ならフィレスはその手に何も持っていない一王女なのだから。
だからこそクロムレア公とアレスは始めに厳しい対応をした。
フィレスが自分で自分の身を守るのに必要なもの、それは武器だ。
セレスが奪った弓という武器の替わりに、本来持つべきものを持たせる。
各国の思惑に押しつぶされない様に。
卑屈にならない様に。
明るい笑顔を失わない様に。
何よりフィレスがフィレスでいられる様に。
祖父と兄と、おそらく姉の思いがそこにある。
優しく微笑むアレスが言った。
「・・・お帰り、フィレス。」
やっと言えた、とアレスはフィレスの涙を拭いながら呟いた。
「うわあああああぁぁぁぁああああーーーーー!!!!」
我慢してきたこと、溜め込んできたもの、押さえていたもの。もがきながらあがきながら蓋をした数多の感情。
怒り、苦しみ、悲しみ、愛憎、恐怖、希望と絶望。決して綺麗とは言えない、それら全てを放り出してフィレスは泣いた。
一本しかない腕で必死に兄にしがみつく。
声をあげてもあげても、止まらない。
止め方を忘れた涙が、勝手に溢れて勝手に流れた。
アレスは、こみ上げるものを抑えながら「我慢しなくてもいいんだよ」告げた。
そしてフィレスの背中をずっと撫でていた。
「まったく、毛の生えた心臓がいくつあっても足りない。」
大きく吐いた息と同時に出た言葉に、顔を上げてクロムレア公を見たフィレスの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
苦笑するクロムレア公が先程言った冗談交じりの声は、少し震えていた。
気付いてしまったフィレスは、二人に多大なる心配をかけてしまった、と今更ながらに申し訳ない気持ちで一杯になった。
謝罪や申し開きは必要ないと最初に言われた。
でも、どうしても心配をかけてしまった事を謝りたかった。
そして嗚咽に混じる「ごめんなさい」の言葉を、祖父と兄は確かに聞いたのである。
クロムレア公も、もちろんアレスも解っていた。
連れ戻そうとしてもフィレスはとことん抵抗するだろう。そういう妹であると知っているセレスだからこそ、どうしてもフィレス自身がが引き下がざるを得ない状況を作った。
作り出した状況は、セレスがフィレスの片腕を切断するという残酷なものであった。
腕を奪われた事実によりフィレスがしでかした「出奔」を、全ての人間ではないにせよ覆い隠す事が出来るとも、セレスは踏んでいたに違いない。
何よりフィレスは武器を、すなわち弓を使用することが金輪際出来なくなった。
そのフィレスの腕を奪ったセレスであるが、連れ戻させる事は勿論だが、どちらかといえば二度と弓を持たせない事に重きを置いていたのではないか、とクロムレア公とアレスは考えている。
昔、妹が武器を持つことを最後まで反対した姉。
その姉が妹に対して「自分の居場所に戻れ」と叱責した。
妹が戦う場所は剣を交え血を流す場所ではない。だからもう決して戦場には出させないという姉の強い思いが、祖父と兄には、はっきりと見える。
血の色をした髪と同じくらいに鮮やかな、セレスの意志が。
だが―――――
「何もこんな乱暴なやり方をしなくてもなあ。」
嘗て腕があった方の肩をクロムレア公がさすった。
アレスとクロムレア公は、フィレスの箍を一つ一つ外していく。
「ねえ・・さ・・・ひど・・・ぃ・・・」
フィレスはようやく姉に対する非難を口にすることが出来たのだった。
肩に祖父の体温をじんわりと感じながら、せめて笑いながらと思ってフィレスは一生懸命笑おうとしたのだが、あえなく失敗してしまう。
喉が裂けるかと思う程の大きな声で。
何故泣いているのかもわからない位に、泣いて、泣いて、泣いて。
やがて泣き疲れて眠る頃、窓の外の陽はほんのりと橙色に染まっていた。
フィレスが全てを教えて欲しいとアレスに乞うには、長い長い時間を必要とした。
それが叶うのは、嫁いだ国パルティア王妃として生涯にたった一度だけ祖国ディパンを訪ねた時だった。
国王となった兄の口から語られる真実を知った時、クロムレア公も父たる前国王もこの世を去っており、姉も既に鬼籍なのだとその時に初めて知る事となる。
祖父と兄とそして義兄が、姉を匿いそして眠る場所に立った時、妹の胸に去来したものは何だったのか。
我々が知る由も無い。
-----
ようやく固い蕾を付けた蒲公英は、地中に根を更に張り葉を今まで以上に伸ばす。
眩しい太陽の光や、時には残酷な風雨を受けながらも、ゆっくりと蕾を膨らませ。
長い時間をかけて花開き、そして同じくらいの時間を堂々と咲き誇った。
と同時に様々なものをミッドガルドへもたらした。
あたかも、蒲公英が散り際に綿毛の種子を風に飛ばすが如くに。
そうして散った種子。
根付きそして花開くに至るものもあれば、そのまま朽ちてしまったものもある。
自然の摂理そのままに。
数多の花が妍を競ったあの時代。
回顧録の筆者が「百花繚乱」と例えた激動の時代、あでやかに咲き誇った様々な花たちがいた。
蒲公英色の髪を持つ彼女は、間違いなくその中の一人である。