黒森とは文字通り「黒い森」だ。
鬱蒼と生い茂る木々が陽の光を遮り、昼であっても森の中は逢魔が時のように暗い。そんな森をいつしか人々は「黒森」と呼ぶようになった。
人間達が出入りするのは黒森の比較的浅い場所である。森に入る連中が「黒森の入り口」とか、単に「入口」と呼ばわる場所だ。森に入って奥へと向かって歩き小一時間くらいまでは陽の光が地面まで届く。太陽の光が地面まで届くというのは自然の動物や植物が生きていける場所であると同時に、日の射す昼間であれば不死者や魔物といった類が現われにくい。その為、鹿や野ウサギ、茸や山菜、野生の薬草等を狩る人間が、自分達が入って尚且つ生きたまま出ることが可能な限界域という意味も「入口」の言葉にはあるのだ。
森に入る人達も天気のいい日の昼間でしか黒森の入り口に足を運ばない。曇りの日であれば黒森の内部は日の射さない、文字通り「黒い森」なので入り口であっても不死者や魔物が跋扈する。やむにやまれぬ事情があろうと、黒森を知っている連中は太陽が照っている日以外は絶対に入らないのである。
黒森の奥深い所に、森が空に向かってぽっかりと口を開けている部分が一箇所だけある。太陽が顔を出している昼間であれば、陽光は地面に容赦なく降り注ぐ場所だ。
太陽を拒んでいる様な印象を与える黒森に何故そのような場所があるのかは誰も知らない。知っている存在があるとすれば、それは長きに渡り黒森の深部に庵を結んでいる「黒森の魔女、ウォルス」であろう。
今「黒森の魔女」ウォルスが、陽光が容赦なく照らす場所へと一歩また一歩と進んでいる。ウォルスが向かう先の地面は陽が差しているにも関わらず草の一本も生えていない。
靴音を立てずに進むウォルスの白魚の様な繊細な手は、先端部分に髑髏が乗った杖を握り、彼女の身体を覆う黒いマントは上半身を隠している。歩いている所為でマントの裾が割れ、そこから見えるのはくびれた腰の描くライン。左右にスリットの入った青紫の服が魅惑的な曲線を描く。足を交互に動かす度に、スリットからはみ出る引き締まった美しい脚を足首まで隠すぴったりとした布はマントと同じ色だ。上質の皮の靴の色もマントと同じ。靴は踵か低く舞踏家が履く靴と同じ形をしているが、何の装飾も付いてはいない。、被っているフードが作る影は顔の上半分まで下がり、隠せなかった高くて細い鼻筋と紅い唇、そしてくすんだ金髪が逢魔が時の森の中で妖しい色香を放つ。
あと少しで影と光の境界線に足が届く、というその時。
「・・・待ってくれ。」
ウォルスの先で立っているソロンが苦しそうな表情で言った。
「私は待たんぞ、ソロン。」
言いながら尚も進むウォルス。
「ウォルス!!」
ソロンの必死の表情と声がウォルスの歩を留めた。
私は何処までソロンに甘いのだろうか。自嘲気味にウォルスは口角を上げる。
ウォルスの背後にはその背中をじっと見つめる小さな人影があった。
艶を帯びた真っ直ぐの茶色い髪は、顎のラインで切り揃えられている。細い首は金色のリボンが巻かれ、後ろでリボンを蝶々結びで止めていた。茶色の双眸は髪より深い色をしており、前方に立つウォルスの背中を見つめている。
身に着けている服は濃紺で、浅く襟ぐりが開いている。スカートは膝下真中くらいの長さなので、履いている編上げブーツが見える。
長い間、彼女に付き従って来た少女マイカだ。距離を置いて追ってきた己が主の背中を無言のままじっと見つめていた。
ソロンは眉間に皺を寄せ、奥歯を噛み締めている。焦香の瞳は睨むように、請うように、離れて立っている育ての親を見ている。
ウォルスは右手で被っていたフードを後ろへ落とし、左手で前髪を書き上げる。
妹と同じ顔が白日の下に晒された。甘ったるい声が呼び寄せられた者達は、蠱惑的を美貌を見たならば囚われてしまう。赤い両眼は思考を奪い、白くて細やかな肌にひとたび触れられたならば、魂は堕落する。
不死者が持つ赤い両眼がまっすぐにソロンを見据え、ウォルスの肉感的な唇がすうと開いた。
「あちらで完成させたのだろう?であればさっさと私を滅ぼせ。」
「俺に出来る訳ないだろう!」
「出来るから言っているのだぞ。」
「嫌だ!」
「ソロン」
「何で!何で俺なんだよ!!」
悲痛な叫びと共に拳を作っていた片方の手が帽子を掴み、地面へと叩きつけた。
複雑な茶色の、焦香の目は涙を溜めていた。文字通り焦がれる様にウォルスを見つめる。
聞くものに纏わりつきながら惑わす力を秘めた美しい声が紡ぐのは、ただ一言のみ。
「以前から決めていた。」
胸の中でそっと続きを呟いた。
――――私の最後は、私が愛する者から貰うと。
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ソロンは苦渋の表情でウォルスを半ば睨みつけていた。腿の横でぎりぎりと拳を握る。
「俺は・・・ウォルスを消滅させるために、あれを完成させたんじゃない!!」
身を乗り出しながら叫ぶソロンの声は、真っ直ぐにウォルスへと向かった。
乞われて上がった宮廷で「平民めが」と罵られ、「いや、不死者に育てられた平民だ」とわざわざ言い直された。それは表舞台であろおうが裏舞台であろうが関係なかった。
判りきった上での登城だっとはいえ、やはり感情のある人間である。初めのうちは悔しい思いも、理不尽な扱いも受けた。
しかし、その唾棄すべき「平民」の立ち振る舞いや作法等は文句のつけ様がなかった。ソロンを蔑んでいた貴族連中は驚いたが、しばらくしてソロンに対しての「驚き」は「生意気な」へと変化する。
貧しい農村生まれの平民が、どう足掻いても身に付けようが無い上流階級の礼儀作法を何故会得していたのか。答えはウォルスである。ソロンの礼儀作法は、ウォルスの教育の賜物であった。
生まれながらに魔力に恵まれた彼は出身が貧しい農村であったが故に、その魔力の所為で家族以外、時には家族にさえ疎んじられた。更に労働力として一家を支えるまでにはあと数年は掛かるという理由で口減らしの対象となり、結果として黒森に捨てられた。
王都或いは都市部で産まれたのであれば、魔術師に弟子入りする事が出来ただろうし、魔力目当てに養子縁組も可能だったかもしれない。
しかし幸か不幸か、ソロンは農村で生まれ黒森に捨てられた。
拾ったウォルスは、幼い男の子を赤い双眸でじっと見る。状況を判断して即座に捨てられた理由に思い至った。だから彼女は言ったのだ。
「故に捨てられたか、ソロン」と――――
ウォルスはソロンを育てた。賢者の資質を持つ「魔術師」を育てると同時に「人間」として。
朝の挨拶から始まり、食事時に使う金物類の扱い、部屋の出入り等等の礼儀作法。
文字の正確な読みと書き、魔道書を含む本の扱い方、薬草の種類と取扱い方法。
教育方法はもちろん「拳で語る」というやつである。ほんの少しでも間違えると、「ソーローンー」とゆっくり名前を口にする。言い終えた瞬間に拳や蹴りが容赦なくソロンを襲った。幼い男の子は痛みと恐怖で、とにもかくにも教えられた事を正確に身に着けざるを得なかったのだ。
魔術師として育てるのであれば、乱暴な言い方をするならば礼儀作法などは必要ない。それは人間として必要な部類に入るのだろうが、一般的にはあそこまで教え込まなくてもいいのだ。でもウォルスはそうしなかった。最終的に宮廷まで上がったソロンの未来を見越していたのか、不死者の単なる気紛れなのか。答えを知る者はウォルスしかいない。
ソロンの焦香をした瞳を見ながら、ウォルスは思う。
焦がれた香は未だに炎を内包しているのだ、と。
炎は決して消えはせず、まさに炎を操る者に相応しい、と。
彼の者の魔力は香の如く漂い、私はだだ酔うのだ、と。
「ソロン、お前の元へ。」
初めて出会った時と何一つ変わらない姿と声で、ウォルスは境界線を越える。