ムーミンパパが桃香に拾われてから、季節がひとめぐりしようとしていました。
その間、パパも何度か家へ帰ろうとはしたのですが、どうにも道が見つかりません。
北の空を見上げて帽子を持ち上げる日もありましたが、「どうやら、この国にはコンパスも星図も通じないらしい」と、肩をすくめるしかありませんでした。
そんなある日、桃香は言いました。
「パパ、行くところがないなら、うちに居てもいいよ?」
その言葉に、ムーミンパパは深くうなずきました。そして居候となったのです。
もちろんパパは、ただ日がな一日を遊んで過ごすような子どもではありません。
妻子を持つ一人前の男として、家事にも買い出しにも、せっせと働きました。
「困っている婦女子を助けるのは、男のつとめだよ」と、にこやかに言いながら、洗濯物を干す姿も様になっていました。
「ただいま、お母さん。今日も蓙がたくさん売れたよ」
街から帰ってきた桃香とパパ。
ちょうど夕餉の仕度ができたころです。けれど食卓に並べられた料理から、なにやら凄まじい匂いがただよってきました。
パパは思わず鼻を押さえました。
「今日はガンギエイとユムシのお刺身よ。ほら、あなたの大好物でしょう?」
桃香は目を輝かせて言いましたが、ムーミンパパは椅子の背に寄りかかって、静かに深呼吸しました。
世には奇食や悪食という言葉がありますが、貧しいということは、すなわち、命をつなぐために何でも食べるということでもあります。
パパにとっても、まさに人生初の体験でした。
桃香とその母は、もともと二人きりで慎ましく暮らしていました。
けれど、娘を育てるために懸命に働き続けた母は、ある日ついに体を壊してしまいました。
「お母さんの分も、私が働くから!」
その叫びの裏には、少女のまっすぐな決意がありました。
そして今、家族にはムーミンパパという頼れる働き手が加わったのです。
おかげで母はようやく休むことができ、栄養のあるものを口にし、布団の中で深く息をつく夜を過ごせるようになりました。
「パパ、いつもありがとう。さあ、ユムシも食べてみて。美味しいよ?」
差し出された皿から、パパは恐る恐る一つをつまみました。まるで未知との遭遇のような顔つきで。
そんなある日の夕暮れ、村の入り口で大きな騒ぎが起こりました。帰ってきた村人が叫びます。
「大変だ、賊がやってくるぞ!」
村中がにわかに色めき立ち、農具を手にした男たちが駆け出しました。
けれど武器の扱いも戦の経験もない人々が、武装した一団に敵うはずもありません。
桃香は悲しそうに食卓を見つめました。
そしまだ手を付けていなかった一皿を取り上げると、勢いよく外へと飛び出しました。
「ご飯さえあげれば、きっと帰ってくれるよ!」
博愛の心を信じていたのです。人は怒るとき、お腹が空いているのだと。
満たしてやれば、心も落ち着くに違いないと。
その姿に、母はおろおろとするばかりでした。そしてムーミンパパにすがるように言いました。
「……どうか、桃香をお願いします」
パパは静かにうなずくと、シルクハットを被り直し、彼女の後を追いました。
村の入り口では、賊たちが自警団を蹴散らしていました。止めを刺そうと剣を振りかざしたそのとき──
「待って!」
桃香が皿を手に、飛び込んできたのです。たちまち彼女は賊たちに囲まれました。
「どうかこれを食べてください。村には、手を出さないで……!」
なんて健気な願いだったでしょうか。
しかし、皿の中を見た賊の頭目は顔をしかめました。
「……なんだこの臭えモンは」
「ガンギエイです。栄養もありますよ?」
にっこりと答える桃香。それが逆に火に油を注ぎました。
「てめえ、ふざけやがって! こんなもん、食えるか!」
怒鳴り声とともに剣が桃香に向けられたその瞬間──
ムーミンパパの足が、賊の一人の膝を見事に打ち砕きました。
「な、なんだこいつは……」
ムーミンパパは、ふうと小さく息を吐いて言いました。
「君たち、女性に対して暴力はいけないな」
その声に賊たちは思わず身をすくめました。
白く丸い体、けれど目には静かな光。その姿は、妖怪とも神様ともつかぬ不思議な威厳に満ちていました。
賊の頭目が吠えました。
「やっちまえ!」
剣を抜いた賊たちが襲いかかります。
ですが──パパは一人、するすると身をかわし、膝を砕き、腕をへし折り、次々と無力化していきました。
その勇姿に、村人たちは歓声を上げました。賊たちは恐慌に陥り、やがて一団は逃げていったのです。
その後、村ではこう言われるようになりました。
「この村には何も無いが、白豚の守り神がいる」
けれど、パパは守り神になるつもりなど毛頭ありませんでした。
桃香は事件のあと、ぽつりと言いました。
「この国には困っている人がたくさんいる。私は、その人たちを助けたいの」
その言葉を、ムーミンパパは黙って聞いていました。
そして思いました。桃香の優しさは、時に危うい。
だれかがそばで見守っていなければ。
「……桃香は、ちょっと抜けてるところがあるからね」
「ひどい! 本気なのに!」
それでも、彼女の母にはもう十分な蓄えができました。
だからムーミンパパは、旅立つ桃香に付き添う決意をしたのです。
村人たちはパパを引き留めようとしましたが、彼は帽子を押さえて一言だけ残しました。
「犬でも飼うといいよ」
ムーミンパパにとって、大切なのは家族です。──そして、今や桃香とその母も、かけがえのない家族なのでした。
「お母さん、行ってくるね!」
元気に手を振って、桃香とムーミンパパは旅へと出発しました。
パパの日記
○月□日
桃香が「困っている人を助けたい」と言い出した。
私は彼女の手助けで村を出ることにした。
大きな町に出れば、ムーミン谷に戻る手がかりも見つかるかもしれないし、なにより──彼女の絶望的な味覚を矯正する機会があるかもしれない。
あれは酷い。とても酷い。もしママがあの舌だったら、我が家の食卓は戦場になっていただろう。
これはもう、大人の義務である。
私は必ず、彼女の舌を、まっとうに導いてみせる。
──ムーミンパパより