「北郷一刀は、残念無念の人である」と、ある正史に記されているそうです。
そんな彼が気がつけば見知らぬ草原の上、まだ生後数ヶ月の赤子に戻っていたとしたら──それはもう残念を通り越して運命の悪戯でしょう。
けれど、天は彼に一つの救いを与えました。
子どもに恵まれなかった旅商人夫婦が、彼を拾ってくれたのです。
「おまえは北家の跡取りだ。今日から北郷一刀だ」
赤子に言葉は通じません。それでも、あたたかな抱擁と微笑みから、愛されていることだけは伝わりました。
一刀という字は、本来の名前を崩したような形で残されていました。
新しい名でありながら、古い記憶の断片が、まるで風のように胸を吹き抜けることもあったそうです。
すくすくと育った一刀は、やがて荊州・南陽郡の地で、ある人物に仕えることになりました。
その人の名は袁術公路。やや偏食で、華やかな暮らしを好む気のよい人物でした。
ある日、一刀は考えました。
(この世界には、どうしてこんなに甘味が少ないのだろう?)
現代の記憶を持つ彼にとって、甘味とは希望そのものでした。
だからこそ、彼は自らの手で蜂蜜の管理所を設け、甘味を庶民に届けることにしたのです。
「美味い! 一刀は天才じゃのう!」
袁術の笑顔はまるで、蜜に頬を寄せた子猫のようでした。
蜂蜜水は、たちまち領内に広まりました。
さて袁家の軍師の劉勲は、一刀を文官と見てはいましたが、やや苛烈な指導者でもありました。
「おぬし、蜂蜜はうまく扱うが、戦の基礎がなっておらん!」
――と教範をごそっと渡されました。
軍師になるつもりはなかった一刀でしたが、黙って受け取り、夜な夜なそれを読み解く日々が始まります。
そんな彼のもとに、ひとりの少女が訪ねてきました。
「おやおや、一刀さん。お昼をご一緒しませんか?」
張勲、真名を七乃。袁術の側近であり、一刀とは幼い頃の知己でもありました。
彼女のスカートの裾と、笑みの中のからかいが、一刀には昔と変わらぬ懐かしさを思い出させます。
「悪い、今は課題があってね。剛拷市の豚まんでも頼むよ」
「ふふ、承知しました。財布は忘れずに」
そう言って軽やかに去っていく七乃の背を見送りながら、一刀はまた書を開いたのでした。
そのころ──
賊の討伐を終えた桃香たちは、公孫瓚のもとを辞して、新たな旅へと出ていました。
「目的地はね、南陽の桃のタルト。私の真名、桃香の桃だからね!」
旅の目的はあいかわらず食べ物でしたが、皆はその軽やかな空気を心地よく受け止めていました。
旅の一行には、新たに趙雲が加わっていました。
剛胆にして豪胆、けれど茶目っ気のある人物で、瓶に入った不思議な食べ物──「ポンテギ」と呼ばれる虫の煮物──をお土産に持ってきました。
「これを肴にすると、酒がよく進むのですぞ!」
「わあ、ありがとう!」
虫を嬉々として食べる桃香に、愛紗の眉がひくつきます。
美少女が虫をもりもりと食べる光景は、どこか別の意味で異世界でした。
「いかがかな?」
趙雲に勧められた愛紗は、ぷいと顔をそむけます。
「私は、けっこうです!」
その一方で、鈴々はパパにぼやいていました。
「虫は食べ物じゃないのだ……桃香お姉ちゃん、ちょっと変なのだ」
パパは、ただ静かに笑っていました。
南陽の町に入ると、愛紗はかつての自分の認識が甘かったと気づかされました。
市場にはアヒルの胎児、さそりの串焼き、カブトガニなど、見たこともない料理が並んでいました。
ふと目を向けると、犬が数人の男たちに捕まえられ、大きな鍋のそばへと運ばれているところでした。
「な、なんという──」
愛紗が絶句するそばで、
「わあ、おいしそう!」
桃香が目を輝かせて言いました。
路地には、すでに皮を剥がされた動物の肉が吊るされており、桃香はそれらを見つめながら、楽しそうにうなずいています。
「先に宿を決めようか」
と、ムーミンパパが声をかけました。
彼はもう、桃香の味覚には驚かないようでした。
「そうですね、桃香様。宿を、宿を先に!」
愛紗も慌てて声をかけます。
「そうだね。犬さん、またね!」
桃香は竹かごの中で震える犬に向かって、名残惜しそうに手を振りました。
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パパの日記
◎月◎日
今日、桃香殿がポンテギを喜んで食べた。
虫を食べて喜ぶ姿は、ムーミン谷の子たちとはだいぶ違う。
けれど、それもこの国の食文化なのだろう。
愛紗は、そんな桃香殿の味覚を正したいと言っていた。
私もそれには少し賛成だ。
甘味や食の好みは、人の心と深くつながっている。
桃香殿に本当の意味で美味しいと思えるものを届けることが、きっとこの旅のもうひとつの目的なのだろう。
今日の目的地は桃のタルト。
どうかそれが、彼女の心に残る優しい味になりますように。