休日の朝は、いつもの朝よりもすこしだけ、目覚めがやわらかです。
七乃は、その朝、よい夢を見た気がして、微笑みながら目を覚ましました。
(……まあ、夢でも)
夢の中では、一刀が彼女の肩を抱き寄せ、キスをしてきました。
見かけによらず、一刀はそういった経験にはまったく疎く、七乃が人知れず近づけていなかったことを彼女自身、よく知っていました。
だけれども──そんな夢も悪くはない。
そう思いながら、彼女は洗顔を済ませ、髪を整え、朝の支度を手際よく終えていきます。
今日は、本来なら休暇の日でした。けれど、桃香たちをもてなすことになり、七乃は朝から少し張り切っていました。
買い出しから戻ると、街角に懐かしい声が響きました。
「七乃ちゃん!」
見ると、桃香たちが両手に大きな荷物を抱えて立っていました。
「あら、桃香さん。それは……?」
「うん、今日は七乃ちゃんにご馳走しようと思って!」
七乃に料理の支度は任せてとばかりに、桃香たちも何やら奇妙な食材を準備しています。
──ユムシ、ガンギエイ、ポンテギ。
独特な臭気の立ちこめる品々に、愛紗は表情を固くしましたが、七乃は柔らかな笑顔を崩しませんでした。
食卓に並ぶ料理のほとんどは七乃の手によるもので、一刀の器には、温かなスープが丁寧に注がれていました。
「はい、一刀さん。どうぞ」
「ありがとう」
そんな何気ないやりとりの向こうで、愛紗はふと思いました。
(……まるで夫婦のようだな)
愛紗自身、恋というものに馴染みはありません。けれど、こうして人が誰かのために手を動かし、誰かのために料理をよそう姿には、あたたかな絆を感じるものです。
──と、そのとき。七乃がふいに振り返り、愛紗と目が合いました。
「えっ……」
愛紗の背筋に鋭い気配が走りました。ムーミンパパと剣を交えたときとも違う、冷ややかな視線。
(これは──)
かつて兄をめぐって争った女たちの姿が、愛紗の脳裏をよぎります。
一人は腹を裂かれて死に、一人は狂気に堕ちて兄の首を抱いて笑っていた──あのときに向けられた執着と同じ眼差し。
「ふ、二人はお似合いだと思います」
言葉がすっと口からこぼれました。次の瞬間、七乃の表情がふわりと和らぎました。
「そうですか?」
その笑顔は、ひどく純粋で、愛紗はようやく息を吐きました。
料理の味は格別でした。桃香たちの舌にも、七乃の料理は新鮮な感動をもたらし──結果として、彼女たちはその後も袁術のもとで働くようになりました。
けれど世の中は桃香ほどのんびりとはしていません。
黄巾の乱はまだくすぶっており、各地で反乱や混乱が続いていました。
皇帝から袁術に下った勅命は、言葉を換えればこうです。
「ゆっくりできない奴は、成敗だよっ!」
袁術の領内には目立った反乱はありませんでしたが、劉表の地が危機にあるとの知らせが入りました。
「ならば、桃香さんに行ってもらいましょう」
七乃の一言に、袁術こと美羽は顔をしかめます。
「……あの毒汁娘か」
あの日の食事会で、桃香が差し出した飲み物は、イワシ水に青汁酢など、常人には耐え難い代物。
偶然居合わせた美羽は、その匂いに倒れてしまったほどでした。
結果として桃香たちは袁術の政務を手伝うことになり──七乃は密かに満足していました。
(美羽様には刺激が強すぎたかもしれませんが……)
そう思いつつも、彼女は新たな布石を、心の内で並べていました。
「七乃、昼飯行かないか?」
執務室に現れた一刀の言葉に、七乃は顔を上げました。
時間を見ると、ちょうど昼の刻限。
「一刀さんが少ない給金でご馳走してくださるというなら、どこへでも参ります」
「割り勘だぞ、割り勘」
ふたりの会話はどこか学生時代のままのようで、けれど隣り合って歩く背中には静かな絆がありました。
一方――
別の地では、休む暇もない者たちもいました。
陳留を治める曹操。彼女はかつて都で門を預かる職にあったものの、規律を破った者を容赦なく処罰したことで左遷されていたのです。
それでも今、彼女は新たな戦の機を見据えていました。
「袁術軍が劉表の援軍として二万。指揮官は劉備。関羽、趙雲、張飛……そして白豚?」
報告したのは、軍師の荀彧。猫耳のついたフードを被る、理知的な少女です。
「白豚とは?」
「劉備軍の古株とのこと。戦果多数にございます」
曹操は、静かに笑いました。
袁家の威勢は、彼女にとって越えるべき壁であり、また、興味深き対象でもありました。
(──いつか、袁術を屈服させたい)
そう彼女が思うのは、野心だけではありません。
美羽の幼い身体──それを彼女は「かわいらしい」と思う心と、「屈服させたい」と思う心の両方で見つめていました。
彼女の陣営において、美と力は時に境界を越え、肉欲と忠誠が入り混じる。
けれど、そんな矛盾こそが彼女の生き方を映しているのでした。