自宅への帰路にて。
焔が揺れる。
青白い焔は見ていて飽きることが無い。
風に揺れているのかと思えば違うらしい。
足下のちりをさらう温い風が、ここ最近一番の春らしさに思えた。
(あれは命の焔……)
力なく頼りないアオイの足下を駆け回るヒトモシのミアカシは、楽しそうに焔を燃やしている。
その様子を指差してパンジャは訊ねた。
「景気よくボーボー燃やしているが、アオイは大丈夫なのか?」
「ちょっと感情が希薄になるだけだ」
「それは大丈夫とは言わないのでは?」
「けれど、ミアカシさんが楽しそうだ。それを見たらとてもやめろとは言えない。この世界に生まれたことを全力で楽しんでいる。だから見る度に思う。この世界には、たしかに命が生まれる価値がある。生きる価値はあるのだと思う。たとえそれが用途を定められたものだとしても。まあ、世の中は綺麗事ばかりでは生きられなかったが……」
「意外だ。君は『命に意味は無い』と言うのだと思っていた」
アオイは杖を動かした。
研究室へ来たときよりも歩みは鈍い。片腕でアオイの手を取り、パンジャも同じ歩幅で歩いた。
「間違いではない。命に意味は無いのだろう。『内容』は最後に現れるものだ。死という完結に際して他者が定めるものだ。生に意味があるとしたら、それは命の全てを擲って仕事を負うものだけだ」
「――それでも君の仕事に一生従事できるなら、わたしはそれで構わないと思っている」
「お互い定年までにしないか? 『死ぬまで』とすると締め切りまで長すぎてダレてしまいそうだ」
アオイは指を折り、年数を数えてて最後に何本か指を立てた。ふふ、と息を吐いて笑うアオイは、もう何年も見ていない穏やかさがあった。
「私達はコウタのように旅をしなかっただろう? 研究の合間に、いろいろ世界を見て回りたいと思っている。……で、できれば…………君と…………」
「それは、友としての範囲内の話で?」
意地悪をするつもりはなかったが、たじたじするアオイが珍しくて、ついパンジャの言葉は多くなる。悪い癖だと思いながら彼の真っ赤な耳を見ていた。
「――そ、そうだ。パンジャ、まだ君の回答を聞いていないぞ。友情の再定義の話だ。君個人の問題とは何だ?」
「ああ……そういう話もあったね……いや、すまない、怒らないでね」
「怒っていない。ちっともね」
「そう。ちゃんと考えていたんだ。今の関係が変わるとだね」
「変わると?」
「歯止めがきかなくなりそうで恐いんだ。ああ、誤解されてしまいそう」
「ん? ん? それはどういう?」
アオイは今日に限って勘が鈍い。パンジャは腹を括った。しかし、その目はいつの間にか湯を満載した鍋が揺れる幻を見ていた。今にも溢れそうな感情を彼に悟られたくない、けれどいっそ知られてしまったら楽かもしれない。その考えの危うさをパンジャは誰よりも知っている。
「つまり――その。わたしは、アオイのことが大切なので、君をとても大切にしたい」
パンジャにとってギリギリの表現だ。
これ以上の明言は、抑制の堅牢性を試すことになりそうだ。
アオイは、何かに気付いたのかパンジャを見つめてしみじみと言った。
「あ。あ? ああ……そういう……。パンジャ、君は愛情深い人だったのだな」
「そう見える? そう、わたしは愛情深い……執念深いとも……いちいち度が過ぎるから、何かひとつに執着するのは良くないことだと分かっているのだが……」
「君はよくやっているよ。自分の欠点をちゃんと分かっているじゃないか。無自覚では私も困るが……おっと――ありがとう」
パンジャは、石畳に躓いたアオイを支えた。
「私も君のことを大切に思っている。私はどうにも君ほど愛情深くないが……最近は、どうやら私も成長期らしい。私にもまだ成長の余地があるとは驚きだ」
「そうなんだ?」
パンジャはアオイの言葉がどういう結論になるのか考えていた。そのせいで返答がありふれたものになってしまった。彼は、まだ赤い顔をしてパンジャの手を掴んだ。
「私が何を言いたいのかというと、つまり、だから……私と……シンオウ地方で暮らさないか?」
「えっ!? そんな! わたしのアオイはそんなこと言わない!」
反射的に出てきた言葉に、アオイはパッと手を離してしまった。けれどそれは拒絶ではない。ただ、驚いただけだ。緊張で引き攣った顔で彼は言った。
「い、言わせてくれよ! 私だって君と一緒に過ごす時間は心地良いんだ。いや、まあ、君さえ良ければの話だが……」
「一緒に暮らして良いの?」
「……あー……うぅ……!」
アオイは羞恥も限界のようでコクコク頷いた。
「ありがとう、アオイ。――ああ、その前に母と話しておかないといけないな。うーん。ちょっと時間がかかるかもしれない」
パンジャは、生活の算段を立てた。アオイと生活していれば、この過剰とも言える執着が治まるのではないか。環境を変えてみる。仕事をやめた今、そんな手段を選択してみる良い機会ではないかと思えた。もしも、抑えが効かなくなってしまった場合は住処を変えれば良いのだ。
楽観的な思考を選び、パンジャは俄然、元気が出てきた。この後の重労働である母への説得も上手くいくかもしれない。今まで演じた殻が剥がれる開放感にパンジャの胸は躍った。
「友情の再定義に賛成しよう、アオイ。君とのより良い関係をわたしは歓迎する。おお、祝福を! 我々の道程に祝福を!」
「理解してくれてありがとう。新しい関係構築を目指そう。あ、そうだ、2階を片付けておかないといけないな……」
「どんな家だろう? 白い屋根? 赤い屋根? それとも青だろうか? 君の住む家だ。きっと素敵な家に違いない。庭があるんだろう? 何を植えている? 植生は君の好む生態だろうか?」
「あまり期待しないでくれ。ただのバリアフリー住宅だ」
夢の無い物言いが何より彼らしい。
パンジャは、口を尖らせたアオイの手を握った。
今日何度目か、驚いて見開かれた瞳を彼女は生涯忘れることは無いだろう。
「アオイ、君の夢を叶えよう! 今度こそ! 今度こそ、必ず!」
「ああ、必ずだ」
ゆっくり瞬きをしたアオイも地平線を見ていた。
指先が触れる。お互いのことを、理解していると感じる。
目には見えない。けれど繋がっていた。
(未来へ進むんだ)
かつて不可能なほど難しく思えたそれが、今は容易いことのに思える。
だって、隣にアオイがいる。
「君とならどこまでだって、どこにだって、進むことは恐くない。ははは、変な気分だ。まだ何も成していないのに、満足してしまって……ちょっぴり泣きそうだ」
「私は君のように慰めの言葉を持たないが……隣で涙を拭うことができる。ひとりではできないことをふたりで果たそう」
夢を誓い合うふたりは、未来の栄光が約束されたような心地だった。長年の負債ともいえるすれ違いが寸分の狂い無く埋まり、解消された。それがふたりの心を軽くしていた。だからこそ。
どろり。辛苦に濁った目さえ、それが目の前に現れるまで気付かなかった。
■ ■ ■
「そんなこと、させないんですから」
「――!」
パンジャがアオイの手を離す。そして目の前に立った。
指先が離れる。手袋越しの温い温度が離れたことでアオイは、現実に立ちはだかる亡霊に気付いた。
真昼に近く、雲も無い、真っ白な美しい日だ。
近くには公園があり、自販機があり、電柱がある。
あまりに日常的な風景の中で彼女だけが浮いて見えた。
今日会うのは二度目のはずなのに。彼女が、ここにいるのはおかしいとアオイのなかの何かがしきりに訴える。
「ベ、ベルガさん? どうしてここに……」
「あなたが……あなたがいなければ……あなたさえ帰ってこなければ、こんなことになっていなかったのに! アオイさん! あなたのせいでわたしは――!」
「何を……あの、私が何か……?」
突然に言葉を浴びせられ、何の話をしているのかアオイには分からない。
けれど自分が責め立てられていることだけは分かった。
彼女がこの研究室にいる理由はアオイだ。もしも、彼女が不安を抱えているのならば、それはアオイにも関係のあることだった――が。
「あれは頭の悪い八つ当たりだ。君の気にすることでは無い」
酷い物言いだな、と思いながらアオイはパンジャをなだめた。
「パンジャ、いや、しかし、そんな言い方は……」
敵意のある目で見つめられ、それを関係ないと言い切ってしまうことはアオイには到底できない。だから早く行こうと急かす彼女を止めた。抗いはしなかったが、彼女はベルガに会うのは面倒だという顔だった。もう終わった問題として今さら取り上げたくないのかもしれない。
「アオイ、君とは関係ない――」
「そう言ってはいられないだろう。話があるというのだから。ベルガさん、私に何か言いたいことがあるのだろう?」
今は、とても近寄れない。
怒りを必死に押し込めた顔でベルガは胸に手を当てた。
「物分かりが良くて結構です。ええ。結構ですとも。アオイさん、わたしの言いたいことは2つです。ひとつ、パンジャ先輩は研究室に戻ってください。今すぐに!」
「わたしは先ほど三行半を付けられたところだ。戻れないし顔も見たくない」
「そういうことを言っているんじゃないです。わたしが『戻れ』と言っているんです。わたしの夢を潰しておいて、あなたはいなくなるなんて許せるわけないじゃないですか」
彼女の怒りの正体とは。それを察したアオイは、自分の顔が引き攣るのを感じた。そして、研究所で覚えた違和感の正体を理解した。
おい、パンジャ……。言いかけた言葉は遮られた。
「許さなくともいいが、わたしは研究室に戻らないし君の命令をきく理由もない。勝手に恨んでいればいいだろう。わたしは君の前からいなくなる。君はわたしの後を歩けばいい。目の前に誰もいないのだ。お気楽なものだろう」
「あああああっ! あなたの! そういうところが! わたしは許せないんです!」
大きく目を見開いたベルガは拳を握った。
「わたしを踏みにじっておいて、あなたは知らない顔をする! あなたは、紛れもない悪なのに!」
「他者の分別など軽やかなものだ。些細なことだ。大凡の些事なのだ。悪性執着の果てが我が身なれば、その有様にわたし達の誰も後悔などしていない。とはいえ、小さな悪が大きな悪を責めるのは愚かなことだ」
流れる答弁の半分もベルガは聞こえていないのではないか。アオイはふたりを交互に見つめた。
「それでもあなたは間違っている。わたしは忘れない。決して忘れるものか。わたしの心は真白でなければならなかった。一点の曇りも濁りもあってはいけなかったのに。あなたのせいで!」
「わたしのせい? それは違うだろう? 大きな大人が、責任転嫁するなんて無様に思わないのか? 君は『私が壊せる程度の夢』しか持っていなかった。……我が友、小さな夢の人」
小さく、警告のようにアオイは「やめろ」と呟いた。これ以上の刺激はお互いに良い結果をもたらさない。今だって最悪なのに、これより下があるとは思いたくない。パンジャにだけ聞こえたその声で、彼女は口を閉じた。
「……あなたは……あなたは……最後まで自分が悪かったとは言わないんですか? あなただって報われないのに……どうして、こんなに酷いことをしておいて、あなたは……平気でいられるんですか?」
「君は自分の前に立つ私が嫌いだったんだろう。私は去った。君の前に立つ者はいない。全て元通りだ。いずれここは、あるべき形になるだろう。だから、わたしには分からない。何が不満だというのか。なぜ戻れというのか」
「あなたがわたしの前からいなくなったら、わたしが自分を曲げた理由が無くなるからですよ! あなたは悪だ! あなたは夢を堕とす毒だ! それでも、あなたが始めたことを、あなたに遂げさせる!」
ベルガが取り出したモバイルにアオイは「待て」と声をあげかけて、言葉にならなかった。
「待ちましょう。あなたの判断を待ちましょう。強制されようと自分の意志で決定しなければならないと教えてくれたのはほかでもないあなたでしたから! ――ここにあなたのパソコンに格納されていたデータが入っています。コソコソ隠れて作っていたものですよ」
勝ち誇った声音でベルガは言う。
パンジャは言わずもがな。アオイの背筋も冷えていた。データ。それは何のデータなのか。きっとパンジャの持ち物だろう。だが彼女は以前にアオイのデータを持っていたと告白したばかりではないか。いいや、そもそもパンジャの蘇生論は。
(あれは、パンジャの成果だが、同時に私の成果の上に成り立つものだ)
0から作ったわけでは無い。土台がある。その土台こそ、私の――。
アオイは杖を握る手が震えた。
まだだ。
まだ、何の確証も無い。
あれは、ただの口述だ。
確認できない物体は証拠に成り得ない。
「――――」
しかし。
パンジャの顔色が変わった。
そして記憶のどこか、何かを探すような焦点の曖昧な目から、ほんの一瞬だけ何も躊躇わない光を宿した。
「ダメだ、パンジャ――挑発だ、乗るな」
できる限り素早く、パンジャの前に立つとアオイは彼女の凶行にざわつく身体を押さえた。
「ああ、言っておきますけれど、わたしを殺しても無駄ですから。わたしがパスワードを入力しないと時限式に、これを世界にバラします」
もし公開されたとしたら、最悪なんてものではない。
パスワードを設定していても膨大な単語の組み合わせで総当たりが行われたら中身が解放される。時間の問題だ。考えついたアオイは、それでもまだ確証を得ていなかった。
「ベルガさん、そのデータはどこから手に入れたんだ?」
パンジャが厳重に隠していれば、この現状をひっくり返せる。そう信じるアオイは、パンジャの取り乱し様を計算からまったく除外していた。無意識に、直視を避けたのだ。
アオイの問いを待っていたように、ベルガは小気味よく笑った。
とんでもなくおかしくてたまらないというふうに。
「ああ、アオイさんは出所が気になりますよね。なんせ、自分の作った結果が勝手に使われていたのですからね。先輩は一昨日パソコンを忘れて帰ったんです。データの開封は意外と簡単でした。だって、先輩はパスワードを自分の花の名前で設定したんですよ。――ほんと、最後の最後で詰めが甘いっていうか、まあ、愚かですよねえ」
「ッ!」
アオイしか知らないはずの、パスワード設定を知っている。
それだけで全てを理解した。
そして、彼女が持っている物は、アオイが計らず作ったパンジャとの合作、蘇生論だ。
恐らく、データの最終更新日は一昨日。
間違いない。あれは完成品だ。
「パ、パンジャっ! あ、あれは、どういうことだ……!」
「アオイ、わたしにひとこと命じてほしい。『無かったことにしよう』。わたし達はそう決めたのだ。何人たりとも覆りはしないのだと告げてほしい」
「だが……」
ほんの数秒の沈黙。アオイは最善の言葉を探す。
そのわずかな間でパンジャの抑制の箍が壊れた。
「あれは海! あれは山! 痕跡を抹消せよ! 存在が認められない! ははははっ! さあ、運命に口付けるがいい! 二度と故郷の地を踏めると思うな! 君は、君は、君は! 決して、あの橋の向こうへ行けない!」
今にもアオイを飛びだしそうな彼女を、押さえつけるようにアオイは制した。もう彼女の目はどこも見ていない。
(こんな時に衝動性が!)
条件が揃いすぎている。パンジャの性格と現状に揃った物証。こうなることは必然だった。彼女の忍耐を試すのは、まったく賢明では無いとアオイはいつしかマニ・クレオに忠告したことを思い出していた。そして、今。その忠告はベルガにこそすべきだったと悔悟した。
パンジャが秘める悩ましい破壊衝動が、人に向けられることは少ない。許容を超えて変化し続ける現状を破壊することは彼女にとっても迷惑な、心の災害に等しいからだ。しかし、抑圧された子ども時代を取り戻すかのように支配欲は形を変え、衝動性を帯びた。その矛先が人に向かう唯一はアオイであり、ほかは全て取り返しのつく物に向けられていたはずだった。
彼女の破壊は、欠損を得て納得し不可逆の現象を求めるものだ。
人間を壊すことは容易だが、社会生活を営む者として、間違いの無い禁忌だ。
ここで自分が止められなかったら、パンジャは何をするか分からない。
その危機感がアオイの手足を動かしていた。アオイはもうパンジャに何も負わせたくなかった。
「ダメだ! パンジャ! やめろ、やめるんだ! これ以上はお互いに不幸にしかならない。――ベルガさん、要求のふたつ目があるんだろう?」
パンジャの気迫に圧され、引きつり強張った顔をしたベルガは、彼の言葉に我に返った。
「ええ、そう、アオイさんには先輩の説得をしてもらいたいと思っています。――あなたの言うことなら、聞くんでしょう? その人、去年はアオイさんの席に向かってずっと話していたんですから」
「くっ。もう、君は黙っていろ! パンジャ、落ち着け、冷静になれ、話をしよう」
パンジャの目は相変わらずどこか遠くを見ていたが、ある瞬間から押しのけようとしている腕に力が入っていないことに気付いた。とうとう気が違ってしまったのか。心配に顔を青くした彼に、唇を震わせない小さな声が届いた。
「アオイ。どうする。殺すなら殺すが」
怒っているフリ――にしては真に迫った演技だったが、パンジャの言葉でアオイは幾分の余裕を取り戻した。何が最善か。状況を整理した。
「……っ! あちらもかなり頭に来ているらしい……まともにやりあうのはマズイだろう……せめてデータの回収ができれば、いや、ダメだ、どこかにコピーされていたら意味が無い……かといって研究室に戻るのはどうあっても無理だろう……まったく現実的ではない……が」
やっぱり殺すのが一番じゃないか。彼女が言質と思わないよう申し訳程度に逆接を付けたアオイには、まだ妙案が思い浮かばない。思い浮かばない。まだ……まだ思い浮かばない。思い浮かばなかったので、彼の思考は跳躍した。
(パンジャが作成時に私のパスワードを使っていたということは、彼女の研究データは私のデータを継ぎ足して使っていたもの――というわけだろうが……)
元々アオイが設定していたファイルには、正午に該当のファイルを削除するというプログラムが組み込まれている。同様に、今回のようにネットに公開するというプログラムが動くとしてその設定自体は難しいものではない。
だから、きっとベルガがバラすと脅しは本当なのだろう。本当にプログラムが動いてしまうから、凶行に及びかねないパンジャの前でこうも強気に要求を突きつけていられる。これが嘘だと見破られた時、ベルガの命の保証は無いからだ。
研究者として絶対を疑う性質が、幸いにも災いした。
「あっ」
「アオイ?」
何度も辿った思考の果てで、気付いてしまった。
間違いであってほしい。
その願いを込めて思考をはしらせる数瞬、同じところに辿りついた。
(もしも、もしもの話――ベルガさんが、設定した時限を変更していなかった場合は?)
アオイが以前に使っていた時間制限のまま、ファイルの処理方法だけを変更した場合。
口の中がからからになり、パンジャの腕を離す。必死の形相で振り返った彼をベルガは冷え冷えと見下した。
「い、いつまで――いつまでにその結論を出せばいい!?」
「はあ? 今さら相談なんて意味ないでしょう。待ちませんよ。正午までに答えをだしてください」
パンジャの腕時計を見ていたアオイは不自由な足で駆けだした。
モバイルを掲げながら、彼女はもうずいぶんと時計を見ていない。パンジャではなくアオイが向かってきたことに警戒した彼女は胸に抱えるようにモバイルを握った。
「ア、アオイさんまで――渡しませんよ! 第一、そんな体で――」
そうだろう。アオイは思う。大切だろう。彼女にとっては命綱に等しいものだ。世界にバラすという脅しは、脅迫だからこそ絶対に『本当でなければならない』。
アオイは叫んだ。
「今すぐにパスワードを入力しろ! 今すぐ! 今すぐだ!」
「何を――?」
どうして、それほど叫ぶのか。
アオイの指差す先を見て、ベルガは彼の形相が尋常では無い理由にようやく気付いた。
11時59分57秒。
たった3秒だが状況を理解するためには十分だった。
けれどパスワードを打つには遅く、諦めるには長すぎる3秒だった。
「あ、え、そんな、わたしは――!?」
3人のなかで誰よりも遅く理解に辿りついたベルガは目を大きく見開いて、その時刻を迎えた。
こうして。
世界が未だ知るはずの無い知識は2人の間で生まれ、3人の意志によって破棄されたが、思いがけず1人の手で世界に生まれ落ちた。
アオイは一歩、二歩と後ずさりした。
前に進まないために、けれど止まってしまわないように、アオイは震える足を動かした。
「あ……あ……そんな……こんな、ば、かな、ことが……! 私の……私達の……!」
ポケットに入れたモバイルが震える。
ポケッターできっとどこかの誰かが通知をしたのだろう。
「私達の夢が……こんなことで、消費されるなんて――!」
くだらないことだ。アオイは吐き捨てた。
何もできない。できることは全て終わってしまった。もう空を見上げるしかなかった。
底抜けに明るい青空だ。
太陽はやがて中天を超えるだろう。
時計の針だけが現実を等間隔に刻んでいた。
3人のうえに覆い被さる絶望のなか、ただひとり崩れ落ちたのはベルガだった。
「ち、違う! 違うんです! わたしは、わたしは、ただ、パンジャ先輩に……戻ってきて……ほしいだけだったんです……!」
永遠に叶わない夢だった。
今さら伝えたベルガは「悪い夢だ」と呟いた。
「あっそう。――いや、もう……なんだ。君は話すな。言葉が見つからない。パンジャ、帰ろう。ね? 帰ろう? 私は頭がおかしくなりそうなんだ……」
「先に行ってくれ。わたしはベルガ君と話さなければ」
感情が一回りしたのか静かになったパンジャはモバイルの通知を確認しているようだった。アオイは今すぐにそのモバイルを叩き折りたい気分になったが、脱力感が酷く身体が動かなかった。
彼女は一通りの通知を確認し終わると電源を切って胸のポケットに入れた。
アオイは、もう二度とベルガの顔を見たくないと思う。
だからこそ、最後の気力を振り絞って振り返って告げた。
「君の理想は美しいものだったのだろう。いや、私はまったく知らないが。きっと、描いた妄想――失敬、夢は間違いでは無かった。間違いでは無いからこそ、正しくなければならなかった。正しくなければ、どんなに美しく間違いで無かったとしても台無しになってしまう。新雪を求めるあまり、土に触れた君の手は汚れてしまった」
まるで自分の口では無いように、言葉が吐き出される。
アオイは、語りながら涙を流した。
「けれど、落ち込むな、諦めるな、くじけるな。実に残念なことに、君の道はまだ続く。私達のはじめたことは終わった。君が終わらせた。始めた時と同じように終われないのなら、我々はこれを終末と受け入れよう。ここから先は、君のはじめたことだ。気を張って死ぬまで踊れ。この世界は――!」
感情を押し殺したアオイは、息を吸った。
たとえ五臓六腑が彼女の災いを望んでいたとしても、決して表立てぬよう喝采を叫ぶ。
「私ではない。パンジャではない。ベルガ・ユリイン! この世界は君を選んだのだ!」
青白い顔をして見上げたベルガに、アオイは笑う。
かつて特別であることに憧れた。特別であると思い込んだ。それだけが自分の価値だと信じた。だが、違う。まったく違った。この有様を見れば嗤える。『特別』は作れるのだ。作れるのなら、特別なことなど何も無い。
「行くぞ、パンジャ」
「ああ、分かっている」
アオイは歩いた。
頭上で交わされた怒号じみた会話をポカンとして見つめていたヒトモシのミアカシが、その後についていった。何度も振り返るのはパンジャが付いてきていないからだ。ミアカシが呼ぶが、アオイの心はここにあってないようなものだ。
感情が麻痺してしまい、頭が働かない。
アオイは歩く。歩く。ただ道なりに歩いた。
(ああ、私は今までどこへ向かって歩いていたのだろう……)
――こんなことをしたかったワケじゃなかった。こんなこと予想さえしなかった。
アオイは予想外の事態が続きすぎたことで一種のショック状態に陥っていた。ふらふらと歩く。今ならばどこまで歩いて行けるような気がした。頭の中がスッキリ片付いて軽い。ずっと考え続けていたことを忘れてしまっていた。何をすれば分からない不安感もきれいさっぱり消えている。
(ああ、けれど)
強いて願うなら海が見たいと思った。波が動く、砕ける、白い波が岸壁を洗う。あの膨大な情報量に溺れてしまいたいと憧れた。
ぎこちなく歩き続ける空虚な身体の内側は、焦げた匂いがする。
でも、きっと――幻だった。
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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登場人物たち
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物語(ストーリーの展開)
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世界観
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文章表現
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結果だけ見たい!