もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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夢を育てるに、その土壌は狭く、水は清く、空気はあまりに澄んでいた。

 

 

 ベルガ・ユリインにとってパンジャ・カレンという女性は、狂気だった。

 

 視界の端にいるだけで落ち着かない。次の瞬間に何をするか理解がまったく及ばない。ベルガにとって想像力の敗北をいちいち刺激する、その存在がストレスだった。

 

 パンジャは後輩としてベルガを扱い、後釜として育てることはしなかった――と『私人』のパンジャは思っていることだろう。

 

 どんなに気にくわなくともベルガはパンジャのことを軽蔑しても、その実力を侮らなかった。唯一、尊敬してもよいと思える研究成果を作成した『研究者としてのパンジャ』は、ベルガの教育に熱心だったからである。

 

 何を考えて教えを施したのか。それを問いただしたことは無かったけれど、ベルガは後継を育てるためだと考えていた。パンジャが失敗した時、研究を続けられなくなった時に正しく事業を進め続けるために。アオイの事業がパンジャに引き継がれ完成の目を見た。けれど、きっとまだ事業を続ける余地はある。

 

「そうトゲトゲすることはない。何もかもを気に病むな」

 

 パンジャがベルガの肩に手を置いた。神経質にテーブルに書類の束を叩き続けていた彼女は、パンジャを見上げた。

 

「――などということを言ってもイライラするだけだろうから、実利をあげよう」

 

 この顔は、知らない顔だ。ベルガは思う。いつもの薄っぺらい笑みはどこかへひそみ、今は左の口端が歪む小さな微笑をたたえている。きっと表情に使う筋肉が違うのだ。

 ベルガはこの時、パンジャが多重人格者だということを知っていたが、目の前にこうして現れていても知識と現実を結びつけることができなかった。もっとも、正確には『多重人格者だと思い込んでいる健常者』であるのだが、現実に転がり出た結果は常に異常なのでパンジャの病識に興味は無かった。

 

「飴……。子供だましです。これでわたしの機嫌を取ろうと? 先輩?」

 

 指先で転がした飴を持って、ベルガは首を傾げる。

『私』と名乗る彼女は、いつもの先輩よりもわずかに声が低くなる。男性的と言っても良い。手にしたコーヒーカップを口づけた。

 

「『私』は形の無い言葉を好まない。信じられるのは私の観測できるものだ。……君もそうするように」

 

「見えるものしか信じないのは、想像力の無い古い人間だと思います」

 

「そう極端に奔るものではない。思い切りが良いのは君の良い性癖だが、しかし、出目を振り切るのは良くない」

 

 パンジャの言葉はよく分からなかったが、「分からない」と言うのは業腹だったので黙って話を聞いていた。

 

「想像力は、創造性に使うのではない。多様性の観測に使うものだ。間違えてはいけない。我々は現在のために生きている。未来の奴隷になってはいけない。過去の亡霊に縋ってはいけない」

 

「それは先輩の……なんですか、モットーですか?」

 

「君への忠告だ。我々は研究者。あらゆる束縛から自由でなければならない」

 

「……わたしを貶めたあなたがそれを言うのですか。それに、あなたこそ不自由しているように見える。アオイさんの宿題ばかりかかりきりで。あなたの研究テーマはどこにあるのですか」

 

「責を持つことは不自由ではない。選んだ責務ならば、なおのこと重荷ではないのだ。とはいえ、私のテーマを話していなかったか……失礼したね。私は、科学の力により生命に幸福を願おう。君の幸福もだ、ベルガ君」

 

 あなたは。言葉にならなかった声はついに途切れた。

 彼女の声音は低く、温度のある言葉ではない。けれど、彼女の語る夢は実現には遠い、遠い、遠すぎる。けれど間違いのない尊さを持つ、眩しいものだと感じる。

 

 違う。違う。そうじゃない。ベルガは首を振る。与えられた何よりの衝撃は。

 

「あなたの夢の中に、わたしもいるのですか」

 

「もちろん。アオイを救う――おまけの70億のなかに」

 

 ベルガの内心はくじけた。――この人には、敵わないと心の底から思った。

 たった『ひとりのため』が世界を救う。美しい。これは理想的な夢物語だった。

 

 多数の幸福のために少数を切り捨てるのではない。

 未来の果実のために現実を踏みにじるのではない。

 

 祈りにも似た隣人を幸せにしたいという願いを、科学が実現まで押し上げる。

 

(たった『ひとりのため』を願うことは、わたしも同じことなのに……)

 

 ベルガの研究は、永遠の自己保存を目標にしている。そのために真理を探究する。

 この願いは、何より大切なものなのに、今ではそれがどうしても小さな目標に思えた。最後に救われる数の違いなのか。それとも懸ける情熱が違うのか。

 

 思索に耽るベルガの席に、温かいコーヒーが置かれた。

 

「わたしはあなたのことが嫌いです、先輩。わたしにできないことを軽々としてみせる……あなたが嫌いです……本当に嫌いです……」

 

「無駄な感情は研究室の外へ置いてきなさい。人間の注意力は有限だ。非効率な運用ができるほど君も私も天性の才覚を持っていないのだから。……そうだ、天才と言えば、真実の天才とはドクター=アクロマのことを言うのだろう。頭の回転が速い。きっと脳にスパコンでも入れているのだろうな。イッシュ・ジョーク! ジョークだ! ははは、笑いたまえよ!」

 

「…………」

 

「まあ、真面目に考えるとあれは並列で分割の思考なのだろうな。速度と数で質を保証する。ふむ。興味深いよな。他の人間が意識してできることではない。追いつくには……そうさな、人間と機械の融合はSFの出来事と楽観していたが、いよいよ現実に迫ってくるのかもしれない。人工知能だってディープラーニングの域を超えそうなのだし」

 

「先輩だってやろうと思えばできるんじゃないですか?」

 

 ほら、人格とかいろいろ……。ベルガは試すつもりでごにょごにょと伝えた。

 冗談を言うが、冗談を聞くことのできない先輩は悩む仕草で頬を撫でた。

 

「やろうと思えば、それはできるが……私達は互いの知識の共有は最低限だからな。俯瞰の視界を有する私はともかく、リアルタイムで反映させるのはかなり難し――おっと、何だ、君。気付いていたのか?」 

 

 パンジャは照れ隠しにまた飴をくれた。

 今度は、受け取るために躊躇う時間が短くなった。

 

「いつもの先輩は眠っているのですか?」

 

「……悲しいかな。アオイのいない『わたし』の世界に夢も現も無いのだ」

 

 目を細めた彼女は、知らない人だ。この研究室にいなかった人。

 

(同じ顔をしているくせに――わたしを罠に嵌めたくせに――)

 

 これは、本来の彼女ではないと言う。純粋に、ズルいと思った。

 

「それでも、先へ進むための私だ。数理の血肉を得て、地に着いた夢を押し上げよう。……だから君も腐るな。一度の失敗で夢を追うことを諦めるな。ベルガ君。この世界は未知に溢れている。こんなに意義がある生き方は、きっとそうそう出会えるものではない。一緒に頑張ろうじゃないか」

 

 微笑んだ横顔に影を見つけても、ベルガは『私』と呼ぶパンジャを信じたい。

 ベルガは、自分のなかに膨らむ夢を語った『私』というパンジャの人格を好ましく思う感情を誤魔化せなくなっていた。願わくば、この『私』が主なパンジャとしてずっとずっとずっと過ごして欲しいと願うほどに。

 

(あなたの夢の中に、わたしもいるのですね)

 

 70億の有象無象のなかの1であるとしても、誰かに幸福を願われたことはただの一度も無かった。真っ直ぐに、真っ当に、ただひとりのために尽くす彼女を悪く思えるわけがなかった。

 

(この人ならば……まあ……わたしのちょっとだけ前を歩くことを)

 

 許していた。

 だから、ただひとつの例外が生まれた。夢を実現するその日が、来ると疑わなかった。

 

 

 

 だって、わたしが前を歩くことを許したのだ。

 

 わたしが信じる先輩は誰にも負けないし、誰にも劣らない!

 

 最強で最高の先輩だと他の誰でもないベルガ・ユリイン――わたしが信じているんだから!

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 在りし日の感動が、白昼の日差しに焼かれた。

 しばらくの間。ベルガは、何も考えることができなかった。

 アオイは気軽で素っ気なく、しかも軽薄に重荷を背負わせた。両肩がやけに重い。

 すでに身体は思考を放棄していた。

 

 これからどうするかなんて、考えられるはずも無い。

 

 どれほどの時間が経ったのか。

 バキ、ギ。――という音。

 首を揺さぶるより激しくベルガを現実に引き戻したのは、手から滑り落ちたモバイルが粉砕される光景だった。それは思考力が落ちた体でも分かりやすく未来を明示してくれるものだった。

 

(あ……)

 

 心の中で声が漏れた。

 

(殺される――間違いなく、殺される――)

 

 資料を勝手に持ち出して、勝手に世界公開。

 怨嗟で何度殺したって足りない。

 ベルガは立ち上がる気力がなく目の前に立つパンジャを見上げた。

 

「あまり時間が無い。……手早く済ませるか」

 

 逆光で見えないパンジャが辺りを見回しながら言った。

 

「もうお好きにしたらいいでしょう……どうせ許せないんだから、早く――」

 

「許すとか、許さないとか、その手の話題は無意味だ。――わたしは怒っていないからね」

 

 アオイには内緒だよ、と言ったパンジャが首を傾げた。

 日に照らされた横顔は。

 

「なん、で、せんぱ、い……笑って――」

 

「おかしなこと言う。作品が世に出て喜ばない作り手はいないだろう? 我が子の生誕を祝う母のようなものだ。……不本意な形であったのは確かだが、それを今さら咎めることはできない。君の悪辣を招いたのはわたしの忘れ物が原因なのだから。そう。――必然だった」

 

 緩い三日月を描いて細められた目が、ベルガを射貫いた。

 たった1枚の薄いレンズだけがふたりの間にある。

 

 恐ろしい可能性ベルガの目の前に立ちはだかっていた。

 

 パンジャ・カレン。

 彼女の作り出したものは、画期的で早すぎる知識だ。

 

 それが破棄されるとき、最も惜しむものは誰だ。アオイ? いいや、彼は知らなかった。最も執着した時間が多いのは、ほかでもない、作成者であるパンジャだろう。

 

(では、わたしは? わたしの役目は?)

 

 そんなもの決まっている。

 

「あなたは……! わたしがこうすることを、分かって――!」

 

「わたしは賭けた。まさか大勝ちしてしまうとは、ふふっ、思わなかったが。喜べ、ベルガ君! 君は最先端をはしっていたとも! 愚かさという点で、わたしより遙か先を!」

 

 口調の危ない抑揚が、ついに崩壊した。パンジャは嘲笑うことを隠さなかった。

 

「ははははっこれがっ笑わずにっいられるかっ!? くふふふ、君がっそこまで……愚かだとは、ひっ、ふははははっ!」

 

 天を仰いだ彼女は、笑いすぎて涙さえ流していた。

 ベルガの体温が下がる。耳のすぐそばに心臓があるような錯覚に陥った。

 鼓動は早鐘をうち、現実の音が遠ざかった。

 

 全て、彼女の掌の上だ。そんな実感が手足の力を奪っていった。

 

(わたしの良心は、善心は、計略は、悪徳は、ケロイドだらけの彼女の小さな掌からこぼれ落ちたことなど一度も無かったのだ……!)

 

 栄光を求めるわたしは、彼女にとって御しやすい手駒でしかなかったのだろう。

 屈辱だった。狂おしいほどの怒りが、虚無に浸っていたベルガを立ち上がらせた。

 

「――――!」

 

 それなら、今すぐにその笑いを止めてやろう。――あなたが侮ったわたしこそ、あなたにとっての毒なのだと思い知らせてやろう。

 

「論文を公開したのはわたしですが、論文の作成者はあなたとアオイさんだ。――あれだけのデータを作成しておいて無事で済むとお思いですか? 世界中があなた方を欲するというのに」

 

「ああ? 何を言うかと思えば」

 

「悠長だと指摘しているのです。あなたは今すぐにでも逃げるべきでは?」

 

 確信を突いたはずの言葉に――パンジャは顔を覆って哄笑した。

 ベルガはほんのわずか、後退る。彼女の指の隙間から覗く目と白い歯が妙に浮いて見えた。

 

(――躊躇うな)

 

 ベルガは奥歯を噛みしめて、自分に言い聞かせる。パンジャのあれはただの見栄だ。意地だ。そうでなければ気狂いだ。

 

「あなたは責任ある人間として社会一般に受け入れられない! 道徳破綻者め! わたしがあなたの秘密を暴露する。あの論文の価値は発言者が正気であることが大前提だ。ほんの一時、世間を賑わす一石にしかなりえない! 残念ですね、あなたは無用だ! せいぜい偽善者呼ばわりから逃げるといい!」

 

「逃げる? 逃げるだって? わたしに逃走は無い。無い。無い。無いのだ。あり得ないのだ、ベルガ君。――なぜなら、あの論文にわたしとアオイの名前はどこにも無いのだから」

 

「は――」

 

 ベルガの呼吸は止まった。

 

 自分の論文に名前を書く。ペンを持った初学生が最初に教わるまでもないことだ。自分の所有物に自分の名前を書く。その当然のことが「行われていない」とパンジャは言った。

 

 パンジャは和やかに笑って両手を広げた。

 

「あの知識は確かに完結している。だからこそ最後に刻むのはアオイの名前でなくてはならない! 栄光はアオイにこそ相応しい! わたしではない。君ではない。アオイこそ、栄光の花束を! 打ち鳴らせ、万雷の拍手を! 世界に祝福されるのはわたしのアオイだ!」

 

「そんなっ! 嘘だ、どうして、な、なんでそんなことを……!」

 

 おおよそ正気の沙汰ではない。

 だが、彼女の正気は一般的な正気の範疇に無いことをベルガは、もう知っていた。

 

 アオイへの痛々しいまでの献身は、決して好感の念からではない。

 あれは、アオイをただ信じているからだ。『わたしの身を擲つ価値のある素晴らしい人だ、美しい夢を持った人だ、優しい心を持つ人だ』。彼女は本気でそう信じている。 

 信仰と現実の乖離を知りながら、その矛盾さえ呑み込んで信じ続けているのだ。

 パンジャに問う『なぜ』の答えはいつも要領を得ない。冬を越したきのみの中身が腐り落ちているように、彼女の信念もすでに他人が理解できる理屈を無くしているのだ。

 

「それじゃ、嫌っ。だって、それじゃ、発表者は、わたしに……?」

 

「作成者が分からないデータ。その真偽を問いただすため、国際警察をはじめとした機関では捜索が行われることだろう。世界を早回しにする知識が誰の端末から発信されたか、とか。……ああ、君には心から同情するよ。本当に運が悪かったね。でもわたしに壊せる程度の夢を持たない君には、ちょうどいい結末だったかもしれない」

 

 あまりに白々しい言葉だったのでベルガの耳を素通りした。

 

「――アオイがいなければ、わたしがいなければ、不正な実験をしていなければ、事故が起きなければ、彼が研究室を辞めなければ、わたしが実験室でジュペッタの部品を拾わなければ、コウタが気付かなければ、ドクター=アクロマが彼と出会さなければ、君の決断が早ければ、彼がシンオウでポケモンに出会わなかったら、わたしが蘇生論の研究を始めなければ、彼がイッシュ地方に戻ってこなければ、こんなことになっていなかったかもしれない」

 

 一方的な被害者では無い。そう言いたいのだろうか。罪が明らかになることを恐れなければ、止めることはできたのだと。滔々と流れる言葉をひとつ、ふたつ、すくい上げることに成功したベルガは見開いた目でパンジャを見つめていた。

 

 しかし。

 

「それでも最後に勝ったのは、このパンジャ・カレンだ! ――賛頌せよ、科学の力は素晴らしい!」

 

 モンスターボールを宙に放った彼女は、高らかに別れを告げた。

 それは彼女なりの心からの感謝であり、決別なのだろう。気付いたベルガは口を開く。手を伸ばす。けれどあまりに遅かった。

 

「まっ――」

 

「さようなら、小さな夢の人。あなたの新雪は我々の汚れをそそぐのに十分だった」

 

 白い霧が立ちこめる。ポケモンの技だった。

 反響する足音を残してパンジャの姿は深い霧に溶けた。

 ベルガは首を横に振る。目の前の全てが、認められなかった。現実の全てが、質量を持って心を押しつぶそうとしていた。

 

「ああ……ああ……ああ……! どうして! どうして! あなたは!」

 

 ベルガの意識の全てが彼女を許せないと叫んでいた。

 

 他人を踏んで、汚して、折ったくせに、それでも『そこにいた君が悪い。でも、都合が良かった。ありがとう』と図々しく言い放つ、あの人が許せない。誰だって許せるはずがなかった。人道から、あまりにかけ離れている。

 

 パンジャの姿を追って、ベルガは走り出した。

 けれど霧は深く、白い霧は視界を遮った。

 

「どこだ――パンジャ・カレン! わたしは、わたしはあなたを許さない! 絶対に、絶対に許さない! どこにいる!? 出てこい、わたしを殺して見せろ、わたしだってあなたを殺してやる! 逃げるな! 逃げるな! わたしから逃げるな!」

 

 走れば走るほど霧は深くなる。ずっと同じ場所をぐるぐる回っているのではないか。そんな疑いをもちながら、それでも、立ち止まることはできなかった。

 

「災いあれ! 災いあれ! あなたの道程に災いあれ! あなたが喝采を叫ぶのなら、わたしは怨嗟を唱えよう! その夢に! 災いあれ!」

 

 そばに、人の気配を感じた。

 パンジャだろうか。手足を強張らせたベルガは足を止めた。

 

「――ずいぶん面白いことをしたものだ。まあ、いずれ発表される予定ではあったようですが、いやはや。思い切りの良さは見習いたいところですね」

 

 男声の声。パンジャではない。

 ほんの数mも見えない目で辺りを探るベルガには聞き覚えがあった。

 

「ドクター? ま、まさか、ドクター=アクロマ?」

 

 声のする方向に数歩、歩くと本当にアクロマが立っていた。

 彼は困ったことになった、という顔にしては些か明るすぎる口調で挨拶をした。

 

「ええ、お久しぶりです。実は、パンジャさんに用があったんですが何でも研究室をやめてしまったとか何とか……。とても残念です」

 

「ああ、そうですか。わたしは急いでいるので失礼――」

 

 ベルガは、その件のパンジャを探しているのだ。今見失ったらもう二度と会えないかもしれない。その予感が彼女を急かしていた。

 その足を止めたのは、思いがけないアクロマの言葉だった。

 

「アオイさんの足を治すことを条件にシッポウ研究室から引き抜こうと思っていたんですが、アオイさんはいつの間にやら歩けるようになっていますし彼女も研究室をやめてしまったというのなら、きっともう化石研究に未練はないのでしょうね。イッシュ地方では専門家は少ないですからね。……本当に残念です。私、実は今流行の、ええと、何と言いましたか、そうそう、ヘッド・ハンティングです! ゲーチスのことは、あー、あまり好きではないのですが、あの男の人材獲得術には目を見張るものがあります――私もやってみたかったのですが、今回は運が悪かったですね。ふむふむ」

 

 この男は!

 ベルガは、奥歯を噛みしめた。さらりと言ったが、パンジャの動かし方を分かっている。しかも、アオイの足のことを知っている。

 彼女の頭の中ではけたたましい警戒の鐘が鳴っていた。今日、ここで彼と出会うのはマズイ気がする。

 

「あ、その、わたしはこれで――ひゃんっ!」

 

 踵を返したベルガは、背後に立つ誰かにぶつかりそうになり尻餅をついた。

 立っていたのは真っ白で長い髪の青年だ。鋭い眼光に黒いマスク、表情を窺い知ることができない。ハッとして辺りを見回すと青年3人に取り囲まれていた。

 

「プ、プラズマ団!?」

 

 よく考えてみれば、それほど驚くことではなかった。以前、アクロマとパンジャの密会は堂々と白昼にプラズマ団の名刺をばらまいて行われたではないか。

 けれど、どうして自分の目の前に現れたのか。

 事態を飲み込めない顔でアクロマを見ると、思案中だった。

 

「ふむ……パンジャさんに比べて数段劣るでしょうが、ええ、よしとしましょう。たまには妥協も必要です。まあ、元はと言えば、これはゲーチスの事業です。――さあ、立ちなさい。ベルガさん」

 

「こ、これは! ドクター!?」

 

「今日からあなたはプラズマ団です! はい、拍手!」

 

 一拍遅れて青年達がパラパラと躊躇いがちに手を打った。

 

「そんなことどうだっていいんです、わたしはパンジャさんを追わないと――」

 

「あなたは、もう追われる立場でしょう。死を殺す。実に、良いアイディアです! 無知な人間が勝手な願望を押しつけるのには十分すぎるでしょう? 公開されてしまった以上、誰が作ったなんてどうでもよいことです。やり玉に上げられるのがパンジャさんではなく、あなたというだけですよ」

 

「でも、わたしは横取りなんてするつもりじゃなかったんです!」

 

 言い訳じみた釈明をした。

 言葉にするといっそう惨めで泣きそうになってしまった。

 

「わたしは……ただ、パンジャ先輩が許せなくて……! でも、あれを作り出したあの人に憧れて――だから、だからわたしの前を歩くことを許していたんだ! だって! あの人は、あれを捨ててしまったなら何も残らない、報われない! 毎日毎日、頑張っていたのに、もうとっくに狂っているのに、それでようやく作り上げたのに! それを……それを……捨てる、なんて……」

 

 事の重大さは、いつも隣にいたベルガこそ知っていた。

 

(それを――それを――わたしは――)

 

 酷いことをしてしまった。

 取り返しのつかない現状に何も考えられなくなりそうだ。――独りならば、そうなっていた。

 頷いて聞いた後で、アクロマはベルガに握手を求めた。

 

「この世界の誰もあなた方の内情を評価しないものですからね。――だからこそ、私は優秀な技師が身勝手な世間に消費されていくのは耐えられない。何も生みださない。無駄です。非効率。ただの損失だと考えます。だから再活用を提案します。プラズマ団で働きませんか? うるさい新聞からも眩しいカメラからもあなたを守ることができます」

 

「で、でも責任をとらなければ。わたしは。やってしまったことの……」

 

 じっとアクロマの白い手袋を見つめていたベルガは首を振る。

 辛うじて残る責めが彼女の口を突いた。

 しかし。

 

「どうやって取るというのです? この期に及んだのなら、あなたにできることは1週間ワイドショーを賑わす事と研究室の梁にぶら下がる事だけですよ」

 

「ぐ……そう、かも、しれません」

 

 容易に想像できる未来に、ベルガは地面に目を落とした。

 

「それより新しい場所で研究を続けませんか? もっと面白いものを見ませんか? この世界は途中で退室するにはもったいない!」

 

「…………お話は……ありがとうございます。でも、わたしは……今のわたしは……とても、そんな資格はありません。あなたのデータを持ってトンズラ――なんてこともあるかもしれませんよ。わたしは、もう自分が信用できないんです」

 

 捨て鉢に言い放つと、アクロマは頷いた。それでよいと言うように。

 

「それも一つの手段だ。何を悲観すると? それが『あなた』だというだけの話です。――たったそれだけの理由で、夢を諦めると次はあなたが報われないでしょう」

 

 ベルガは、思う。

 報われたくて頑張っていたわけではない。

 新しいものを見つけたかっただけだ。

 

(わたしは、ただ、ただ、それだけだったのに……)

 

 涙が零れた。

 パンジャに出会わなければ。そう思えたらどんなに救われただろう。

 けれどベルガは彼女に対して今に至り、ありとあらゆる不幸を望みながら、それでも、それでも――未だに尊敬の念を捨てられずにいた。結果を示した。その一点だけでベルガには尊敬できる人だった。

 

(わたしの先輩は、最高で最強なんだ)

 

 いつか背中を追い越したいと願っていた。唯一、心を許した人だった。

 

「あぁ……わたしは、毒のある花に憧れたんです。触れたら傷つくと知っていました。それでも触れてみたかったんです。誰に見初められることなく咲いて、散っていく。あの花弁を愛おしいと思ってしまった」

 

 一陣の風が吹き抜ける。真白な霧を攫った香りは、たしかに花の匂いがした。

 涙に溺れた視界で姿を探す、街角を曲がった長い髪を、ベルガは決して忘れない。それが幻であろうと構わなかった。

 ベルガは、花弁をむしり取ってしまった。無残な切り花にした現状で、それでも生きていくのならば何をなすか。それだけが今生の問題だった。

 

 打つような勢いで、ベルガはアクロマの手を握った。

 

「わたしは、わたしの夢を追います。ドクター=アクロマ。あなたの企みに協力しましょう。――わたしの夢が叶うまで」

 

「上等です。良いでしょう」

 

 アクロマは、上機嫌に笑って指を鳴らした。ふたりを取り囲んでいた青年達が姿を消す。代わりに近くの路肩に止まったのはタクシーだった。

 

「さあ、乗ってください」

 

 手を引かれたベルガは、控えめな所作でふりほどいた。

 

「結構。もう、ひとりで歩きますから」

 

 袖口で涙を拭った彼女は歩き出した。寄る辺なく彷徨っていた歩みはない。遙か先を見つめて浮き足立っていた歩みもない。確実に、現実を一歩ずつ進んでいた。

 

「……見てろ、見てろよ、パンジャ・カレン。どこにいようが、見せつけてやる。あなたの壊せなかった夢が、あなたの成果を凌駕する様を!」

 

 乾いた炉に火をくべるように心身は熱く猛る。

 その熱量が、暴露の罪であり贖罪だった。けれど重荷に思うことは無い。彼らが気軽に背負わせた荷は、ベルガにとってちょっとした宿題のようなものだ。分かりやすい、いずれ到達する目標があるのなら気楽なものだ。

 

(先輩の言うとおり、科学の力が『素晴らしいのだ』と胸を張って言うために力を尽くしましょう)

 

 その先で。

 誰も知り得ない知識に出会うのなら、今日定められた人生をベルガは歓待しよう。

 

「わたしの夢を壊せると思うな。――わたしは、あなたの思い通りなんかならないんだから」

 

 パンジャの傲慢を打ち砕くことができるのなら、むしろ望むところだった。

 

 

 

■ □ □

 

 

 屋上を軽快に走る影がある。

 

(アクロマ? ……目敏いな。何か察したのか)

 

 パンジャは研究が進むにつれ、データの改竄から日常業務の偽装まで完全に誤魔化し改竄しなければならない範囲が膨大になっていった。それはシッポウ研究所での研究継続が難しくなったことを意味し、アクロマは折りに触れては「非効率だ」とチクチク小言めいたことを言っていた。――それは、おおらかな心で聞けば、忠告だろう。しかし、悲しいことに当時のパンジャにその余裕は無かったので、アクロマの言葉はどうあってもそれは小言だった。――まあ、今はどうでもいい。

 

 パンジャはビルの物陰に潜み、頭の思考を切り替える。

 

(わたしの回収に来たのならば、復元装置のほとんどは完成したということか)

 

 昏い。深海色の瞳でパンジャは地上を見下ろしていた。

 

 さて。今、どうするべきか。

 

 データの作成者がパンジャとアオイであるとたどり着ける人物は限られている。ひとりはアロエ所長。けれど彼女は公言することはないだろう。彼女が研究室と職員を守る方法はただ一つ、知らぬ存ぜぬを貫くことだけ。

 

 そして、もうひとりは、アクロマだ。パンジャが機材の作成を依頼した人物であり、現プラズマ団の表向きトップ。

 

 真実を知る者はできる限り、消しておきたい。

 この真実を知るものが地上に3人もいることが不安だ。

 きっとアオイも許してくれるだろう。パンジャは楽観はしていなかったが、彼ならばそうするだろうと予想がついた。第一、彼は今頃それどころではないだろうし……。

 

(――あ)

 

 パンジャは、不意にアオイはどこに行ったのだろうと思った。

 隣の建物の壁の向こうに、彼の姿を求めた。

 臆病な自尊心ゆえに自分のことを隠したがる彼は、今回のことをどう思っているのだろう?

 

(しかし、彼らをこのままにはしておけない)

 

 今後の安全が脅かされるからだ。ここでは多少の無理を通してでも始末しておく必要がある。

 

(でも、アオイの安全を確保しなければ)

 

 精神的にやられていた姿を思い出す。ふらふらと風にさらわれてしまいそうだった。別れ際に見た最後の姿がちらつく。

 

(――――)

 

 目下。

 ベルガとアクロマを取り巻く青年のひとりが、確かに、パンジャを認めて一瞥した。

 

(一筋縄ではいかないか)

 

 パンジャはつい、ニと歪んだ笑みを浮かべた。

 あれは荒事に慣れている目だ。今日、家を出てから妙な雰囲気を感じていたがその原因は彼らだろう。

 攻撃の手がどこまで広がるか。離れした威圧感は、ひとりの人間が醸し出す雰囲気としては不気味ですらある。それに状況はパンジャに不利だ。腕を骨折したまま4人の男性を始末できるか。不意を突けばできるが、こちらの居所がバレた今、意表を突くのは難しい。

 

 パンジャは無事な片手を上げて、敵意は無いことを示しゆっくりビルの柵から離れた。追っ手の音は無い。あれを相手にするとしたら、アオイの安全の方が重要だ。

 

 フリージオがれいとうビームで作り出した氷のスロープを滑り落ちながらアオイの姿を探す。ひとつ角を曲がった先でアオイは見つかった。

 

「アオイ、無事か」

 

「……ああ、すまない。すっかり、取り乱してしまって……本当にすまない」

 

 彼は何日も歩き続けたように疲れた顔をしている。それから「肩を貸して欲しい」と言った。アオイの足下にいるヒトモシのミアカシは、状況の深刻さが分かるのか焔を消していた。

 体を支えるとアオイは深々と息を吐いた。

 

「きっと私に全ての記憶があったら君にベルガさんを殺して欲しい、なんて頼んだかもしれない。……私は、人でなしだ。こんな時に私は変わってしまった自分を憐れんでいる」

 

 その言葉を聞いたパンジャは、なんとなく、後ろを振り返った。

 つられてフリージオも後ろを振り返る。その何気ない仕草に気持ちが救われていた。

 

「アオイ、わたしはね。自分が変わって良かったと思う。君の後悔することをしなくてよかったと思っている。……こうして今の君のそばにいることを選べるんだから」

 

「……私は君が思うほど正しくない」

 

「それでも、君がいることがわたしにとって重要なんだ。だから立って、自分で歩いて、帰るんだ」

 

 帰る?

 事情の飲み込めない顔をしたアオイは、パンジャを見つめ返した。

 

「先にシンオウ地方へ帰ってくれ、アオイ。わたしは母と話をつけなければならない。ああ、君の荷物も送らないとね」

 

「しかし、このまま」

 

 すべてを散らかした状態で帰るのか。そんなことが許されるのか。

 アオイは顔を曇らせた。

 

「そうでも、君は帰るんだ。――ちゃんと自分のポケモンを守ってね。『今度こそ』なんだろう?」

 

 ぼんやりしていたアオイは足下で落ち着かない顔をしていたミアカシを見る。そこにいることに初めて気付いたように、大きく目を見開いた。

 

「ああ。そう。――そう、だったな」

 

 パンジャはアオイの背を力強く押した。

 きっと彼の手足は重く、疲労は思考を奪うだろう。けれど立ち止まって腐ることは、きっともう二度とアオイはできない。腐らないのなら、人間は壊れるだけだ。そうさせないためにパンジャはアオイを帰した。仮初めで良い。当面の目的があることが大切なのだ。

 

「Best Wish! ――よい旅を、アオイ!」

 

 力無く上げられた右手が、返事だった。

 

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