さかのぼること今から半年前。
「これから、どうですか?」
柔らかい栗色長い髪を揺らして振り返った彼女は培養液の中に発生した微生物を見る目で男を見る。不可解そうな顔をしてから、失敗に気付いたように意図を理解した。
「すまない。先約がある」
申し訳なさを滲ませて彼女は手の平を合わせた。
金曜日のアフターファイブ。この時分、彼女に予約が無い方がおかしいのかもしれない。
嬉しそうに表情を緩ませた彼女は、実験が成功した証拠である最高閾値を見つけたような……オトナなのにコドモっぽい笑顔を見せた。
「パンジャ、まだですか」
「今行く。――すまないが、また次の機会に」
男に手を振って、彼女、パンジャは書類を詰め込んで膨れたバッグを抱えて出て行った。その彼女の背中を見送り……赤髪の男が肩越しに、こちらに視線を寄越した。勝ち誇った色はない。それどころかパンジャを咎めるように眉を寄せて何事か話し始めた。
すべてを見届けないうちに扉が閉まり、男の視界から彼らは消えた。
その一部始終を見ていた別の男が彼の肩を叩いて、居酒屋へ誘った。
ほんのちょっぴり残念だと男は思っただけだった。
しかし。
時は下り、現在。
「これから、どうですか?」
パンジャの気分は沈んでいた。顕微鏡を覗く横顔はどこか暗く、いつもの快活さが無い。まるで期待した数値にまるで届かない実験結果を持て余しているかのようだ。
だから、しばらく話しかけられたことに気付かず、男がわざとらしく咳払いをした音でも気付かず、彼が自分の白衣の裾をパタパタさせたのが視界の端に映って目障りだと思ったことでようやく気付くことができた。
「……なにか用なのか?」
「これから、お食事でもどうですか?」
「――すまない、これから先約がある」
対物レンズを取り替えて接眼レンズを覗いたパンジャは調節ねじを回しピントを合わせた。
「え? だ、誰と?」
「あなたの知らない人だ」
「ちょっと待ってください。知らない人って?」
「どうしたんだ?」
研究室というのは自由のようで不自由だ。
突き放す言葉すらうまく使えない。
仕事関係に影響が出るのは困るから、誰も人間関係の話になると途端に誰も強くは言えない。
彼は、言葉に迷ったように「だから……」と言いかけた。
「あの、パンジャさんってアオイさんと別れた……じゃないですか?」
「あなたは科学者に向いていない。言いたいことは具体的かつ明確に述べてほしいものね。ルーキー?」
ルーキーと呼ばれた新人のプライドが傷つけたようだった。
個人を否定されるのは辛いだろう。
(でも、知らないな)
彼は私を知らないし、私も彼を知らない。
互いに知らないのなら、たくさんの実験が必要で無数の試行を重ねなければならない。
もっともそれに費やす時間も無いけれど。
乗るか。反るか。
果たして、男は崩れかけたプライドを綴り合わせて、表情を硬くした。
「僕と付き合ってくれませんか?」
「すまないが、あなたに時間を費やす価値を見出せない。だが、このままでいいと思うわ」
残酷に言い放って、パンジャはそれきり彼のことを省みなかった。しかし、殴られたり激昂されたりしたらどうしよう、と考え腕時計で現在の時刻を確認した。金曜日の午後十九時十二分。それからポケットの中のモンスターボールを確認する。
「お時間をとってすみませんでした」
皮肉も聞こえない。約束も嘘だ。
だから、ここにいる。
ひとつだけ灯る明かりに孤独な陰が蠢いた。
パンジャに残されたのは研究しかなかった。
男性に何か嫌悪感があるとか、そういう理由ではないと思う。
ただ、どうしてもいつも隣にいた男と比べてしまって、それがもうパンジャの思考も感覚もまるでダメにさせるのだ。
――アオイなら、こんな時、笑ってくれるのに。
――アオイなら、こんな時、愚痴のひとつでも許してくれるのに。
――アオイなら、こんな時、技術的な助言をしてくれるのに。
――アオイなら、アオイなら、アオイなら……。
パンジャはレンズから目を離すと空席を見つめる。
彼がいないだけで研究室は広く見えた。
『現実は常に正解だ。――それだけのことさ』
突然、傍らの男が自分に言い聞かせていた言葉を思い出した。
「現実は……正解。いつでも……だとしたら」
研究者にとって希望が無いと言われたも同然のことなのだ。
◆ ◇ ◆
「本当に片付いていますね」
アオイは麦わら帽子をかぶり、畑にやってくると驚いた。
綺麗に取り除かれた雑草は根元から抜かれ、野生化したきのみは森の近くへ植え替えられていた。
恐らく最大の功労者であるスコルピは日陰で目を閉じていた。
「お疲れさま。お茶を持って来たよ」
「おう。暗くなる前に片付いて良かったぜ」
「そうだな……」
紙のコップを渡すと冷たいお茶を注いだ。一気に呷って、もう一杯と言う。
彼らの足元ではチョロネコを追いかけるヒトモシのミアカシの姿もあった。力いっぱいに駆け回って、走っている。
「休憩だよ。ミアカシ嬢」
チョロネコがミアカシにたいあたりをした。
「モシ!?」
チョロネコはするりとミアカシを通り抜けて軽やかに着地した後、コウタの肩に上って「むにゃーん」とマイペースに鳴いた。
最近は、やられっぱなしのミアカシがじだんだを踏んで、アオイに抱え上げられた。
彼らのために持って来た水を小さなコップに入れてあげて小さな手に持たせてあげる。
「畑の仕事、手伝ってくれてありがとうね」
「モシ! モシモシ……!」
チョロネコの方を指差して非難めいたことを言うミアカシは怒っているようだ。
「コウタ……遊びにしては、いくぶん度が過ぎるように思うが」
「こういうヤツなんだよ。でもな、お前、あまりひとの嫌がることすると誰にも相手してもらえなくなるんだぜ?」
ラルトスがおろおろとしてコウタとアオイの間を行ったり来たりする。
しかし、チョロネコはガブッとコウタの人差し指を噛んだ。あでッと思わず悲鳴を上げた彼の頭を蹴って森の中へ駆けていく。鮮やかな逃避行である。
「おい、こら! はぁ……」
参った、という顔をしてコウタが肩を落としてラルトスを抱え上げた。
「怪我は――」
「ああ、別に。慣れているからさ」
それにしても、とコウタが言う。どうやら怪我のことで落ち込んでいるわけではないらしい。
「チョロネコもスコルピも、ラルトスも……ごめんなぁ。俺、仕事が忙しいから……それを理由にしちゃダメなことだって、ホントは分かってるんだぜ。でも、忙しいんだよ。帰って来られないんだよ。それでも傍にいてやりたいんだ。ホントは……」
チョロネコがしつこいまでに誰かに悪戯をしかける理由が分かった。
「ああ、寂しいのか」
アオイの言葉に一瞬だけコウタの顔が歪んだ。
それは優秀で、格好良くて、いつでも誰かの中心で優しかった男の陰だった。
「君も、彼らも」
ミアカシが分からないという顔で明るい黄色の瞳を向けた。
まっすぐ見つめてくる彼女の視線を、苦手に思うことがなかったわけではない。
しかし、今はちゃんと見つめて受け止めることができた。
「…………」
無言で、彼はラルトスを抱きしめた。
しかし。
「お前が言うことはいつだって耳が痛いぜ」
「君に言うつもりはなかったんだ。……面と向かって言っておいて何言ってんだって思っているかもしれないが、これは昔の私に言ってやりたい言葉なんだ」
「ふうん。……探してくる」
「ああ。先に家に戻るとしよう」
コウタはラルトスとスコルピをアオイに預けると森の中へ入って行った。
スコルピが気遣わしく鳴いてアオイの車イスを揺らしたが、彼は首を横に振り「心配ないさ」と呟いた。
「けれど意外だな。彼も悩むなんてことがあるのだ。順風満帆な男かと長い間思い込んでいた」
「モシ?」
「私のような失敗をしたことがないヤツだと思っていたんだ。つまり、なんというかな……彼は誰かと仲良くなるのが上手な人なんだよ。それで、誰かと喧嘩したりすることなんてない。……私とは正反対のヤツだ」
モシモシ、とミアカシは何か考えるように静かになった。一緒になってラルトスも首を傾げている。
◆ ◇ ◆
次の日。
結果として、コウタとチョロネコは元通り……と言っていいものか、とにかく仲が良くなった。
その時、アオイは「このチョロネコはメスなんじゃないか」と思ったものだ。なぜかって?
「うにゃー」
「ははは、痛いっての。このこの」
とにかくコウタに構ってほしくて仕方が無いらしく、ぴょんぴょんと辺りを跳ねて回る。
これは、あれだな、独占欲って言うんだ。
スコルピが生暖かい目で見ているのもアオイの想像を肯定するものだった。
まあ、彼らが幸せなようなら私が口を出すこともない。誰の恋路であれギャロップに蹴られるのはごめんである。
しかし、そんな彼らをじぃぃっと見つめていたミアカシが突然、アオイの腹に柔らかいパンチをしてきた。
「んっ、どうしたの?」
「モシ?」
もう一度、パンチしてきた。あまり痛くは無いが、アオイだから許せることであって他の人にやるのはあまり良いこととは言えない。そう注意しようとすると、ミアカシは分かっている、という妙に物わかりが良い声で、もう一度「モシ」と言った。
「私は、君を寂しくさせたりしないよ」
「モシ?」
「傍にいるよ。ずっと、傍にいる。君は、私の大切だからね。だから君も何か不満があったら遠慮なく伝えてほしい。……もう、何も言えないのは嫌なんだよ」
『彼』にかけた最後の言葉がなんだったのか、アオイはまだ思い出せない。
だが、すれ違って理解し合えないまま、ミアカシの前で『彼』と同じ繰り返しをしたくはなかった。
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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登場人物たち
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物語(ストーリーの展開)
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世界観
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文章表現
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