もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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旅立ち
その1


 上司に辞表を提出した時、私はいったいどんな顔だったのだろう。

 

 長らく世話になった上司は「やっぱり」という顔をしながら「分かっていた」という目で私を見た。

 

 しばし、緑色の瞳と見つめあう。

 

「まあ、見ての通りです。辞めさせていただきます。ここでの思い出は、愉しいことばかりだったんですが……なんだか心が置いてけぼりになってしまって。よくないことですね」

 

 私は心のうちを割と正直に言ってみた。彼女――アロエは頷いた。それはそうだ。頷くしかないだろう。

 

「新しい出発になるんだね」

 

「そうです」

 

「これからどうするつもりなんだい? ライモンに戻る?」

 

「ええ、ちょっとだけ戻りたいと思います。実家の片づけをしてから……遠くに住もうかと思ってます」

 

「遠く?」

 

「ええ。シンオウ地方のハクタイシティというところです」

 

ハクタイシティ。彼女は口の中で唱えるみたいに呟いた。

 

「そうか。シンオウか。遠いな……」

 

「私はライモンとシッポウの街しか知らないので、これを機にちょっと遠出してみたいと思ったんです。そこもなんだか博物館とかいろいろあるみたいで、私にはお似合いなのかなって思ったので」

 

「歴史が感じられるいい街だって聞くけどね。……たまには手紙くれると嬉しいよ」

 

「近況は報告します。アロエさんも、お元気で。ああ、旦那さんにもよろしくお願いします。あの人の企画する博物館の展覧会、私は結構好きだったんですよ。カントーからカブトでしたか、化石を取り寄せて……あれは、すごかったなぁ」

 

 私は、思い出しながら笑って――不意に表情を無くした。途中で笑い方が分からなくなってしまったのだった。

 

そして、あらたまった雰囲気の彼女と対面した。

 

まるでこれからポケモンバトルでも始めそうな気迫である。

 

「実験の後遺症で何か起きたらすぐに言ってほしい。こちらは、その脚について償わないといけない」

 

「……考えておきますが、今回の辞表と怪我は関係ありませんよ。そこのところは、どうか忘れずに」

 

「君はそういうけどね。本当のところなんて誰にも分からないだろう。あらゆる可能性を想定していないといけない。科学者なんだから」

 

 彼女はそう言って、私の前の机に厚い封筒を置いた。

 

「退職金だよ。これからは何をするにも入り用でしょう」

 

「……ちょっと色を付け過ぎなような気もしますが、そうですね、お金は……かかりますね」

 

 私は車椅子に乗って生活している。

 これからどこに住むにしても手すりが必要で、段差は障害になる。ユニバーサルデザインの思想は広まりつつあり大きな街ではしばしば見受けられるが一般家庭ではそうもいかない。快適に住むにはとにかく金が必要になるのだった。

 

「ありがとうございます。それでは、失礼しますね、アロエさん。これまでお世話になりました」

 

 私は彼女に見送られて図書館を出た。

 

 電動の車イスを動かしながら、後ろ髪を引かれたような気分になる。

 

 すがすがしい――そんなわけはない。これまでの人生の半分以上をここで過ごしてきたのだ。

 

 それでも、ここを……この街を出ようと思ったのは、なぜだろう。

 

 何かに急かされるように私は――

 

「アオイ!」

 

 アオイ。

 

 私の名前を呼んだのは、かつての同僚だった。

 

「パンジャ……どうしたの?」

 

「『どうしたの?』って……こっちのセリフなのに。どうして、辞めちゃうの? なんで!」

 

 同僚で同期で同じスクールで近所に住んでいた女の子だ。

 

 いまや立派な女性だ。

 

 アオイは、ちょっと考え込むように自分の頬を撫でて、尤もらしいことを言いわけにしようとする。

 

「なに、ちょっと旅がしたくなったのさ」

 

「旅って……」

 

 そんな体で?

 

 パンジャは何か痛々しいものを見るような目でアオイを見つめていた。

 

「これから、どうするの? どこに行く気なの?」

 

「シンオウ地方だよ。遠いが、連絡手段なんてたくさんある。向こうに着いて落ち着いた頃に連絡するよ」

 

「アオイ……ちょっと自棄になっているんじゃないの? ねえ……」

 

「自棄になんかなってないよ。本当に、ただ本当に気まぐれなんだ。脚が動かなくなって、ちょっと考え方が変わっただけ……それだけなんだ」

 

「嘘。だって、あなた、まるで死人のような顔してる」

 

 彼女に浮かぶ咎めるような色を見つけて、アオイは困惑する。

 

「私はもとからこんな顔じゃないか、酷いな。でも、そんな心配してくれるなよ。私だって大人だ。自分の始末は自分でできるさ」

 

 パンジャは大きな車輪を動かしたアオイの前に立った。

 

「わたし……待ってていい?」

 

「いつか帰ってくる?」

 

「ねぇ……なんとか、言ってよ」

 

 彼女の蒼い綺麗な瞳が涙で震えた。

 

 それを見て、私は言わなければならないとなんとか頭を動かす。

 

 

 ああ、もちろんだよ。

 簡単な、ありふれた言葉がなぜか喉の奥でごちゃごちゃに絡まって、私はただ頷いた。

 

 

 

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