1週間後。
「そういうわけで、時々預けられることになったんですが、どうしたらいいでしょう……」
隣の家に住む少女リリは庭でロコンやヒトモシのミアカシ、ラルトスと遊んでいる。
相談の相手はハクタイ生活支援センターのチャチャだ。
とぽとぽ。優しい音が頭の奥に残る風の音を拭って慰めてくれるような気がした。
「それにしても……あぁ、悪いことを言いますが、正直なところ子供は苦手です」
声を低く小さくしてアオイは眉を寄せた。
「こちらでも託児サービスはあるのですが、リリさんってきっと7歳とかそのへんですよね……きっと」
「たぶん。……あ、いえ、すみません、実はリリさんに聞いてないんです。子供とはいえ、女性に歳を訊ねるなんてできないですよ」
そうですよね、と彼女はつい口をついてしまったというふうに苦く笑った。
「アオイさんはよくやってくれましたよ、ええ。リーンさんのところには、今日にでも託児サービスの紹介をしてみますよ」
「ありがとうございます。……でも、根本の解決にはならないのでしょうね」
気休めのお茶を飲みながらアオイはふと窓の外のリリと目があって微笑みかけた。
面倒なら断ればいい。どうせ責任は持てぬのだ。両者にとっての最善が何なのか、頭では分かる。でも、心までは割り切れない。中途半端が一番いけない。それがわかっているくせに苦しむのだ。しかし、その苦しみこそがアオイを構成するひとつの要素だった。
板挟みは苦痛だ。
過ぎた辛苦は自分のように鬱屈した人間を作り出すのがオチである。心を病むことを前提にするとはなんとも歪な人間作りではないか。
「……私は両親に見過ごされるように育ちました」
まだ微笑んだまま、彼は窓を見ていた。それは明日の天気を話すような気軽さだった。
「ハクタイにいた頃は生活費だけは出してくれていましたが、両親は昔も今も研究にかかりきりで、私が今どこにいて生きているのか、いなくなっているのかも知らないでしょう」
愛し足りない分、恨んでいるし、憎んでもいる。
だが、他の可能性が見えないほどアオイの目が眩んでいるわけではなかった。
「……走っていって殴りつけてやりたいと今さら後悔しているんですよ。現実は常に正解なのに」
昔の自分を見ているような気がして放っておけない。同じくらい、両親に捨てられてしまえばいいとも思ってしまう自分もいることは確かなのだが、同類を求める気持ち以上に世の中に自分と似た面倒くさい人間が放たれるのが嫌なので素直に彼女の幸せを願っている。
悶々とした思いを抱えるアオイだったが、チャチャがゆるりと首を横に振った。
「ちゃんとこうしたいって言える分、アオイさんは元気ですよ」
「そうですか? そうだといいんですけど」
ああ、そういえば。
アオイは今思い出したというふうに時計を確認した。
「実は、リリさんに彼女の父親がいるという博物館に一緒に行こうと言われているんですよ。これもどうしたらいいですかね?」
ヒクッとさしものチャチャの表情が強ばった。
「どう、しましょう、ね」
人間の心の機微に聡いラルトスがいつの間にかアオイのそばにいてしょんぼりと小さな肩をすくめるのだった。
◆ ◇ ◆
「歴史」――この単語を聞くと「ああ、いやだ」とアオイの研究者心は辛いものでも食べたかのように焼けを起こす。アオイはあまり好きではなかった。人が紡ぐ歴史というのはどうしても血なまぐさいものだ。
――というのは建前である。
「だって、気が狂いそうになるだろ」
すっかり頭の上に陣取ることに味を占めたミアカシにちょっかいを出しながらアオイは低く呟いた。
右方向へ進む歴史の紙の上で切れば血の出る人間と内液を吹き出すポケモンが無数に『いた』なんて考えたくない。ましてこれから自分たちがその一部になるだなんて想像するのも嫌なことだ。
ハコモノとアオイが勝手に呼んでいる建物の中に入ると博物館特有の妙に肌が沸き立つような匂いを感じた。すこしだけひんやりする館内は真昼ということでさすがに人がまばらだった。
「チャチャさん、ありがとうございます」
「これくらい当然ですって」
車を出してくれた彼女にお礼をいい、アオイは自分と彼女たちの分の入場料を支払いを済ませた財布をしまった。
「意外と広いんですねぇ」
「なんてったって歴史の街ですからね!」
あくまで控えめだったがチャチャは「ふんすっ」と胸を張った。
「それじゃ、アオイさん。……よろしくお願いしますね」
アオイは応えると腕の中にいたミアカシをチャチャに預けた。ミアカシは新しい場所に興奮しきりだったが、素直に言うことを聞いてくれた。
「アオイさん、どこいくの?」
「ん、ちょっと受付にパンフレットを取りにね」
展示物なら、ちゃんと全部言えるのに。
リリの高い少女然とした声が追ってきたが、アオイは聞こえなかったふりをした。
リリとチャチャが経路通りに進み、ゆるいカーブを曲がった。それを確認するとアオイはもう一度受付に近づいた。
◆ ◇ ◆
出てきた男性は壮年というべき年頃でアオイに「ああ、ちょうど働き盛りだなぁ」と思わせた。キュッと唇を引き締めて彼と対峙する。彼が彼女の父親だということはリーン老の若い頃を彷彿とさせる面影があるためにすぐに分かった。
しかし、目のあたりが妙に暗い。この顔をアオイは知っている。徹夜明けの顔だ。
「こ、こんにちは」
「こんにちは、私はアオイと言います。お宅の隣に越してきました者です」
アオイはポケットから名刺を取り出すと差し出した。それを受け取ってしまってから彼は八ッとした顔でシャツやズボンのポケットを忙しく叩いた。
「すみません、いま名刺きらしてまして」
「いえ、お気になさらず。私の名刺も、実は前の職場で使っていたものなので」
リリの父親は「では、なぜ出したんだ?」という顔になった。そりゃそうだ。今になってはほとんど意味のないものだ。普通ならば。
「先日、リリさんを半日ほど家で預かりました。その報告のために今日、こちらへお邪魔したのです」
「え……?」
「はい」
アオイが何か言う前に彼は何かを察したらしい。「……あぁ」と天井を仰いだ。
「すみません。あの親父――父が誤解するような言い方を……。実は、近々ここで特別展示がありまして。その準備が忙しすぎて、なかなか家に帰れない日々が続いているんですよ。……妻は長期出張で。ああ、もう恥ずかしい恥ずかしすぎ……」
「えぇぇー」と間の抜けた声を心の中でこぼしながら、しかし、アオイはホッとして「そうでしたか」と微笑んだ。
「リリさんがずいぶん暗い顔をしていたので、どうしても気になってしまって。……差し出がましいことをしてしまいました」
「いえ、たしかにずっと帰っていなかったのはその通りですし、祖父母と子供が迷惑かけてしまって。……ああ、もうほんと申し訳ないです」
乾いた髪を掻いて彼は曖昧に微笑んだ。
「いえいえ、こちらこそ……」
謝罪合戦を繰り広げ、最後には二人でため息を吐いて苦笑した。
「えー、それでどんな企画をやる予定なんですか?」
ふたりで順路を逆に巡る。こうしていれば順番に歩いているリリに会えるだろう。アオイなりの心遣いだった。
「シンオウ神話をご存じですか? それの解釈展をしようと思っているんです。論文の精査をして、展示パネルを作って、自分の解釈も述べて、と。他にも関係各所に広告をうってもらったり、飛び回っていたんです」
「広告は……シンオウ新聞にも載りますか?」
「もちろん! スポンサーのひとつですからね」
企画自体はかなり力の入ったものになにそうだ。熱っぽく語る彼を見て考える。なんとなく、もう一度来てみようかな、という気になりそうでアオイは無関心を装い損ねている。
やがて、展示物の話になり、ある一角を見つけると思わず車イスを操作するアオイの手が止まった。
「化石……?」
感情移入の出来ない黒の台座に鎮座する石の塊を見つけ、うっすらと口を開いた。
シッポウにあったものとは違う生き物の容だ。しかし、台に置かれているのがひどく歪に見えた。これは、ここにあるべきものではない――
しかし、ささやかな感動も後悔も全て押しのけて心の表層に浮かぶことは、
(どうして、私の手にないんだ……)
そんな衝撃だった。
硝子越しに化石を見てショックを受けているらしい自分に気付き、素早く目を逸らしたが、もう遅かった。
「――ああ、あれ。最近、地元の子供が持ち込んだものなんですが、まだ本格的な研究にまわせないんですよ。うちの担当者が、とろくて。……ハクタイシティの研究所といったら化石の復元技術の本場じゃないですか。アオイさんも、やはり、そういう研究を?」
「ええ。つい最近まで……。それにしても……ああ、綺麗な状態だ。これが完全に残っていたら復元もできるでしょう。……発見した場所は分からないのですか?」
「どう、ですかな。子供たちに聞けば分かるんですが。……ああ、もう、ちゃんと詳細の項目を書いておけって言ったのに」
情けない声でぶつぶつと文句をいう彼を見ていてアオイは、(この博物館の化石担当者はとろいというよりさぼり癖があるのだろうか)と考えていた。
出土場所と日時を記しておくのは出土品を扱うものとして言葉にするでもなく当然のことだ。教科書の最初の項目がその必要性を説いているものだ。それがなければ価値が半減どころではない。
勿体ない。
「いい物品なのに……」
「アオイさんが次にくる頃には、直ってますので! 直ってますので!」
そんなに責めているように聞こえたのだろうか。わざわざ見上げるのも億劫なので「そうですか」と軽い調子で言った。
そんな時だ。
「おとうさん?」
◆ ◆ ◆
「あー、よかったですねー」
本当に喜ばしいことを言っているはずなのに、なぜか自分が言うと空々しいことのような響きをはらむ。
「ミアカシさん……」
「モシ?」
自己嫌悪に陥ったときは、彼女の無邪気な笑みに救われている。
「昔からお節介を焼くのはコウタの役目だったんだ。……慣れないことなんてするもんじゃないね」
「モシ!」
彼女がリリと楽しそうに談笑する父親を指せば、アオイがその視界を遮った。
(見ていられないよ)
眩しい光景だ。胸の奥に潜む黒っぽい染みが浮き彫りになってしまいそうなほど。
アオイは堂々と目を背けた。
「今回は、たまたまうまくいっただけ。……もうこんな手助けはしないさ。バカバカしい」
「モシ」
「ごめんね、君にも不便をかける……」
本来なら、人間であるアオイこそ積極的に交流を持つべきなのだと思う。ミアカシを思いっきり遊ばせて、人と関わって、生きる。そんなポケモンらしい生き方をさせてあげられない。
「モシモシ」
ぽんぽんと脚を叩かれた。
「……ありがとう。慰めてくれるのかい?」
「モシ!」
穏やかな再会の背後でふたりは何度目かになる指切りをした。
◆ ◇ ◇
「いやー、よかったですねーっ」
「ええ。……リリさんも元気になりましたし」
アオイの家で戻ってきたふたりは煎餅を食べながら、ひとまず息を吐いた。これで平凡な日常が帰ってくるはずだ。
夕日が室内を赤く染め、他愛のない会話をしていたふたりだったが、チャチャが気になることを言った。
「そういえば、アオイさん。バイトの件なんですが」
「あ、見つかりましたか?」
「事務系だと……今日行った博物館の事務員に欠員が出たみたいです」
「え……」
よりによって――そんな思いで彼女の顔をまじまじと見てしまった。もし知っていたら、もっとこっそり行ったのに。――車イスな時点でそんなことはできないのだが。
「それ以外だと……」
「残念ながら、無いですね」
ちらりと書類に目を落としたチャチャの顔は晴れやかとは言い難い。おおよそ察しは付く。施設の環境的に車イスのアオイには難しい案件ばかりなのだろう。
「そうですか……期間はどれほどです?」
「登用は、半年が目安だそうですが……まあ、バイトでも大丈夫なポジションのようなので、任期は各自相談という具合だそうです」
「…………」
「もしかして、今日行ったことが何か影響すると思っていらっしゃいます?」
「……リリさんの父親に前の職場の名刺を出してしまったんですよ。彼と任命権者が親しければ私の話になった時に当然そんな話になりますよね」
「ど、どうして前の職場の名刺を……?」
「『自分の子どもが怪しげなニートと時間を過ごした』と噂されるのが嫌だったんですよ。……博物館ですか。博物館……博物館……」
「じ、事務仕事だけですよ……書類上は」
「そう……ですよね。そう、ですよね」
でも、すこし考えさせてください。
アオイは――本当は、研究職にまつわる全てから距離を置きたくて堪らない。
しかし、それを彼女に……厳しい条件のもと仕事を見つけてきた彼女にとてもではないが、言えない。
「あー……」
情けなさと引っ込みの付かない感情の狭間でアオイは呻くしかなかった。
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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世界観
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