産業廃棄物とは、ヒドい物言いだ。
「バニィ、むやみに凍らせないで」
パンジャの頭上を飛んでいるバニプッチがまた埃を凍らせる。氷の粒がブラウスの隙間から背中に入ると痛いし冷たいし濡れる。困るのだ。しかし、可愛い見かけのわりに『ずぶとい』性格のバニプッチは気にせず飛び回って遊んでいる。暢気だな、と思いつつそれに救われた気持ちになるのはなぜだろう。彼女は重い息を吐いた。
この空間に満ちる匂いが彼女の内心をかき乱してならない。何が燃えた匂いなのか。その正体を彼女は知っている。
立ち入り禁止の看板を蹴飛ばし、彼女は奥へ進んだ。
数時間前。
「第2実験室を廃棄? 予定では、修理だったと記憶している」
思わず声の温度が低くなる。
ハクタイシティの研究所、その第2実験室は通常の研究棟から隔離されている。既存施設では巨大な機器を置くスペースを確保できなかったためである。
巨大な機器、この研究室の肝であり存在意義である、化石復元装置だ。
しかし、装置は現在停止中だ。なぜか。
「えっ、あのいなくなった先輩が装置ごと吹っ飛ばした時のダメージが酷かったからって聞きましたけど」
新人のベルガがミルク瓶じみた大きな眼鏡の向こうから話してくれた。
「改修より建て直す方が安かったというわけか……」
「そう、みたいですね。あのぅ、今も施設は立ち入り禁止ですけど、あの、や、やっぱり酷かったんですか?」
「見れば分かるだろう……」
妙な脱力感が全身を襲い、目を伏せた。
装置は不調につき停止中。――表向きはそうなっているが、その実状は木っ端微塵だ。
苦々しい記憶を舐めていると、黙りこくったのを心配に思ったのかベルガは「そういえばですね」と耳打ちをした。
「明日の午後、燃えた諸々を産業廃棄物として処分するそうです」
「装置も? まだ、もしかして、使えるところがあるかもしれないのに」
「それはどうでしょう。いちばん燃焼が激しかった部分でもあるようですから」
それは知っていたが、いくらでも言い募りたかった。しかし、彼女に言っても仕方のないことである。パンジャは口を閉じた。
新人の突き放すような言葉の端々には棘が感じられる。全ての責任がいなくなったアオイのせいだと吹聴している奴がいそうな、狭い人間関係の陰湿さが鼻につく。
いらだつパンジャの隣で、ベルガがそっと席を立った。その十分後に現れた彼女は一冊のファイルを持っていた。
「うぅぅ、みなさんには内緒ですよ、処分品の一覧です」
「ありがとう」
ぺらぺらとめくると廃棄物がその後どうなる予定なのか細かに書いてあった。
その数分後、そのファイルはパンジャの最後の気力を萎えさせる使命を果たした。どうやら本当に諸々を廃棄するしかないらしい。使えないものは置いておけない。倉庫もいっぱいいっぱいらしい。
「…………」
アオイとの思い出が、すこしずつ研究室から無くなっていく。それをパンジャはひとり憂えているのだ。
「教えてくれてありがとう。すこし館長とお話ししてくるよ」
いったい何を話そうと言うのか。ひどく無駄なことをしていると頭のどこかでは理解しているせいか脚が重い。もしかすると、ただこの場から離れたくてそんな言葉を口にしたのかもしれなかった。
ふらりとやってきた所長室にはアロエがいた。本当にいるとは思わなかった。聞けば化石鑑定の予約がキャンセルになったのだという。
「まあ座りなよ、実験室のことかい?」
「ええ、まあ。修理と聞いてましたから、驚いてしまいました。予定を変更されたのですね」
お茶がテーブルに置かれた。手袋をしたままだったことに気付き、取り去ってしまおうかと思ったが、迷った末やめてしまった。今日は皮肉を言いに来たわけではないのだ。
「ああ、あれね。どうにかしようと頑張って見積もりしてもらったんだけどね。あそこは建物全体が復元装置みたいなものだから」
「えっ?」
「知らなかったのかい? 建物と連動してるのさ。コンセントからの電力だけじゃエネルギーを十分に確保できないからね」
「そうだったのですか。恥ずかしいです、これまで使っていた物なのに知らなかったなんて」
「あたしたちは学者であって技術屋じゃないからね、無理もないさ。でも、アオイはちょっと違ったみたいよ」
ここでアオイの名前が出てくるとは思わずパンジャは目をぱちくりさせた。アオイだって自分と同じ境遇で技術屋ではないはずだ。
彼女がデスクの引き出しから取り出したのは分厚いファイルだった。
「化石復元装置リカバリー事故報告書」
「化石復元装置仮称ネクスト最適運用及び事故防止の提案」
こんなものは知らない。パンジャは目の前にしても信じられなかった。彼のことは何でも知っているつもりだった、その自信が揺らいだ気分は穏やかにいって最悪だった。
パンジャはこれらを書いているアオイを知らない。また想像できなかった。あの頃の彼は自棄になっていてむやみに明るい性格になり普通ではなかった。あの頃を知れば知るほどまともに思考できるとは思えなかったのだ。
「彼の最後の仕事。これも参考にさせてもらった。分野違いで無茶な提案もあるけど、その理念は継がせてもらったつもりだよ」
「い、いつの間にこんなものを」
苦々しい思いでパンジャはファイルを手に取った。
「入院中に草案を考えていたようだよ。お見舞いに行ったら是非やらせてくれと頼み込まれたんだ。ほら、仕事がないとあの手の人間はすぐにだめになるだろう? だからさ」
アロエとて事故の当事者を起用するのは良いことではないことを分かっていたのだと言った。あまりに主観になりすぎるからだ。
でも彼は忙しさで心を埋めようとしたのだろう。失った『彼』の代わりに。
パンジャを襲ったのは怒りに似た何かだった。
「わたしは、知りませんでした。こんなにたくさんの資料、集めるのは大変だっただろうに、わたしも、手伝ったのに、わたしだってできたのに……」
「自分がやるべきことだと思ったんだろう。気が済むまでとことんやることも必要なんだよ、彼は特に」
「とことん、ですか」
「あんたもそうさ、パンジャ」
「え?」
「アオイのことばっかりで自分のことが疎かになってないかい?」
「そんなことは」
「…………」
「いえ、そうかも、しれません……」
出来の悪い答案を先生に提出しているような気分でパンジャは言った。仕事が滞っていることをアロエは誰より知っているはずだ。
「アオイはわたしの、もう何十年も前からの友人なんです。……いつも彼が隣にいることが普通でした。本当に考えたことなんてなかったんです、あの人がわたしの隣からいなくなるなんて」
「そう」
膝の上でシミになったコーヒーの跡をなぞった。いつの間にできたのか、パンジャは分からない。
(気づかなかったな……)
自分を省みれば省みるほど情けないボロが出てくるようで今は自分を見たくない。
「……事故の一件で心の整理がついていないのはアオイよりわたし――なのかもしれません。心にできた傷を、穴を、埋めるのが怖いんです。そこにあった何かが別の何かに変わってしまうようで、わたしはそれが恐ろしいんです」
ぽつり、ぽつり、と心の声をこぼしていく。アロエは母のような顔で聞いていた。
(ああ、そうだ、そうさ、そうだとも)
恐ろしい。わたしは恐ろしいのだ。心の傷の輪郭をなぞるのも恐ろしい。ましてそれを埋めるなんてとんでもない。これまで大切にしてきたものが変質してしまう。それは、そう、恐ろしい。恐怖は深遠で計れない。だから、恐ろしいのだ。
じっと、パンジャを見つめていたアロエがはじめて窓に視線を投げた。向こうには廃墟が見えるはずだった。
「無理に埋めなくていいんだよ。代わりは無いんだ。自分のなかで納得する形を探っていくしかないんだからね」
「そう言っていただけると、わたしは」
嬉しいです。
救われます。
安心します。
どれもが当てはまって言葉に窮した。
結局曖昧に微笑んでパンジャは頷くしかなかった。
そんな彼女の手のひらに銀色の鍵が置かれた。
□ ■ □
お別れのつもりで廃墟を歩く。
悲しいことも苦しいことも嬉しいことも楽しいことも、たくさんあるはずなのに胸一杯に広がるのはセピア色に褪せた懐かしさだった。
心の傷は癒えない。だがこうして着実な一歩を踏み出すことも大切なのだろうと思えた。避けてばかりでは仕方がない。
(失うことは、こんな気分になることなのか……)
過ぎた衝撃は彼女を冷静にさせた。
爆破された天井からは青い空が見えた。光は射し込むだけで照らしはしない。がらんどうの空間に壊れた装置が置いてあった。ここだけ時間が止まってしまったかのようだ。もし苔が生えたら美しい破壊の風景に違いない。
それに触れながら呟く。多くの夢を作り、ふたりの現実を裂いた装置だった。
「わたしは、もっと冷たい人間だと思っていたが……。そんなことはなかったな」
彼がいなくなる前まではきっとアオイがいなくなれば不便になるだろうと思っていた。でも違った。悲しみと後悔に耐えきれず面影を探してしまうほどに大切にしていた。
「……知らず知らず尊い時間を過ごしていたようだ」
時間。時間。時間。
無くした時間だけが愛しい。
――ああ、いっそ巻き戻ればいいのに。
あの日のここでアオイとパンジャは化石の復元実験をしていた。
全身の骨格が発掘された化石の復元の成功率は100%だ。失敗はほとんどない。
一方、9割が見つかった同一の化石個体の復元率は90%ほどだ。8割では85%、7割では80%になる。そして復元対象の化石が6割しかない場合、その実験は失敗するというのが通例だ。
実際にパンジャもそうだと思う。6割しか無い場合、化石が7割発掘された復元事例と比べると成功率はがくんと下がり、いっきに一桁になる。その後の生存率は0のあとに天文学的数字が並ぶらしい。
ここで行われた実験は、限りなく8割に近い7割の状態で見つかったカブトプスの復元実験だった。
成功する、はずだった。
でも、結果はこのざまだ。――ふたりは確率を外した。
しかも――その代償は大きすぎた。
パンジャは手袋を外して掌を見つめる。焼けたパイプを掴んだそれは燃えたせいで色が変わり温度感知が鈍くなっていた。.....アロエの前で手袋を取ることは二度とないだろう。
あの日、あの時、装置が壊れる以前、その瞬間にまで戻れたのなら、もっと賢く生きたのに。彼だって、もっともっとマシな別れ方ができた。
でも、許されない思考だ。これだけ望んでいても、いざ過去と目を合わせた途端に動けなくなりそうな予感があった。そして、これは正しい危惧なのだろう。願っても叶えられない夢があることをせめて幸せに思った。
「バニィ、わたしから離れないで」
あっちへふらふら、こっちへふらふら。ヒトモシよりもゴーストタイプらしいバニプッチがパンジャの声に応じてすぐ隣へやってきた。
「あなたが『彼』のようになるのは嫌だよ。離れないで。そばにいて。いなくならないで」
ご機嫌なバニプッチもしんみりした彼女から何かを察したらしい、大人しく白衣の胸に抱かれていた。
白衣の袖が氷に濡れてじっとり重くなる頃、パンジャはようやくバニプッチを解放した。
「帰ろう。今日はかき氷を作ってあげようか、ミツハニーの甘い蜜をかけて」
大喜びして氷の破片をまきちらすバニプッチの隣を歩き、崩れそうな階段に足をかけたところで、声に呼び止められた。それは異変を知らせるバニプッチの声だった。
「なに? どうしたの」
来た道を戻るパンジャは瞬きをした。
地下の研究室の床に氷の煌めきを反射した何かがあった。
その上をふわりふわりと周回してバニプッチもよく見ようと目をぱちくりさせている。
燃えてから久しい廃材を避けると金属に似た何かが落ちていた。これが反射して光っていたらしい。
「これは」
一見して、変哲のない金属に見える。でも本来金属にあるべき質量が無い。軽すぎる。掌に乗せた重さは部屋の隅の綿埃と比べてもそう変わらないだろう。
金色の塊。
「なにかな、これ」
バニプッチも分からないようだ。
しかし、妙だ。
見覚えがある、気がする。
どこで見かけたのか思い出せず、しばしパンジャはその場で考え込んだ。
(どうしてだろうか)
頭の後ろが空寒い。
でも、火照りが首からのぼってきて、呼吸が速くなる。
意識に上せる間もなく弾き出された結論が囁いていた。
(わたしは、この正体を知っている)
そう。
これは、何かの、部分だ。
これ、一つで、存在が、完結する、ものではない。
でも、他の、部分、は、見あたらない。
どういう理由か、失われている。ここには無い。
失われている。そう、失われている。無い。無いのだ。存在しない! 存在しない! なぜ? だって、これは、これは、なぜなら――部品だから!
(これは――)
手が震えてパンジャはその金属らしきものを手放した。宙を舞ったそれをバニプッチがつかまえた。
「これは、きっと、良くない」
バニプッチが体を傾けた。
パンジャは手袋の指先でこめかみを叩いた。
「良くないものだ。良くないものだわ。良くないものさ。これは、わたしにとって良くないもの。でも、理由が分からない――なぜだ?」
何を恐れているのだろう、わたしは。
これまでとは異質な恐怖をパンジャはしきりに考えた。
直感は大切だ。だから、その金属らしいものは慎重に扱わなければならなかった。
しかし、わたしはどうしてこれが『何かの部分』であるということが分かっているのだろう。
(きっと、この『部分』が『ある存在の部分』だった頃の姿をちゃんと見たことがあって、それを記憶しているんだ。今は完全にその姿を思い出せないだけで)
「アオイ、君はどう」
見るんだ?
無意識に目が、指が、彼を探した。もちろん彼はいない。
「いけない、いけない……しっかりしなければ」
軽く頭をふって集中する。それからほどなくあらゆる疑問がパンジャを不安に陥らせた。答えまで一緒に考えてくれるアオイがいないのもそれを煽っていた。空漠はそのものより輪郭を確かめる度に意識して、辛くなってしまうものらしい。
「バニィ、これに入れて。ここに置いておいたら廃棄されるから」
ここにいて歩いていても思い出せるとは思えず、パンジャはバニプッチに言って短い試験管の中にそれを入れることにした。
「どこかで見たはずだ、どこの何かなのかは思い出せないんだけど……あぁ」
オーバーヒートしそうな頭の上にバニプッチが寄り添った。耳がジンジンするくらい冷たくなってしまっても、パンジャは手の中の輝きを見つめていた。
「どこの、何だったかな……?」
まだ、思い出せない。
確信へと至るヒントが足りない。
それを握る彼は遙か海の彼方にいた。
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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世界観
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文章表現
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