もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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焔は揺れる

 アオイは自分のことを、まぁまぁ冷たい人間だと思っている。――なんてことを自覚した時はなんだか痛々しい成長期の未熟な少年らしく赤面した。

 

 今ではその自覚が納得と反駁の間で何回転かしたようだ。冷たい人間なのではなく一定の『理屈』があればそれで全て納得できてしまう人間らしい。

 

 だからこそ。

 

(彼女はどうして……私の研究を手伝ってくれていたのだろうか)

 

 ふと日々の生活に滑り込んでくる疑問にアオイは脚をとめるように考え込む。

 

 アオイは『きっと自分は誰かの好意を受けるには誰であっても相応しくない』と思っている。両親からの愛を十分に受けられなかった過去が負い目を作るのか、あるいは事故後の心情の変化が恋愛観を狂わせたのか、はたまたコウタというムードメーカーの隣にいた時間が長すぎたのか、さまざまな要因でアオイは人の好意をうまく受け取ることが出来ない。そもそも好意とは何だろうか? アオイは頭を悩ませる。彼女にも何か打算があり心算があって手伝いをしていたはずだという先入観が拭いきれない。現実は常に正解のはずなのに、アオイはどこにもない不正解を探していた。

 

 ……しかし、とアオイは四角の空を仰いだ。

 

「彼女には悪いことをしたな。……私が役立たずになってしまったばかりに投資も無駄になってしまった」

 

 言葉は薄っぺらく嘘くさく無理をしているような気がした。けれど、きっと彼女が私ならそう思うべきだし、そう信じるべきだし、そうで在らなければいけないのだと思う。そうでも思わなければアオイはいよいよ神経が参ってしまいそうだ。ずっと隣にいた彼女の「なぜ」が分からないだけで見知ったはずの彼女が知らない誰かのように感じられることがアオイはたまらなく嫌だった。

 

 ――科学者は歩き続けなければならない。この頃ではアクロマという純粋で奔放な科学者のように。前だけを見て危うげに。けれど鋭く革新的に。

 

 アオイの科学者像は自分がそうであった時よりも、その理想が研ぎ澄まされているのを感じた。目に見えない母が実像より遙かに大きなものに見えるようにみえることと同じ理由だろう。イメージの固定化が難しいために起きる純化だった。

 

 

 

 

◇ ◆  ◇

 

 

 

 ヒトモシ。

 なかでもミアカシと名付けられたヒトモシの焔は、ここのところ揺れが激しい。

 

「モシっ」

 

 心情が伝播したラルトスを見て、ミアカシがぱたぱたとフローリングの上を走り回った。

 

「ごめんね。ミアカシさん……でも、必要なことなんだ。しばらく迷惑をかけるよ」

 

「モシぃ……」

 

 アオイの動揺は波打つ水面のように彼らに伝わってしまう。それでもやめないのは意地があるからだ。

 

(絶対に、私は諦めないよ……マニ。君が結果を出せないことを怖れているように私も結果が出せずに終わるのが怖い)

 

 マニの告白を受けた日の夜のことだ。

 アオイはハクタイの地に来てからはじめて酒を飲んだ。近頃は眠れない。他にも眠る方法はあるはずなのに、どうにもその方法が思い出せず安易な酒に手を出してしまっている。

 

「…………」

 

 グラスを置き、アオイはパソコンを開いた。

 アオイがコツコツ書いている小説がすこしずつ長くなっていた。

 

 

 

 

(……マニさんには基本事項を詰め込んで。それから外でのフィールドワークを……時間の限り……)

 

 アオイは予定を組み立てながら、書籍を取り上げた。

『シンオウ地方の神話』と書かれた本は以前、図書館で借りてきたものだ。そろそろ返さなければ……でも借りたからには読んでしまいたい。そのため貸し出し期間を延長し、しばらく家に留めおかれていたものを、平日の休日にやっとのこと手に取ったのである。

 

「ただの伝承話だと軽んじたわけではないけれどアルセウスの事業を肯定するのならカントーに伝わるミュウの伝説との折り合いがつかないだろう……いや、どちらも核心の証拠があるわけではないが……」

 

 学会でも意見が割れ続けている問題に、アオイは頭を抱えたくなる。近年の状勢としては若干、アルセウス世界想像説が優勢に思える。それはミュウが複数個体いるのではないか、という伝承と目撃情報からだ。一方で世界の「はじまり」たるミュウが複数いても「実のところ全然問題ない」とする主張勢力もいたり、怪しげな宗教が絡んだ団体もいる。まっとうに取り組む学者もいるなか、不逞の輩が絡む事案も多く人間やポケモンの起源は素面での話題は避けたいというのが本音だ。

 

 今回、神話を真っ向から企画展として行うという博物館の姿勢はご時世逞しいとさえ思える。

 

「化石……神話……。神話を扱うなら、たしかに化石は不都合な物証なのかもしれない。復元させてその生態から古代を考察する、というテーマならどうにか企画展の趣旨から外れずに存在価値を見いだせるだろうか」

 

 ぶつぶつと独り言を言いながら、アオイは考え続ける。パンジャの言葉も一応は頭の隅に入れてあるのだが、彼女の助言はあまりにも簡潔すぎる案と言わざるを得ない。もっと踏み込んだ見方をすれば「手抜き」とみられかねない。……とはいえ、ひとつの案として実用の範疇だと思う。最終手段だが。

 うだうだと考え続けていると、庭先から声が聞こえた。

 

「アーオーイーさーんーっ」

 

 隣家に住む少女の声に、アオイは本から顔を上げてハタと外を見つめた。

 厚手の遮光カーテンを開けばそこには春先よりやや日焼けをしたリリがいる。足下にはロコンがいて彼女の肩へ、しきりに上りたがっていた。

 

 

「リ、リリさん、こ、ここ、こんにちは……!」

 

 来客の予定? あるわけない。ひっくり返った声で挨拶しながらアオイは軽く手を上げた。

 

「こんにちは! ねえ、アオイさん。どうしてカーテンを閉めていたの?」

 

「……それは、えーと、暗いほうがミアカシの焔がよく見えるからですよ」

 

「そう? 明るくてもキラキラしていてステキなのに」

 

 リリの言葉に「そんなことあるものか」と真っ先に部屋を飛び出していったミアカシを見つめてみる。

 

(あっ……)

 

 ロコンと戯れている彼女は、たしかに、キラキラしてステキだった。焔は蠱惑的に煌めいて円を描いて宙に弾けた。

 ポケモンの好奇心は人の手に囲っておくには余るけれど、大切にしておきたいという気持ちさえ彼らには枷なのだろうか。のびのびと運動している彼女を見ている自信を無くしそうだった。

 

「ね? 言ったとおりでしょう? アオイさん」

 

「その、ようだ。……ああ、そうだ、リリさん。どういったご用事ですか?」

 

 手袋をしたままの手で、アオイは自分の鼻先を掻いた。ぶっきらぼうすぎる言葉をチョイスしてしまったのは、気まずい思いでいっぱいになって他に言葉が浮かばなかったからだ。

 

「用事は、特にないけど。あのひとがアオイさんのおうちを探してたの」

 

「あのひと? …………マニさん?」

 

「ど、どうも」

 

 リリの小さな指の先にはひょろりと高い背丈の青年がいた。博物館で見かける時に比べるとリリの背丈と相まって高く見えた。

 

「いえ! 僕も休日のアオイさんに用事というわけでは……わっなんて失礼なこと言っているんだ、僕は! ……主任のお嬢さんにばったり出くわしたので声をかけただけだったんです」

 

「ああ、そういう……」

 

 元気に庭を走り始めたリリとロコン、そしてミアカシの姿を認めてアオイは妙に納得した。このあたりの通りを歩いていたマニはリリとばったり出くわして、話のついでに最近博物館にやってきた新人先輩の話をしたのだろう。名前を出さなくても彼女にはピンと閃く人物がいたはずだ。そこからきっとアオイには理解が及ばない少女の思考で「マニさんはアオイさんを探しているんだわ!」となってしまったのだろう。たぶん。でも合っている気がする。

 

 そういうことならば。

 

「ええと。ま、まあ、どうですかお茶でも」

 

「え! うえっと……あ、ああ、い、いただこうかなぁ……とぉ」

 

 アオイとマニの間で無言の交渉が行われた。キラキラした目で見上げてくるリリを前に「実は用が無いんです」とは、お互いに言い出せない。アオイはあたかもマニを招いたように振る舞い、マニはアオイに誘われたように振る舞い(双方かなりぎこちないものだったが)、ともかく客人は外のチェアに座った。

 一度開けてしまったカーテンを閉じるわけにもいかない。アオイはお茶の用意をしてテーブルに置く。むろん稀人のものだけだったけれど。

 

「なんというか、はぁ……すみません。お休みのところを……」

 

「構わないよ。私は、見ての通り暇なんだ」

 

「……ほ、ほんと、すみません」

 

「え? ……気を遣ってくれなくともいいよ。気を遣われるだけ遠ざかるものもあるものさ」

 

 茫洋とした顔つきで頷きながらマニは灰色の目をきょろきょろとしていた。たぶんミアカシやロコンと戯れる少女を見ているのだろう。

 

(子供は苦手だ。ほんとうに……苦手だよ)

 

 視界に入れることも煩わしく、時に憎たらしいほどの思いに駆られてしまいそうでアオイは庭に背を向けていた。しかし存在というのは母やパンジャを参照しても目に見えなくなるほど意識してしまい輪郭以上の存在感をもって注意を惹くものらしい。少女らしい透明で高い声がアオイの鼻先に早くも失敗を匂わせていた。

 

 マニはお茶を一口飲んでから、すこしだけ背後を振り返った。

 

「アオイさんってこんなところに住んでいたんですね」

 

「まあね。独りで住むには広すぎるところだよ。私は一階しか行動できないのに」

 

 言葉の半分は独り言のように消えた。しかし目の前にいる彼にはハッキリと伝わってしまっただろう。すっかり狼狽えたように彼は手を振った。

 

「あっ……いえ、僕は、そういう意味では……」

 

「すまない。気にしないでくれ。私は……昔からこういう物言いをしてしまうんだ」

 

 アオイはテーブルの染みを数えた。彼は『長年隣にいた彼女』とは違うのだ。言葉はもっと慎重に気をつけなければならないだろう。

 頭では分かるのに、言葉を考えようとすればするほど喉の奥に何かが詰まったようになって頭の回転まで鈍くなる。会話をしないのもリリに怪しまれてしまう。どうしたものか。

 アオイはすこし考えたところで、決めた。そして「申し訳ないが」と一言前置きをした。

 

「私の言葉は、そう言葉以上の意味なんて無いんだが、もう癖なんだ。……嫌みっぽくて嫌なヤツだと思うだろう?」

 

「いえ、その、まあ、気分が落ち込む時なんてよくあるじゃないですか」

 

「私にとってはこれが常だ」

 

「おぅ……。わ、わかりました」

 

「何が?」

 

「僕はアオイさんの言葉の『端っこ』は気にしないようにします」

 

「……ふふっなんだい、それ」

 

「まあ、僕なりの付き合い方ってやつですよ。そういえば、今日のアオイさんは敬語じゃないんですね」

 

「今は休暇中だからね。私は公私混同しない主義だよ」

 

「仕事中もその調子でいてくださいよ。……博物館にいるあなたは、ピリピリしているように思います。今のあなたはそれほどでもないけれど」

 

 マニの言葉に、アオイは思わず吹き出した。

 

「私が働き始めてから何日経ったと思う? まだ一週間も経っていない。緊張しているんだよ、許して欲しい」

 

「……そ、それはそうかもしれないですけど。アオイさんってなんでもそつなくこなせるイメージがあって、緊張しているなんて思わなかったっていうか……すごく意外です」

 

「私は君の想像を超えて平凡な男だよ。ごくごく普通の、ただの研究者……だった。しかも狭量で偏屈ときている」

 

「僕はあなたのことをそう思いません」

 

 メタモンとヤドンをモンスターボールから放ち、マニは言った。彼が真正面を見て言わないのは、それが本心だからだろうとアオイには妙な勘が働いた。

 

「なぜ?」

 

「だって、あなたは僕の指導役を引き受けてくれたじゃないですか。『不当な評価は目を誤らせます』って僕の教授が言っていました。他者なら当然、自分ならなおさらだと思っています」

 

「……狭量な器にぴったりとハマってしまったんだ。それだけさ」

 

「どうしてですか?」

 

 アオイはスッと顔を上げて背筋をただした。マニの言葉は意外だった。

 彼の顔には余裕がない。むしろ恐れていた。ようやくつかんだ好機の糸を自ら断ち切る可能性を秘めた問いであることを、今の関係性を壊してしまう核心的な問いだと分かっていた。

 それでも、彼は言葉を続けた。

 

「あなたは最初、僕の申し出を受けるつもりはなかったはずでしょう?」

 

 灰色の瞳が中天を向かえた光を受けた。さりげない世間話の会話の『ついで』とばかに問われた言葉は、実に複雑な事情を絡ませていた。

 

 アオイの右手が無意識に自分のカップを探す。その手を恥じるように左手で押さえてから、口端をあげて笑った。

 

「君は、どうして今そんなことを聞くんだ? 何か気になることでも?」

 

「あなたはヤドンの生き方を知っていますか?」

 

(質問を質問で返すのかい? 0点さえもらえないぞ)

 

 いやぁ知らないな。公開されている図鑑の情報以外は……、と呟いたかどうか記憶が無い。

 

 だが、不穏な目つきになっているのはなんとなく自覚があった。柔らかい雰囲気を硬直させるのはいつだってアオイからだった。これはパンジャとの会話やコウタとの関係でも変わらない。彼がアオイの真意を知りたいように、アオイも彼の言葉の意味を知りたかった。マニが『勇敢』にもこの際、無謀と呼んでもいいだろう、敢えて暗黙の同意を白日に晒そうとするのか。

 

(……私は、君のことが分からないよ)

 

 他人の調子に合わせるのは苦労する。これだから休日はできれば誰にも会いたくないのだ。

 

 マニはどうしてアオイが依頼を引き受けたことを疑問に思うのだろうか。これでは彼が望んで言い出したことを彼自身が否定して疑問を抱いていることになるのではないだろうか。

 

(ちょっとフワフワしたところがあると思っていたが、まさか頭までフワフワしているんじゃないだろうな……)

 

 いいじゃないか。お互いが同意していれば、それでいいだろう? 満足だろう? 満ち足りているだろう? 不満は無いだろう? それをなぜ? どうして掘り起こそうとするんだ? 同意は成された! すでに成ったものを覆そうとするんだ? これは君が望んだことだというのに!

 

 とはいえ不都合な真実を隠しているのはアオイの方だ。まさかそれに気付いているのではないだろうか。そんな危惧を覚えればアオイこそ挙動不審になってしまいそうだった。

 

「ヤドンが進化するのにはレベル以上に運が必要です。まずシェルダーに噛みつかれなければいけない。けれどそれも進化を促す要素のひとつでしかない。相性のいいヤドンとシェルダーが出会わなければならない。……『低確率』と言われています」

 

「それが? ……何だって言うんだい?」

 

 指を組んでその上に顎を乗せた。

 

(さあ、笑え。笑えよ、アオイ!)

 

 薄い笑みを張り付けて、アオイは彼の言葉に挑む。

 

 バレるワケがない。落ち着け。後ろめたいことをしている人間はこの場にいないと見せつけてやれ。『彼を優秀な研究者にさせてやる』だなんて、悪いことのワケがない! 感謝されることはあっても憎まれることはないはずだ! あってもそれは彼の『失敗』であって、私のせいではないはずだ……! 動機が何であれ、結果を出せばそれで『帳消し』だっ!

 

 マニはくるくると手の中でカップをまわした。

 

「僕は、神様とか運命とか信じるタチなんですよ。お恥ずかしい話ではあるんですが」

 

「……まあ、いいんじゃないかな」

 

 アオイは自分を殴りたくなった。衝動性の暴力は思いがけず影響を与えかけた。咄嗟に胸に手を当てて頭を傾ける。ミアカシが遠くにいて良かったと心底思えた。アオイはこの時になって初めて自分の失態というものを意識した。――もしかして、もしかしなくとも、私はとんでもなくフワフワした奴を後釜にしようとしているのではないか? けれど、いくところまで行くしかない。泥船だろうが、背中に火を放たれていようが、いけるところまで育てられるところまで。誰かを探す機会はアオイには絶望的に少ないのだ。

 

 彼の言葉は、続く。

 

 

「今日の僕はフィールドワークの途中で『偶然』化石を見つけて、帰る途中、『偶然』主任のお嬢さんに出会って、『偶然』家にいたアオイさんに会えた。僕にとっての運命はこんな『偶然』が三つ以上重なった時なんですっ!」

 

「は、はぁ……」

 

 アオイの脳裏にはなぜかブレーキの壊れたダブルトレインがはしっていた。それが何を暗示しているのかうっすら分かりそうで非常に怖い。

 マニが突然、立ち上がりテーブルを叩いた。

 

「直感は大切です。努力も大切です。けれど運命はそれ以上に大切なものなんです! だから、僕はどうしてもあなたから聞き出さなければならないっ! どうして『僕を助けてくれる気になったか』を!」

 

「そ、それは、あ、あの時、言ったでしょう、それだけです」

 

「――それならどうしてこの頃のヒトモシの焔は揺れ続けているんですか?」

 

 ぐ、と喉の奥で空気が潰れる。

『運命』それは『強運』とも言い換えて支障ないものだとでも言うのか?

 

(ふざけるな。恐れるな。動じるな。ただのカマかけだ……)

 

 しかし、それでも微かな罪悪感のため感情を律しきれないのは、アオイの根が誠実な人間である証明だろう。

 

 マニはアオイの前にピ、と指を立てた。

 

「……あなたに精神的な動揺があるからじゃないですか? 他に、目的が――」

 

 アオイはゆっくりと首を振り、頭を傾げた。

 

「……………………はぁ。マニ君、先達として言っておきたいことがいくつかあるわけなんだが、いいかな?」

 

「え?」

 

 静かにアオイは切り出した。

 

「人に言わないことは、人に言えないということでもある。それが傷の深さの裏返しだからだ。……私の車イスは伊達でなければ酔狂でもなくまして先天的なものではない。実験中の事故でこの体になっている」

 

「……えっ?」

 

 マニの顔面は驚愕に溢れていた。そこまで驚かなくてもいいだろう。アオイは心の底から思う。

 

「そこまで知りたいのなら今はっきり言おうか。実のところ研究にはもう関わりたくないんだ。精神的な動揺? その通りだ。私は関わらない覚悟をしてこの地に来た。けれど君と出会って、君からの申し出を受けて、私は信念を曲げたんだ。私『は』もう研究に携わることはできないだろう。でも、君は違う。――そう。『違う』んだろう? 既に君の『運命』は私を引き合わせた。何が君にとっての最高の最善なのか……分かっているんだろうね?」

 

「……それは」

 

「もうふたりとも学生じゃないんだ。……ああでもいられない」

 

 アオイの目は背景にいる、少女と戯れるポケモン達を見ていた。

 

「君風に言うと、君の『運命』は私を変えてしまった。だから覚悟をしてくれよ。……私はもう済ませているから」

 

「ぼ、僕は……」

 

 彼は、そんなつもりではなかった、と言いたがって仕方が無いような気がした。それを必死にのみ込んだだけ彼は何も分からない学生ではなかったようだ。

 

 それにしても。

 

(いけない。脅しすぎただろうか……)

 

 嘘を嘘として吐いてはいけない。嘘に真実の欠片を組み込むことで嘘は嘘らしく機能する。これはアオイが体験記になってしまいそうな小説から学んだことだった。ほんのすこしの本心がこめられた言葉はそれなりの重みをもって彼に響いたことだろう。

 

(それにしても……運命か)

 

 アオイは運命を信じていない。そんなものがあるわけがないと思っているし、存在さえ認めてはいけないと思っている。けれど彼がそれを信じているのなら、まあ……それでいい。彼の温度の低い情熱が燃え盛るきっかけになるのなら――それが燃え尽きてしまわない限り――アオイは歓迎しようと思う。彼の思想は思いがけない方向性を持っていたが、何も問題は無い。彼の行動はすべてアオイの示す指向性を保っている。

 

 もっともアオイが理解できる『理屈』で彼が動いていないことが分かってしまった気分は最悪だった。『何をしでかすか分からない』という人間を扱うのには苦労する。そんな性質を持っていていいのはポケモンと試験管の中の細胞だけであるとアオイは信じていたいからだ。

 

 次に彼は叫び出すかもしれない。できるわけ悪いほうに思考を動かしながら、アオイは彼の反応を待つ。アオイの右手はしきりにお茶の入れたカップを探してテーブル裏を掻いていた。

 

 ひとつの瞬きの間に、彼の表情は変わった。おや。なんて思う暇さえなかった。

 

「僕は、きっとあなたを後悔させたりしません。人とポケモンのために。幸せのために、僕なりのやり方で貢献して見せます。そのために、僕、僕、頑張ります! あなたが呆れるほどに。だから、ちゃんと見ていてください」

 

 胸に手を当て、きらきらした瞳で彼は語る。けれど決してアオイの言葉を待つことはなかった。彼の目は、ヤドンやメタモンを見ている。

 

「私ができることなら……いくらでも」

 

 ささやかな良心から囁き頷く。それが精一杯だった。なんだか脱力してしまいしきりに動いていた右手が止まった。――彼は、アオイが思っているようなフワフワはしていなかったようだ。そのことが分かってしまった。

 

(なんだ。そういうことか。バカだな……私は)

 

 彼はすこしだけ自分のことが分からなくて、慎重な性格だったのだろう。誰でもない誰かからの一押しを必要としている青年だ。それでいて、規則正しい未来より、不規則で不可測を夢見ている。

 

(勘ぐりすぎたかな。はあ……電波を受信したわけじゃないのか……よかった……よかった……)

 

 この調子で「新世界の神になる」とか言ったらさしものアオイもどうすればいいのかわからないところだった。

 

「じゃあアオイさん、明日までに展示の案を考えてきますね」

 

「えっ!? そ、それは急だな?」

 

 サッと立ち上がったマニを見てアオイは咄嗟に本音が出た。言っても支障の無い言葉なのだが、素の反応を晒すのは恥ずかしいものだった。

 

「思い立ったら行動しなきゃ、でしょ? 時間が惜しいってアオイさんがいつも言うじゃないですか」

 

「それは君があまりに暢気な時があるから……いや、しかし、今回は」

 

「ともかく、明日までに考えてくるので。それじゃ、僕は帰りますね!」

 

「あえぇ……」

 

 ショックでアオイは二の句がつげなくなった。言葉のひとつだけでこれほどの絶望ができるものだと感心さえできそうだった。もしも、アオイがマニの立場なら少なく見積もって数日は悩みに悩むだろう。慎重に進める以外の選択肢が存在することに驚いた。そうして気付く。前言撤回をすべき時は今であると。彼は、アオイの手には余るのではないか……。

 

 けれど悩んだところでアオイがどうなるものではなかった。ヤドンとメタモンを回収して彼はもう行ってしまった。……彼のマイペースさになんだか気張っていた緊張が解けた。結局のところアオイが彼にできることは無いのではないだろうか。彼はアオイにはよく分からない運命とやらで研究者への道を前向きに歩き始めている。結果オーライなのだが、理屈が不明すぎて彼は釈然とした気分にならない。まるで喉に引っかかるコーヒーを飲んだ時のようだ。対面に座った時彼はアオイを詰問するつもりでやってきたのだろうが、今はアオイこそ彼を問い詰めたくてたまらない。たった三つの偶然が重なっただけで運命だと信じられる根拠が謎すぎる。本人が信じていればそれで……まあ、いいのだが、それにしても……だってたったの三つなのに……。という思いが訪れるとアオイは悩んだ。彼はそのうち怪しげな団体の勧誘に引っかかりそうでちょっとこわい。

 

「アーオーイさーん、こっちこっちー」

 

「あ、ああ、いま行こう……」

 

 

 

 

 

 




【あとがき】
 アオイの思惑、不発に終わる。
 でも、すこし考えて思うところがあったらしい……という。


【ここに、更新ボタンがあるじゃろ?】
 やめろ! まだ数話も書きためていないじゃないか!
 うるさい! 限界だ!押すね!

 という経緯のため数日分ほどまとめて投稿いたします。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

  • 登場人物たち
  • 物語(ストーリーの展開)
  • 世界観
  • 文章表現
  • 結果だけ見たい!

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