焦げた情熱
アオイはうとうとしていた。
休日の真昼。温いまどろみの中で眠るのは至高の贅沢だと彼はようやく気付いた。もっとも実際には体力が維持できずに落ち続けているため、体が無意識のうちに休息を必要としているだけなのだが、こうでも思わないとやっていられない。ミアカシがアオイの体によじよじと登り、登山ごっこをしている。微笑ましくてアオイはつい眠りの世界に引きずり込まれそうになる。
うとうとした思考は時間を飛び越えてしまうらしい。床を差した指先が在りし日のペンを探してピクピクと動いた。
そういえば研究室では不眠と睡眠不足に悩まされていたか。すっかり遠くなってしまった思い出だ。そして『ふみん』の特性を持つポケモン達を羨ましくも思ったものだ。そんなことも思い出していた。眠らなければ人生は1.5倍くらいに長くなるのではないだろうか。その時間があれば、私はもっと……。なんてことを考えていた。人間の体の構造では……まだ現実的なものにはなるまい。
(ふむ……。まぁ、ともかく。ねむい。ねむいなぁ……)
アオイは目を閉じるとぴくりとも動けなくなっていた。きちんと寝たいのだが、椅子に座るアオイの腹に上り詰めたミアカシがぴょんぴょんしているせいで眠れない。
「う、うぅ……」
眠りたくて眠れないという状態は意外と辛いものがある。
このままでは逆に疲れてしまいそうだ。ここは一度起きてミアカシの説得をすべきか……。
あと5分経ってもぴょんぴょんしていたらこちらもぴょんぴょんしてぴょんぴょんしよう。
睡眠が阻害されているせいか、若干のところ自分の思考がぴょんぴょんしている気がする。うーん、このままではいけない気がする。でもあと5分……。
アオイが再び本格的にうとうとしようとした瞬間だった。
「ナンダァ……ねてる、のか……」
ぬるりと影のように現れた姿に、アオイは目を開くことも忘れて眠りに没頭した。
◆ ◇ ◆
(ここは……研究室)
過去、長くいた研究室の風景は現実的な質量を持ってアオイの目の前に迫ってくるようだった。
アオイはここでも椅子に座っていた。ズボンを引き上げて膝を確認する。どこにも穴は空いていないし火傷の引き攣ったような皮膚も無い。自分の体はどうやらこの時代、過去の自分のものらしい。健全な体を求めた覚えは少ないが、夢には反映されているのか? 相変わらずこの空間のことは分からない。肌にまとわりつくような湿気まで忠実に再現されている。
アオイは以前よりも冷静に周囲を見ることができた。
隣に座るパンジャがきょろきょろするアオイを不思議そうな顔で見ていた。
(……ここは、ダークライの夢のなか)
どうすれば目覚めることが出来るのだろう。前回はひどいショックなことを思い出して起きた気がする。しかし今回はその「ショックなこと」がよく思い出せない。かなり重要なことだったと思うのだが、記憶が欠落している。そもそも自分はどうして膝を確認したのだろう? 最近、大きな怪我をした覚えはないのだが。
「う、うぅん……?」
思い出そうとしても核心の輪郭をなぞるだけで浮かび上がるものがない。ただ胸のあたりが苦しくて辛い。睡眠不足が祟ったか。不整脈だろうか?
「アオイ、どうかしたのか」
「何でもない。何でもないはずだ……。パンジャ、今日の予定は?」
「えっ。先ほど確認したばかりだ。ほんの5分前に」
「そういうことを聞いたんじゃない。私は今日の予定が聞きたいのだが」
「……え、えと、今日は7月14日。天候は晴れ。カブトプスの化石が見つかった。例の、復元の実験をすると言っただろう? ……当初の予定通りだ。しかし、アオイ、どうしたんだ? 今日のあなたはちょっとおかしい、いや、調子が悪いように見えるが」
「7月14日……? カブトプス? ……復元、実験……? ――はっ!」
書きかけの日記、その記述を思い出してアオイは夢の中で目を覚ました。
「ここは……前に来たことがある。間違いない、あの日だ……! パンジャ! あの子は今どこにいるっ!?」
「えあ、ああ……えと、バニィと遊んでいるはずだ。お昼の鐘が鳴ったら戻ってくるだろう。いつも通りに……しかし、ア、アオイ、あの、わたしは全く問題は無いのだが、どうしたんだ? 今日のあなたはすこし疲れているのではないか? いや、あなたに異議を唱えるつもりはこれっぽっちも無いのだが……無いのだが……」
「あぁ、すまない。パンジャ。寝不足かもしれない。だが冴えているんだ。だから頼まれ事をしてくれるか?」
「接続詞の使い方が変じゃないか? ……いや、あなたのお願いなら何だって望むところだ」
「今すぐ実験室に行って電源系統の確認をしてくれ。何時間かかってもいい。正常であることを確認してくれ」
「それは……必要があるのか? 今朝の日次情報の更新でも異常数値は観測されていない。わたしも確認したし回覧でアロエ所長も確認したことだろう。なにも言わなかったということは『異常なし』ということではないか?」
「数字は信用ならない。目で確認してくれ。床下から屋根裏まで全てだ。――私は君を信頼しているんだ。分かるだろう?」
「……あぁ、いや……その、わたしは、わ、わかった。あなたの言葉を信じよう」
「頼むよ。わたしは化石を見てこよう。あれがそもそもの元凶なんだ」
アオイの思考は飛んでいた。
(私は、ここで何をしようとしているんだ)
ここが悪夢だということは分かっている。眠りの直前、ダークライの気配を感じた。彼が訪れるということはそういうことだ。眠ろうとしたのではなく眠りに引きずり込まれたのだ。
分かっていてもアオイは白衣を翻した。
「急げよ、パンジャ。私も最善を尽くそう」
違和感の無い足運びで、危うげなくアオイは廊下を走る。
(ここは……ただの夢じゃないか)
いずれ醒めてしまう。朝露より儚い世界だ。結果は事実の寄せ集めに過ぎない。しかもそれらはアオイを当事者に収束し、既に決定した。
現実は常に正解だ。その正解を、私は見間違えようとしているのか? 自分を疑う。そのうち「いいや、違う」と心が呟いた。
(もう一度、やり直すことができるのならば)
アオイは走りながら、わき上がる思いに涙が零れた。
「私は……っ、私はただ……納得したい、だけなんだ……!」
廊下を疾走する彼に、すれ違う誰もが振り返った。驚いた顔のなかに、すこし小馬鹿にしたような顔が見える。けれど今のアオイには自分が無様で情けない存在でもいいと思えた。人は賢くなくていい。たぶん愚かでもいいのだろう。大切なことは未来へ進む意志だ。
アオイが執着し続けた「賢さ」はどこまでいっても相対的な価値しか持たないことをマニが証明してくれていた。
彼は何かに背中を押されて歩むことを選んだ。選んだ理屈なんて理由なんて何でもいいのだ。
理由無く留まり続ける「賢さ」は聡明の証だろうか?
果敢に歩みをすすめる「愚か」は暗愚の証だろうか?
それは、きっと、絶対的に違う……!
「私は未来を見て、生きていたい! 生き続けたい! いつか命尽きる、その日まで胸を張って生きていきたい!」
それは渇望だった。決して言ってはいけないと思い込んでいた言葉。
けれど、本心を言いたくて、誰かに伝えたくて、心が叫んだ。
「この世界は君が生まれて来るに値する世界だったと再び出会った時に言うために!」
アオイは、感情を振り切るように走る。
けれど前に進むということは、心を占める感情とさよならすることに他ならない。この別離は悲しい。この空しさと悲しさを抱いて暗い海に沈んでしまいたいほどに、たぶん、きっと、好きなのだ。アオイは『彼』が生きているうちに感謝を言えなかったから、代わりに失ったあとに自然と現れた空漠を愛した。
けれど、それではダメなのだ。前に進まなければ。
『彼』が生かした命は未来に往かなければならない。生きるために。
この決定だけは、失った命に対する義務ではない。責務でもない。
アオイ・キリフリの意志として選択しなければならない。――夢の風見鶏が止まる前に!
悲しみを乗り越えると人は簡単に言う。
けれど、そうではない。そうではないのだ。問題はもっと根深い。そして次元の違うところにある。
乗り越えるのは見過ごすのと同じだ。見過ごすのは無視すると同じことだ。無視することは関心が無いと同じことだ。関心がなければ「いない」のも同じだ。生まれながらに幽霊のような『彼』をこれ以上存在感の希薄な何かにするなんて――できない。
アオイは研究室の扉の前にたどり着く。そして、あの日は届かなかった扉に、彼はようやく手をかけた。
生きるために――この後悔に決着を!
だからこそ。
「私は……納得したフリをしたくない。私には理由が必要だ。私にできることは本当に何も無かったのか、何ができたのか、どうすればあの子を救えたのか、なぜ救えなかったのか。私を納得付ける完璧で完全な理由が必要だ……!」
夢のような世界で結構!
結果を現実に持ち越そうなんて願わない!
だから私を納得させてくれ!
今ではない未来へ往くために!
アオイは扉を開く。
◆ ◇ ◆
そして目が覚めた。
「はっ……!」
「ヨゥ、元気?」
「夢……ここは、どこ……現実、なのか?」
ミアカシがしきりに鳴いてアオイのシャツを引っ張った。不安にさせてしまったのだろう。アオイは彼女の体を撫でた。夢の世界に魅入ってしまった。納得することは必要だ。でも現実を蔑ろにしてもいい理由にはならないだろう。きっと。
汗がダラダラと額から鼻先に伝わってストライプのシャツに落ちた。
「あぁ……なんて、夢を……みせるんだ……」
涙までこぼれてきて、アオイは多種多様な感情が溢れるのを感じた。
「夢カラ醒めて、残念ソウな顔するヤツは初めてカモ、ナ」
「ダークライ、君が起こしたのか? なぜ?」
掠れた声で、アオイは首を傾げる。涙が溢れた。
「ジョウロを持ってきたのだが……モウ、あるのダナ」
「ジョウロ? あ、ホエルコジョウロじゃないか。どこから持ってきたんだ?」
アオイはバクバクと音を立てる胸に手を当ててダークライが持ち込んだジョウロを気怠く見つめた。
「風ノ日ニ、森の中に転がりこんでキタ……」
「そう……。もし、持ち主が見つかったら返してもいいかい?」
「ジョウロはあるヨゥダシ……別に」
「分かった」
「オイ、アカイの」
「……なんだい。あと私の名前はアオイだ。髪の毛は赤いがね」
「夢ガ見たいか?」
「……分からない。よいことではないと分かっているんだ。でも……。いや、なぜ、そんなことを聞くんだ?」
「夢カラ醒めて、残念ソウな顔をしたのが珍しいから。ソンナ理由」
「……君に気遣われるだなんて。……でも、ありがとう」
ダークライはアオイにジョウロを渡すと来た時と同ようにいなくなった。
「モシィ……」
「どうしたんだい、ミアカシ嬢」
「モシモシ!」
ミアカシの焔は温かい。これが感情を燃やしているのなら、これが生命の輝きなのだろう。
涙に濡れた瞳がぼんやりとその光を見ていた。
「ねぇ、ミアカシさん……私は短絡的な解決の仕方をしようとしているのだろうか?」
偶然見つけたひとつの解決法が、素晴らしいものに見えているだけなのだろうか。それともこれしかないと勘が囁いているのだろうか。
ミアカシのやわらかい体を撫でてからアオイは彼女を抱きしめた。突然与えられた体温にミアカシが震えた。
「君のことが……大切だよ。これでも、私は君にだけは特別に誠実になりたいと思っている」
言葉は、無力だ。
パンジャは違う考え方を持っているようだが、アオイは彼女を真っ向から否定する。自分の言葉を信用しきれない。言霊の存在なんて信じていない。だって私が弄する言葉はこんなにも軽薄で嘘っぽく上っ面じみている。
だから、願いをこめて――遙か遠い流星ではなく、彼女を見つめる。
そして、祈りをこめて――届かない大樹ではなく、彼女抱きしめる。
また新しい涙がこぼれて温く頬を伝った。
私は平気で嘘をついてしまうし、取り繕うのも得意だ。けれど君にはそういうことをしたくない。してはいけないとさえ思う。他の誰にも何にもそうは感じないのにね。
それがどうしてなのか、さっぱり分からなかったんだ。
……これまでは。
けれど、最近になってその理由が分かりはじめた気がする。まだ言葉にならないけれど、とても大切な「その時」のために私は歩きはじめたのだろう。
良いことなのか、悪いことなのか、それはきっと未来の私が判断することだ。
もしも、運命というものがあるというのならばめぐり合わせに小指の爪欠片ほどの感謝をしてやってもいい。
後悔に終止符を。私の覚悟は、もうそろそろ決めるつもりだ。
けれどミアカシさん……君は、私のわがままを許してくれるだろうか?
【読まなくても、かなり大丈夫な、あとがき】
書いていて辛くなります。いえ、正直に言いましょう、辛くなってきました。
筆者は思った。
「もうこれ以上、『彼』の正体を明言せずに書くの難しくね? これ」
いつまでぼんやりさせておくんだよ、さっさと書けよ、オラァな声が聞こえる気がします。
だが、しかし、ここまでの情報でだいぶ絞れて来ましたよね、これ。
だからこそ!
明らかにせずに書き続けるの滑稽じゃね? こんなプロットで大丈夫か? ――だいじょばない。問題ある気がする。
そう思いながら、当初の予定通りにプロットは展開中です。更新が止まっている間にも増えるお気に入り件数に野菜ジュースを持つ左手がガタガタ震えています。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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