「指を切ったのか……」
氷塊で川を下る。
パンジャは手袋に滲んだ赤い染みを見て呟いた。微かな痛みに顔を顰めて、これまでの行動を思い出す。けれど怪我をした瞬間は分からない。
額に手を当てて、パンジャは振り返る。ぐらりと氷柱が揺れた。
「なぜだ? どうして思い出せない? 何を見落としている? わたしは……わたしは、痛みに鈍くなっているのか?」
感覚が鈍磨するのは良いことではない。焼けた肌を見ていると危機感を覚えた。
この手はいずれ完治させようと思っている。この傷は誇りだが、見せびらかしたいものではない。怪我は大小に関わらず自我の喪失を連想させる。『自分』という欠落の香り。原始的な恐怖だ。誇りは過去の証拠ではない。未来のため、心に抱き続けるためにパンジャは持っていたかった。なによりアオイがわたしを見つめた時、彼が悲しむようなことはしたくない。
じっと見つめて名前の知らない失意に打ちひしがれていると、バニプッチが冷たい体を頬に擦りつけてきた。
「バ、バニィ……? 大丈夫だ。わたしは、大丈夫……何も怖くないよ。わたしに恐怖など無いのさ」
宙に浮くフリージオが陸地に近い川の中に『れいとうビーム』を放った。できあがった氷に乗ってパンジャも陸地に戻る。
「っん……だぃ、大丈夫だが、すこし、つ、疲れて……しまったな」
地面に座り込んでパンジャは地面に両手を突いた。
パンジャはどちらかと言えば長距離より短距離型の人間だった。持久力が無いのである。
気が緩んだせいだろう。どっと疲れが押し寄せる。はぁはぁ、と忙しく息を吐いた。心臓がとんでもなく早い。まるでやましいことをしたと咎めるように。
(違う……わたしにやましいことはない)
ただコウタのことが許せなくなっただけだ。金色の塊、彼の大切な『彼』の遺した物を秘したことに怒ったのだ。親切なアオイの友人がヒントをくれなければパンジャはこれの正体に気付くまでにもっと遠回りをしたことだろう。
その後、彼が取ろうとした手段も許しがたい。
アオイに教えて何になるというのだろう。また悲しみを増やして彼を傷付ける。しかし、どうやら口止めの必要があるほど彼も愚かではなかったようだ。それだけは彼を信頼していた。
パンジャは手の中にある輝きを見つめた。
(コウタは頭がおかしくなっているのだろうか)
ふらり。近くの樹に寄りかかりパンジャは目を閉じる。
(『彼』はまだここにいるというのに。どうして地面に埋めなければならない? ずいぶん小さくなってしまったが、まだここにいる。『いる』のだ。『いない』ではない。これは0ではなく1だ。存在している以上もはや『生きている』と言ってもいいだろう)
まともに考えると奇っ怪な思考だった。
だからこそコウタは見咎め聞き咎め、殴りつけたのだが、パンジャはその点について理解していなかった。
人間の脳は実に都合良くできているらしい。パンジャは『彼』の遺骸についてコウタこそおかしな考えをしていると頑なに思っている。だからアオイにタワーオブヘブンへ行け等と正気の台詞とは思えない。あそこは時間と感情の場末だ。彼には相応しくない。
(アオイは正しかった……ということだ)
彼は決してタワーオブヘブンに行こうとは言わなかった。その行動は今こうして思えば正解だ。パンジャは思わず「ふふっ」と笑った。海の向こうにいる親友は絶望の真っ只中にいてもこんなに聡明だ。
しばらくして呼吸が落ち着くと今になって殴られた頬が熱を持ってシクシクと痛んだ。しかも口の中を切っているらしい。不愉快な鉄味を吐き出してパンジャはポーチから水筒を取り出すと逆さまにして飲んだ。
「くぅ……痛い。しみる。意外と痛むのだな。しかし女性の顔を殴るだなんて乱暴なことをするヤツ。だから男は嫌いなんだ。どうして世の中の男というのはアオイのように大人しい存在としていられないのだろうか。……まったく痛いな。母さんにも殴られたことがないというのに」
ぶつぶつと言いながらパンジャは水筒をしまう。それから、そわそわと落ち着かないニューラにお礼を言ってボールに戻した。今日は、よく働いてくれた。帰ったらヒウンアイス3連発をご馳走しよう。
浮遊するフリージオはまだボールに戻りたくないようでくるくると周囲を漂っていた。勝手に動いているように見えるが、あれでいて高いところから周囲を警戒してくれているのだろう。近くに道路があるはずだがポケモンが飛び出てくるとも限らない。
パンジャは立ち上がると白衣についた草を払った。
「バニィ、フリィ、シッポウまで行くよ」
呼びかけると、彼らはふわふわと宙を浮いてときおりじゃれあいながら進んでいく。
彼らを視界におさめながらパンジャは両手をポケットに突っ込んだ。頭の中にはさまざまな理屈が飛び、喧喧囂囂と議論を交わしている。目の前の景色が急に褪せて頭脳を巡る思考だけが真実だった。
(アオイ……コウタ……)
親友はいつも隣にいた。でも誰よりも遠い存在だった。3人が集まると妙な疎外感があった。同性ではないからだろうか? わたしが『こんな』だからだろうか? それとも彼らが? 理由は、よく分からない。
パンジャは彼らが笑っていられるように場所を作りたかった。整えたかった。隣にいたかった。ささやかな、それが望みだった。
穏やかな時間。今にして思えばどれほど尊い時間だったのか。比較対象すら見当たらない。
どんなにくだらないことでもいい。理由なんて要らない。何か美味しいものでも食べながら話をして同じ時間を過ごす。それが全てだ。その時間を守るために頑張った。体も焼かれるほどに頑張ったけれど、このザマだ。後悔は無いけれど未練がないわけではない。
(壊すのはわたしの役目だ……いつだって、そうだ)
パンジャが求めるのは、最高で最善の現状打破の方法。
破壊だ。
壊滅的な破壊を望んでいる。蹂躙するような、破壊が欲しい。
(わたしの役割をわたしが果たす。わたしが……やるのだ)
アオイにしろコウタにしろ彼らは信条を曲げるということを知らない。
自分だってそういう性質だが、受け入れられるだけの柔軟さはある。
でも、彼らはいまその余裕がない。本当にダメなのだ。人間に対しての執着が薄い代わりに、彼らはポケモンに寄せる愛情は格別のものだ。それがそれぞれ最悪の結果を招いた。
アオイは「現役時代」から自分の神経をすり減らす勢いで心の余裕が無く「目の前のコイツは私にとって有害か無害か有益か無益か敵か味方か」と常に考えている、神経質な親友だった。
一方のコウタは現状に満足しているので余裕があり過ぎて大抵のことは自分に関係無いと思い込む――アオイより質の悪いことに実際のところ彼はまったく他人の動向を気にしなくてもまったく「大丈夫」である特異な友人であった。
そんな彼らがポケモンの喪失という不可逆的な事故に対してそれぞれ違う意味でぶっ壊れてしまった。
壊れたものは。なおさなければならない。この際「直す」か「治す」かなど些末な問題だった。とにかく、もとに戻すのだ。「元」に! 「基」に! 「本」に! 「素」に!
正しくあるべき形で、喫茶店で炭酸ジュースを飲む日常に戻る。なんとしてでも何をしてでも。そのためにパンジャは自分の『人間性』を賭けた。何であっても容赦はしない。邪魔をすれば排除するし、騙す、欺く、必要であれば口止めを。そうして些細で重要な願いを掴み取るのだ。
これまで慎ましやかに誠実に生きていたわたしが幸せになるくらい、世界だって寛容になってくれることだろう。パンジャ自身にとっても大切なことだ。
だからこそ、全うしよう。
壊すのだ。
(革新的な手法で現状という障害を――壊滅的な打撃を与え踏破するのだ!)
パンジャは胸に手を当てて、振り返る。ひとり分の足跡がある。
これまで歩いてきた、そして二度と省みないと決めた、過去に告げる。
「アオイ、わたしはあなたを幸せにする。あなたに同情しているわけではない。これはわたしの証明式なのだ。わたしが『パンジャ・カレン』であるために不可欠な……ただの意地なのだ」
パンジャは選んだ。
後悔はない。
やはり初めて呼吸をした気分になった。新鮮な空気が肺を満たす。
これはいい。やはりわたしはツイている。
わたしがわたしになれる瞬間だ。
天に向かい、パンジャは声を張った。
「誰にもわたしをバカになんてさせない! アオイだってコウタだってバカにさせない! 不運を呪ったりするものかッ! 不遇を恨んだりするものか! 不幸を認めたりするものか! 誰もが羨む人生を送ってやるッ! 幸福に生きてやるッ! 誰に望まれなくても、わたしが望もう! 生きて生きて生き延びてやるッ! 後ろ指なんて片っ端から折り砕いてやるぞッ! ――幸せになるんだ。わたしは幸せになるんだっ! 幸せになってやるッ!」
嚙みしめるように歩き、鼓舞するように手を握る。
母と決別した日からパンジャは誓った。
『母のようにならない』『幸せになる』『大切な人を守る』
幼い自分が立てた誓いを裏返すことなく保っていたいだけ。
――だから「意地」だ。
負ければそれはもう「わたし」ではなく「パンジャ・カレン」ですらない、ただの人だ。
◇ ◆ ◇
雨が降る。
消えたはずの火の香りがいつまでも記憶を繰り返して漂っていた。
しかし、この日を境にしてパンジャは夢を見るようになった。
夢は未来ではなく夜に見る過去の光景だった。
燃えて落ちる世界の中で現実の通りパンジャはアオイを助ける。だが、彼は決まってパンジャを責めるのだ。彼は普段から声を荒げない男だった。常に静謐を好む彼のことであるから当然かもしれない。でも、事実の通り叫んでくれた方がどれだけマシだろう。パンジャをしてそう思わずにはいられない絶望がそこには存在した。
夢の中で、脚を砕かれた彼は延々と言う。
――どうして助けた。どうして死なせてくれなかった。どうして『彼』を助けにいかなかった。頼んだのに。一生のお願いで君に願ったのに。縋ったのに。君は動けなかった私の代わりに行ってくれると約束したのに。約束を破ったな。裏切った。私を。君は約束を破った。――
何があっても忍耐強く、誓いを守り続けるパンジャにも耐えられないことはある。
「はぁっはぁっはぁっ……ゆ、夢……? か……?」
真夜中。
全身を汗で濡らし、とび起きたパンジャは額にぺたりと張り付いた髪を払った。吐き気と眩暈。現実まで追ってくる焔の匂いに叫びたい衝動に駆られた。
(――アオイの言葉は、本当にダメなのだ)
グラグラする。本当に頭がおかしくなりそうだ。アオイの言葉が時空を越え今に影響を与えているのではないか。運命論が頭を巡った。
そもそもパンジャにとってアオイは絶対的な肯定者だった。
周囲の誰に対しても皮肉っぽい笑みを浮かべながら、彼はパンジャにだけは優しかった。言葉も態度も笑顔も空気でさえ優しいのだ。そこに恋愛感情は無いが他の誰にも関心の無い彼が自分に対してだけは特別扱いをしてくれる瞬間がある。それが、パンジャの心をどれだけ支えてくれていたか彼は知らないだろう。
だから、こんなにダメージがある。急所にあたる。
「……んっふ、ふふっはははっ、わたしは、やはり冷たい人間ではいられ、ないようだ……」
自嘲しながらパンジャはポスンとベッドに倒れ込んだ。
眠りはすっかり醒めてしまっていた。夢の続きを見るのが怖いからだ。
けれど、うとうとしたがっている自分もいて彼女は目を細めた。
アオイは、あの夢のようなことを心のどこかで思っていたり……するのだろうか。ポケモンに対しては深い情のある彼のことだ。きっとどこかでは思っている……のだろう。
そればかり考えてしまった。
パンジャはたしかに約束したが、彼の願いを叶えることはできなかった。とある所長の介入によって。
欠伸も出ず、パンジャは寝るわけでもなく目を閉じた。
いつか彼の心の声を聞かせて欲しいと思う。
でも、その時は、ごまかしたりせずに話して欲しいとも思う。どんな言葉でも、彼の真実の言葉ならばパンジャは納得してこれまで通りに寄り添えるはずだから。
(わたしは、あなたにとっての有意義でありたい……)
夢も希望も幸福も、そのためだ。ただ、彼に感じる思いはそれだけ。
ほかには何もない。何かあれば変わるのかもしれない。たとえば恋愛感情とか。ふふふ、笑ってしまう。とてもセンチな気分。とっても非効率。なんてバカバカしい。けれど人間とはそれだから不可解で面白いのだろう。
パンジャは友として彼の幸せを願っている。彼には、憂い無く笑っていて欲しいのだ。
母のこともある、幸せの追求もある、大切な人を守ることもある。
それぞれ違う目的だが、導きたい結果は同じだ。
彼が笑顔でいれば、パンジャは満たされる。
それは、たとえばおいしいものをふたりで食べたい気持ちと一緒だ。
(……たったそれだけなのに)
世界は、こんなにもうまくいかない。
【ここから先は「あとがきだ」が読むのか? いや、わたしはあなたに異議などしないが……】
今回の章では『彼』のことも、まあまあに開示できたので「あのポケモンなのか、ふーん」と鼻で笑っていただけたら幸いです。えっ何のポケモンか分からない? そんな時はポケモン図鑑で金色っぽい塊を持ったポケモンを探すんだ! え、スリーパー……?
【ここまでお読みいただきありがとうございます!】
とても驚くことであり、ありがたいことに更新のたびに読んでくださる方がいることがとてもとても嬉しいです。今後ともどうぞお楽しみいただければ幸いです。
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
-
登場人物たち
-
物語(ストーリーの展開)
-
世界観
-
文章表現
-
結果だけ見たい!