もしもし、ヒトモシと私の世界【完結】   作:ノノギギ騎士団

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後輩は前衛的でありたい

 

 

 

『うちの先輩の恋愛脳がヤバイ』

 

 などというポケッター上の総合所に真顔で大草原を生やしながら立てた相談のタイトルは正解だったのか不正解だったのか。彼女は数ヶ月経とうとしている今にしてまだ判断がつかない。

 

 今日も今日とて先輩ことパンジャに異変は無い。仕事に手抜かりは無いし、天動説じみた安定をもって円滑に回っている。

 

 しかし、どっちだって彼女こと――ベルガ・ユリインの人生に大転機がおとずれるような問題ではない。それだけは確実に言えることのはずだが、先任の男の名残がちらつく研究室では今の彼女に多大な影響を与える彼のことを思わない日は無い。

 

 彼女がアオイに言える数少ないことは。

「仕事に対して至極真面目な男であった」

 という程度のことだ。

 

 引き継ぎの書類は丁寧に作られており、新任のベルガでさえ他の誰にも質問しなくとも一通りの仕事ができるように作られていた。まるで自分がいなくなるのを知っていたかのような用意周到ぶりは他の仕事の完成度もうかがえるというものだ。

 

(それが落ち込む)

 

 どうしても彼のことを考えてしまうのは、彼の仕事に触れる度に自分の未熟さを嫌と言うほどに自覚してしまうからだ。知識はきっとどうにかなるだろう。時間が解決する問題だ。けれどたかが書類1枚に見える正確さはきっと彼の人となりが成すものなのだろう。そうした人間の性質は時間でも解決できない。きっと人によっては『センス』とか『才能』とかいうだろう。きっと彼のようにはなれないな。そう思ってしまう自分を見るのが嫌で、思考は恋愛とか腑抜けた方向に逃避してしまう。

 

 そうこう無駄なことを考えているうちに仕事の時間が終わり、請求書は明日でいいか、などと考えていたベルガは同僚に呼び止められた。そういえば今日は流行のノー残業デーだったのだ。しかし(もう帰るから関係無いな)と思っていた彼女はこの後に所長も参加する食事会があるというのを聞いた。どうして今になってそんな話が出てくるのか。今になるまでちゃんと席が取れるかどうか分からなかったのだという。

 

(もっと早く、前もって伝えてくれたのならよかったのに)

 

 アオイなら絶対に冒さない失態だろう。

 それでも家に帰ったところで何もすることがないので笑顔で行くのだが。

 

「パンジャ先輩、一緒に行きましょうよ」

 

「……わたしは遠慮しておこうかな」

 

 無意味に書類の隅を揃えようとして机に叩き続ける彼女は口の端だけで笑った。

 

「でも、今日はノー残業デーですよ」

 

「家でやることがあるんだ。……洗濯物がたまってしまってね」

 

「えー。意外です」

 

「ハンガーが1本しかないから洗濯に時間がかかるんだ」

 

「えぇー……買いましょうよ」

 

「利便性を追求するとは物がむやみに増える原因になる」

 

 妙なこだわりを持つ先輩は、しかし決して立ち上がることなく他の同僚に笑いかけた。彼女は穏やかで親しげな笑みを浮かべて仕事を引き受けた。

 

「戸締まりはわたしがしておきましょう。それでは皆さん……ごゆっくり」

 

 パンジャに背中押されるようにベルガは他の同僚と一緒に出て行った。

 

 食事会はあまり楽しいものとは言えなかった。いや、正直に言ってしまうと傍から見ている分には面白いものだった。なぜなら食事会とは名ばかりでその実体は「失恋慰めようの会」だったのである。

 

「いやー、しかし意外だったなぁ。パンジャさんの新しい彼氏ってあの人でしょ? よく研究室の前まで迎えに来る短パンの人」

 

「うーん? あの、ガラパゴ――パカパカのケータイ持っている人ですか?」

 

「そうそう」

 

 その人ならば研究室に入って日が浅いベルガも知っている。ライモンシティのバトルサブウェイに勤務しているという青年だ。一見して雰囲気が柔らかく、そして親しみやすい風貌をしている。もしベルガが道ばたを迷っていたらあの人に話しかけてみよう、と進んで選ぶ程度には優しげでもある。実際優しいのだろう。だが言葉の端々にチラつく薄情そうな雰囲気がどうにも気になってしまい、ベルガは好んで話しかけてみようとは思えなかった。だが私人としてのパンジャに気安く話すことができるのは彼くらいだろう。彼女のサバサバした性格ならば、ベルガの杞憂かもしれない彼の「薄情さ」というものを気にしないように思えたのだ。

 

「なんで、あんな人なのさ……」

 

 ぽつりとインクを落としたように隣に座る今日の主役が呟いた。もちろん酔っている。誰が促したわけでもなく彼は続けた。

 

「ねぇ、おかしくないですか? 真面目だけど性格悪そうなアオイさんの次に、あの軽薄そうなチャラい人ですよ? 性格だって真逆みたいだし……おかしいですよ。おかしい。絶対おかしい」

 

「真逆なのが良かったんだろ。あんな事故のあとだし」

 

 別の彼が言って玉砕した主役に酒をついだ。彼は誰かの腕を掴んだ。

 

「ぼかぁね、絶っ対アオイさんに未練があるんだと思っていたのに、あっさり乗り換えるなんて――あの時は、ほんのちょっと『チャンスかも』なんて思いましたけどさ。よくよく考えたらワケが分からないじゃないですか。パンジャさんはアオイさんの言葉ひとつで絶賛炎上中の建物に突撃する人ですよ? そんな人があの人のことをきっぱり諦めて他の人と付き合うなんて、おかしい。変じゃないか?」

 

「おかしいな。すみません、聞き間違いかもしれません。もう一度言っていただけますか。燃えている建物に飛び込んだって?」

 

 ベルガは黙って聞いているつもりだった。しかし想像しがたい事態に首を傾げ、興奮してテーブルに乗り出した。

 

「ああ、そうだよ。正確には飛び込もうとしてアロエさんに止められたんだけど。でもあれは本当に偶然だった。あの瞬間にアロエさんが帰って取り押さえていなければあのまま飛び込んでいたね」

 

「へえ」

 

 自分で聞いておきながら、ひどく無関心そうな言葉が出た。それほど呆然としていたのだ。

 物静かでいつもコツコツと仕事をしている彼女が本当にそんなことをしたのだろうか。信じがたい。ベルガは想像さえできなかった。

 

 次の質問を考えていると別席の先輩がこそっと主役に口を寄せた。

 

「……君さ、こんなこというの本当にアレなんだけど。あれ見てよく告ってみよう、なんて思えたよね。スゴすぎて尊敬できてしまうんだけど」

 

「先輩、『あれ』って何ですか? 指示語の使いすぎは共有認識の説明をするのを怠ける二流だとパンジャ――あ、いえ。別の先輩が言ってましたよ」

 

「いい性格してるね、ルーキー」

 

 ふふっと鼻で笑って先輩は、ともかく語ってくれた。

 

「まあ、みんなも知っているとおりうちで化石復元の研究に当たっていたのはアオイさんとパンジャさんだ。そこである日、いつものように復元をしたら事故で爆発した。渦中は火中ってヤツで今の研究棟を見りゃ惨状が分かるだろうが、まあ酷い。爆発音と警報に気付いた俺たちが助けようにも火の海だった。熱で壊れたガラスが頭の上に降ってくるし、火の手が強くて誰も近寄れない」

 

 うんうん、と熱心にベルガは頷いた。ベルガは一日中パンジャと共に仕事をしているが、事故の話はほとんどしたことが無かった。

 彼の話は続く。

 

「もしかして『最悪のこと』が起こったかもしれない。変な汗をかく俺たちが次の手を考えあぐねているうちに、パンジャさんがアオイさんと出てきた。引きずってきたのか担いできたのか忘れたが、ともかくパンジャさんがあの人を連れてきた。――だが、ふたりともまるで人が変わったかのようだった。アオイさんは感情の制御ができていないようでいろいろ、本当にいろいろ支離滅裂だったし、パンジャさんは……いや、あの人は変というほど言動におかしなところがあるわけではなかったが、何というか、すこし熱っぽい感じでアオイさんと言い争った後でポーッとしていた。いやいや、それだけならショック状態なんだな、と思う程度だったが……」

 

 彼はひとくち酒を呷った。

 

「俺は……アオイさんよりパンジャさんにゾッとしたよ。いや、アオイさんだって十分に恐ろしいと思ったがね。あの人――こんなことを言うのも非常にアレだが――脚がダメになったしポケモンも失った、分かりやすい恐慌状態だったから。それにあの人の場合、怪我のこともあるし『あれだけ騒いでいれば安心かな』と思ってしまった。うん。だがパンジャさんは、あの人はあまりに平気な顔をしているから、俺はまったく無傷だと思っていたんだ。ほら、あの人のポケモンは氷タイプが多いから機転を利かして炎を乗り切ったかも、なんて思っていた。……まあ、今思えば大火の中心から戻る間、怪我人を連れているはずなのに無傷ってのもおかしなことだと思うが」

 

 ベルガは大きな目を見開かせた。彼は言う。

 

「手が、酷かったんだ」

 

 それに気付いた時、彼は思わず身を引いたという。

 

「ふたりはお互い首を絞めながら殴り合って言い争っていたんだが、その時でさえパンジャさんは自分がどんな怪我をしているのか分かっていないようだった。俺だって分からなかった。あの人がアオイさんの服を離した時にべったり手形が残っていて、それでみんな気付いたんだ。でも、本人はまったく痛がるそぶりが無い。よく見れば手も腕もあちこち体が焼けて裂けて痛々しいのに平気な顔して水に手を突っ込んでいたし次の瞬間には燃えている研究室に飛び込むところだった。まあ、控えめに言っておふたりは正気じゃなかった」

 

「うわぁ」

 

 それしか言えず、ベルガは顔を中途半端に引き攣らせた。笑う場面でもないし真顔でいる場面でもなかった。どういう顔をすればいいのか分からなかった。

 

「だから、まあ、いろいろとうちの復元部門は大変なのさ。それを知らない他の研究室はパンジャさんがフリーになったと思って話しかけているみたいだけど。……ほら、アオイさんとパンジャさんは連名で執筆することが多いだろう。だからみんな勘違いしているっぽいんだよな、アオイさんが主担当でもパンジャさんが書いた物と思っている」

 

「え、ええ、そういえばそうですね。過去の文書でも……。あれはどうしてなんですか?」

 

「アオイさんの仕事をパンジャさんが手伝っていたから、だな」

 

「で、でも、連名だとパンジャさんの名前の方が先じゃないですか。だからパンジャさんが主体に思うでしょう。あれはどうしてですか」

 

「アオイさんの気遣いというものじゃないかな。きっとパンジャさんの手柄にさせたいからだ。まあ確かにパンジャさんも貢献しているから名前が載って誤りってことはないが……」

 

 んんっ? おかしなことを聞いてしまったぞ。

 ベルガは首を傾げた。アオイとパンジャの関係はどちらかと言えばパンジャがアオイに尽くす一方通行だと思い込んでいたのだ。

 

「……アオイさんってそういうことする人なんですね。意外です」

 

「あのふたりの外食は彼持ちだぞ」

 

「えっ割り勘じゃない、ですか」

 

「何を食べるにしてもアオイさん持ちだ」

 

「いいなあ。……それ」

 

「まあ、ふたりともちょっと頭のネジがトんでるからな、気が合う――」

 

 ドンッとビールグラスがテーブルを叩く。

 思わぬ音にベルガは「ふぇあっ」と素っ頓狂な声をあげた。

 

「さっきから黙って聞いていればちょっと言い過ぎじゃあないですか。だいたいね、そんなに言うほどのことですか? だって命がけで愛してくれるんですよ。……そういうのって、ちょっと……憧れるじゃないですか」

 

 周囲から失笑がこぼれた。笑わなかったのはベルガと主役の彼だけだった。

 主役は鼻を鳴らして酒を呷った。目が笑っていなかった。

 

「ぼかぁ、たしかにパンジャさんに告って撃沈しましたけどさ! だからってあの人のことを気狂いとか気狂いとか気狂いだとか! そんなに言わないでくださいよ!」

 

 誰もそこまで言ってないですよ。思っている人はいるかもいしれないですけど。

 ベルガは賢いので黙っていた。

 

 そして、彼は言う。

 

「僕はね、あの人を見て……憧れたんだ。誰かに一生懸命になれるって素晴らしいことじゃないか。科学の力は素晴らしいけれど、それとはまた別の種類の素晴らしさが人間にはあるんだって僕は思う。それはきっと未来の道なんだ。人間の希望なんだ。人間の『らしさ』ってここにあるんだと僕は思った。だからアオイさんがいなくなって元気がなくなったパンジャさんをすこしでも慰めたいって思って……気付いたら告ってたんだよ! これが悪いか! 悪いかって言っているんだっ!? ええ!?」

 

「悪くない悪くない」

 

「むしろグッド」

 

「やったぜルーキー」

 

 同僚がうんうんと頷きながら酌をする。どうやら失恋を癒やすほど彼らは暇ではなく善良でもなく、酔いつぶす作戦に変更したらしかった。

 

「くそぅ。僕のことをバカにしているならそうすればいいよ。でもね、この世界に自分の命を懸けて愛してくれる人が何人いると思うんですか? そのなかで自分の思い込みではなく『命を賭けられる』ことを実証した人は何人いるって言うんですか。――そんな人を好きになることのいったい何がおかしいって言うんだ。いま笑ったヤツはテキトーなヤツとテキトーにケッコンしてテキトーな人生を送るといいよ。たいそう幸せで退屈なジンセーなんだろうね。ふんっ」

 

 彼の言葉は、不思議と印象に残った。

 ベルガは……そういう考え方を嫌いではなかった。

 

 それから気まずい雰囲気をごまかすために彼らはよく飲み、よく食べた。そのなかでベルガにとっての収穫といえば同僚らのなかでもアオイとパンジャの関係性は分からないというオチだけだった。予想はさまざまされていた。曰く「アオイがパンジャの弱みを握っている」とか「パンジャがアオイに惚れ込んでいる」とか「アオイとパンジャの親はきょうだい」とか。突拍子もない空想が飛び交いはじめたところで四六時中、一緒にいてどんな関係なのか見抜けない彼らのことをちょっぴり無能かもしれないと思った。

 

(なんか、楽しくない)

 

 いま周囲は自分の私生活だとか最近の仕事ぶりだとか、話している。

 スれた考えをするつもりはないけれど、いくらか退屈を感じてしまう。研究者という刺激的な生き方をしているせいだろう。刺激物に慣れた舌は蝋細工を舐めている気分だ。

 ベルガは隣の席のひとにだけ断りを入れてさりげなく中座した。きっとパンジャを見ている方が、有意義で楽しいだろう。

 

「あぁー、全然ダメ。全っ然、前衛的じゃない……!」

 

 薄暗い空を見上げ、ベルガは呟いた。

 

 もっと刺激が欲しい。心が震えて目が血走る、そんな刺激。

 頭をぐわんぐわんと揺らしながら彼女は歩く。トぶような刺激が欲しくてたまらない。

 

 彼女の原動力はこれだった。前衛的。アヴァンギャルド。そういう生き方に憧れている。

 それなのに最近はたったひとりの人間が気にかかってしかたがない。

 

 常に未来を見据えていた瞳が、現実が固定され続ける。

 

 それが彼女の精神に負荷をかけていた。

 

「あぁあぁぁ、ぐぎぎぎぃーっ。……頭がッ日常で飽和してしまう……!」

 

 彼女は、なんのことはない。

 ただの真性の前衛主義者だった。

 

 なぜ、そうなのか。

 誰かにそう問われた時、彼女はきっとこう応えるだろう。

 

『あなたは、自分が初めてペンを使った時のことを覚えていますか? わたしは覚えている。わたしの2歳の誕生日に祖父が初めて買ってきてくれた。これからずっと使い続けて欲しいと歳にそぐわない万年筆をわたしに贈ったのです。それを使って真っ白な画用紙に描いたことをわたしは忘れない。わたしは感動したのです。その日のうちにインクを空にしてしまうほどの感動をしたのです。「わたし」という存在が世界に影響を与えることができる。存在の証明を絵として文字として残ることができる素晴らしさを。そして誰かの記憶に残り続ける幸福を得て震えるほど歓喜したのです。けれどその年の冬に理解した。真っ白な雪にのこる足跡は第一人者でなければ価値が無いのだと――でなければ全て色あせてしまう。だからこそ、わたしはいつでも一番でありたいし前衛的でありたい。他の誰もが到達したことのない境地にいきたい。そうしてわたしはわたしを永久に保存したいのです』

 

 早く前に進みたい。もっと先へ。時計の針より先へ先へ。そして未来へ。

 だから未知は許せない。謎は解かなければ気が済まない。疑問は解決しなければならない。たかが人間ひとりの「欠け」が見抜けず、世界の真理を解明することが可能だろうか? 答えはきっと否だ。

 

「パンジャ先輩? いらっしゃいますかー? 戸締まり、お手伝いさせてくださーい」

 

 あれ。暗い。もう帰ったのかな。

 

 ベルガは腕時計を確認する。1時間。いなくなっていても仕方がない時間だ。

 

 そう思うベルガだったが、研究室に入ることができる時点でおかしなことだ。鍵を開けっ放しにして帰るなんて。裏口ならともかく正面入口を閉じ忘れることがあるだろうか? しかし、電気は消えている。いつも座席の近くに置いてあるはずのパンジャのベストポーチも無い。彼女は帰ってしまったのか。それとも……何か事件に巻き込まれた、なんて、まさか、ね。

 

 背筋が凍る想像にベルガはポケットのボールを掴んだ。

 

「ホ、ホイーガ、イトマル――」

 

 そっとボールを落として頼りになる相棒を呼び出した。

 

「イトマル、先輩を探して。う、上、上から。ホイーガは研究室を一周して来て……い、いそいでっ!」

 

 パッと散らすように駆けていく彼らを見送り、ベルガは鞄から小さなライトを手に取った。

 

「せ、せんぱい……か、隠れていないで出てきてくださいよ。暗いところ苦手なんです……!」

 

 どこを見回しても人の気配はしない。静まりかえっている。

 自分の鼓動だけがドクドクと音を立てて耳の奥で聞こえた。

 彼女がいそうなところを歩く。長い廊下。専用の研究室。地下にある文書室。けれど彼女はどこにもいない。

 

(帰ったのかもしれない。これだけ探しても見つからないのはそういうこと……)

 

 そんな思いを抱えながら不意に窓の外を見る。思わず背筋が凍った。

 真っ白な何かがふわりと外を漂っていた。

 

「あひぃっ、あ、あぁぅう……っ!?」

 

 たしかに、そこに何かがいたのだ。次にライトを向けても何もいない。

 非常灯が不吉にチカチカと点滅する。ベルガは窓を開けてそこから廊下を脱出した。ここは明日鍵を閉めに来よう。密閉されている屋内より屋外の方がまだマシに思えたのだ。体にまとわりつく熱の湿気がベルガの正常を奪っていった。

 

 もうすぐで廃墟となった研究棟が見える。そこでイトマルとホイーガと合流した。そこまで歩くとだいぶ心が安定してきた。彼らを守らなければ……そんな思いでライトを構える。しかし目に見える何かはやってこない。代わりに音が聞こえた。ギィーギィーと風が吹くと聞こえる、金蔵の錆びた音だった。

 

「……なに?」

 

 短く切りそろえられた芝生の上を歩く。ライトが『永久封鎖』の看板を照らした。ベルガは目を凝らす。その奥に信じられないものを見つけた。

 

 廃棄が決まった研究棟、その扉が開いていたのだ。

 

「せ、先輩、ま、まさか、まさかぁ……ここにはないですよねぇ……ね?」

 

 音を立てぬよう、ベルガはゆっくりと歩み出した。口はハンカチで塞ぎ、つとめて気配を殺す。

 

 ――今にして思えば、すでに嫌な予感はしていて、もしかして確信さえ見ていたのだろう。

 

 同僚を探すためになぜ気配を殺す必要があるのか。まるで「見つかる」のも「見つける」のもお互い都合が悪いようではないか。

 

 しかし、ベルガは何がなんでも彼女の姿を見たかった。たとえば誘拐に遭って事件になっていれば最悪だ。これ以上、研究室で問題が起きれば評判はガタ落ちた。ただでさえ昨年はプラズマ団とかいう新興カルトじみた団体が大暴れして大変だったのに。

 

 廃墟となった研究室の構造はシンプルなものだ。

 地上から入るとそこは1階。この階の下、すなわち地下に1階、地上に1階、三層からなる施設で爆発があった復元装置は地下に設置されている。ただし爆発で地上1階にある床は脆くなりところどころ崩壊を起こしている。しかも問題の地下へ行く階段は破壊され途切れていた。――はずだった。

 

 夏に近づき夜が長くなっているのが幸いした。まったく明かりのないベルガにさえ屋内の異変に気付くことができたのだ。

 

(なに、あれは……氷、か? 階段になっている……?)

 

 闇のなかできらきら輝くものにそっと脚をのせる。氷の中でコンクリート壁から飛び出た鋼線がギギと音を立てる。だが体重をかけても大丈夫のようだ。ということはこれは人間がのるために作られた物だと言えそうだ。

 

(パンジャ先輩のポケモンは……えと、なんだったか、たしかバニプッチがいたような……)

 

 彼女の髪留めに寄りかかってお昼寝しているバニプッチに遭遇したことを思い出す。

 この階段は彼女がやったことならば……大丈夫だろう。誘拐とかそういう線は薄そうだ。

 

 ホッとしたのもつかの間。ひやりとした空気が肌を撫でた。

 

(えっ。でも、ちょっと待って。どうして、今になってここに……用があるっていうんだろう?)

 

 ここは見たとおりの廃墟だった。復元装置は解体が進んでおり、施設の廃棄も決定している。

 誤解を恐れずに言うならばゴミだ。

 

 だが、ここはパンジャにとって特別な場所に違いない。彼女は結局のところ、ここにたどり着けなかったのだから。

 

 こつりこつりと風にさらわれる小さな音だけをたてながらベルガは階段を降り続ける。宵闇の近づく夕日が壁を照らしていた。その光を不思議に思い、見上げれば地上2階と空が見えた。爆風で屋根の一部が飛んでいたのだ。

 

 階層まで見えそうだ。天井を見上げていると階段を踏み外しそうになり慌てて壁に手をつく。危ない危ない。壁まで脆くなっていないだろうな、とじっと見つめていると夕陽ではごまかせない黒いシミがあった。

 

(なに、これ)

 

 この階段を上ってきたとしたら、ちょうと右手を添えるほどの位置にある汚れにベルガは目を近づけた。

 

 汚れをなぞる自分の手を見ているうちに、やがて気付いた。これは血だ。誰の? もし彼だとしたら脚を砕かれていたはずだからきっとここよりも低い位置にあるだろう。それも痛みと失血で失神していなければの話だ。可能性としてはパンジャのほうが大きい、かも、しれない。

 

 本当に事故はあったんだ。それも相当に酷いものが。

 知識では知っていたが、こうしてその当時の光景を目の当たりにすると心動かされるものがある。

 

 ベルガは彼らに同情した。

 何かを欲張ったわけではないだろうに、どうして事故は起きてしまったのだろう。あれだけ真面目でしっかりした人達なのに。

 

 ベルガはアオイを思い浮かべた。一度顔を合わせただけだったが、彼のことを身近に感じていた。彼がのこしてくれた仕事は憂鬱で面白味のないものだが、それが世界に必要だということは分かる。それもある意味で前衛的な姿勢をもつ仕事だ。だからベルガは懲りず諦めずに頑張っている。

 

(……あの人は、あんな目に遭っていい人ではないのに)

 

 一度だけ出会った時は、病室だった。あの時はどんな人柄なのか知らなかったから、なんて運の悪い男なのだろう。薄情にもそんなことを思っていた。自分と彼は違うんだと信じていた。けれど今は違う。ベルガが五体満足なのは人生におけるただの偶然だ。この仕事に携わるということは突発性の事故に遭遇する危険性がある。彼は尊敬すべき研究者だった。もしも彼がいたら――。

 

 がさり、とビニール袋が床に置かれる音がして、ベルガの意識は現実に戻ってきた。

 

「!」

 

 誰か、いる。

 

 ドクドクと耳の奥で鼓動がうるさい。はやる気持ちをおさえ、ベルガは身を低くして地下一階へ降りた。扉はやはり開いていた。光が漏れている。その光は青白く、明らかに人工のものだ。

 

「……、……っ。……」

 

 扉に手を伸ばし、そっと見つめる。

 

 なかには、あぁやはり、パンジャがいた。

 

 後ろ姿は、いつもの彼女とは違う。ツインテールに整えている髪留めを外し、ヘッドライトがついたヘルメットをかぶっていた。ごそごそと床にある何かをつまんで近くに置いてあるビニール袋に入れている。

 

「違う違う違うこれは違うあれもこれも違う違うまだあるはずだここにあるはずだ違う違う違うこれじゃないこれじゃないまだあるはずだ成功率をすこしでもサンプルを違うこれじゃない違う違う違うこれも違うこれじゃないこれじゃないすこし似ているいや違う違う違うまだまだわたしはくじけないぞ違う違う違う違う」

 

 ゾッとしてベルガは口を押さえた。

 壁際を念入りに調べているらしい彼女はベルガに気付かない。背中を向けているのもあるだろう。

 

(ぶ、無事なら、いい。帰ろう)

 

 そういう考えにならないあたり、彼女もまた正しく研究者であった。

 

(何を探しているんだろう……? 実験道具は全部回収したとアロエ所長は言っていた。しかも、どうして壁際ばかり探っているんだろう? 事故の以前、壁に何か掛けていたのだろうか。だから壁際を……?)

 

 それなら納得できそうだが、真実は彼女しか分からない。

 いま声をかけるべきか? それとも一度、階上へ戻って出てきた彼女と偶然出くわしたという体を装うべきか……。

 

 咄嗟に判断できず、それでもパンジャを見つめているとベルガは、ある瞬間から強烈な違和感を覚えた。

 

 それは、

 

(あれ? ……バニプッチがいない)

 

 どこにいったのだろう。階段を『れいとうビーム』か何かで作った後でボールに戻したのだろうか。いや、業後のいまポケモンをしまっておく理由はないはずだ。では、どこに――。

 

「きゃっ……!」

 

 迷う彼女の背中に何かがたいあたりしてきた。

 扉を手放し、ベルガは研究室に飛び込む。同時に弾かれたようにこちらを振り向いたパンジャが見える。しかし表情はライトに目が眩んでしまい見えなかった。やがてヘッドライトが消え、乱暴に床を蹴る音が聞こえた。

 

「誰だッ!」

 

「う、うわぁ、せ、先輩、わ、わたしです、ベルガですよぅ……! ぐぅ、うぐぇ~」

 

 首を絞められそうになり、ベルガは腕を突っぱねた。

 

「ベルガ?……なぜ、君がここに」

 

 驚きのなかに警戒があるのは気のせいだろうか。けれど彼女が手を離してくれたことでベルガは忘れてしまっていた。

 

「そ、それはこっちの台詞ですよ。ここで何をしているんですか?」

 

「ん……いや、何も……」

 

 彼女はヘルメットを外し、ヘッドライトを点けて周囲を照らした。

 

「いや、何もしていないと言い張るには、怪しいな。わたしは」

 

「ここで何をしているんです?」

 

「……大したことではないさ」

 

 ばつの悪そうな顔に閃いて、ベルガはくるりと思考をまわした。

 

「まあ言わなくてもいいですけど。それならわたしはアロエさんにパンジャさんのこと報告しなきゃならないですよ。今日はノー残業デーだと言っていたでしょう? 時間外に残っていたら注意されますよ」

 

 青白い光に照らされる彼女の顔は、すこし疲れていた。

 

 卑怯な物言いになってしまったことをベルガは分かっている。けれどこれはチャンスだ。彼女の鉄仮面を剥ぐ好機だ。部屋に飛び込んだ時はどうしようかと思ったが、これはラッキー。最高にラッキーだ。

 

「どうします?」

 

 運命を逆手にベルガは好奇の牙を向いた。

 

「……君は、わたしが喋ったら満足して黙っていてくれるのか?」

 

 彼女の目が、すい、と細められる。

 そのなかにゾッとするほど理智な光をみた気がして嘘を吐くという選択肢が消滅した。

 

「も、もちろんです。もっとも、ノー残業デーであなたを報告したらわたしだって同罪ですからね。……それにわたしはあなたの助手ですから。場合によってはお手伝いします」

 

 そうか、とパンジャは言った。

 その手がベルトを撫でているのに気付かなかったのは今の時刻が夜になったからだ。

 

「わたしは、探し物をしている。とても大切なものだ」

 

「さ、探し物……ですか?」

 

 ベルガは、彼女が嘘を吐いていると思った。ここにあるのはすべて炎に包まれた。床にあるのは灰だけだ。一目でここに何かあるかないかは分かるはずだ。

 

(この期に及んでこの人ははシラを切るつもりなのだ!)

 

 彼女の喉元深くに牙を突き立てることを夢想して、ベルガは大仰にあたりを見回して見せた。

 

「へえ~、お探し物ですか? とっても小さいものなんでしょうねえ。で? それって何なんですか?」

 

「……それは言えない。わたしは秘密を守ろう」

 

「誰にとっての秘密なんですか、それは」

 

 彼女は、簡単に追求を逃れた。ふい、と視線を切った。

 

「君には関係無い。さあ、わたしは約束を守った。『なぜここにいるか』を言ったんだ。――次は君が約束を果たす番だ」

 

「いえ、探し物ならわたしも手伝いますよ。なんなりとご命令をどうぞ」

 

「……わたしは人の手を借りない。これはわたしが自分でやらなければいけないことだからだ」

 

「ひとりよりふたりのほうが効率がいいですよ」

 

「いいや、違うね。君の手を焼くまでもない」

 

「そこをどうにか」

 

「君はわたしのように手を焼きたいわけではないだろう」

 

 するりと手袋を撫でてパンジャは言い放つ。温度差にベルガは我知らず一歩後退した。

 

「ベルガ君」

 

 静かにパンジャは言った。

 

「どんな思いでわたしがここにいるか、知りもしないで無遠慮にやってきた君に怒っている。アロエ所長に報告しなかった? できるわけがないだろう。次こそわたしは研究室から追放される。社会不適合者と後ろ指を差されながらな」

 

「……そ、そんなことないですよ。先輩、デキる人ですし」

 

「本当に優秀な人物であれば大事故を起こさない。わたしは人間として正しく負価なんだよ」

 

 ぐうの音もでない正論だった。社会的にはそうだろう。負価、マイナスだ。ベルガでさえそう思っている。大事故を起こした事件のひとり。そういうレッテルのなかで彼女は――彼らは生きている。ベルガもそういうふうに見ている。今でさえ。

 

「わたしはわたしを正価にするために、ここにいる。本当はわたしと同じ目にあわせてしまいたいほど怒っているのだが、お互いのためだ。帰ってくれ」

 

 次の会話を許さないほどの強さで彼女は言った。お願いするような言葉だが、現実は命令だった。

 

(先輩……)

 

 これも、仮面の1枚なのだろうか? でも、これが嘘なら彼女の言動に説明がつかない。『失敗を取り戻そう』としている。なんてまっとうで正論の理由だろう。これ以上ないはずだ。これ以上の理由を望むとしたら何が必要なのか。では、これが本心? これを本心としたらどうだろう。

 

 

 

 いや、本当に、そうだろうか?

 

 

 

 彼女の望みは正価だけだろうか。

 まだ疑っている。まだ、判断には足りない。

 だが判断する術を持たないベルガは、気迫に圧されて頷いてしまった。

 

 

 

 もちろん、ベルガは約束を守った。

 この日のことは誰にも言わなかった。

 

 誰にも。誰にも。決して誰にも言わなかった。

 いろいろなことを疑っていたが、それは何事にも疑ってかからなければ気が済まない自分の性だと思い過ごしていたのだ。

 

 報告・連絡・相談は大切だとアオイも病室で言っていたが、結局ベルガは実践できなかった。

 結局のところ今でさえ彼らのことを運の悪い人間だと――侮っていたからかもしれない。

 

 




【ねぇ、おかしくないですか? 真面目だけど性格悪そうな「あとがき」の次に、あの軽薄そうな「あとがき」ですよ? 】

 手を焼く:てこずる。うまく処理できなくて困る。などなど。

パンジャに突撃してフラれた彼が出てきました。名無しですけど。そのモブらに性格が悪いと言われる主人公。やはり心の中で思っていることはいつの間にか言動に出てしまうものらしい。そうでなくとも他人を上手い具合に動かしてあれこれと画策する妙な仕草は鼻につく、といった具合でしょうか。


【前衛の話】
アヴァンギャルドってヤツですね。

作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。

  • 登場人物たち
  • 物語(ストーリーの展開)
  • 世界観
  • 文章表現
  • 結果だけ見たい!

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