彼女はあの壊れた研究室で何を拾っていたのだろう?
しかし、言及するにはもう日にちが経ちすぎた。そして物証も今となっては――完全に失われた。
あの廃棄予定の研究棟が順調に取り壊されていく様子を見れば、パンジャの目論見はたった数日ベルガを黙らせることができたらそれでよかったのだろう。窓辺で足を止め、彼女は外を見た。朝から工事の音がいやに大きく響いている。
職員部屋でのミーティングを終えると研究者はそれぞれ与えられた研究室へ吸い込まれるように消えていく。彼女たちもそのひとつだった。
「ベルガ君」
「えっ。はいっ!」
「……何か気になることでも?」
「その、アオイさんと連絡取りたいなって……思ったんです、が」
パイプはあったほうがいい。もともと連絡先を交換していなかった。仕事上、彼の残してくれた書類のおかげでする必要も感じられないが……パンジャを揺さぶりたくてこんな言葉を口にしていた。
復元部門にあてがわれた研究室へ歩きながら、パンジャは渋い顔をした。
「彼と? 部外者に仕事の話をするのはまったく推奨されない」
「そ、それは分かってますよ。そうではなくてですね、私的な、ごく私的なやりとりをしたいなぁ、と」
「私的? ……彼は友人を作らない。無駄なことだ」
「もう、ずいぶん断定しますね!」
「それが事実だ。わたしは幸運にも……いや偶然彼と知り合い友人でいるだけだ」
おや、とベルガは思った。
彼女はもっと友人という地位に自信を持っていると思ったのだ。それこそ誇ってもいいだろう。でなければ炎に身を焼かれるわけがないとさえ思っていたのに。謙遜しているのだろうか? カントー人ではあるまいし。
「アオイさんはいま何をしているんですか?」
「……わたしから彼のことを聞き出そうとしても、それこそ無駄なことだ」
「そ、そんなつもりないですよ。ああ、もう、正直に言ってしまいますと、なんとか仕事を上手くできています、と伝えたいだけなんです」
「わたしが伝えておこう。それでいいだろう?」
「いえ、できれば自分で伝えたいのですが……」
「彼は静養中だ。不用意な接触は控えてもらいたい。理解してくれないか」
会話を打ち切られ、しばらく歩きパンジャは鍵を取り出して研究室の扉を開いた。
ふたりで入ってから、パンジャはまっすぐ紅茶のポッドを手に取った。
「……キツイ物言いをしてしまってすまない。自分でも良くないと分かっているのだが、どうしても彼のことになると心の狭い人間になってしまう」
「大切に思っていらっしゃるんですね」
「さあ、どうだろうね。例えばこのペン、これはわたしがスクール時代に購入しただけの物だが今でも中身を入れ替えて使っている。彼に感じる感情とはこの類いのことだ」
「…………」
絶対に嘘だ。ベルガは思う。けれど彼女の新しい一面に「そうかも」と頷きたがっている自分がいるのは確かだった。
「アオイさんの研究動機は『誰もなし得ていないことを私が成し遂げよう』とおっしゃっていましたが、そういえば先輩は……どういった思いをお持ちなんですか?」
「彼がそんなことを? ……わたしは、とても人に聞かせられた内容ではないよ」
「それでも、聞きたいです。おっしゃってください。誰にも言いません」
紅茶をそれぞれのカップに注いでから、彼女は指先でチョコレートの包みを解いた。
「研究は、全ての研究は……『幸せ』のためにあるべきだ。わたしは、そう思う。単純だと思うだろうか?」
「そう、かもしれません。でも、素敵だと思います。そうですよね、みんな幸せにならなきゃいけません」
それしか言えなかった。ベルガはぼんやりしたパンジャの研究動機の真偽を計りかねている。嘘といえば嘘のような気がするが、本当だといえば本当のような気がした。
けれど言葉があってもそれの真偽を断じる彼女についての知識がベルガには無かった。
◆ ◆ ◆
この日の夕方に起こったことは、ひとことで言えば「軽率」のひと言に尽きた。
まず両手で支えていっぱいいっぱいだった化石を、片手だけで抱えた状態で倉庫の歪んだ梯子を登ろうとしたところで危うかった。しかし、重い物をパンジャに持たせるのはいけないことだろう。彼女の手はひどく焼けたというし……。
これらの努力は業後すぐに帰ってしまうパンジャと会話の機会をすこしでも増やそう……とベルガなりに頑張った結果なのだ。
しかし。
化石は、岩石だ。それも抱えたそれは女性の片腕にはあまる大きさで重さであった。
どんな運命の悪戯か。トドメを刺したのはその件のパンジャであった。
「ベルガ君、廃棄する簿冊の管理表は……でき、ッ……」
この時点でたぶん誰が見ても危ないと思える状態であったと思う。
それに気付かなかったのは本人だけで。
返事をしようとわずかに首を傾げる。それが決め手だった。
「――ベルガ!」
梯子からバランスを崩して後ろへ倒れる。たしか背後には他にも階上へ上げる予定の化石のケースがあったはずだ。思わず簡易手すりに手を伸ばし、届かない事実に気付いて愕然とする。当たりどころが悪いと大事になるだろう。見ただけで予想できる惨状だった。――
その時、ふわりと青い髪が視界を舞った。抱きとめられるように回された腕に最悪の事態は免れるかもしれないなんてことを思う。
けたたましい音。硬い何かがあちこちにぶつかる耳障りな音を立てる。しかし、ベルガの体を襲った衝撃もは予想ほどではなかった。その代わり下敷きになったパンジャの容態は恐くて直視したくなかった。
「せ、先輩……! なにやってるんですか……!」
助けてもらってこの言い草は酷いと我ながら思う。けれど何となくベルガはパンジャに嫌われていると思っていた。良く思われているわけがない。廃墟の研究室に訪れた瞬間から彼女にとって憎まれる存在になったのだと思っていた。
体を強打したらしい、パンジャが起き上がるまでには時間がかかった。
「いや……わたしは、先輩だからね」
「……は? なに言っているんですか。ねえ、アオイさんの時もそんなことを言って飛び出したんですか。わたしだって危ないけれど、あなただって危ないところだったんですよ。なに考えているんですか?」
彼女が飛び込んでくるのが見えて、安心してしまったなんて言えない。最悪の状態にはならないだろうと安心して受け身さえ取り損ねた自分が悔しくて仕方がない。だがらトゲトゲした言葉ばかりを使った。
彼女はいつになく冴えない横顔で彼女は言った。
紛れもない、本心を。
ベルガが欲してやまない彼女の、本心。
「以前も今も、わたしは両手で救えるものを守っていたいだけだ。失ってから気付くとはよく言ったものだ。即効性の幸せなど価値がない。幸福は普遍的なものでなければ……それが叶わなければせめて持続性のあるものでなければ手持ちの幸せに価値など無いのだ。わたしは、そう思う」
頭を打ったのか、声は途切れがちで、言葉はぼんやりしていた。せめて研究室に戻って身を休めるべきだ。できれば仮眠室が好ましいが……。心配して言葉をかけると彼女は大したことないというように手を振った。
「すこし休めば大丈夫。ちょっと背中をうっただけだ」
彼女がそう言うならそういうものかもしれない。
安心したベルガの膝の上でゴロリと何かが転がった。
「え……」
目を疑う光景がそこにあった。
後生大事に抱えていたはずの化石が真っ二つになって転がっていたのだ。
「う、うそ」
その事実にパンジャでさえ、一度声を失った。
「現実は常に正解だ。アオイが好んで使っていた言葉を時々だが恨めしいと思った。……その通りだ。笑えないな」
「ど、どうしよう……! こんな大きな、これっほとんど完全な化石、なのに……!」
「接着剤を持ってこよう。瞬間があればいいが、木工しかないかもしれない」
「アアアアッ! できれば瞬間を! で、でも、どっちでも無理でしょうぉ~っ!」
「……そうだ、無理だね。普通の手段なら」
「な、なにか、手立てが……あるんですか?」
「……『ある』って言ったら、どうする?」
パンジャは立ち上がるとまずポケットを確認した。
それから、陰のある微笑みを浮かべた。うっそり、という表現がよく似合う読めない笑みだった。
「倫理というのは実に壁のようだと思わないか。強固にみえるが、人間の自由に任せておくといずれ穴があいてしまう。人間は理性のうちにアイアントでも飼っているのだろうか?」
「哲学の問答をしている場合じゃないですよ。あの、何か方法があるのなら回りくどいことを言わずにですね――」
「回りくどいことが必要なのだ。物事には順序という物がある。わたしは選択肢を示すだけ……選択には行動が、行動には結果が、結果には責任が伴う。選ぶのは君だ」
「……もし、かして……その、なにか、アウトローな手段なんですか」
恐ろしいことに、その質問に対し彼女は明確に答えなかった。
「その質問には完全に答えることができない。なぜなら研究室の職務内容にそんなことを『してはいけない』とは一文句たりとも書いていないからだ。定義されていないことに関して是非を質す意味があるだろうか?」
「せ、せせせ先輩、それってアレですよね、アレ。バ、バレなきゃ何をしても大丈夫理論ですよね」
「それを言わないように気を遣っているのだが、君はどうしてわたしの努力を……いや、今は控えよう。決断を聞こうか。手配するのならば急がなければ」
「ああ、あ、うあ……わ、わたしは……わたしは……」
どうしよう。できればバレたくない。しかし、いいのだろうか? 良くないことをしているのに、バレなければそれでいいのだろうか? 許されるのだろうか? パンジャの言うとおり研究室には『化石が壊れたら代替品を補充してはいけない』等という規則は無い。だってそれはそもそも法律やルールの問題ではない、人間として道義的な問題だからだ。
不安が残る。不安、とても大きな不安が……。とてもとても大きなものが膨大に残る。罪は心に遺ってしまうのだ。
しかし。
そんなことを毛ほども思っていないのか、パンジャは「君」と冷たく声をかけてきた。
「さっさと決めてくれないか? 時間の無駄だ」
「だ、ダメです! 不安なんです! わ、わたしは、トラブルを抱えずに生きてきたんです! だ、だから、だから! ……こんなこと、初めてで……! なにか、他に、もっと別の方法があるって、はずはずだって――」
「いいや、違うね。君がいま天秤にかけなければならないのは研究者としての評判と人間として善心だ。わたしはどちらを選ぶか聞いているんだ」
「あ、あなたならどうするっていうんですかっ!」
「研究者としての評判だ。当然だろう。この閉鎖社会で他に気にすることがあるというのか?」
「そ、そ……ですか」
それが正しい選択。ベルガより年長の彼女が言うのだ、そうなのだろう。そもそも隠蔽の片棒を担いでくれようとしているじゃないか。それがこの選択の正当性を裏付ける。
「もしかすると、自分で選択するのは君にとって辛いことだろうか?」
「……そ、そんなことは……」
「まあ、平凡であることは悪いことではない」
平凡。
いま平凡と言った。
このベルガ・ユリインに向かって、平凡と――。
「そう落ち込むことはない。覚悟を決めることが人間の優劣にはならないさ」
ひとつ。平凡と言われたことがベルガを選択に急き立てる。
しかし。
にこり、とパンジャは笑った。
「君は悪くない」
目の奥に人間として大切な何かがごっそりと欠けている風景が見えた気がした。
「何も悪くない。全てわたしが勝手にやったことだ。ゆえにこれから行うすべてのことは私の責任であり部下である君の失敗を隠すために行うことだ。だから、君は何も失敗はしていないし運ぶ予定だった化石はそこにある。間違いないな?」
「わ、わたしは――」
違う! 違う! わたしは決断できる!
ただ時間がちょっと必要なだけでわたしは凡人なんかじゃない!
(わたしは常に最高で最善の正しい選択できる! わたしは間違えないっ! わたしは正しいッ!)
これまでそうしてきた。だから間違いのない人生を、最先端にあり続ける夢へ近付くことができた。正しく順風満帆の人生を歩んできた。
それをこんなことで、こんなところで誤るというのか。
(わたしはあなたとは違う――わたしは負価なんかじゃないッ!)
拒否をすべきだ。――ベルガは手を伸ばしかけた。いつになく緩慢な動きで手帳を見ながらモバイルに番号を押し込んでいくパンジャを止めるために。
わたしは所長に正直に話します、と言う。たったそれだけの『正しい』行い。
誤ちは正されなければならない。そうでなければ罪はいずれバレてしまう。順風満帆の帆が綻びるなんてことがあってはならない!
「ま、まっ……ぃはっ……? はっ……はっ……」
喉の奥がカラカラで声が出ない。胸がドキドキして止まらない。酷い動悸に眩暈がした。血圧は下がったり上がったりしていることだろう。目の前がチカチカと赤白に点滅した。
研究者としての立場と人間としての道徳。
どちらをとるべきか。そんなこと分かっている。正しいことがどちらなのか分かっている。それなのに、この体は動かない。正義を履行することを体が恐れている。
もうちょっとだけ、勇気が足りない。「要りません、その気遣い」それだけが言いたい。
それなのに勇気が足りない。
あと一呼吸。たったの一呼吸。
それだけの勇気が絶望的に足りない。
ベルガは目を見開いた。
――お願いです、待って。せめてわたしに決断させてください。あなたのそれはわたしの前衛主義に反する。わたしは――。
「君の言葉は聞いていない。――わたしが決めたことをわたしが果たすだけだ。君にはもう期待はしていないよ」
――もしもし、ドクター?
氷じみて冷たい声音が、ベルガの現実だった。
【あとがき】
「軽率」を本領発揮したベルガの回でした。
大きな失敗をしたことがないベルガにとって目の前に転がる現実は何よりも受け入れ難いものだったようです。「わたし失敗しないんで」が名台詞のドラマか何かがあったような気がします。ベルガはそんな完璧主義というわけではないですが、完璧の先に最先端があるのなら完璧の向こう側へ行こうとする志の持ち主です。まっすぐな心根を持っている人は曲がることが出来ないので裏返るしかないのは、なんとも難しいことです。
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
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登場人物たち
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物語(ストーリーの展開)
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世界観
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文章表現
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結果だけ見たい!